その日、繁華街を発火点として、四方満遍なく人々の喧噪・歓喜の声が浸透してゆくのが誰の耳目にも明らかだった。
「おい。噂じゃあ、あのカナリスの野郎が、捕まったってよ」
「おおう、らしいなあ。何でも弟に裏切られたとかいう話らしいぜ。あはは、全くざまぁねえな!」
「――――やっと、やっとだ。忍耐の日々もようやっと、終わりなのかあ」
「とにもかくにも、それが本当なら喜びなんてものじゃないよ。もっと……もっと早く奴らを――――」
それまで重税に苦しめられてきたワーレンの民衆が、ドルーア帝国の支配からの解放を逾逾と現実のものとして受け容れ、実感する。
それもそうだろう。連日、振り向けば視界に必ず居た、あの威圧感と、血生臭い鎧兜の暴卒が今はもう存在しない。代わって目にするのは、清新な白青を基本とした邏卒の姿。身形を正して、未だ不安と恐怖に苛まれているであろう、人心の鎮撫に当たる、ワーレンを解放した兵士たちだった。
さて、その基幹港湾都市を統治するワーレン総督府官邸は、戦後処理の最中であった。
「次ッ、西方部隊、第三連隊伍長――――」
「ああっ、後後。それは後回しだ。そっち!」
「押すな、ええい押すなってんだろぅ」
ばたばたと跫音鳴り止まず、騎卒・軍吏の往来が激しい。
その総督室は今は何故か人一人いない。周囲の喧噪からは隔絶されたかのように、静寂に包まれていた。その総督室がある、政庁最上階は一様に静まり返っていて、端から見聞すれば、実に不可解な情景だった。
その総督府官邸の一階、つまり玄関・ロビーが特段集中的にそう言った軍吏らでごった返していた。
「下僚は咎戒するに及ばずです。捕らえた者たちは速やかに釈放するように」
ロビーの端に長机を具えて時折、上体を擦りながら指示を出す若い男性。
背中まで伸びたプラティナ・ブロンドの髪をくしゃくしゃと掻き上げ、時に毟りながらひっきりなしに声を掛けてくる軍吏に返答をしてゆく。余程、喉が渇くのだろうか、傍らにある真水のグラスがみるみる空になってゆく。
「軍師。太守カナリスのことで、マルス様が――――」
とある軍吏の言葉を切っ掛けに、若者はしきりに上体を擦りながら、ゆっくりと腰を上げた。
「わかりました――――参りましょう」
佩剣を掴むと、混み合う場に目をくれず、踵を返した。
暗黒竜皇帝・メディウスが君臨するドルーア帝国により、アカネイア大陸は、宗主国アカネイア王朝の眷族鏖殺を嚆矢に、連邦国家は続々とその兇刃に席巻蹂躙され、斃れていった。
百余年の昔に、ドルーア帝国メディウスを討った、英雄王アンリの直系である、旧アリティア王国の嫡流マルス王子を盟主と仰ぐ、オレルアン・タリスなどを中心とした、アカネイア連合解放軍(いわゆる反乱軍)は、マルスによるガルダの海戦の勝利、オレルアン王国文聖王の弟・ユングダル大公ハーディンの蹶起をして目下の予想をはるかに超える快進撃を続けていた。
そうした連合解放軍の勢力滲透を複雑な思いで見つめている麗人がいた。
――――ミネルヴァ=ティヴナ=アイオチュナ。
ドルーア帝国と結託したマケドニア国主ミシェイルの実妹で、世に『赫き龍騎士』と畏怖され、その威名をしてドルーア帝国の征北将軍の地位を得ている、マケドニア王国第一王女だ。
ミシェイルは実父である悼殤王オズモンドを弑逆して王位を簒奪した程の非情な人物であるとされ、そうした行動を激しく非難してきた忠節心・正義感に溢れる妹ミネルバの抑制・強制服従を計るため、末妹であるマリア王女を監禁幽閉したのだ。
ミネルバは、征北将軍としてドルーア帝国の尖兵となって戦い、多くの武勲を挙げてきた。
しかし、それは偏に、行き方知れず虜囚の身となっている、愛する妹・マリアの安全を期するため、またその消息を探るためのやむなき隷従に他ならなかった。
