第3章 休戦

 連合解放軍はその後、聖都アカネイアパレスを奪還し、ニーナ王女がアカネイアの祭祀を復活させ、その聖座を継承、光紀帝の尊号を承けた。事実上のアカネイア王国の再興に、万民の万歳三唱が陽炎揺らぐ夏の青空に響きわたったのだ。
 パレスを奪還した解放軍に対する世情の気運は高まり、ニーナの宣旨、マルスの檄文などが掲げられ、アカネイアへの忠義に篤い大小の諸侯軍閥らが挙って各地で打倒ドルーアの幟旗を掲げた。
 しかし、一方で解放軍には依然、行く手を妨げる強敵が立ちふさがっていた。
 それはいわんや、グルニア王国黒騎士団総帥であり、ドルーア帝国にその人ありと言われた、知勇兼備で忠烈無比と謳われし若き名将、カミュことカミーユ・ファブリス・ティリエ大将軍である。
 ドルーア帝国の麾下に組み敷かれたグルニア王室の安泰の為に、敢えてドルーア帝国に服従する道を選び、連合解放軍の怨敵にあってアカネイア九族に及ぶ皇統の鏖殺を指揮した。
 その一方で、アカネイア宗室の嫡裔であるニーナ王女を密かに見逃す義心さを持ちながら、烈士律儀の信条のもとに、マルスの説得にも応じず、彼は服従するドルーア帝国への叛逆を快しと思えず、葛藤に苛まれながらも、ドルーア帝国軍の大将軍として、全面対決の意志を貫き通す決心を固めていた。
 そんな彼は、グラの国王で、帝国鎮西将軍・ジオルの懦弱な器量を憂い、グルニアの親衛黒騎士団を引き連れてグラに赴いていた。

グラ王国・国都ベルツェレム
     黒騎士団本営附近の集落

 ほぼひと月。ミネルバの命を受けていたカチュアは、グルニア黒騎士団の動静を偵察するべく、敵本営に近い集落に潜伏していた。
 情報の授受伝達には伝書鳥を駆使するため、偵察任務は半ば長期滞在が常識であった。
 通常はそう言った滞在型の軍務というのは、特命を受けた斥候が行うものであり、カチュアのような部将が自ら赴任するのは極めて異例なのである。
 そして、伝書鳥の往来は日の高いうちに行われる。午後の早い時間。万が一の場合を考えれば、その方がかえって目立たないからだ。
 “果実売りの娘”の格好が、妙に板についてきたと、最近自分でも思うようになった。浅葱の簡単服に白のカチューシャ、果実を詰めた籐籠を提げてくるりと身を翻せば、いわんや舞い降りた蒼く美しい花やらん、集落一の美しい娘と評判になる。囃されるのも慣れれば悪い気はせず、こうした任務もありかなとさえ思うようになった。
 鳥の囀りにカチュアが天を仰ぐと、青空から見慣れた鳥がしきりに羽ばたきながらゆっくりと自分に向けて降下してきた。
「エストからか……」
 鳥の姿形で誰から発せられたものかが解る。また、忍ばされた書状には、互いしか知り得ぬ秘密の工作が施されており、万が一途中で敵などに奪われ改竄されても、解るようになっている。また、定期的に通信は行われているので、途絶えればそれだけで異変は察知されるのだ。

 ――――解放軍はディール要塞に進み、これを陥落させました。
 マリア様は無事に救出され、ミネルバ様は同時にマルス王子に帰順致し――――

 その一節を読んだ直後、カチュアはみるみる胸が沸き立ち、思わず歓喜の声を上げかけた。思わず両腕を拡げ、提げていた籠を落としそうになるのを慌てて自制した。

(ああ、マルス様……約束を……私との約束を果たしてくれたんだわ――――!)

