第4章 休日前夜

 ルーシが帰陣したのは、午後過ぎの熱い日射しの最中だった。半ばだれている兵士たちの間を馬上で眺めつつ、烏羽扇棒を胸元で揺らしながらといった風体であった。兵士たちが慌てて居住まいを正そうとすると、烏羽扇棒を突き出して“ああ、そのまま”と言いながら笑っていた。
「ルーシ参謀ッ!」
 ミディアが憤懣やるかたなき様相でルーシを咎める。
「おう、ミディアさんか。無事で何より」
「何よりではありません。下りられませ。聖上がお待ちです」
 と、ルーシの馬の手綱を奪い、半ば強引にルーシを引きずり下ろす。
「おおっと。あーあ、落ち着きなさいミディアさん、慌てることはないぞ」
「まったくもう――――!」
 どうやら怒りの原因は別のところにあるかのように、頬を膨らませながらプイと顔を背けるミディア。そのままルーシの乗っていた馬を仮設の厩に牽いていってしまった。
「ふう……さすがに暑いな」
 肩から足首まで繋ぐ袍衣の下は汗だくであった。熱気や太陽の光を遮り、裾袖の長い衣の割には見た目ほど暑苦しくはないものであったが、さすがに三日着通しだと相当きつい状態である。
 肩や袖、腰など各部にある帯や紐を解き、肩を窄めると、汗で重くなった袍衣がすとんとすり抜ける。麻の肌着も、軍袴も汗でべっとりであった。
「取りあえず、水浴びたい……」
 苦笑しながら呟く。ニーナ、マルスに休戦の報告を成し、全軍に伝える任を果たしたら即、そのまま水に身を投じよう。我ながら珍しくそう強く思った。
「ルーシ」
 袍衣を片腕に掛けながら大幕舎に向かうルーシを、横から呼び止める、凛凛しい女性の声。
「これは、ミネルバさま――――」
 足を止め、振り向きざまに拝礼する。やや小走にミネルバは寄せる。
「ミディアやロシェの口小言が絶えなかった。ルーシ、あなたはまた思いつきで無謀なことをしたのか」
「思いつきとは面目ありません。私の悪癖だと、ロシェからは呆れられております」
 視線を落としたまま、ルーシは乾いた笑い声を上げる。
「まったく……ミディアの忿怒も良く解る」
 咎めの口調。その直後、ルーシの腕がすっと軽くなった。
「っ……!? ミネルバさま?」
 思わず見上げるルーシ。その目に映ったのは、堅い鎧を外し、黒色のタンク・トップと呼ばれる上衣姿の赫き竜騎士。滅多に晒さない肩から腕までの肌は鍛えられてはいるが、決して筋骨隆々という訳ではなく、女性らしいしなやかな線。ルーシの視線が泳ぎ、戸惑い、逡巡する。そして、その細く綺麗な腕には、ルーシが脱いだ袍衣があった。
「あ、あの……」
「よい。あなたは早くニーナ王女とマルス殿のところへ」
 戸惑うルーシを、ミネルバは強気ながらそこはかとない柔らかな声で促す。
 汗で重くなった袍衣を赫き竜騎士に奪われ、ルーシは促されるまま、大幕舎へと向かった。足取りがその分、軽くなった。

 ミディアやロシェの憤懣とは逆様に、大幕舎でルーシの帰陣を待っていたマルスとニーナは不機嫌な様子など微塵も感じさせずに、迎えた。先日の大幕舎に集結していた錚錚たる幹部も、それぞれの赴任地へ戻るなどして少ない。
「ルーシ・カーリン、戻りました。このような出で立ちで失礼でしたか」
「待っていたルーシ。概要は昨日戻ったロシェ、ミディアから聞いているよ。して、首尾は――――」
 ルーシはグルニアの大将軍カミュと交わした休戦約定を示した。
「記文は無いのか」
 リーオン准卿が訊ねると、ルーシは毅然と答える。
「大将軍は義を知る大将です。記文を以て念を押すことなど無用です」
