「ルーシ・カーリンです」
穏やかな談笑が響いてくる大幕舎の前で息を整え、冷静にそう名乗ると、中からハーディンの声が返ってくる。
「待ち兼ねたぞルーシ。何をしておったのだ」
幕を潜ると、酒盃を前に笑顔を交わすニーナとハーディン、そして弓騎士ジョルジュ・ジェラード・デュ・クロワ飛翹将、ボア司祭侯らの面々。
「詮無き私事です。遅くなりましたか」
「ルーシ。こんなにのんびりと楽しくお酒を飲む夜は初めてです。お酒って、こんなに美味しいものだったからしら?」
ほんのりと顔を上気させたニーナ。口調もやや鷹揚だ。
「殷賑と人の笑顔はただの水も美酒に変えるものだとか。同士の笑い声こそが至上の旨味にしているのでしょう」
こくこくと頷くニーナ。すると横からジョルジュが盃をひと呷りして言う。
「おーい、ルーシ参謀。堅苦しい話は抜きだぜ? ここに入ってこないからな」
自分のこめかみを人差し指でつつき、笑う。
「それにしてもルーシ、こたびの休戦策はまさに奇策中の奇策よ。思いもよらなんだわ」
「滅相もありません。大公殿下が羽目をお外しになるところをルーシ、この機会に是非拝見いたしたく思います」
「まあ! そうですわハーディン。私もあなたの素顔、是非一度見てみたいものですわね、うふふふ」
酔余の勢いとはいえ、ニーナの輝くばかりの笑顔に見つめられてハーディンがやや狼狽する。
「ニーナ様までお戯れを」
しかし、気をよくしたハーディンは、ニーナが差し出した酒壺に盃を向け、注がれた酒を一気に呷った。心地良い酔いが更に駆け巡る。その勇姿に、ニーナはもとより、ジョルジュや堅物のボア司祭侯までもが拍手をする。
「おうおう、そなたたちもどんどんやってくれ、注ごうかジョルジュよ」
ハーディンが哄笑しながら酒壺を取り、席を立つ。ほろ酔いの弓騎士と司祭に酌をするなど、普段ではあり得ない光景だ。
三人が互いに飲み比べている様子を見ていたニーナが、ふとルーシに振り向いた。
「ルーシ」
「はっ、聖上」
手招きを受け、ルーシはニーナが座す席の近くに進み拝礼する。
「何か考え事があるのですか?」
「とは…」
「心、ここにあらず――――のような」
「ご明察、畏れ入ります。不肖ルーシ、何分不調法ですので、酒席に水を差しはしまいかと、案じておりました」
ルーシがそう答えると、ニーナは微かにため息をつき、暖かな眼差しでプラティナ・ブロンドの若き青年を見つめる。
「ルーシ。あなたは軍略の天才です。ヘルメス・ジョアンに自らを擬すほどの神算鬼謀の持ち主。……しかし、画竜点睛を欠くのが――――」
ニーナが言葉を留めると、ルーシは思わず顔を上げてニーナの瞳を見つめる。
「夕方、解放軍に加わったあの少女の事を考えていたのではありませんか?」
「…………!」
あきらかに動揺したのを、ニーナは見逃さない。
「やはり、そうでしたか」
「あの……畏れながら」
しかし、ニーナは二の句を継がせない。
「ルーシ、あなたは不器用ですね……」
「聖上――――?」
「たとえ軍律であったとしても、軍師の宿命であったとしても――――丸腰の少女にああしなければならなかったあなたの心中、きっと穏やかではないでしょう」
ニーナの言葉に、再び俯くルーシ。
