休戦の第一日目の朝が明けた。
昨夜は満天の星で埋め尽くされた空は、早暁から澄み切った晴天に包まれ、西空に濃紺に星屑のカーテン、東に青色のグラデーションが伸びてゆく。
太陽が稜線を焼き、間もなく姿を見せ、グラ平野を照らす頃には、既に真夏の暑さを漂わせていた。
夜通しで宴会をと意気込んでいた酒豪のグループも、さすがに早暁の美しい空を拝む頃には、すでに潰れ、爆睡の底に陥っていた。
思えば、ドルーア帝国の侵略以来、解放軍の将兵は日夜、剣戈と魔法が交錯し、生死の間で戦々恐々の日々を過ごしてきた。毎日、朝が来る度に思うことは、その日の出を拝むことが最期になるかも知れないと、覚悟を抱いて起床することなのだ。とてもではないが、清々しい朝のひととき、などという優雅な思いは露程も感じたことはないだろう。
しかし、早朝から木々の間から蝉の声がさんざめく穏やかな朝は、誰しもが忘れかけていた、暗黒戦争勃発以前の、当たり前な日常の、当たり前なひとときがよみがえるようだった。
光紀聖上ニーナ、盟主マルスを支える解放軍の勇将たちも、そんな久しぶりの安眠を貪っているようで、静かに寝息を立てる者もいれば、大鼾をかく者もいる。共通しているのは、どこも酒精の匂いが漂っていると言うことだろう。おのおのの宿営で起きたら、すぐに換気をしなければとてもではないが居た堪れない。
だが、そんなことよりも皆、この休日ばかりは何の気兼ねもなく、好きなことが出来ると思えばこそ、ただ、眠りたいのだろう。惰眠を貪ると言う言葉も、この休日ばかりは許されても良いだろう。
「う……うーん……いたた」
ルーシは首根の痛さに目覚めた。魔道書の屑で誂えた敷布にうつ伏せになっていたためか、変な寝相となって寝違えたように思った。
昨夜は大幕舎に赴き、ニーナと会話をし、それからハーディンやジョルジュの勧めにつき合っていたと言うところまでは憶えている。だが、その後のことは杳としてうろ覚えだ。ミネルバに会ったような気もするが、深い眠りと浅い夢の狭間に浮浪しているような感覚の中で、いつしか眠りについていたのだろう。朝蝉の声と、首根の痛さでふと意識が覚めたとき、あまりの静けさに一瞬、驚いてしまった。
「ああ……休戦だったか――――んん、痛い……」
飲み過ぎたせいもあったのか、頭も痛かった。
機略を弄してハーディンたちの勧めを軽減させていたとはいえ、普段飲まないルーシにとって、あの酒量はさすがに応える。
頭の痛さと寝惚けた意識に、瞼をこすり、ふうとやや酒臭いため息をつく。
だが、時折頬を撫でて行く一条の涼しい川風を感じながら背伸びをすると、これが平和なのかという思いが脳裏を過ぎる。
こんな時代だからこそ、そんなことが改めて実感してしまう。
出廬以来、肌身離さなかった剣も、今日から三日間は佩く必要もない。ルーシは、癖で剣を探していた手を引っ込めて、照れ笑いを浮かべる。
ずきずきとする頭を別に、腰の軽さにやや違和感を覚えながら表に出ると、朝の眩しい陽射しが、ルーシの目許を掠めた。朝からこの様子だと、昼下がりはきっと猛烈な暑さになるだろう。
まだ誰も起きていない、宴の終えた宿営あたりを歩いていると、至る処で、無防備な格好で寝入っている将兵の姿、酒樽の散乱が目に入る。
「片付けを指示しておかねばな」
ルーシが苦笑しながら見回る。いかに自由とはいえ、宴の後始末というのは大事だ。
そして、女性陣の宿営の場へと歩を進めるルーシに、風に運ばれて良い匂いが鼻を掠めた。
そして、同時に朝の清らかな空気によく似合う、澄んだ鈴の音のような声が、ルーシに向けられる。
「おはよう、ルーシさん」
呼ぶ声に、ルーシは振り返り、同時に差し込んだ朝陽に思わず目を細める。
「これはシーダ様でしたか。おはようございます」
眩みがおさまった視界に映ったのは、盾を並べた台に板を敷き、それを調理台にして肉や野菜などの食材を並べ、なんとエプロン姿で包丁を握り、それらを捌いている、タリスの王女シーダ姫だった。
ルーシはゆっくりと拝礼する。
「えーっと。ルーシ、私もいるんですけど!」
