第11章 王女来訪

 ルディス・カーリンに対する風評は、パオラの危惧を遙かに上回るものであった。
 “稀世の大天才ルディス・カーリン”が発した王侯貴族評は、日頃からそれぞれを快く思わない者達によって言葉を改変したり、針小棒大に誇張したりと、様々な形となって詆譏となり、それがルディス・カーリンが発した言葉として流布された。
 単に“変人”というレッテルを貼られてしまったくらいならばまだ良い。ところが、言っていないことや、意図しない解釈で言葉が伝えられていると知っても、ルディスは何も対処をしようとはしなかった。
「お前、このままで良いのかよ」
 笑い話じゃ済まないという事態を察知したペトゥスが詰め寄ると、ルディスは言った。
「良いも悪いも俺の言ったことは変わらないね」
「でも、言ってないことまであんたの言葉にされてるんだよ、誤解はさ……」
 リーシャが言うとルディスは笑って答える。
「俺の言わない事まで責任を負う必要は無い。それに、全てがあながち虚構という訳では無いだろう。とやかく言うのもおかしい話だ」
「ルディス……」
 ペトゥスたちは全く意に返さないルディスの態度に互いに目を合わせて、半ば諦めのため息をついた。
 ルディス・カーリンに神経を尖らせているのは、外でもない、国軍士官上学校の上層部たちであった。
 マケドニアはもとより、宗主国アカネイアを始めとする諸国軍閥らに人材を輩出しているエリート校の生徒が、諸国王や貴族諸侯を公然と“誹謗中傷”したことに対して、相当苛立ちを隠せない様子だった。
 しかも、ルディスは稀世の天才と目下評判で、当然ながら引く手数多の人物であったからだ。
 そんなルディスが想定外の“暴走発言”をしたことが、上層部の描くプランを大きく狂わせ、また相当悩ませることになったのだ。
 結局、ルディスに関わると、自分の進級や進路に影響があるかも知れないという、根拠なきネガティブな噂が発生し、それが一人歩きしてしまい、周囲は面倒なことに巻き込まれることを怖れ、やがて誰も彼に近づこうとはしなくなっていった。
 それから十日も経たないうちに、ルディスは昼休みに国軍士官上学校の学長からの呼び出しを受けた。

 ルディスはあれからずっと、自分の心配をしてくれているリーシャと学食を共にしていた。
「ルディス――――」
 リーシャが不安の眼差しをルディスに向けると、ちょうどグラタンを平らげたばかりのルディスが、ゆっくりとフォークを置いてから言った。
「しばらく、家でゆっくりさせてもらうぜ」
 不敵と言えば語弊があるが、ニヒルな感じに微笑むと、悠然と席を立った。
 颯然と学長室に向かったルディスは、憮然としている学長や副学長などの役職方の教授たちを前に凛と立ち、堂々としていた。
「ルディス・カーリン君、何故ここに呼ばれたか――――」
 副学長が切り出すが、ルディスはすぐに言葉を挟む。
「いかが致せばよろしいですか。謹慎ですか、それとも退学ですか」
「カーリンッ!」
 教授の一人が怒号を上げると、ルディスは冷静に言う。
「僕は回り諄いことはあまり好みません。先生方の仰有りたいことは、分かっておりますゆえ、結論だけを伺いたく思います」
 その慇懃無礼な態度に、教師たちはまた怒りだす。
「君は我々を馬鹿にしているのかッ。何だ、その態度は!」
「馬鹿にしているとは心外です。このルディス、そのような浅慮で上申している訳ではありません」
 怒号を上げた教師の目を真っ直ぐに見据えてルディスは言った。
「ルディス・カーリン!」
「よろしいでしょう」
 畳みかけようとする教師を、学長が止めた。
「カーリン君、率直に言おう。君は暫く停学だ」
 学長の言葉に、ルディスは動揺する素振りをひとつも見せず、悠然と低頭する。
「君の話も理解できるが、学校は組織があってのものだ。わかるね」
 学長の言葉に、ルディスは微笑みを浮かべながら頷く。
「承知しております。ご迷惑をお掛けしました」
 ルディスが謝罪の言葉を述べると、学長達はため息を繰り返すだけで、ルディスに退出を命じた。何を言っても、ルディスの理解の及ぶところではないと思ったのだろう。
“無期限の登校停止”
 それがルディスに下された学校側の処分であった。