 その言葉に胸が熱くなったのは、他ならぬニーナである。
「ルーシ。善く任を果たしてくれました。これで、連戦の将兵を安んじる事が出来ましょう」
 マルスも胸を撫で下ろす。
「ルーシ。あなたが建言し、成し得た休戦日だ。全軍の労兵になり代わって感謝します」
 マルスが立ち上がり、ルーシの許に歩み寄る。そして、ルーシの右手を両手で包み、頭を下げた。
「め、盟主殿、何をされます!」
 マルスに手を握られたまま、慌てて膝を折り跪くルーシ。
「幾度も申し上げておりますように、主君たるお方が容易く臣下に頭を下げてはなりません。軍規秩序を失すれば、自ずと敗る。ルーシ・カーリン出廬のお約束です、盟主殿」
「あ、ああ。そうだった……つい、嬉しくなってね――――」
 苦笑しながらルーシの手を取り立ち上がらせる。
「盟主殿。速やかに全軍に休戦の告知を。この暑中、皆も甲冑は一刻も早く外したいところでしょう」
「ああ。そうすることにしよう」
 マルスがニーナを向くと、ニーナも微笑みながら大きく頷き、ルーシもまた、拝礼する。
「ふーーーーっ」
 肩の力を抜き、ルーシは大きく深呼吸をする。
「ご無礼を」
 そう言ってその場にとすんと胡座をかいた。マルスとニーナがくすと笑いながら視線を向ける。
「どうしましたか、ルーシ」
「取りあえず、水を浴びたいと……」
「まあ!」
 苦笑しながら、手団扇をするルーシ。その仕種に、ニーナが感嘆し、マルスが大きく笑った。
「ならば君の任はこれで終わりだ。ゆっくりと汗を流して休みなさい」
「ははっ、ありがたき幸せ」
 マルスが笑顔で命じると、ルーシは両手を地につけて叩頭した。

 陣営の外れには樹木が立ち並んでいる場所があり、メニディ河からちょうど入江のようになっている浅瀬がある。周囲が草木で覆われているので天然の浴場とも言えるうってつけの場所だった。
 女性将兵は夜半、日中は一部の交代制哨兵や将校クラスという兵卒内での取り決めがあり、その恩恵に与った。正しく暑夏に一時の涼みを得ている、文字通り砂漠のオアシスとはかくやと云わんばかりだ。ルーシも、笑顔で言葉を交わしながら河水に上体を浸かった。
「参謀殿、昨夜はどちらに」
「心配したんですよ、皆」
「まーた、お一人で無茶なことをやろうとか」
 兵や将校たちの声を笑いながら聞くルーシ。
「ああ、すまないみんな。お詫びと言っちゃあなんだが、今夕盟主殿より皆に嬉しい報告がある。楽しみにな」
 ルーシの言葉にどよめく兵卒たち。何のことかと聞くがルーシはマルスが言うことだとだけ言って笑い、汗まみれの身体を洗い流した。

 空の雲、景色が茜色に包まれる頃、一体の天馬が陣営の外れに舞い降りた。そして、すらりとした背の高い、青い髪の美しい少女が穏やかな微笑みを浮かべながら降り立つ。
 応対したマチス。すぐに気がついた。
「おお、あなたは確か……」
「はい。マケドニア白騎士団のカチュア・チェスティです。マルス様に……」
 カチュアはマルスの名を口にすると仄かに頬を染めた。
「ここで待っていて下さい」
 マチスが駆け足で本営にカチュア到来を報告すると、マルスは嬉々としてそれを幕舎で休んでいるミネルバとマリアに伝えた。
「カチュアが――――!」
 ミネルバとマリア姉妹の喜びは言葉には表しきれない。ただ夢中で幕舎を飛び出し、姉ミネルバは妹マリアの手をしっかりと握りしめながら、君臣の絆以上の強い糸で結ばれた“戦友”のもとへと駆けつけていった。