 仮屋に戻り、カチュアは荷物をまとめている片隅に行き、壁に掛けられている外套に触れた。
(信じてくれた……私も……信じてよかった……)
 それはマルスから貰った外套だった。ミネルバから預けられ、ここに携えてきた。だが、着任して以来、触れることはなかった。意識をして、触れなかった。
 触れればマルスの温かさが蘇る。手のひらの感触を思い出す。胸が熱くなった。そして、今日、この報告を受けて、久しぶりに触れた。焼け付くかのような甘い熱さが、カチュアの胸をいっぱいに覆ったのだ。
 翌日、カチュアは伝書鳥を放った。姉パオラ、妹エストに向けてである。
「お世話になりました、皆さん」
 集落の住人たちに対し、たったひと月足らずの好誼に謝意を示した。
「気をつけてな」
 住人たちは彼女が何者なのか、気付いていたのかも知れないが、ドルーア帝国側に密告する者はいなかった。そんな幸運はこの集落だけなのかも知れないが、殆どの蒼氓は、ドルーア帝国に叛意を抱いていたのかも知れないという漠然とした期待に帰趨するには充分だったと言える。
 伝書鳥がそれぞれの許に辿り着いた頃には、カチュアを乗せたペガサスは、連合解放軍の本陣に向けて軌跡を描いていたのである。

グラ王国・メニディ河東岸平原
      連合解放軍宿営地

「悲しみの大地……。今にして思えば、よく言ったものだ――――」
 マルスが感慨深げに呟く。
 今、眼前の景色を過ぎるメニディ河は、自身の父・アリティア公哀悼王コーニーリアスが、グラ王ジオルの突如とした背叛によって非業の最期を遂げた場所であり、また時代を遡っても、グラを取り囲む大地の声は、謀略と蒼氓の怨嗟に満ちていた。温暖で蒼き草木に溢れた大地は、そうした悲しみの循環によって積もった土壌なのである。
「ご心中、お察し致します」
 ルーシの実に簡素淡泊な語気に、マルスは乾いた苦笑を浮かべる。
「ありがとう。大丈夫だよ」
 マルスは解放軍参謀たるルーシの考えを察していた。ルーシの言葉とは逆に、カインやアベル、シーダ、そしてマリクらならば、もっとマルスの心情を慮るような熱き思いの丈を交わしていただろう。
「敵は大将軍カミーユ・ファブリス・ティリエ――――“ドルーアに人傑あり、比類無き忠勇にして驍将”と謳われた騎士です」
「承知している。……出来ることならば、戦いたくはないものだが――――」
 マルスにしては随分と久しぶりとも言える弱音を吐露した。
「はい。ドルーア帝国にあるには実に惜しき将軍です」
 ルーシも戦いたくはないという思いは一致していたが、同時に隠遁時代に知己を得ていたカミュが、節義を曲げぬ忠勇の将であることも理解していた。つまり、カミュ率いるグルニア正規軍黒騎士団との衝突は、不可避であると言うことも、同時に理解していたのである。
 河風が吹きぬけてゆく。どこまでも遠い、青い空。見渡すグラの広野には、盛夏の強い陽射しが降り注ぎ、これから血戦を控えんとする戦場の景色とは、全く逆の穏やかな夏の彩りが広がっていた。

作戦会議大幕舎

 解放軍はグラ国都ベルツェレムを掌握しているドルーア帝国征東軍の主力軍である、大将軍カミュ率いるグルニア黒騎士団を敵にし、パレス奪還後、初めて招集された連合国の文武両官の代表幹部作戦会議は、些か紛糾気味になっていた。
 円卓には光紀聖上ニーナを中心に、解放軍盟主マルス、ハーディン、ミネルバ、シーダ、チキらの各種族の王皇族や、ジェイガン、ジョルジュ、ミディア、ボア司祭侯らのアカネイア従軍貴族ら錚々たる面々が揃っていた。
 主戦論、慎重論、グラ回避論、さては後退論まで様々な意見が俎上に挙がった。
 どれ程の時間が経ったかは良く解らない。侃侃諤諤たる喧噪もあらかた収まりかけた時、じっと唇を真一文字に結んでいたルーシに視線を向ける人物がいた。
「ルーシ・カーリン。先ほどから黙っているな、何か良い案があるなら申せ」
 パレス准内務卿リーオンが、水を向ける。するとルーシは徐に上体をニーナに向けて拝礼する。
「ご意見は出尽くされましたか。どうぞ、光紀聖上の御聖慮を――――」
 すると、ニーナはひとつ、溜息をついた。
「ルーシは……どう思いますか……」
 憂色というよりも、悲哀だとはっきり言った方がいいであろう、ニーナの表情。況やカミュと戦うことに一方ならない思いがあるのは、光紀聖上ニーナその人だ。
 ルーシは再度ニーナに拝礼すると、諸侯に向き直り、言った。
「帝国大将軍は人中の人であります」
 どよめく諸侯。
「しかし、度重なる帝国軍の劣勢に重ね、グラ国主・鎮西将軍ジオルの懦弱な気質によって、敵の士気は上向かず、カミュ大将軍一人では荷が勝ちすぎているという見方も出来ます」
「ならば貴殿は、主戦を求めるのか」
 リーオン准卿が言葉を挟めると、ルーシは渋い表情で続けた。
「我々連合解放軍は士気盤石な精鋭兵揃いながら、それでもカミュ大将軍の黒騎士団の前には五分六分の戦力です。況してや、この暑さの中で行軍続きの兵卒では、懦弱なグラ兵一人にさえ、梃摺るでしょう」
 諸侯のどよめきは不満と憤りとなってルーシに向けられる。
「ならば貴殿は退けと言うのか。折角、ここまで駒を進めておきながら」
 パレスの守衛隊幹部の一人が怒声を挙げる。一方で、心配げな表情を浮かべてルーシを見つめているのは、ミネルバ。そして、信頼の眼差しを向けているのがマルス、ハーディン。
 怒号や不満の雑音を、ルーシは手を翳して抑えた。すうっと静まる場。姿勢をずらし、ニーナ・マルスに向き、再度拝礼する。
「……故にルーシ・カーリン。謹んで光紀聖上、盟主殿に申し上げます。グラ攻略において、尤も重要な初動策は――――」