 前代未聞の成績トップの停学は学校中を激しく動揺させた。だが、学校側が即座に敷いた箝口令が功を奏し、尾を引く噂話とはならなかった。
 学長から通告を受けた直後に、ルディスが学校を退出する際も、生徒らによる見送りなどは自粛させられた。もとより、関わり合いになろうとする生徒は誰もいなかったのだが。
「ルディスのところに顔見せないと!」
 放課後、リーシャが勇んで身を乗り出そうとしたその腕を、ラルムが押さえた。
「やめておいた方がいいよ、リーシャ」
「なんでだよ」
「停学謹慎を受けた学生に接触することは褒められたことじゃない。自分の将来に関わることだ」
 するとニッケルも言う。
「ラルムの言う通り。ルディスが何の方策も無いまますんなり停学を受け入れたとは思えねえ。ここはあいつを信じて黙ってた方が良いと思う」
「それが一番でしょうね。ま、どうしてもというのならば、止めはしませんが」
 ペトゥスのやや突き放したような言葉に、リーシャは気勢を削がれた。
「みんな冷たいよ……。でも――――」
 そうは思いながらも、リーシャの心にもニッケルたちと同じようにブレーキが掛かっていたのを感じていた。
(ごめん……ルディス――――)
 リーシャが瞼を閉じて心で呟いた。

「…………」
 ルディスは静かな学校の門構えをひと通り見廻しながら、ふっと皮肉混じりに笑った。
「痩せ我慢――――か」
 無意識に、そんな言葉を呟いた。
 全生徒が授業に与っている最中に一人、校舎から遠離る姿。

「カーリンくん! 聞いたよぉ。どうしたの突然」
 寮長のヘルマがルディスを気遣って声を掛ける。
「魚も捌けぬ飾剣で人を殺めたようなもの……とか」
 戯けた様子で答えると、ヘルマ寮長は失笑も浮かべない。
「難しいこと言われてもわかんないけど、無茶なことはしないでくれないかね」
「留意しておきます。……あ、そうでした。いかがでしょう寮長先生。何かお手伝いを致しましょうか」
 ルディスが言うと、ヘルマ寮長は困惑の表情で首を振る。
「有難い申し出だが、宮仕えの身だからなあ」
 その言葉に、ルディスは即座に笑って返す。
「言を俟ちません。失礼致しました」
 寮長に拝礼をし、表情を伺うことなくルディスはさっさと寮内へと入ってしまった。
 帰寮してくる生徒たちの声が聞こえてくる。話題は言わずもがな、ルディス・カーリンの停学処分。首席の突然の停学は放っておいても話題性に事欠かない。残念がる者、妬む者、我関せずの者。交わされる言葉の端々にはそうした人の感情がよく表れている。
 停学などの謹慎者も、食事などは一堂に会することは可能だ。
 しかし、ルディスは他を憚り深夜に食事を摂るようにした。賄いとして詰める中年の女性は、ルディスの話を聞いて内心共感したと語り、負けないで頑張ってと言う想いを込めてルディスの分の食事を作り置きしてくれていた。
 入浴は、さすがに深夜帯は火も無いので微温くなりかけているが、入れないというわけではない。
(深夜族とは、また乙なもの)
 自嘲気味に呟いた。

 そういうくり返しが続き、二十日ばかりが過ぎた。
 なかなか処分が解けないことに対して、ルディスは疑問を抱かなかったが、随分と重い量刑であるとは感じていた。
 だが、ルディス自身はそのようなことをいちいち気にすることもせず、日がな一日をひたすら溜めていた書物を読み耽り、古の軍略書に勤しむ日々を送っていた。
 ヘルメス・ジョアンの“三陸覇録”
 ヤン・グェイウルの“六軍征圖”
 アルフォント・ジェイルの“十道記”などなど。
 いずれも古に名を馳せた知謀の士・政治家が著した書物だ。