 カチュアと姉妹が同時に瞳が合う。満面の笑顔を浮かべるカチュア。相好を崩すミネルバ。そして、思わず泣き出しそうになり、強く抱きつくマリア。
「カチュア……よく……よく無事でいてくれた……」
「ミネルバ様も――――そして、マリア様も……」
「会いたかったぁ――――カチュアぁ!」
 さしもの剛毅木訥としたミネルバも、目に光る物が浮かび、マリアはカチュアの胸に顔を埋めながら、感涙に噎んでいる。
「ミネルバ様、マリア様。嬉しいお知らせが」
 カチュアがマリアの髪を優しく撫でながら、さらに二人にとっての朗報を伝えた。
「パオラ姉さんも、間もなく――――」
 それは、グラ国都ベルツェレム近辺、そしてアリティアに至るまで末妹エスト・チェスティと偵察の任に就いていた長姉パオラ・チェスティが、今日明日中にも解放軍陣営に合流すると言うものであった。
「パオラもか。……本当に、お前たちには苦労を掛ける……」
 そんなことを言うミネルバに、カチュアは窘めるように返す。
「そんなこと、言いっこ無しです!」
「無しです、姉さまっ!」
 マリアまでが真似をすると、感涙が笑顔に変わった。
 そして、再会と互いの無事を祝い、喜びに包まれる彼女らを、マルスは静かに目を細めて見ている。
 カチュアはマルスに気づくと、マリアをミネルバに寄せ、ゆっくりと彼の前に歩み寄り、恭しく跪き、頭を下げる。
「マルスさま…………マルス様……。マリア様とミネルバ様をお救い下さり、本当に――――本当にありがとう……ございます……。もう……もう……わた……私……これ以上の言葉が…………」
 冷静さを保とうとした。だが、マルスを目の前にして、張り裂けそうな胸の鼓動と緊張。まるで涙声のような声を出すたびに、窒息してしまいそうなほど熱い息に噎せそうになる。
 ミネルバはそんなカチュアの様子を温かい眼差しで見つめていた。
 マルスはゆっくりと彼女の前に進み、跪く。そして、徐にその右手を取った。
「!」
 驚くカチュア。一瞬、全身に雷撃を打たれたような感覚が奔る。微かに汗ばみ、震える少女の掌の滑らかさを、マルスは感じる。
「マリア姫を救い、ミネルバ公の枷を外したのは、偏に解放軍の諸将です。私は何もしていません。ただ、人として当然の道を選んだまでのこと」
 しっかりと握りしめるマルス。その手の温かさと力強さに、まるでカチュアの心臓が鷲掴みにされているような錯覚。
「そ…………それでもマルス様は…………」
 言葉とともに吐く息が熱い。熱くて、倒れそうになる。だが、マルスはしっかりとカチュアの手を握り、ゆっくりと立たせた。
 マルスの優しく吸い込まれそうな瞳を真っ直ぐに見つめられない。でも、マルスのその瞳が、優しく温かく自分を見つめている。その実感は強く、ますます緊張してしまう。
 今は茜色の景色だからいい。だが、これが朝や昼日中であったらどうだっただろう……。カチュアの脳裡は混乱の域に達していた。
「ありがとう、カチュア・チェスティ。……カチュア。君の雄姿は聞いている。君がもし、ミネルバ公、マリア姫とともに、私たち解放軍にその力を貸してくれると言うのならば、一万の兵を得たようなもの」
「え…………そ、そんな――――わ、私そんな力は…………!」
 視線が躍り、ミネルバと視線が合う。するとミネルバはにこりと微笑んだ。恥ずかしくなって、きゅっと瞼を閉じるカチュア。
「勿論、是が非でもという……」
 わずかにマルスの声色に影が差し掛かったその瞬間、カチュアの声が弾んだ。