メニディ河西岸

「全く……あなたは無茶苦茶と言いますよ」
 てくてくと馬を進めるルーシの傍らに並びながら、ロシェの不満の声はなかなか止まない。それを笑いながら聞くルーシ。
「前使は出した。そして、向こうも会談を承諾した。この話は早く進みそうだが」
 手綱を握りながら、ルーシは機嫌良く笑顔を見せている。
「しかしですルーシ参謀。休戦とは……それも、その交渉をあなた自ら敵陣に……。万が一のことがあったら、我々はいったい、どうするのですか」
 ロシェと並び、光紀聖上ニーナの名代として同伴した聖騎士(パラディン)ミディア・ランクスリッド侯も、やはり不安を隠せない様子だった。
 だが、それに対してもルーシは軽々しいとも言えるような口調でこう返した。
「余人は知らず、カミュ大将軍は騙し討ちをするような人物ではありません」
「あなたは、随分あの黒騎士を買っておられる」
 ミディアが強い不満を漏らす。
「ミディア殿、貴女もアカネイアの由緒ある聖騎士ならば、カミュ大将軍がどのような人物なのかはお解りになるはず。よもや、私怨恩讐でのみ、敵を判断されはしませんでしょう」
「そ、それは……」
 返す言葉がない。ミディアの端正で美しい容貌がうっすらと紅潮する。
「まあ、そう凝り固まらず、余裕を保って参りましょう。その方が何かと都合が良くなります」
 そう言って頤を外す。“一笑に付す”とはまさにこういうことを言うのだろうか。ミディアは眩しそうに眼を細めながら白金の髪の青年を見つめ、またロシェはルーシを信じているからなのか、または呆れたのか、ただただ、溜息をつくしかなかった。
 メニディ河西岸。渡河し約半日馬を進めたところに、グルニア・グラ両軍の部隊駐屯陣営がある。
 三体の馬の影が視界に映った二人の哨兵が鎗を翳して制止の声を上げる。
「アカネイア・ニーナ王女陛下の使臣、ミディア・ランクスリッドです」
 下馬し、ミディアが進み出て名乗る。続けてルーシも進み出る。
「連合解放軍盟主アリティア公マルス王子の命を受けて参りました、ルーシ・カーリンです。前使から概ね……」
 すると哨兵は一度見合わせて頷くと、不承不承の体で鎗を引き、三者を陣中に導き入れた。
「ティリエ大将軍にお目通りを」
 応対した黒騎士団の将校に対し、ルーシは不敵とも言える笑顔を見せつける。それでも渋る将校。
「大将軍はベルツェレムを発ったばかりだ。暫く、待たれよ」
 ミディアが不服とばかりに身を乗り出そうとするのを、ルーシがやんわりと腕を伸ばして止める。
「大将軍との会談に臨めるのならば、幾日も待ちましょう。ニーナ王女、わが盟主アリティア公のご意向を思えばこそ」
 ミディア・ロシェとも不満たらたらにルーシに鋭い視線を投げかける。かたや敵将校も、あからさまに響くような舌打ちをした。
 そして、泰然としたルーシを取り囲むような雰囲気が暫く続いた時だった。
 敵軍卒が突然、一斉に儀礼の姿勢を構えたのだ。
「アカネイアの使臣が来たならば通すよう、申し伝えたはずだが」
 壮士の声が陣中に緊張を走らす。
「はっ。しかしながら、こちらとしても守衛の任を全う――――」
「良い。ご苦労だった。後は私がやろう」
 壮士の言葉に更に言葉を返そうとしていた武官を、暗黙に抑える。その緊張感は、ルーシらにも犇犇と伝わるようだった。
 そして間もなく、高い背丈に漆黒の軍袍衣がそこはかとない偉容と風格を湛え、黄金の髪に端正で憂色と冷徹さが解け合ったかのような類い希な美貌の騎士が、ルーシらの前に姿を現した。
「私がカミーユ・ファブリス・ティリエだ。……おお、これはルーシ・カーリン殿か。なるほど。よもや君だったとは――――」
 カミュがやや驚いたように眦を上げる。ミディアとロシェは彼から漂うそこはかとない威圧感に、言葉を失ってしまった。
「お久しぶりです、カミュ大将軍。本日はお目通り叶い、恐悦至極」
 ルーシが懐中から烏羽扇棒を取り出し、それを両手に拝して挨拶をする。