数多の情報収集を重ねて、漸くマリアの身柄が、グルニア軍の兵站基地ディール要塞に在ると知った時、暗鬱たるミネルバの心に、微かなりとも一条の光が差した気がしたのは間違いがなかっただろう。
「…………」
ミネルバは徐に胸元に手を差し入れ、鎧の間から天馬の羽布で誂われた袋を取り出し、それをぎゅっと抱きしめるように胸に押し付けた。
「…………ありがとう…………」
消え入りそうな声で、ミネルバは呟いた。
ここに来て漸く、密かにマリアを救出し、兄やドルーア帝国に反旗を翻す計画を発動する道筋がついたのだ。
ミネルバは、心に差し込んだ光芒を、まさに藁をも縋る思いを馳せて、自らの腹心であるチェスティ三姉妹――――所謂『赫き竜騎士』に付随して称される『マケドニア白騎士団・ペガサス三姉妹』と計画を進めていたのだ。
「だめ……それじゃ巧く行かないわ」
パオラ=チェスティ、ペガサス三姉妹の長女が悲嘆する。
「ジューコフは猜疑心の強い男だ。不審な行動はかえって警戒心を煽り、水泡に帰しかねない」
ミネルバが唇を噛んだ。
「んん―――どうしよう、って。こんな時もっと頭が良かったらって思うー」
しかめっ面で、エスト=チェスティ、ペガサス三姉妹三女が唸った。
知勇才色を兼ね備えた四人が絞り出す案。しかし、彼女たちで互いに計る様々な救出計画も、結局は砂上の楼閣に過ぎず、互いの知略の限界、手詰まり感に悶悶とする日々ばかりが過ぎていた。
そんなミネルバたちにとっては、いわゆるマルスら反乱軍の大躍進ぶりは、まさに天佑僥倖に等しかっただろう。
試行錯誤を繰り返し、遂に万策尽き皆、言葉を失い、静寂の間をして暫く経った時だった。
突然、パオラが手を打ち鳴らし静けさを破ると、表情を明るくした。
「良案があるか」
ミネルバの言葉に、パオラはエメラルド・グリーンの長い髪をふわりと舞い挙げ、大きく揺らしながら頷いた。
「反乱軍に力を貸してもらうのです」
パオラが明るい表情で発した言葉に、他の三人は途端唖然となり、当然の如く、呆気に取られた。
「パオラ姉さん、それは行けない。それは奇策だよ――――」
エストがぶんぶんと首を横に振った。
「でも、もう他に方法がないわ。私たちだけでは……マリア様は――――」
パオラの笑顔に悲しみの色が満ちる。そして、ミネルバが口を開く。
「パオラの言ったことは私も考えた。……だが、反乱軍はドルーアの麾下にある我々マケドニアを激しく憎悪しているだろう。話を聞く以前の問題と捉えられる」
「…………」
「…………」
しかし、パオラの献言はやはり、夥しい石ころの中で見つけた金石の言だったのだろう。ミネルバの言葉の後、再び沈黙が続いたが、結局、それに優る最善策は見つけることが出来なかった。
そして、再び長く沈黙の議論の末に、解放軍の力を借りてみてはどうかという結論に達した。
解放軍にとって、怨敵ドルーアの片棒を担いでいるマケドニア軍。その大将である赫き竜騎士・ミネルバ王女の差し向ける使者は、正しく命の綱渡りである。ミネルバたちに討たれた人間の多くが解放軍に在する事を考えると、その使者は単なる軍使ではなく、名実共にミネルバ、ひいてはマケドニアの将来に関わる極めて重要な使者となることは明らかだった。時と場合によっては、敵陣営に到着した瞬間に斬殺されることも、かなりの高い確率であり得る立場だった。
それだけに、一体誰が使者として解放軍の本陣に乗り込むのかという話になっていた。
「反乱軍の心情を思えば、まずは前使を立てた方がよい」
前使とはつまり、アポイントメントを取るためだけの軍使である。
ミネルバの言葉に、肩の辺りで切り揃えた青い髪の美少女が、毅然と首を横に振った。