「……でもルーシ。あなたは間違っておりません。私たち連合解放軍、マルス王子を支えてくれているあなたが人知れず背負うもの――――。私たちが背負わなければならない影を、あなたが一身に背負ってくれているのだから――――間違っていないのですよ……。むしろ、感謝をしなければならないほどです」
その言葉に、ルーシは恐懼して思わず平伏してしまう。
「ま……まあルーシ! やめて下さい、そんなつもりで言ったのでは……」
場の空気を瞬時に察し、ルーシが姿勢を正す。
「んん? どうした! 何かあったかサンボー殿」
ジョルジュがとろんとした視線でルーシの方を見る。
「あ、いえ。楽しく頂いております」
「そっか。無礼講とは言ってもな、ニーナ様に失礼があったら俺が許るさんぞ!」
ジョルジュが空になった盃を振り上げ、それを慌ててボアが押さえるという形。ニーナが遇うと、再びルーシに意識を向けた。
「ルーシ。今はこのアカネイアは戦役の最中。あの少女も相応の覚悟がなければ、軍人とはなっていないでしょう。……ですから、あなたから受けたことを恨んだり、屈辱に思うなどと言うことはないと思うのです」
「…………」
俯くルーシに、ニーナは卓から盃を取り、ルーシに向けた。
「畏れ入ります、聖上」
ルーシが慌てるようにニーナの盃を受ける。
口をつける程度に唇に運び、拝した。
「でも、あなたがそんなに気に病むというのならば、あの少女に一言、お詫びをしてみればどうかしら?」
ニーナがにこりと笑う。
「はっ……お詫び……ですか」
「そう。あの時はごめんなさい――――って」
ウィンクを交えて戯けた感じに、ニーナはアドバイスをした。
「ぜ……善処いたします」
戸惑うルーシ。盃に注がれた酒の苦さに、思わず顔をしかめた。
「うふふ。本当、あなたは不器用……私も――――」
語尾がかすれて聞き取れなかった。ニーナは少しの間、瞼を下ろし、何かを考えている様子だった。ルーシはそんなニーナを忖度することを憚り、盃をぐいと呷った。全く慣れぬ熱い液体が食堂を下り、胃袋を灼きつける。
「おおルーシ、そなたいける口だな。隠すとは水くさい。俺の盃を受けて頂こうか!」
それを見ていたハーディンに捕まった。ルーシはハーディンとジョルジュの渦中に巻き込まれて、しばらくの間、乾杯の嵐に巻き込まれてしまっていた。
どのくらい呑まされたであろうか。ハーディンが突っ伏し、ジョルジュもフェードアウトしてやっと解放されたとはいえ、すっかりと視界が上下前後左右に回転している。
それも機略といえば言い過ぎかも知れないが、ルーシは大量に飲むフリをしてそれほどは呑んではいなかった。酩酊の下手糞な演技も、酣楽の中にあっては誰も訝しむこともない。
しかし、それでも普段はほとんど飲まない酒精をだいぶ与った。辛うじて意識を保てる程度に野営を歩く。いや、歩くと言うよりも、余程酷い千鳥足に近かった。
三日間の休戦期間ということもあって、陣営のあちこちでは夜通しの宴会が繰り広げられている。その喧噪、酣楽はつらい戦いを乗り越えてきた軍卒たちへの何よりの褒美だ。
グラグラする意識の中でも、ルーシは末端の兵士までもが酒肴に微笑む様子に満足の笑みを浮かべた。
(参謀殿、足下やばくないですか!)
(わわっ、参謀殿ふらついてますって!)