「敵陣への使臣、堅苦しい挨拶は無用だ。要件を伺おう」
 カミュは刀剣・鎗棒を佩びていなかった。敵の使臣に会うのに丸腰の状態なのはどういう事なのか、と、ミディアは訝った。だが、ルーシは意に介さず、カミュが案内する幕舎に向かった。
 幕舎と言ってもベルツェレム城や要砦などのしっかりとした会議・応接間がある訳ではなく、それこそ盾などを並べ、鎧を椅子代わりにした仮設の応接室。勿論、茶類などの飲み物は出ない。事態によっては一触即発の極めて緊迫した会談場だ。当然、幕舎はグルニア兵で警備されている。
「休戦協定の話とのことだが、それは貴殿の建言か」
 カミュが切り出す。答えるのは特命全権のルーシ。
「協定などと言う大仰な和睦ではありません大将軍。一時休戦……互いに兵戈を安んじ、万全な士気で雌雄を決することが望ましきことと思い、ご忠告申し上げるまで……」
「ほお――――反乱軍は我らに忠告をされるか。それは、有り難い気遣いだ」
「大将軍、そして威光鋭きグルニア黒騎士団を尚武の義を以て思えばこそです」
「尚武の義……か。アカネイアは一縷の情けを我が軍に掛けているつもりのようだが」
「情けとは心外な。忠告と申し上げました」
 するとカミュは含み嗤いを浮かべて、盾を並べただけの机上を思いきり叩いた。がらんと大きな金属の音を立てて、その部分が崩れる。音に気づいて幕舎の外の兵が反応した。ミディアとロシェも、反射的に柄を掴む。
「静かにしろ」
 カミュが声を張り上げて兵士を止める。
 沈静な容貌の中に怒気を滲ませて、カミュはルーシを睨視する。
「面白いな、ルーシ殿。まるで、このまま干戈を交えれば貴軍優位にて我ら黒騎士団を殲滅できよう口ぶりだ。実に大きく出たな」
 ルーシは瞼を閉じ、口の端に笑みを浮かべ、綽然とした様相だった。
(ルーシ参謀……それはない。まともに戦えばどのようなことになるか。あなたが一番よくご存知な筈……)
 ミディアが何度も瞼を瞬かせる。
(参謀殿の悪癖だ――――カミュに通じなければ……)
 ロシェの心労は察するに事欠かない。
「パレスには私が鍛えた騎馬・弓騎・狩猟・重歩など新兵が一万五千、オレルアンにはユングダル大公殿下の檄文に応じた義勇兵の遊撃部隊が三千あり、タリス、ワーレンには光紀聖上の聖詔あれば一万の精兵が集結致します」
「文弱の兵卒など、我が黒騎士団一人で百人を相手に出来る。甘く見ては怪我では済まされないぞ、ルーシ・カーリン」
「暴卒ごとき児戯の知略一計あればなんとでもなるものです。かく言うこのルーシ、解放軍准参謀などという身に余りある役を頂いておりますが、私如き浅学の末輩などものの数ではありません」
 するとカミュは肩を揺らして静かに、それでも大きく笑う。
「我が黒騎士団を暴卒と言ったか。これこそ面白い戯言というもの。このカミーユ、才は劣るが、これまでグルニアを支えてきた自負がある。貴軍の総攻撃に対しても、そう易々とは負ける気はしないぞ」
「いかにも。大将軍は稀代の英雄です。あなたが本気を以て事に当たれば、三日ほどで我が解放軍の一個旅団の三分の二は、戦闘不能となるでしょう。ただ、惜しむらくは人智が大将軍、ただお一人であること」
「人を欠くか。グルニアに人はないとは、貴殿らしかぬ心外な分析だな」
「鎮西将軍グラ公ジオル。労兵の上にグラ公ありでは、大将軍も頭を大いに悩ますことではないかと。違いますか」
 カミュはルーシに背を向け背中で両手を組みながら、肩を震わせた。そして笑い声を立てながら言う。
「それならば、何故攻めて来ないのか。貴殿を迎え入れ、以来不敗を誇る反乱軍が、この地を討つのは容易なはずであろう」
 カミュの問いに、ルーシもまた席を立ち、烏羽扇棒で胸元を軽く叩きながら、円を描くようにその場を周旋する。怪訝な眼差しのミディアとロシェ。全く、口を挟む余地がない。
「解放軍が敢えて牙旗を進めない理由は三つあります、大将軍」
「ほう。聞かせてもらえるか」