「そのような大事な使者、前使では務まりません。……いえ、それ以前に、前使を立てる間怠っこしいやり方では、かえって相手が信じてくれないと思います。……ミネルバ様、ここは私が直接、ワーレンのマルス王子の許へ参ります」
毅然とした透き徹る声。凛とした蒼い瞳。カチュア=チェスティ。ペガサス三姉妹の次女だ。
「カチュア、何もお前が行くこともあるまい」
「そうよ……。もしも、あなたが殺されてしまったら、それこそ……私たちは……」
「カチュア姉さまが行くくらいなら、私が行くよ」
ミネルバに続き、パオラ、エストもカチュアの言葉に反対する。
しかし、カチュアは強い覚悟と死地に臨む強兵の悟りに似た表情などではなく、逆に余裕とも取れる微笑みを浮かべながら、明朗快活に言った。
「ドルーアの魔手から世界を救うって大義を掲げている反乱軍よ。そんな彼らが、無闇に人を殺す事なんてしないと思うわ。大丈夫!」
そんな彼女はぐいと腕まくりをして、その細く白い華奢な腕に力を入れて見せたりする。根拠のない成算をそれらしく見せようとしているようにも思えた。
「それに……そう言った役割なら、姉さんやエストよりも、私が適任だわ、うん、色々な意味でね。……だから、ここは私に任せて」
「カチュア……」
肩を落とすパオラ。
「何か引っかかるけどね、その言葉」
唇を尖らすエスト。
「……カチュア。これは単なる軍使ではない。お前をもし――――」
いつになく弱気なミネルバ。
「ミネルバ様。そのことも含めて、私が一番なんですよ!」
きょとんとするミネルバ、パオラ、エスト。
カチュアは“えへん”とわざとらしい咳払いをしてみせると突然、拳を握り、両腕の肘を折り曲げて身構えた。
「足は、速いですから――――!」
三十六計逃げるに如かず。いざとなれば、敵の刀剣弩弓を華麗に回避し、遁走する気満々だった。
そんな彼女の直球的な目算に呆れたのか、諦めたのか、翻意する事を諦めたミネルバは結局、カチュアを軍使に立ててマルスの本陣に単身乗り込ませることにした。
しかし、そんな目算の一方で、カチュアにはもう一つ、強い思惑があった。
(マルス王子……。一度、この目で見てみたい――――)
人伝手に聞く噂。マルスに英雄の気質有り。
本来ならば青春の盛り、甘い恋愛に憧れる妙齢の少女が、今数奇な戦場にあり、さては激動の世界を動かさんばかりの反乱軍首魁の男の姿を見たいと思うのも、ある意味、至極当然のことではあった。
港湾都市ワーレン自治区の開放には、自治区民兵組織を指揮するシーザ、ラディという傭兵たちの力もあったが、何よりも一人の男の冴え渡る知謀が、解放軍に勝利を導いた。
「カナリス将軍は中か」
糺問室前に控える衛兵に訊ねる青年。そう、総督府一階にて、ごった返す軍吏らを相手に的確に指示を出していた青年だった。
扉を開く。小さな詰問用のための小さな机と、石油灯がひとつあるだけの薄暗い、石造りの小部屋。罪人糺問のための小さな空間だ。
憔悴しきった敗将がその机に突っ伏している。青年の姿に、顔を上げることもしない。
青年はその敗将に対し、貴族に対する一礼をすると、名乗る。
「平東将軍カナリス殿。私は、アカネイア連合解放軍参謀・ルーシ=カーリンです」
静かに、そしてそこはかとなく冷たい口調で、青年はそう名乗った。
弱冠二十歳。ワーレンの遺賢として、何と十五歳の頃からアカネイア大陸にその名を知られていたという程の人物。
彼が住まう街外れの草廬に赴き、三顧の礼を尽くして解放軍盟主・アリティア王子・マルスは彼を迎えた。
ルーシが放つ計略によって、解放軍は水を得た魚の如く進撃し、竟にワーレン奪回に成功したのである。
カナリス将軍を捕らえたマルスは、ルーシにこう言った。
(敗れたとはいえ、カナリスにも家族がある。新たな遺恨を生まない処罰が望ましいと思う)