 ルディスが事実上の逼塞状態にあったその間も、世界の情勢は着実に進み、変化を来している。
 アリティアの英雄王・アンリが討滅せしめたドルーア帝国再建の噂は、瞬く間に世界に広まり、世情の不安定さはもはや国家統制や箝口の域を超え、児戯の物種ともなっている始末。
 いつの世でも、どんな世界でもそうだが、世情が不安定になると政情が乱れ、政情が不安定になると、世情が乱れるものである。
 もとから首の皮一枚で安定を保っていたマケドニア王オズモンドと、王子ミシェイルとの仲はここに極まった。
 新興ドルーア帝国への外交方針を巡って、ついに父子の関係亀裂は決定的なものとなったのである。
 父と兄の板挟みとなっていた王女ミネルバの胸中は甚だ穏やかならず、表面化した確執を如何ともし難く、ただ見守る日々を送るしかできなかった。
「……以上か」
 マケドニア王立国軍士官上学校の定期考査とその評価裁定は、王族任官である“教文卿”ミネルヴァ・ティヴナ・アイオチュナ第一王女の仕事でもあった。
 多くの人材を裁定し、王族の目を通して優秀な人材を確保するという意味もある。
 積み上げられた生徒たち個々の書類に目を通し、決裁の印を押してゆく。正直、そんなことをしている心の余裕はないのだが、仕事ならば已むなしである。
「チェスティ姉妹は、さすがだな」
 ミネルバの言葉に教育官長が大きく頷く。
「はい。この三人はともに実力があり、まさに王佐の才。必ずや、ミネルバ様のお役に立てるものだと信じております」
 パオラ・カチュア・エストのいわゆるチェスティ家三姉妹は、頭脳もさることながら、軍事部の枢要である勇武・指揮能力の両面からもやはり際だった才覚をもって、教官・職員たちの間からもすこぶる評判が良かった。並み居る軍幹部候補の金の卵たちの中でも、すでにチェスティ家三姉妹は世に名を響かせているのだ。
 ミネルバは心なしかそわついていた。すでに麾下に入ることが確約されているチェスティ家三姉妹のことを、今いちいち取り上げることでもない。
 正直、教育官長の自慢話は耳に届かない様子だった。それは、彼女の最大の目的が、別のところにあったからである。
「受講の様子を見ても良いか」
「勿論でございます」
 一瞬、驚いた様子の教育官長だったが、戸惑うこと無く了承した。それは、王女が事前の要請も無いまま視察を行うことは異例のことだったからだ。
 そしてミネルバの要請で、急遽ミネルバの視察が行われることになった。