殷賑の中でも、兵士たちはルーシの姿を見ると皆このように声を掛けてくる。
「大事ない。私のことは良いから、思う存分楽しみなさい」
そう言って、介抱を拒んでいた。
「ん……? ルーシか」
あらぬ方角に千鳥足を向け、その体勢を平静に取り繕うとしているプラティナブロンドの髪の青年。そんな様子を不安な面持ちで等距離を保ちながらついて行く数人の兵士の構図に、ミネルバは奇妙な可笑しさを感じ、兵士たちを呼び止めた。
「何をしている、お前たち」
ミネルバが声を掛けると、兵士たちははっとなって足を止め、振り返る。
「ミネルバ様。ああ良かった!」
兵士の一人がミネルバの顔を見た瞬間、安堵の声を上げる。
「ん? 何が良かったのだ」
「参謀殿のことです。ご覧の通りで……」
「宿営に戻られるよう説得をしても、構うなの一点張りで」
「足取りがおぼつかないので、そういう訳にもいきませんから……困っていたのです」
兵士たちの困惑ぶりにミネルバはルーシを見て目を細める。
互いに顔を見合わせて首を傾げる兵士たちに、ミネルバは言った。
「わかった。ここは私がルーシ参謀をあしらおう。そなたたちは戻って続けるがよい」
すると兵士たちはぱあっとあからさまに表情が明るくなり、ミネルバに低頭した。
「ありがとうございます、ミネルバ様」
言うが早いか、兵士たちは高所から撒けた水のようにさっと引いてゆく。
ルーシは発条の切れた人形のように立ち止まると、やがてその場にどすんと腰を落としてしまった。
「おい、ルーシ!」
慌ててミネルバがルーシを背後から支える。
「どこでそんなに飲んだのだ。ふらふらじゃないか」
ミネルバの声に、ルーシは昂揚した酔客よろしく高らかに笑いながら言う。
「茫茫たる宙に一条の孛星ありて常闇の普天を貫く」
「お、おい……」
ルーシがミネルバに抱きかかえられていることに気づかず、腕を天に突き上げて詩を吟じ始めた。
「八紘、大いに渾沌たりて天辰なお道を決(さだ)めず、地竜南峺にあり大地四海を震撼す――――」
「ルーシッ、私には意味が分からんぞ。こんなところで詩を詠むな」
ミネルバが叱責をすると、ルーシは一瞬、言葉を留めたが、手を振る仕草をして酔余に笑いながら続ける。
「万象の神は光王を、森羅の旻天に高祖を遣わして南峺を克く戡ち得たり」
するとルーシは今度はふらりと立ち上がろうとする。そして、ミネルバに支えられながら立ち上がったルーシがひときわ声を張り上げた。
「開闢千歳の英雄、三雄あるぞかし。光王高祖が裔、治天の将軍は黒衣侯――――」
ルーシが高く笑い声を上げて、やっと吟じるのを止めた。
「……先ほどから背中を支えて頂いているのは誰か。ロシェ殿か」
そう言って徐に振り向くルーシ。そして、呆れたように、それでも優しく微笑みながら見つめている紅髪の美しい竜騎士に、愕然と戸惑いで目が泳ぐ。
「こ、これはミネルバさま……し、失礼を」
身を離し、姿勢を正そうとするもぐらぐらする意識の中で、まともに立っていられるはずがない。すぐにふらつき、再びミネルバに抱きとめられる格好となってしまった。
「無理をするなルーシ。少し酔いが過ぎているようだからな」
「ははは……、大公殿下と飛翹将に捕まっていましたから――――」
「ハーディンとジョルジュか。それはとんだ災難であったな」
ルーシはわずかに身を離し、一縷の冷静さに意識を集中させてミネルバに向く。ぐらりと倒れないように、ミネルバの手はルーシの腋を支えている。
「それにしても、ミネルバさまは何故このようなところに……。先ほど、カチュアと共にあられたところを宴席にてお見かけしたのですが」
すると、ミネルバは急に顔を赤くして、僅かに眉を顰める。
「それは私の台詞だルーシ。ここを進めばどこに行くと思っているのだ」
「……?」
「そなたのせいで、女たちの悲鳴など聞きたくはないぞ」
その言葉に、ルーシはすぐに察したのか、更に瞳が泳ぐ。
「私はこれからカチュアたちのところへ戻るところだったのだがな」