カナリスの妻と、その幼い娘もワーレン陥落時に捕らえられていたのである。
マルスはこれ以上無益な血を流すことを望まなかったのだが、ルーシは静かな口調で答えた。
(ワーレンの人心はドルーアでも、グルニアでもなく、総督であったカナリスを恨んでおります。彼を処断することで、人心は自ずと私たちに帰順いたしましょう)
その言葉を承諾したマルスによって、カナリスの処断は、参謀ルーシに一任された。
扉がノックされる。
「参謀殿、ロシェです」
相槌と同時に扉が開かれ、紫髪の騎士が現れた。
「参謀より指示されたものを」
「ご苦労です、ロシェ」
ルーシはロシェの手から茶色の小瓶を受け取ると、すかさず放心状態のカナリスの前にそれをとんと音を立てて置く。その音に、かすかに反応するカナリス。ルーシは、無機質に、淡々とした口調で、言った。
――――平東将軍。私は参謀です。情緒をもって事に当たることは致しません。ゆえに単刀直入に申します。
……ワーレンの人民が貴公に対し寄せる怨嗟の声は殊に止み難し。これは当に、貴公相当の私欲失政の付けとお見受けする。既に、民心をして追逐の範を超えた断罪である。
もし貴公に武人としての気概があるのならば、潔い決断を促します。
思い致すことは多々ありますが、私たち連合解放軍としての怨恨を封じ、平東将軍には最大限の武人貴族の格式をもって、お見届け致します――――
しばらくの沈黙。そして、ぼそりとカナリスの声が聞こえた。ロシェはよく聞こえなかったようだが、ルーシはしっかりと聞いていた。
「私の家族を――――どうか」
「聞き届けます」
ルーシが淡々と答えると、カナリスはふっと笑いを浮かべ、突然身を起こし、横殴りに小瓶を掠い取った。その一瞬の風圧でルーシのプラティナ・ブロンドの髪が揺れた。だが、彼は動じず、ただ一点、敗将・カナリスを見据える。
カナリスが小瓶の蓋を弾き、瓶口を歯に噛みしめ、頤を上げた。
「…………」
カナリスの喉骨が音を立てたことを見たルーシは、がたんと椅子を後ろに弾き、腰を上げた。
「参謀殿?」
慌てるロシェ。上体に手を当てる仕種に一瞬、もたつきながらも、表情を殆ど変えずに、大股で扉を強く開き、髪を振り乱しながら糺問室を出た。扉を乱暴に開ける音に、衛兵が愕然とする。
「衛士、後は任せる」
「は……ははっ!」
衛兵の低頭も見ず、ルーシはその場を颯然と去った。
「参謀殿、ルーシ参謀!」
慌ただしいルーシの身のこなしを、ロシェは怪訝な面持ちで後を追う。
そして、二人がいなくなった直後に、扉の向こうから、苦悶の悲鳴が一瞬響き、すぐに静まり返ったのだ。
「ルーシ参謀ッ。いかがされたのですか」
つかつかと大股で歩を進めるルーシの後を、早足で追いかけるロシェ。
「カナリス将軍の家族は、総督室か」
鬼気迫る声色で、ルーシはロシェに訊ねる。
「はい。そう、聞いています」
「…………」
ルーシは更に歩を早めて、総督室に向かったのだ。
総督室にはカナリスの家族。即ちその妻と、年の頃、五,六歳と思われる少女が身を寄せ合うようにして床に座り、解放軍兵の監視下に置かれていた。
「連合解放軍参謀のルーシ・カーリンです」
ルーシがそうな乗ると、カナリスの妻はよろよろと這いつくばるようにしてルーシの足許に縋ってきた。
「夫は――――カナリスは――――」
ルーシはその妻を冷たく見下ろしながら、言った。
「武人としての名誉を保たれた。我々が出来る最大限の温情譲歩です」
「命ばかりは……」
その目は、あと一歩間違えれば廃人斯くやとばかり。
「平東将軍の施政、民の声を聞かれたか奥方。その怨嗟は、我ら目下の情状を超えている」
「…………夫は――――」
「…………」