シーダの背後からひょこっとやや拗ねた顔を見せたのは、ミネルバの妹・マリア。肩まで伸びた紅髪にカチューシャがチャームポイントの美少女シスターである。
ルーシはにこりと微笑みながら拝礼する。
「マリア様。おはようございます。気づいておりましたよ」
「ホントかなぁ」
怪訝そうにルーシをジト目で睨むマリア。苦笑いを浮かべるシーダ。
「お早いですね、ルーシさん」
「シーダ様たちこそ、こんなに早く起きられて……なんと、御自ら朝食の仕込みを、ですか」
「ええ、たまには私たちも作ってみようかな……なんて。昨夜、マリアと話をしていたのです」
そう言ってマリアと目を見合わせ、にこりと笑う。
「シーダ様にお野菜とか、お魚を切ってもらって、私がお鍋に掛ける。そんな感じ?」
マリアが小さな胸をえっへんという風に張る。
「最初は私が一人でやろうかなって思っていたんですけど、マリアもやってみたいって張り切られたので、お手伝いを頼んじゃいました」
そう言いながら形のいい唇から舌を覗かせておどけるシーダ。
「お二方の手料理ですか。それは、それは楽しみです」
「ルーシに絶対に美味いって言わせるから!」
マリアが何故か挑戦的だ。
「おやおや、マリア様。出来ましたらば、いの一番にマルス様へ運ばれましょうに」
「そ、それはそうですけど、その次にルーシに食べてもらいます」
マリアが頬に朱を差し、僅かに狼狽する。
「では、マリア様のお品、このルーシも是非、ご相伴に与りましょう」
ルーシの言葉に、マリアは嬉しさを一瞬表しかけ、慌てて背を向ける。
「楽しみにしていて下さいね」
そう言って、焚火に掛けていた鍋への作業に戻るマリア。
「あまり自信はないのですが……」
シーダがはにかむと、ルーシは微笑み、言った。
「そう言えば盟……いや、マルス様から伺ったことがありますよ。タリスに雌伏されていたとき、シーダ様の手料理を召し上がるときが、一番安心できたときだと」
その言葉に、シーダの頬があからさまに紅く染まってゆく。
「やだ……マルス様ったら、そんなことおっしゃっていたんですか?」
「はははは。マルス様が安心できた手料理、この私もご相伴に与りたく思います」
「も、もちろんです! あ……えっと、もうしばらく待ってて下さいね。みんなの分も作らないといけないから……」
シーダは腕まくりをしてから再び食材に包丁を入れる。
「はははっ……うっ……つ……」
声を上げて笑った瞬間、頭痛が走った。思わず、頭を押さえてしまう。驚いて包丁を握る手を止めるシーダ。
「ルーシさんっ。もしかして……」
「お察しの通り、どうやら二日酔いのようで――――」
するとシーダは何故か微笑みながらマリアの方を振り返る。
「マリア」
すると、マリアはすぐに湯気の立つ鍋からレードルで木椀に盛ると、得意そうに振り返り、ルーシにそれを差し出した。
「ルーシが最初のお客さんね」
マリアがそう言って無邪気に笑う。素直で、とてもいい子だ。
ルーシは湯気が立つ木椀を受け取り、磯の香りを吸い込んだ。
「ありがとうございます。……これは?」
「コルビコラの磯汁です。タリスでは船乗りの料理で、よく酔い醒ましに食するのだとか」
シーダが説明する。海洋王国タリスでは、主産業の漁業に従事する男たちが操業を終えた後に催す宴会。海の男は皆大酒飲みで、宿酔は日常茶飯事だという。コルビコラの貝は酒精を中和する効があるという食材で、古くから伝わる伝統料理なのだという。
「なんと! タリスの郷土料理とは」
ルーシは香りに惹かれて、早速汁を啜る。すると、口中に残っていた酒精をさっぱりと洗い流すような爽やかな熱さと塩味が、じわりと食道を通過してゆく。
「これは美味い!」
ルーシが思わず、熱さを忘れ、身体が欲するように、その磯汁をぐいと呑み込んだ。
「二日酔いのみんなのためにって、シーダ様が近くの漁師さんからいただいていたのですって」
マリアが言うと、ルーシは感嘆する。
「シーダ様、これは皆喜びましょう! いや、何よりの特効薬です」
するとシーダが恥ずかしそうに顔をそらす。
「そうでしょうか。うふふ、それならば、すごく嬉しいです」
「私も、シーダ様に負けない料理を作ってみせます!」