 ――――先ほども申し上げた通り、長き行軍や対峙による疲弊著しく、兵戈を安んじ、軍卒の士気を養うため。これは我が軍、貴軍に利あり。これが一つ。
 ――――グラは源を辿れば盟主殿がアリティア王国の連枝。盟主殿の本心は先の哀悼王の仇敵ながら、グラの地を戦渦に巻き込むことを由としておりません。これが二つ。
 ――――カミュ大将軍は義を知り、尚武を重んじる真の人傑。パレス都督としてその統率手腕は畢生類無きなれば、これを討つことは解放軍が崩壊し、ドルーア帝国に降るよりも忍びない。これが三つです。

「……………………」
 カミュは瞼を閉じ、頤を上げて思考を巡らせていたが、やがて大きな嘆息をつき、振り返った。
「実利が無い内容だ。休戦の事由としては粗笨極まりない」
「ほほう」
 ルーシが感嘆する。ミディアとロシェの額に、すうと冷汗が迸る。
「……だが、我が軍の現状を思えば君の述べたことの一つは当てはまる。拒否する合理的理由が無いのも事実だ」
「ならば大将軍。ご検討の余地、ありとみてよろしいですか」
「ベルツェレムの鎮西将軍に通さなければならないが」
「グラ公に戦意ありと言うのであるならば是非に及びません」
「いや。鎮西将軍はその提案を受け容れるだろう。……いや、受け容れざるを得まいと言った方が正しいかもしないが」
「…………」
 カミュの声色にやや影を感じたルーシが無言で彼を見る。だが、カミュはすぐに元の表情に戻った。
「細かいことはよい。それよりもルーシ・カーリン。君の提言を前向きに考えるがどうする。ここで待つか、帰陣されるか」
 ルーシはカミュを暫く見つめてから口の端に笑みを浮かべ、ふうと息をついた。
「ミディア殿にロシェ殿」
「は、はい、ルーシ参謀」
「参謀殿」
 突然呼ばれて瞠目する二人。
「そなたたちは帰陣し、光紀聖上と盟主殿に報告を」
 驚くミディア。
「ルーシ参謀……あなたは?」
「私はここで、グラ公の返信を待ちます」
「参謀殿っ!」
 ロシェの声色が怒りに満ちる。
「安心しなさい。明日には帰陣する」
「しかし……無茶も程程にされなければまた……」
 ロシェが瞼を伏せる。ルーシは笑って返す。
「大丈夫。大将軍と雑話を交わすだけのこと。他意はない」
 ルーシの笑顔は重ねて、それ以上の問責を受け付けないと言った気を発しているように思えた。
「……わかりました。我々は一足先に戻ります。ルーシ参謀も、お気をつけて帰陣を」
「ありがとう」
 諦めたようなミディアの口調に、ルーシは穏やかな笑顔で礼を言った。