「そ、それは大変です! ミネルバ様、私はもう大丈夫ですので、どうかお戻りを」
呂律を必死で整おうとするルーシ。ミネルバは聞こえるようにあからさまなため息をつくと、まるで手の焼ける弟を遇うかのように、今度は腕を腋に抱える。
黒のタンク・トップのためか、ミネルバの素肌の腋に、ルーシの腕が密着する。その上、小さくはないが形の良い膨らみにも当たり、その熱く滑らかな感触に、ルーシは更に混乱してしまいそうだった。
「何を言う。そなたのその様子を見て、放っておけるはずがないだろう」
ぐいと腕に力を込めるミネルバ。
「畏れ入ります……」
ルーシが小声でそう言うと、ミネルバは諦めたかのように肩を揺らし、歩くように促した。
宿営に向かう途次、ルーシは訊ねた。
「ミネルバさまに取り上げられた袍衣ですが……」
「と、取り上げたなどとは人聞きが悪い。きちんと洗って乾かしている。感謝致せ、ルーシ」
「それは……ミネルバさまが御自ら――――」
するとミネルバは動揺したかのように声を一瞬、上擦らせる。
「馬鹿を申せ。私は衛生兵に届けてやっただけだ。私がするはずがないだろう」
「道理ですね。赫き竜騎士が一兵卒の衣を洗うなど、想像がつきませぬゆえ」
「…………」
笑いながらのルーシの言葉に一瞬、反応をなくすミネルバ。
「当たり前だろう、そのようなこと」
何故かミネルバは、そっぽを向いて顔を赤くする。
ルーシが在する宿営の周囲でも、数人のグループ同士で静かな宴が張られていた。
ミネルバの姿に姿勢を正そうとする兵士たちを手をかざして止める。兵士たちは抱えられるように戻ってきたルーシの姿を興味津々と眺め、何かの話題の種でも得たのか、再び宴の談笑に戻っていった。
宿営の中に入った瞬間、ルーシは破毀された古書で誂えた敷布にどっと倒れる。
「やはり、私にはこの紙の匂いが落ち着きます」
「本の虫か」
「然に非ずですよミネルバさま。本好きならば、古書を背に敷き、寝たりなどは致しません」
「それは魔道隊が使い古した魔道書の欠片であろう」
「ご明察です。ただ焚くのは愚の骨頂。こうして一枚の敷布にすれば、どのような厳寒の山岳にあっての野営も凌ぐことが出来ます」
「ほう。たかが本のクズがそれほど暖かいのか」
「試されてみますか、ミネルバさま」
「野営では毛布の類いも殆ど使わぬからな。ふふ……そうだな。今度試させてもらうとするかな」
「ええ、是非お勧めいたします」
そう話し終えると、ルーシはその敷布に顔を埋めて欠伸をし、再び仰向けになった。
「……それにしても、そなたは相も変わらず奇計を編み出すものだな」
「休戦協定ですか。ははっ、それはカミュ大将軍も思いを一にしていたこと。ただ、それだけのことです」
「いや……そのカミュの思いを的確に推量していたそなたの眼力の鋭さが凄いと思ったのだ。解放軍の将士誰もが思いもよらなかったことだろう」
「お褒めに与り、恐縮です。参謀たるもの、兵の損失を最少に押しとどめ如何にして戦を有利に運ぶか。あるいは戦わずして勝ちうるのは善の中の善なりと――――」
「そうだな……本当にそなたは天下の奇才だ」
「そして……私は常に……ミシェ……イル王……」
言いかけて急激に眠りに落ちていくルーシ。ミネルバははっとなってルーシの傍に身を寄せる。
「ミシェイル……? 兄上を――――ルーシ、ルー……」
もはや深い眠りに陥ってしまったルーシが再び、起きることはなかった。
ミネルバはそっと手のひらでルーシのプラティナ・ブロンドの前髪をひとつ梳くと、ゆっくりと立ち上がる。
「そなたの心に――――いつも助けられてきたのだな……今も、そしてこれからも――――」
ルーシが昏睡した宿営を出たミネルバは、そのままカチュアたちが宴を張っている場所へと戻った。
「ミネルバ様、遅かったですね」
「すまない。他の将卒の盃を受けていてな」
何故か、嘘をついてしまった。
「ミネルバ様は古今無双の竜騎士と言うだけではなく、美しくて気高くて、それでいてお優しい。解放軍将兵の憧憬の的、なんだそうです」