「マリア様も相当に自信がおありですね」
「そうですよ。こう見えても、シスターの端くれですから。国でも、ミネルバ姉様や、ミシェイル兄様にも褒められたものです」
「……それは重畳です」
ルーシは一瞬、躊躇った。シーダも少しばかり気に留めた。だが、マリアはさほど意識をしていなかったようである。
「シーダ様。時にマルス様は何処に?」
ルーシが意図的に話題を変えた。勿論、マルスに会うつもりではあった。
「ええっと確か、昨夜はマリクやオグマから誘われて飲んでいらっしゃったはずですけど……その後みんなのところを回るっておっしゃってましたから――――」
「わかりました。ありがとうございます」
ルーシは再度拝礼する。
「朝食の時間に改めてお呼びいたしますね」
「それまで二度寝をしてきても良いんですよ、ルーシ」
「ありがとうございます。マリア様」
マリアを立ててから、ルーシはそこを離れた。
それからシーダは鼻歌まじりで包丁を裁いていた。
彼女がマルスを慕っていることは公然たる事実である。たとえどんなに不機嫌なときでも、マルスの名を出せば、たちまち機嫌が直るという程だという。
マリアも、ディール要塞でマルスに救われた瞬間、隠すことなく抱きつき、マルスへの想いを表現してきている。紛れもない一目惚れではないかという話が聞こえ、本人もその人柄ゆえか、あまり隠そうともしない。一方で、肝心のマルスはというと、この可憐なマケドニアの第二王女を、まるで妹のようにしか見えていないという重大な欠陥がある事は、まだ誰も気がついていないようでもある。シーダはどう思っているのかはよく分からない。
さて、ルーシがシーダの磯汁を最初に味わい、踵を返した時は、起きてから少し時間が経っていた。西空もすっかりと朝の青空に変わり、世界が陽光に包まれていた。
幾重にも連なった解放軍の宿営。それでもいまだ誰も起きてくる気配はない。明るいほど、昨夜のドンチャン騒ぎの痕跡が、天幕の周辺に散乱しているのが目立つ。磯汁で加速した酔い醒ましに、ルーシはもう一度、宿営を回ることにした。
ある開け放たれた天幕の中からは、外にまで鼾が響く。
中を覗くと腹を丸出しにしたマティス・カスティン。ジュリアンと彼の舎弟リカード・バックレーが、互いの腕を枕にしながら川の字になって熟睡していた。
シスター、レナ・カスティンの兄と、レナを慕うジュリアン。
ジュリアンはミネルバとの雑談を終えた後宿営に戻り、おそらくまたマチスとレナについて、はたまた女性についてや恋愛について、各々の境遇について酒の肴となし、だいぶ遅くまで語り合っていたのだろうか。
リカードは多分、この二人に無理やりつき合わされた感がする。マチスとジュリアンの鼾の合唱。なかなか寝付けなかったであろう、リカード哀れ。
さすがに女性将兵たちが屯する天幕は厳重に閉じられている。
平和な世であれば、あたら青春の盛りを血生臭い戦場に身を置くこともないのだ。
三人寄ればかしましいとは言うが、昨夜は皆、おのが使命は口にせず、戦後将来の夢やら、現在進行形、あるいは過去の恋の話など、ファッションや流行などについて、尽きない話題を弾ませたことであろう。
見回りながら、ルーシは盟主マルスを捜していた。
休戦のひとときを軍議などという公務でつぶすなどという野暮な用件ではない。この三日の休戦後の戦略を簡単に打ち合わせるためである。そして何よりも指令を下す最優先事項は、宴会の後片付けだろう。今日明日と続くのならば、そこのところはきちんとさせておく必要がある。どんな場合でも、行き過ぎた弛緩はダメだ。
「……やぁっ……やぁっ……」
連なる天幕の間を歩いてゆくと、気合いを込める声が聞こえてきた。
やっと誰かが起きたのか。ルーシは興味津々と声の方に近づき、挨拶をしようとした。
そして、ある天幕の外。少しばかり開けた草地で、一人の青年が鋼鉄の剣を振るい、鍛錬をしていた。アベルである。
「おはようございます、アベル将軍」
ルーシの声に気づき鍛錬を止め、肩に掛けたタオルで額の汗を拭うアベル。微笑みながらルーシを見る。
「これは参謀殿。お早いですね」