なお変わらぬルーシの冷たい表情に、カナリスの妻の縋る表情が瞬く間に憎悪の色に変貌していった。
「おのれ、殺したのか。降伏した夫を、お前が殺したのか!」
暴れ出すところを、兵士たちが一斉に取り押さえる。それを見て、わっと泣き出すカナリスの娘。
「何が解放軍か。降った人間を殺すなど、ドルーア帝国と何が違う! おのれ反乱軍、この怨み、決して忘れぬ」
般若の形相で怒り狂い、ルーシを睨み付けるカナリスの妻。しかし、冷然とルーシは瞳を逸らさずにいた。
「私欲失政はカナリス将軍個人の栄達のみではなく、あなたたち家族の私利に大きく繋がったと、民は見ています。カナリス将軍ともども、あなたたち家族も同罪」
「何をッ……」
怒号喚き立てる妻、泣きじゃくるカナリスの娘。しかし、ルーシは、無機質な声で、妻に対し、こう告げた。
「直ちにワーレンを去るか、この地に“埋もれる”か。あなたたち家族に示された選択はこのうち、ひとつです」
つまりは、準備のひとつもなく着の身着のままでの追放か、カナリスの後を追うかの選択ということなのだ。
「参謀殿ッ」
ロシェが思わず声を上げるが、ルーシは掌を翳して制止する。
「お好きな方を選ばれよ。前者ならば、我らが鄭重にお送り致します」
ルーシの口調に、カナリスの妻の激昂も虚無の足掻きにしか見えなかった。恐怖と不安で泣き喚く幼い娘に目配せしたカナリスの妻は、急に肩を落とし、娘を抱きかかえるようにして真っ赤に腫れた目をルーシに向けた。
「せめて、この娘(こ)だけは……」
ルーシはじっと妻とその娘を見据え、やがて頷いた。
「港にワーレン民兵組織の護送船を用意させています。そこに移られよ」
それだけを言うと、ルーシは髪を翻し、踵を返す。総督室から出る直前、カナリスの妻が吐き捨てるように、その言葉をルーシの背中に浴びせた。
「お前もきっと、良い死に方をしない」
暴言と受け取った兵士に再び雁字搦めにされるカナリスの妻。気が触れたかのような嘲り笑いに対し、ルーシは静かに唇の端を綻ばせた。
「ルーシ参謀……」
ロシェはあまりの心配のせいで、声が震えていた。
「ロシェ。護送については予め、民兵のラディに“言い含めて”いる。これで大方、ワーレンの戦後処理は片付いた」
ルーシが微かに安堵の表情を浮かべる。
「ラディ殿に……? 参謀――――少し、苛烈過ぎなのでは? カナリスや、何も、小さなあの娘にまで……」
するとルーシはぴたりと足を止めて、ロシェを見る。
「討つも討たれるも、戦は常に憎悪の連鎖がつくものです。それを可能な限り小さく止めることが肝要」
「参謀……殿?」
ロシェがその言葉の意味を考える島もなく、頭を支配する不安に、言葉をつまらせた。
「ロシェ。参謀・軍師というのはこういうもの。軍略のみならず、人から憎まれるのが仕事なのです。盟主殿の大志大義のために、自ら進んで人の憎しみや恨みを買う。盟主殿が被ってはならない、心の汚れ仕事なのです」
そう言って、ルーシはようやく笑顔を見せた。たとえそれが、無理矢理な苦笑いだったとしても……。
「やはり、傷は痛みますか」
ロシェが何度も上体を擦るルーシを気遣う。
「なあに、これは名誉の負傷。疼くたびに、気が引きしまります」
そうはにかむ胸中では、カナリスの妻の言葉を反芻していた。
(良い死に方はしないか……)
いつしか、苦笑は自嘲の笑みに変わっていた。
カナリスの妻と、その幼い娘は、ワーレン民兵組織のラディの護送船によって追放されたが、程なく帰港してきたラディに比べて、母娘の消息は以後、ぷっつりと途絶えたという。
「カナリス総督の処刑を公布せよ」
ワーレンの民はルーシの言葉通り、解放軍の勝利を祝い、専らカナリス処刑の事実に民は驚喜し、ワーレン市街の中央公園を囲み、三晩夜通しの祝賀に包まれた。