「あっ――――! ミ……ミネルバさまッ!」
 ミネルバの姿を最初に見つけた軍事部の女生徒の歓声がきっかけで一気に来訪の話が広まった。
 学徒たちは英雄の誉れ高き士官学校の先輩にしてマケドニア第一王女の姿に狂喜乱舞し、将来はその下につきたいと欲し、己をアピールする。
「イェンロンと言います! 軍事部弓騎科十二番です」
「ああ、頑張ってくれ」
「シェムニー・ライアです! 参謀科席次七位、どうか、お見知りおきください」
「うむ。良くやっているな。更なる良い成績を期待している」
「ジェルン・バルク。殿下に謁見いたします」
「覚えているぞ。精進して国の力となってくれ」
 滅多にない機会を得て声を掛けてくる
 確かに、この上学校の学徒は即戦力になる。乞われれば、すぐにでもミネルバの股肱として活躍できる実力を秘めている者達ばかりだった。
 だが、ミネルバの関心は全く別の処にあった。正直、歩を進めながらの彼らの声など、耳に残らない。
「教育官長」
 突然ぴたりと歩を止め、ミネルバが後をつく教育官長に声を掛けた。
「は、はいっ」
「参謀科のルディス・カーリンという者に会いたいのだが……」
 ミネルバのその言葉に、教育官長は愕然となる。
「ル……ルディス・カーリン……で、ございますか? は、はぁ……しかし、ルディスという少年は、畏れ多くも国王陛下や、王太子殿下を公然と詆譏し、貶した不埒者。現在は学長命令で寮舎に謹慎させられております」
 すると、ミネルバは分かりきっていることをと言わんばかりにため息をつきながら、教育官長に言う。
「そうか。ならば寮舎へ行く。教育官長、そなたが案内をしてくれないか」
「はっ? し……しかしミネルバ様、ルディスは奇行あれども、成績だけは数年に一人の……」
 血の気の引いた顔で烈しく狼狽する教育官長。
「何を深読みしている。……それに、同じ一人でも“”数年に”とは、随分と見くびられたものなのだな」
 苦笑を交えてミネルバが続ける。
「天才も十人集えば凡庸となるもの。千言万語を弄して嬖幸を享ける者は大人とは言えまい。それに、我がマケドニアが未曾有の国難に直面していることを識り、臆せず父上や兄上を譏るとは……ただの身の程知らずという訳では無いだろう。違うか?」
 ミネルバがにやりと嗤いを浮かべる。
「お、畏れながら……」
「まあ、仮に教育官長がルディスとやらと同じ事をしたとしても、咎め立てはせぬがな」
「は、はぁ……」
「そなたにはそれほどの影響があるとは思えぬゆえにな」
 そう言って笑うミネルバ。
「さあ、冗談は扨措きだ。それほど、臆することなき才略を持つ者ならば、一度会って教えを乞いたい」
「し……しかしながら」
 何とか諫止しようとする教育官長に、ミネルバは同じ顔を見せない。毅然と、凛とした声で命ずる。
「……何をしている。そなたが出来ないならば、誰かに案内するよう、申し伝えよ」
「は、ははっ――――!」
 
 結局、教育官長を案内人として、ミネルバは国軍士官上学校を後に、ルディスの住まう学生寮へと向かった。
「ミネルヴァ・ティヴナ・アイオチュナ第一王女殿下である」
 まさかミネルバ王女が来るとは夢にも思っていなかった寮長のヘルマが、教育官長の紹介を受けて慌てて平身低頭する。
「ルディス・カーリンという者に会いたいのだが」
 ヘルマに尋ねるミネルバ。
「は、はい王女様! た、ただいまお呼び致しますので、お待ち頂けますようお願い申し上げます」
 教育官長に急かされるように、ヘルマが言うな否やつんのめって駆け出しそうな勢いだった。そんな様子に呆れたようにため息をつきながら、ミネルバは止めた。
「謹慎中にあって無理を押して私が会いたいと言うのだ。私が訪ねなければ、筋が通らぬであろう」
 ミネルバの言葉を慌てて否定する教育官長。
「しかしながら、かの生徒の元へ王女様が……それでは皆に示しがつきませぬ」
 するとミネルバは面倒臭そうにため息をついて言った。
「よし分かった」
 おもむろにミネルバは朝衣を肩から脱ぎ出し、飾帯を解き、宝剣を外しだす。突然の行動に、ただ愕然となる周囲。ブラウスに革のズボン姿という、休憩時の軽装となったミネルバが教育官長に言う。
「王女ではなく、ミネルバとして会おう」
 言っていることが無茶苦茶だと思った。だが、この姫の剛毅さは今更言う迄も無い、臣民遍く知るところだった。
「……その方たちはここで待っていろ」
「ミネルバ様ッ」
 学長や近侍の止めるのも聞かず、ミネルバは単身ルディスの居る部屋の扉へと向かった。

「はいな――――」
 ノックの音に静寂を壊されたルディスが、半ば不機嫌そうに返事をする。
「登校停止の身上、私に関わると内申に大きく響きましょうほどに」
 学徒仲間とでも思ったのだろうか。実際に、何度かルディスの知恵を借りたいと人目を忍ぶ学徒もいた。故にやんわりと断るのだが、それでもノックが繰り返す。
「…………」
 ルディスは怪訝に思いながらも腰を上げて扉に向かう。
「内申の評価は私のせいではありませんよ」
 来訪者が被る不都合に対し、予め予防線を張るルディス。
「全く……物好きな方もいるものですね」
 失笑を浮かべながら、ゆっくりと扉を開けた。