「こんな時でも早朝から剣の鍛錬とは。さすがは“アリティアの黒豹”と異名を取られる将軍らしい……」
その言葉にアベルは、いささか照れた感じで大笑し、剣を納める。
「買い被りすぎだ参謀殿。それに将軍はやめてくれって言ってるだろう。……はは。いや、武人というものは、一日でも剣の鍛錬を怠ると、それだけで急激に腕は落ちるものだ。鍛錬は騎士たる者の努めだと、心得ているぜ」
「あなたはまこと騎士の鑑です。しばらく周回しておりましたが、動きを見せた将士はアベル殿が初です。まことこのルーシ、敬服いたします」
アベルに対し恭しく拝礼するルーシ。かたやアベルはいきなり気恥ずかしくなったのか慌ててルーシの手をつかむ。
「おいおいよせって。そんな仰々しいことされちゃあ、背中がこそばゆくなる。俺はそんなに偉い奴じゃねえぞ」
「将士の鑑たるべきこと。そして何よりもアベル殿は恭謙にて自らを律し、哨兵に至るまで事細かい気配りが出来る方です。私は参謀ですので、思ったことしか口に致しませんよ?」
ルーシが言うと、アベルは笑う。
「それそれ。参謀殿、あんたは妙に片意地を張るところがあるよな。それで自分で自分を苦しめることも多々あるだろ」
「何を言われます。私は――――」
思わぬアベルの指摘に、ルーシは動揺してしまう。
「良いんだけどさ。それが軍師として、参謀としてあんたの長所なんだろうけど……もうちょっと、素直になりなよ。特に……女に対してはな」
「……ッ!」
アベルの最後の言葉に思わず顔を上気させて反応してしまうルーシ。その表情にアベルは頤を放った。
思わずむっとするルーシに、アベルは適当に謝った。
「……ところでアベルさん、マルス様は何処に?」
「ああ。マルス様なら昨夜はカインやオグマ殿と一緒に飲んだ後に、それぞれの宿営天幕を回っていたようだな。大幕舎に戻っていないなら、どこかの天幕でそのまま眠られているんじゃないのか?」
そう言ってアベルは場を離れ、ある天幕の中を覗いた。ルーシも後につく。
「おいマリク、起きろ」
「……う……うーん……」
アベルの声に突っ伏した格好で爆睡していたマリクは、一つ唸り声を上げて寝返りを打つ。
そこへ、天幕に足を踏み入れたアベルが、軽くマリクの頭を叩くと、アベルは寝惚けた様子で、いささか不機嫌そうに薄目を開けた。
「な……なんれすか。人が気もりよく眠っているのきに……」
「アベル・シェザードだ。マリク・アルモンド」
申し訳なさそうでもなく、反って呆れた様子でこの魔道士に名乗るアベル。
「…………?」
マリクは差し込む陽光に眩しそうに目を細めながらじっとアベルの顔を見、やがて慌てて飛び起きる。
「あ、アベルさんっす、すみませんっ、わ、私としたことが……。して、私はどこに行けば……マルス様のご命令は――――」
明らかに寝惚け、混乱している。
「そのマルス様はどこに行かれた」
「ふぇ?」
この様子だと知るはずがない。ため息をつくアベルがルーシに目配せをする。ルーシが微笑みながら言った。
「マリク、今日から三日の間は両軍とも戦はない。安心してくれ。……二日酔いのところ、起こして悪かったな」
「は……はい……?」
何が何だか解らない様子のマリク。アベルとルーシは顔を見合わせて大笑した。
その天幕にはマリクだけがいた。マルスは勿論、シーダも目撃したオグマと、アベルの親友・カインの姿も見当たらない。
「きっと別の場所で鍛錬でもされているのでしょう。捜してみます」
ルーシの言葉に、アベルはぽんと肩を叩いて言った。
「ま、参謀もいろいろ大変なんだってことはこんな俺でもよく分かっているつもりだぜ。……でも、昨夜も言ったけどさ、あんた程々にしねえと、絶対に身体壊すぜ?」
「ご忠告、ありがとうございます。ルーシ、肝に銘じておきます」
ルーシが立ち去ろうとしたとき、アベルは思いだしたように手を打ち鳴らして、ルーシを呼び止めた。
「そういや“彼女”、昨夜はどこの輪にいたっけな。ミネルバ公とマケドニアの部隊組で飲んでいたのを見た気がするが」
「ええ、私もそれは知っています」
素っ気ない返事をするルーシ。