カチュアもまた、ルーシと同じように少しばかり酒が鷹揚にさせているようだった。
「それにしても、合流した日に休戦協定なんて、タイミングが良かったですね」
相伴に与っていたジュリアンが言う。
「砂漠の中にオアシスを見つけたって感じね。思いっ切り、だらけられる――――なんてね」
カチュアが冗談交じりにそう言い、盃を呷ると同時に将兵のどよめきが起こった。
「街がないから本当の意味で身体を休めるだけの休戦だから、それで良いと思うな」
カチュアの背中から声が聞こえ、瞬間カチュアの動きが止まった。
「ああ、そのまま続けて、構わないから、うん――――ありがとう」
カチュアが振り向こうとしたその時、声の主・マルスがその輪の中に飛び入り参加してきたのだ。
「マルス殿、陣中見舞か」
ミネルバが早速盃を差し出すと、マルスは笑顔でそれを受けた。
「御酒は苦手ですが、この三日は特別でしょう。僕も、少しだけ相伴に与ります」
「カインかアベルに勧められたと思ったのですが」
ミネルバの推測に、マルスは苦笑気味に盃を口につけた。
「正直、間違ってはいません」
そう返すマルスと笑い合うミネルバ。
そして、マルスは凝り固まっているカチュアと、そんな様子を不思議そうに見つめているジュリアンを見ながら、酒壺を取った。
「カチュア、改めてよろしく」
微笑みながら酒壺を傾けるマルスだったが、カチュアは少しの間惘然としてしまった。
「カチュアさん!」
ジュリアンに肩を揺すられ、やっと意識を回復したカチュアは、みるみるうちに顔を真っ赤に染めて、思わず盃を落としてしまう。
「あっ……す、すみまひぇん!」
慌てて盃を拾おうと狼狽するカチュア。ジュリアンが長嘆しながら新しい盃を取ってカチュアに取らせる。
「あ、ありがとう。えーっと……」
「ジュリアン。ジュリアン・リベールだよ。一応、憶えておいて」
激しく目が泳ぐこの少女に、ジュリアンは投げやりにそう名乗り、マルスと顔を合わせて苦笑し合った。
「それじゃ、改めてカチュア。これからよろしく」
「あ、は、は、はい!」
盃を両手で仰々しく持ち、マルスからの酌を受けるカチュア。
「マルス様も」
ジュリアンが気を利かせて酒壺を取り、マルスに盃を取らせて注ぐ。
「乾杯、だね」
まともにマルスを見ることが出来ないでいるカチュアが、ただこくんと何度も頷き、差し出した格好のままの盃に、マルスが盃を合わせ、口に含む。
「そんなに緊張しなくても良いよ。ざっくばらんに、仲間なんだから」
マルスはどうやら、カチュアが固くなっているのは盟主としての自分に対する、過大な緊張感から来ているものだと思っていたようだ。
「…………」
ジュリアンは兵卒からの盃を受けているミネルバの方を見た。ミネルバは小さく微笑みを返し、ジュリアンもその空気を察した。
「マルス様、親睦は大切ですぜ」
そう言ってその場を立ち、少し離れたミネルバのそばへ腰を落とす。笑顔で互いに盃を交わす、マケドニアの王女と盗賊の青年。この雰囲気が成せる奇跡だろう。
カチュアの隣に腰を落としたマルス。彼女が極度の緊張からやっと慣れてきたのは、結構な時間が掛かった。マルスが話しかけ、心ならずも仏頂面もしてしまったカチュアだったが、冗談も交えながら気さくな口調で話してくれるマルスのおかげで、気がつけば力がすうっと抜けていた。
「マルス様には、本当に感謝しております」
「困っている人を助けるのは道理です。それより、君も無事で何よりだ」
「わ、私など一介の兵にしか過ぎないのに……」
顔を更に赤くするカチュアに、マルスは屈託無い笑顔を向ける。
「たとえ一兵卒でも、解放軍として僕と共に戦ってくれるならば皆同志だ。同志に、国王も兵士もないと、僕は思う」
「そ、そうですか……」
俯くカチュアの顔をのぞき込むマルス。するとカチュアは激しく動揺し、まるで亀のように肩をすぼめてしまう。
笑いながら姿勢を元に戻すマルス。