 伏せた睫をゆっくりと上げる。瞬きひとつ分間が開き、そこに立つ紅い髪に、高い背。かつ端正で凛々しい美貌に微笑みを蓄えた、気品のある女性と視線が重なった。

(……あなたは……)

 瞬間に、ルディスの心臓がとくんと高鳴った。スロー・モーションはそこまでだった。
「そなたが、ルディス・カーリンか」
 表情を殆ど変えず、整然と跪き、ゆっくりとした仕草で拝礼をするルディス。
「左様でございます――――。ところでまさか、王女ミネルヴァ・ティヴナ・アイオチュナ殿下が、このような処へお越しになられるとは……」
 ミネルバはふっと笑うと、自らも片膝を折り、ルディスの手を取った。
「畏れ多うございます」
「堅苦しい挨拶は不要だ。私はただのミネルバとしてやってきたのだからな」
「ただの……で、ございますか」
「そうだ。一介の女、ミネルバとして、あなたに会いに来た」
 立ち上がったルディスが、顎に手を当てて唸る。
「一介の市民が、禁足を受けている者に会いたいなど――――適うべき事ではありませんね」
「……なるほど。噂通りの少年のようだな。――――ならばよい。この扉が開くまでは、マケドニアの王女であった。……それでどうかな」
「ほんの冗談ですよ」
 ルディスはミネルバを招き入れた。扉が閉まり、その姿が見えなくなると、教育官長らは慌ててルディスの部屋の前に駆け付ける。だが、当然何かを出来る訳でも無かった。

「すみません、王女様にとっては息詰まる空間でございましょう」
 床に散乱した文書や書籍を端にかき分け、足の踏み場を作るルディス。
「いや……何というか、これが稀代の天才が寓する住処なのか――――と、思ってな」
 物珍しそうに四方を見回しながら、ミネルバが苦笑する。
 するとルディスは書籍やら文具が積み重なっている部屋の一角に突入する様子を見せていた。
「な、何をしているのだ」
 驚いたミネルバがおどおどとした様子で訊ねる。
「ええ。この下に、ひとつ使っていない椅子がありますので――――」
 まさかそれを取ろうというのか。積み重なったものが雪崩を起こし、この変人を下敷きにし圧死させてしまいかねない。ミネルバは声を荒げて止めた。
「ああ、構わないでくれ。すぐに退散するから!」
「ん――――そうですか。残念です。せっかくこの部屋で一番良い椅子ですのに」
「椅子と引き替えに生き埋めを見るのはご免だ」
「ならば王女様。かなり窮屈でしょうが、適当におかけになって下さい。ただいま、お茶を……」
 と言いながら、慣れた足取りで奥のキッチンへと向かうルディス。
「だから、私に気を遣わないでくれ。それに、王女様はやめてもらいたい。どうも、こそばゆくていけない」
 ミネルバの困惑した様子が聞こえる。ルディスがふっと微笑みながら、部屋の隅に置かれたポットに水を入れ、火にかける。
「ところでそなたにひとつ、訊ねたいことがある」
 ルディスがティーカップをトレイに載せて運んできた時宜を見計らって、ミネルバが切り出した。
「そなたがこうして禁足を掛けられた要因。学内で我が父や、兄を公然と誹謗中傷をしたと聞く。その度胸、実に大したものだな」
 ミネルバの表情そのものは微笑んでいるように見えるが、目が笑っていなかった。
「お褒めのお言葉、まことに恐悦至極に存じます。さりながら、おそれ多いことではございますが、私はこれまで一度たりとて、国王陛下や、王太子殿下を貶したり、誹謗中傷を吹聴したりしたことなど、一切ございません」
 ミネルバの前に、淹れたての番茶を注いだティーカップを差し出す。
「ほう……。悪口は言ったことがないというのか。父上のことを、柔弱で先見の明に乏しいと。兄上のことを、猜疑心が強く御山の大将のようだなどと言うことが、貶していないとでも?」
 ルディスが出したカップに手を伸ばさないミネルバ。声は穏やかだったが、確実に怒りに震えているように思えた。
 しかし、ルディスは恐れおののくどころか、却ってミネルバの顔を何度も見ながら、まるでこの沈勇なる王女を試すかのように、口許を掌で覆いながら笑い声を上げる。
「何がおかしいのだ?」
 さすがのミネルバも少しだけ眉を顰めた。
 ルディスは手を差し伸べてミネルバに淹れた番茶を勧める。飲みながら、語るつもりだった。ミネルバもその意を汲み取り、カップを手にした。
 庶民の嗜む粗末な番茶を、一口含んだ。不思議と、心が落ち着くのを、ミネルバは感じた。
 そして、ルディスは訥々と語り始める。