「もしかすりゃ、マルス様はそっちの方に行っているかもよ? 訪ねてみれば良いんじゃないか? 謝りついでにでもさ」
にやりとするアベル。ルーシは苦笑いを浮かべて頭をかく。
「それを言わないで下さい。軍法とはいえ、やりすぎたと反省しているんですから……」
「まあ、とにかくさ、彼女に会ったら一応、詫びくらいはしといたほうがいいぜ。じゃねえと、このままじゃお互い居づらいと思うかも知んねえからよ」
「そう……ですね」
ニーナからも同じ忠告を受けた。しかし、ルーシの心境はなおも複雑だった。
やがて、鍋をけたたましく打ち鳴らす音が響いてくる。朝食の用意が出来たと、シーダとマリアが知らせているのだ。
いくらゆっくりとした休日の朝とはいうものの、三度の飯は当たり前に食べねばならない。
まるで質の悪い銅鑼のような音の連発に諸将たちは否応なしに起きざるを得ず、個々によって寝ぼけ眼に大欠伸、ルーシと同じ宿酔に頭を押さえながらぞろぞろと起き出してきた。
陣営の間に、長方形に木板を継ぎ重ねただけの簡単な食卓に、諸将の食事が陳列されている。
兵卒にも心配る優しい性格のシーダは、兵卒たちも同じ場で共に食そうと計らい、同じ場に食事を用意した。勿論、大軍の解放軍である。シーダとマリアだけで全ての将兵を賄えるはずもなく、彼女たちが仕込みに入った少し後に、正規の賄い兵たちが仕事に取りかかったのである。
シーダとマリアの料理に与るのは一部だとはいうものの、兵士たちはもちろん、並み居る諸将たちとも一堂に会して食事することすらままならない戦時を思えば、身分の貴賤上下にこだわり気を遣わなくても、休日くらいは一緒に食事をしたい。彼女たちの気持ちは全将兵に遍く伝わっている。それほど、彼女たち自身も信望が厚いのである。
「みなさん。あまり自信がないのですけど、一生懸命作ったつもりです。どうぞ、召し上がって下さい」
「残したら許しませんからね!」
シーダの挨拶とマリアの言葉に笑いが起きる。そして皆、待ってましたとばかりにフォークやナイフを取った。
「二日酔いの方は磯汁どうぞ」
「シーダ様ぁ、俺にも下さいぃ……頭痛くて。飲み過ぎました」
「あ、俺にも下さい!」
「俺も俺も!」
兵士がこぞってシーダの作ったコルビコラの磯汁を所望する。
「あ、たくさん作ってあるから並んで下さいね」
どうやら、大人気の様相だ。
さすがはマルス王子の墨付きであるシーダの料理。紛れもなく美味い。宮廷料理といった豪勢なものではないが、卵を中心とした質素な食事は、どこか安心感を与えてくれる。
そしてマリアの料理も負けていない。
シスターの修行の中で培われた精進物に魚肉を少しだけ加えたヘルシーなメニューは特に女性兵士たちやあまり酒に強くなく悪酔いをしてしまった者たちに人気があった。
とかく戦時中のように慌ただしく口にそそぎ込み、まともに味わうことがないことを思えば、ゆっくりと談笑しながら食べられるということは、何にもましての満足感。そして、なによりも美味しい。
諸将たちはいつもマルスべったりなシーダが意外な才能を持っていることに対して驚いているのか、一つフォークを口に運ぶたびに唸ったり、まじまじと見つめたりしている。あの沈勇なナバールでさえも、黙々とは言え、取り憑いたかのようにかぶりついているのだ。
「シーダ様は天馬を駆り、敵を討つ武人の才覚こそ一流だが、いやはや何と、お料理の腕も一流であられたとは。このジェイガン・コーエン、お見それいたしましたぞ。タリスに雌伏していた時分に是非、ご相伴に与りたかったものですな」
ジェイガンの冷やかしじみたセリフに、どっと笑いの起こる場。
「まさに。シーダ殿のこの腕を持ってすれば、ドルーア討滅後、いつでもマルス殿の后妃として上がることが出来ようぞ」
ハーディンも口一杯に頬張りながら賞賛する。
「もう、お二人ともよして下さい」
真っ赤になって肩をすぼめるシーダに、諸将のあたたかい笑いが浴びせられる。
それから少し時間が経ち、シーダやマリアも食事にありついた。そこへ皆の。特にシーダの待ち人が満を持して登場する。
「ごめん、みんな。遅くなって」