「よく甘い奴だって咎められるよ。……実際、オグマやナバールなんかは特に厳しくて――――あっ、これは内証に」
口許に人差し指を当て、周囲を見回してから目で合図をするマルス。その仕草に、カチュアはまた緊張が解け、反って微笑む。
「マルス様って、お優しいんですね」
カチュアがそう言うと、マルスは苦笑しながら首を振る。
「優しさと甘さってさ――――似ているようで、全く違うんだ」
「…………」
ふと、マルスが顔に影を差した。すぐに笑顔に戻ったが、カチュアは見逃さなかった。
「出来うることなら、戦で殺し合いなんてしたくはなくて……。あははっ、だから頼りないんだって、言われるんだけどね」
頭をかきながら盃を呷るマルス。カチュアは思わず酒壺を手に取り、そっと差し出した。
「ありがとう」
マルスがカチュアの盃を受ける。
「生意気を言うようですけど、戦わずして勝つことは善の中の善である……って、習ったことがあります」
「習ったことがある。そうか、カチュアは学生だったんだね」
「はい。パオラ姉さんや、妹のエストと一緒に、マケドニアの国軍士官学校に……」
「マケドニア国軍士官学校って聞いたことがある。アカネイア王立国防大学校と並ぶ名門軍事学校だ!」
マルスがぱぁっと顔を明るくする。
「あ、はい……一応、そう……みたいです」
「なるほど。優秀な訳だ。ミネルバ公の股肱の臣。私にとって、カインやアベル、ドーガのような存在だね」
「そんな……三将軍ほど私は主君の役に立っているとは思えません!」
するとマルスは笑ってカチュアを見た。
「そこは大いに自慢してもいいと思うよ。カインやアベルはそれを士気高揚に繋げているらしい」
「そうなんですか?」
「それに、主君を支えていることを自慢できることは、主君にとっても嬉しいことなんだ」
マルスがミネルバの方に視線を向ける。カチュアも向けると、ミネルバは声が聞こえていたのか、マルスの方を見ていた。そしてカチュアと目が合うと、微笑みながら頷いた。
「わかりました! これからはたくさん自慢します」
いささか昂揚なカチュアの宣言に、その場がどっと笑いに包まれる。
そして、しばらくそんな他愛のない話題が続いた。
マルスからすればきっと今日合流したばかりの自分を気遣って、こうして来てくれたのかも知れないとしても、カチュアにとってはとても嬉しかったのだ。
次の輪に行くためにマルスが盃を下ろし、立ち上がるために背を伸ばした。
そして、思い出したかのようにマルスが言った。
「カチュア。どうか、軍師のことは恨まないで欲しい」
「え……?」
「気まずい思いを抱えながら、君も軍師の指示を受けたくはないだろうし、軍師も君に気を遣わせてばかりもいかないだろうからね」
「あっ……あのことは――――」
カチュアはマルスに指摘され、殆ど裸の状態になって参謀の前に立たされたワーレンでの遣使の事を思い出した。
「軍法に反したのは私ですから、恨みなんてとんでもありません! 大丈夫です。私、全然気にしてませんから」
カチュアが笑顔を繕った。マルスはそんなカチュアの表情をしばらく見つめ、何かを自己納得させたかのように頷くと、ゆっくりと立ち上がる。
「また、話をしよう。いいかな?」
「は、はい。もちろんです。と、言うか……是非お願いします!」
かくんと上半身を使った辞儀をするカチュア。マルスは微笑みを返すと、ミネルバやジュリアンらに目配せをしてからその場を離れていった。
(うん……大丈夫――――悪いのは私……)
マルスへの想いと共に、彼から言われ、その軍師がいる事を改めて思い出したカチュアは、何度も自分にそう言い聞かせていた。
尽きることのない夜通しの宴。それでもやはり宿営にて休む将兵も多い。カチュアもまた、ジュリアンと酌み交わしているミネルバに挨拶をしてから、女性宿営の方へと戻っていった。
「マルス様……お休みなさい――――」
マルスと親しく話を出来たこと、そして軍師のこと。想いが混淆し、それでも酒精のためかすぐに深い眠りに落ちていった。