 ――――確かに、学徒の問いに対し、私が答えたことは、他人が聞けば大方、詆譏と捉えられるかも知れません。
 しかし現実を直視すれば、アカネイアの意向に唯唯諾諾として隷従し、御自らのご意志で国の行く末を民にお示しにならない陛下。
 また、その陛下のご宸慮の深き処を、忖度の余地もなく、徒らに柔弱、暗愚たりえしは亡国の凶などと無闇に反抗される王太子殿下に対し、さも嬖佞甘言を弄しての“高徳の御仁”、“類い稀なる英主”などと奉戴すればそれこそ、真意を匿して虚像をひけらかし、国民を欺き高祖の偉業を灰燼に帰すに値する奸賊の妄言たるもの。このルディス・カーリンの矜恃に反しまする。
 『巧言令色は仁、少なし』と申します。お気に触ったのであれば、この場を借りてお赦しを。

 ミネルバが茶を飲み干し、ルディスを見つめながら、空になったカップを差し出す。ルディスは、黙してポットを手に、カップにお代わりを注ぐ。
「矜恃か――――物は言いようだな」
「恐れ入ります……」
 微笑みを浮かべながら、ミネルバがカップを手にする。
「そなたは正直者だな。怖れを知らぬのか、それともただの無謀が成せる気概なのか……」
 番茶を含む。
「空気を読まぬ、ただの愚か者でございます。まともならば、こうして登校停止などという失態は犯しませんでしょう」
 自嘲するルディス。一方、ミネルバはふと、その美しい容に翳を差す。
「ルディス・カーリン。……ならばそなた――――、私のことは……どう、思うのだ」
 寂しさの色が滲む声色。ルディスが思わず戸惑ってしまう。
「ミ……ミネルバ様は、こよなく人材を好まれるお方でございます。寛大公正で正義を尊び、人倫を重んじ、策謀を好まれず、信義を貫く気概が人一倍お強い方。心許なき国王陛下や、王太子殿下を能くお補け適うお方は、ミネルバ様をおいて他にはございません」
 ルディスの返答に、ミネルバはあからさまに鼻で嗤う。
「これはまた……父や兄とは違い、随分とうまいことを言うものだな」
「上手いも下手もございません。感じたままを口にしただけです」
 すると、ミネルバはティーカップを置き、傍らに置いていた剣に手を伸ばす。ルディスはその仕草を一瞥し、ミネルバを真っ直ぐに見据えた。
「そなたは、父上や兄上を“愚弄”したのだ。ここでそなたを斬り捨てたとしても『不敬罪』が通る。私に罪は及ばないのだぞ?」
 ルディスは怖れもせず、笑って答えた。
「構いません。その程度、覚悟がなければこの大愚、押し通せますまい。それに、たとえこれを咎として刑死したとしても、このルディス・カーリン、嬖佞奸賊の小人でないことを、後世に示すことが出来ます。愚人として、この大愚を以て歴史に名を残すことを憚りません!」
 その言葉に、ルディスとミネルバは互いに顔を見合わせて、視線をぶつけ合った。
 そして、厳しい表情から一転、頤を外した。

「ふっ……ふふふふ……はははははっ」

 ミネルバだった。背筋を逸らし、すらりとした上体を揺らしながら、烈しく哄笑したのだった。