「わ、私などでよ、よければっ! か、か、必ず……マルスさまのお、お力にぃ……!」
 緊張が極限に達したのか、声がうわずり、思い切り声がどもってしまった。くつくつと笑うミネルバとマリア。きょとんとしてしまったマルスは安堵の息をつき、握っていたカチュアの手を一旦離し、再び握手を求めた。
「よろしく、カチュア。頼りにしているよ」
 そう言って、屈託のない笑顔を見せた。
 その瞬間、すうと、カチュアを縛り付けていた異様な緊張が取れ、今度はすんなりと、マルスが差しだした手を握ることが出来た。
(ああ…………私、多分……、ううんきっと――――この人のことを――――)
 そう確信した瞬間、カチュア自身の、マルスを見つめる目が、その自覚に変わった。

 それから間もなく、マルスは全軍を招集した。黄昏も近い時に緊急事態か、夜戦の準備かと、多くの兵士は表情を引き締めた。
 だからこそ、マルスの発表した三日間の完全休戦は、彼らにとってまさに天恵・僥倖と呼ぶに余りあるものであった。
 カインやアベル、ゴードン、ジョルジュ、トーマスらを中心とした主戦論を唱える部将らも、この休戦には賛成だった。つまりは解放軍の誰もが、ルーシが献策した休戦を喜んだのである。
 正式な休戦は明日からだったが、事実上今宵からということになる。哨兵が日没直前に烽火を上げ、約定通りグルニア軍に伝達。程なく、敵陣からも烽火が上がった。位置を確かめる篝火を焚く作業をして、哨兵も任を解いた。
 日が暮れても、その夜はなかなか気温が下がらず、熱帯夜となった。
 誰しもが甲冑を脱ぎ捨て軽装となり、緊張の糸をほぐした途端、疲れ切って休む者、あるいはマルスが近郊の村落などから輜重隊に手配させていた麦酒などを片手に呷りながら談笑する者など様々だった。それこそ、夜襲や奇襲、早暁開戦の心配もない久々の休日前夜は、無防備で単身、身体を大の字にして横臥っても安心なのである。
 かのマルスさえも、タリス王女シーダとよもや恋人同士の如く隣に並び、向き合いながら笑っている。解放軍の元帥とは思えない、年相応の一個の少年と、少女の姿が、そこにある。
「あの方は確か……」
 ミネルバと葡萄酒を酌み交わしていたカチュアに、その様子が映った。
「ああ。タリスのシーダ王女だ」
 何となく、ばつが悪そうにミネルバが言う。
「そう……ですか――――」
 視線を逸らし、グラスを一気に呷った。
「折角の休戦だ。戦いのことは忘れて、飲もう、カチュア。どうだ?」
「はい。いただきます」
 何故か、再び視線をそちらに向けたいとは思わなかった。そうしたい気を紛らわすかのように、呷り続けた。

 解放軍の将兵らが、各々自由な時間を満喫していたとき、誰もいない大幕舎にはほんのりと明かりが灯り、麻の襯衣に綿の袴という、一見農作業でもせんばかりの薄着の格好をした青年がただ一人、行軍図やら軍需物資などの書類に目を通していた。誰なん、ルーシ・カーリンである。
 そこへ、さらさらな緑髪をたなびかせた長身痩躯の士官が口許に笑みを浮かべながら入ってきた。
「よう、参謀殿」
「ああ……アベルさん」
 アベル・シェザード。アリティアの旋翹将軍を務め、連合解放軍の左翼中将を兼務する、マルス蹶起以来の股肱の臣。沈着にして勇武の才に優れ、カイン・フォレストと双璧を成す忠勇の将として、ジェイガンやアランらの信望が厚い人物だ。
「みんなはとっくに、あんたが決めてくれた休日を楽しんでいるってーのに、あんたはなんだ? こんなところで一人籠もってお勉強か? まあ、がんばり屋だな」