マルスはオグマ・カインと共に、皆より一足遅くやって来た。
「ちょっと向こうの丘陵地帯へ行っていたんだ」
「先にいただいていましたよ、マルス王子」
トーマスがフォークを掲げる。
「ああ、構わない」
「そりゃねーよ! マリア様はいの一番にマルス様に食べて欲しかったって仰ってたのに」
ザガロが叫ぶと場が一斉にどよめく。
「ちょ、ちょっとザガロ!」
大慌てで声を荒げるマリア。マルスはマリアを見て、ぺこりと頭を下げた。
「そうだったのか。ごめんマリア。ちょっと遅くなってしまったみたいだね」
「あ、いいんです! 全然気にしないで下さい」
マルスの言葉に、マリアは分かりやすいほどに絆される。
「それじゃ、マリアの料理からいただこうかな」
マルスがそう所望すると、マリアは満面の笑みを浮かべながら、食器に自ら誂えた料理を盛りつけてゆく。
「マルス様、お先してました
マリアの料理をトレイに載せて席に向かうと、マルスの席の隣で食事を勧めていたシーダが、わざと小さく拗ねてみせる。
「あぁ、ごめんシーダ。……君の料理も、僕にももらえるかな」
「先にマリアの料理をお召し上がり下さい。どうぞお座りを、マルス様」
まるで子供をあやすような声で席へ導く。苦笑いをしながら指示に従うマルス。
そんな二人は、傍目から見ると本当の若夫婦のようだ。丁度対面、二人を斜めに見る位置で食事に与っているミネルバの隣に座るカチュアの表情は、羨ましさを彷彿とさせていた。
一時ほどが経ち、食事を済ませた兵卒諸将は、貴重なこの時間を満喫するため、それぞれに散らばっていった。
ある者は再び臥すために宿営に戻り、ある者は剣の鍛錬を重ねるために、得手を携え広いところへ行き、ある者は慕う異性を伴い、晴れ渡る草原や、涼しいメニディ河畔の入江に向かう。
一方、赫い龍騎士ミネルバは、宿営の広場にて腹ごなしとしてマチスを相手に槍術の鍛錬に励んでいた。カチュアがその様子を見ており、ミネルバの武芸を慕う兵卒も少なからず見学している。
マチスは普段マイペースな性格をしており、泰然自若といえば聞こえは良いのだが、悪く言えば空気の読めない人物であると言うことは、妹レナも承知している。ジュリアンも彼の言動にはしばしば苛立ちを隠せない様子だ。
だが、マケドニアの名門武官カスティン家の嫡流ということもあって、それなりに槍剣には通じているのだが、しかしそれでもやはりミネルバには遠く及ばないのか、何度となく打ち合っても圧倒される。一部の兵卒から好奇の声援を受けながら、ミネルバの渾身の一撃に、マチスついに槍をはじき飛ばされ、力負けをし、地面に尻餅をついてしまった。
「ミネルバ様。ま、参りました」
「何だマチス、もう根を上げたのか?」
タンクトップ姿に肌に飛び散る汗がきらきらと輝き、えもいわれぬ色気を放っているミネルバ。どよめき、わき上がる黄色い声援。この美しく強い女将軍に憧憬の眼差しを向ける兵卒たちは、男女の区別はないのである。
「なんせまだ頭がガンガンするもんでして……」
マチスが頭を押さえながらよろよろと立ち上がると、ミネルバは息を整えながら笑う。
「何だ、シーダ殿の磯汁を飲んでもまだ治らんのか。ははは。ならば丁度良かったな。いい汗がかけたであろう」
「は、はい。そりゃあまあ……」
苦笑するマチス。ミネルバはその端正で凛々しい美貌に浮かんだ玉の汗をカチュアから受け取ったタオルで軽く拭い、カチュアを見る。
「カチュア、そう言えばパオラはいつ合流するのだ?」
「はい。おそらく、今日中にでも合流されるものと思います」
「そうか。……まあ、両軍とも休戦している。征矢の心配はないからな。悠々とやって来れるだろう。カチュア、パオラが来たら出迎えてやってくれ」
「はい、かしこまりました」
「マチス、朝の鍛錬はここまでにしておこう」
「あ、朝の鍛錬ですか?」
あからさまに嫌そうな反応。ミネルバはきっと睨む。
「何だ、私の相手をするのは嫌か?」
「い、いえ……さようなことはありません」
「ふふふ。酔いを抜いてからまた、相手をしろ。楽しみにしているぞ」
どうにも、マチスには選択肢などなさそうだった。