 何度も振り返りながら、ミディアとロシェが馬を駆ってゆく。陣営前で見送る形のルーシ。
 二人の姿が景色の彼方に消えると同時に、ふうと長い溜息が漏れた。そして、同時にルーシから向かって右の方面から、グラの部隊らしき影が迫り、ルーシに近付いてきた。
 部隊長らしきブロンズヘアの勇者が、顰め面でルーシを睨み付けている。
「アカネイアの使臣ルーシ・カーリンです」
 そう名乗ると、勇者の表情が一瞬、崩れたように見えた。しかし、何も言わず勇者は軽い会釈をしただけで、陣中に入っていったのである。

 その夜、カミュと食卓を同じくしたルーシは歓迎とはほど遠い、兵卒と同じ戦場食に与った。カミュ自身が常にそうしているからだという。
「簡素で済まないな、ルーシ殿」
「ワーレンで畑を耕し、慣れぬ料理をしていた頃と比べると、戦場食は破格に豪勢というものです」
 カミュがふっと笑う。
「君がニーナの許にいるのは道理だ。今にして思えば、それは正しい選択だ」
 ルーシが最後のスープを掬ったスプーンを置きながら言う。
「……大将軍はどうです。正しい選択ですか」
 するとカミュは一瞬の沈黙の後、続けた。
「わからない。ただこの戦いに勝っても勝たずとも、いずれにしろ私の罪業は万死に値しような」
 “万死に値しよう”
 その言葉に、ルーシは脳裡に過ぎる言葉。

(お前もきっと、良い死に方をしない)

 その言葉を思い出す度に、自嘲する。
「大将軍。戦役の指揮官が万死に値するならば、この現世に楽土はありますまいな。互いに求める正義の涯が、万死に値する地獄というのは実に滑稽な話」
「――――全くだ」
「ですが。たとえ生涯を罪業の呵責に苛まれようとも、貫かねばならない正義もありましょう。死は、尤も愚かなる小義であり不正義です」
「敵将に死ぬなとは……さすがヘルメス・ジョアンを標榜している鬼才ならではか」
「大将一人欠けば十万の無辜の血を流す。国家蒼氓にとって尤も不幸なことは、大義なき小人が跋扈する時世。それは、アカネイアもグルニアも、ドルーアもありません」
 ルーシの言葉を、カミュは静かに噛みしめているように思えた。
「先ほど帰陣された貴軍の勇者殿も、思いある様相でした」
「ほう。アストリアにな。彼の剛直さは私も舌を巻くよ」
 そう言って笑うカミュ。
「君を得られぬ事は、我がグルニアにとっては大きい。……だが、ニーナを支えてくれているのならば安心だ。もし……もしも君がニーナの敵としてあったならば――――いや、よそう」
「大将軍」
 ルーシがカミュの寂しげな瞳を捉える。
「アカネイアではなく、ニーナ様を。ニーナという女性をあなたの大義とされませ」
「ルー……シどの?」
 カミュの表情が、明らかに動揺の色を見せた。
「大将軍の思い、今のご自身に答えを探す道標たるべき大義は――――ニーナ様であられるはず。誰もが言わぬことならば、知己の誼を以て、このルーシ・カーリンが申し上げましょう」
「…………」
「光紀聖上の宸襟推し量らえばこそ――――大将軍」
 ルーシの言葉にカミュはじっと目を閉じ、それから無言になってしまった。

 翌早暁。ベルツェレムから天馬騎士が飛来し、グラ国王ジオルの書簡を齎した。カミュがその内容を確認する。
「鎮西将軍も休戦を承諾した。その旨、マルス殿にお伝え願いたい」
「承知致しました、大将軍。では」
 思い描いたりとばかりに、ルーシはグルニア黒騎士団・帝国大将軍カミュ、グラ国王・帝国鎮西将軍ジオルの書簡を手に帰陣の途についた。
「ルーシ・カーリン――――――――か」
 カミュもまた、ルーシの乗せた馬が視界から見えなくなるまで、佇んでいた。

 ――――両陣営は明日より三日間、哨兵を含めて全軍完全の休戦解放とすること。
 謀略夜襲を含めた不意討ちをせず、これを破りし時は首脳の一死を以て鏖戦せしむこと。
 四日の後は日の出とともに両軍烽火を以て再戦の報せとすること――――

 特命全権使臣ルーシ・カーリンと、グルニアの大将軍カミュの間で交わされた三日完全休戦日はこうして取り決められ、暗黒・英雄両戦時下にあって唯一、哨兵も含めた完璧な休息日を迎えることになったのである。