 皮肉たらたらに言うアベルにルーシは苦笑した。
「私は新参者。しかも、将軍のように刀剣を握り戦場に出たことがありません。そんな私を、参謀などという重職に置いて下さり、盟主にはいかなる感謝の言葉さえも足りないくらいです」
「何を言う。あんたはもう、俺たちに取っちゃ欠かせない存在だ。どれほど助けられてきたかわからない。この休戦も……」
「浅学菲才の身ですが、浅知恵だけが取り柄ゆえに」
 くくくと自嘲するルーシ。
「茶化すなってルーシ参謀。休戦の立役者がこんなところにいて、示しつくのかって、言ってるんだよ」
 アベルの言葉は本気だった。ルーシも、自嘲をやめ、穏やかな表情で行軍図に目を落とす。
「……この休日の間、私は更に我が軍や敵軍の知識を取り込み、ドルーア帝国に打ち勝つ策を練らねばなりません。これは、敵方もおそらくカミュ大将軍がご自身一人でされているでしょう。我が軍においてはその役目、このルーシ・カーリンでなければなりません」
「ほう。大した自信と熱心なことだ、敬服するぜ。……俺なんか休みもらったって、何もすることはねえ。やることはと言ったら、カインやらと槍や剣の突き合い程度なものだ」
 やや乱暴に椅子に腰掛けるアベル。
「あなたやカイン将軍は、盟主蹶起以来、堅き両輪として盟主を支え、ドルーア帝国追討という嶮岨な山の頂を目指し、連戦を重ねてこられました。両輪の一つでも欠ければ、道は進めず、寧ろ方角を失い断崖から奈落へと墜ちてしまうでしょう。ゆえに、あなたも例に違わず、この三日の間、存分に身体をお休め下さい」
 ルーシの言葉に苦笑するアベル。
「褒めすぎだな。悪い気分はしないが、背中が痒くてしゃあねえ。……まあ、だからって寝てばかりいると、身体が鈍ってしまう気がしてね。過ごし方は……やっぱりカインの奴とも相談してから考えようかと思ってるよ」
「そうですね……」
 行軍図の上で顔全体を動かしながら、微笑むルーシ。
「おお、そう言えば」
 アベルはわざとらしくそう切り出し、手を打ち鳴らして身を乗り出す。
「あんたはどこにいたかはわからねえが、聞いているか?」
「行水をしてからはここに……何かありましたか?」
 羽ペンをインクに浸しながら耳を傾けるルーシ。
「夕方に“カチュア”とかっていう、マケドニアのペガサス乗りが迎えられたそうだ」
 その言葉に反応し、ルーシのこめかみがぴくりとし、行軍図に線を引いていた羽ペンの動きが止まる。
「ほう……それは――――」
「カチュアって、確かワーレン解放直後に、ミネルバ王女の使いとしてやって来た女だろ。カインから聞いてるぜ、あんたが問答無用で斬り殺そうとしたってこととか、身包み剥いだって話――――」
 微笑みから一転、ルーシは羽ペンを置き、行軍図をずらして机上に肘を置き、両手で額を押さえ、深い溜息をついた。
「古来より前使を発せずに正使を遣わす事には、疑いを以て対処するのが常です。いかなる場合にあっても、使臣と称しての“刺客”であるという可能性を考えれば、私の判断並びに行動は間違っていないと思っております」
 正論だ。アベルもそれくらいは判っている。だが、アベルはルーシの正論には答えず、口の端に笑みを浮かべたまま言った。
「そんなことは参謀たるあんたの判断だ。誰も間違っているなんて思ってねえよ。たださ、あのカチュアって女、あんた以前から知ってんじゃないのかって思ってな」
 愕然とするルーシ。その表情には明らかに動揺と戸惑いの色に包まれている。
「まさか。私はワーレン生まれのワーレン育ちです。マケドニアの人間に知り合いなどいません」
「ふーん、そうか。……まあ、知らないってんなら、いいけどさ。深く追及なんてしないよ。それよりも、せっかくの“休日”なんだ。あんたも程々にして休みなよ。ぶっ倒れられたり、勝手に煮詰まってパニックになられたり、一人でどこかに行かれちゃあ、みんなが心配するからな」
 アベルは勢い良く立ち上がると右手を小さく振って陣を出ていった。
「…………ふう…………」
 ルーシは一つ大きなため息をつく。何故か、それから行軍図はもとより、軍需関係の資料書類が全く目に入らなかったのだ。
「全くアベル将軍は――――今日はここまでだな」
 拡げたものを仕舞い、文具を片づけてから、ルーシはそっと大幕舎を出た。何故か、周囲に気を配る。
「お、ルーシ参謀じゃないですか」
 突然陽気な声を掛けられ、驚いてしまうルーシ。
「カシムか。呑んでいるようだな」
 この一見凡庸懦弱そうな青年は狩猟兵(ハンター)大尉、カッシーム・ラザーク、通称・カシムである。
「はい。カーライル隊長に付きあっておりまして」
「オグマ将軍に――――それはよい。君も気を大きく持つよう、オグマ殿の指導を受けられた方がよいかもな」
「か、からかわないで下さいよおっっと」
 足許がふらつくカシム。
「呑み過ぎるなよ、二日酔いは毒だ」
 そう言って去ろうとしたルーシを呼び止めるカシム。
「そうだった、そうだった。忘れるところでした。大公殿下のところに聖上が。ルーシ参謀、あなたを見かけたら呼んで欲しいと」
「こら、カシム。いかに酔余とはいえ、聖上の意向を忘れかけてはだめだ。臣下の分を辨えなさい」
「はっ、ははっ! す、すみませんです!」
 半ば呂律に難あるカシム。ルーシはすぐに笑い飛ばした。
「オグマ殿が待っているだろう。いいかい、呑み過ぎるなよ」
 ルーシが足を進める。その背後で繰り返されるカシムの謝罪の言葉がフェードアウトしていった。

 ニーナとハーディンが休息するオレルアン軍幕舎。その周囲は主にオレルアン軍の将兵らの殷賑さが響く。ルーシの姿に挨拶をする者もいたが、ルーシは構わずと言ったように、両手を翳して幕舎に急いでゆく。その途次だった。
 オレルアンの兵卒が囲う円陣。その中心で囃される二人のしなやかな部将の姿が、ルーシの目に入った。
 一人は紅髪長身痩躯、美貌の女竜騎士・ミネルバ。
 そして、もう一人は、やはり背が高く長身痩躯、青い髪に銀鍍の肩と胸当て、水色の薄い軍袍と言った、帰陣したばかりのような出で立ちの少女。
 大分酒精に中てられたのか、微酔いで兵卒たちの囃子に乗り、歌い踊る姿の赫き竜騎士と少女の姿に、ルーシは思わず立ち止まって魅入る。
 普段は剛毅木訥、滅多に笑わない沈勇の猛将ミネルバが、酔余に駆り鷹揚たる様相。非常に端正で精悍な美貌の彼女が、普段と雖も決して見せないくらいの、楽し気に歌い踊れば、その美しさが非常に際立つのだ。そんなミネルバの姿にルーシは、何故か照れ臭そうにはにかむ。
 そして、そんなミネルバの隣で、同じように歌い踊る少女に意識を向けると、途端に笑顔が沈む。
「カチュア……」
 そう呟いたルーシの表情には忿怒とも、慚愧とも言えない色が満ちていた。
「ん……?」
 兵卒たちが囲う円陣の中央で踊っていたミネルバが、ルーシの姿に気がついたのか、ぴたりと動きを止めてしまった。
「…………」
 ルーシは何故か顔を背け、ミネルバの声をすり抜けるようにしながら、ニーナやハーディンの待つ幕舎へ歩を早めていった。