ミネルバは抜きかけた剣をすっと鞘に納め、再び、傍らに横たえた。迷いがなく満足とばかりに再び襟足を正し、真っ直ぐルディスを見つめた。
「そなた、まさに噂に違わぬ奇人のようだ。怖れることを知らず、直言を憚らぬ」
「畏れ入ります」
「だが、庸君に仕えてはその才も腐朽して、下手をすれば命を落としかねぬな」
「私とて一介の朝野の民です。生命は惜しゅうございます」
「ほう。大愚を以て歴史に名を残す事を憚らぬと言うのに、命を長らえてどうするのだ」
「外つ国に想いを寄せて、アカネイアを去るのも、また一興」
すると、ミネルバは顎を上げて嘆息する。
「そなたをみすみす外つ国に逃してしまうのも、国益に適うとは思えぬがな」
「私のような落第など、居ない方が故国にとっては益となり得ましょう」
「嫌みを言うな」
「畏れながら、ミネルバ様は教文卿であらせられ、マケドニア学林の総裁でもあります。ゆえに……」
「私にも立場というものがある。あまりそう責めてくれるな」
「責めるなどと滅相も無いことです。全ては、この私が招いたこと」
この泰然とした態度は何なのだろうか。ミネルバは他愛のない会話で繋ぎながら、ルディスの真意を探ろうとしたが、全く未知の領域であった。
雑談の種も撒き終え、話題も取りあえず尽きようとしていたのを感じたミネルバは、軽く咳払いをした後、本題を持ち上げる。
「実は今日、そなたを訪ねた理由は、その父と兄の事について、そなたの卓見を伺いたいと思ってのことなのだ」
するとルディスは、特段驚いたという様子も見せず、ティーカップをひと呷りしてから答える。
「ミネルバ様。このルディス・カーリン、志学で世間を知らず、ましてやご覧の通り非礼不遜の廉で停学中の身でございます。天下の趨勢は言うに及ばず、畏れ多くも、宗室について意見を述べる立場ではありません。度を過ぎた戯言など、それこそ天下の笑いものになります」
「何を今更そのような謙遜を。そなたは百年に一度の鬼才であろう。知者の一言は千時の議論よりも有意なものだ。忌憚なく何なりと言ってくれ」
ミネルバの庶幾うような口調にも、ルディスは簡単には頷かない。
「たとえ拙論がミネルバ様が懐く大患の良薬となりましょうとも、廷臣の内にはそれを由としない方もおられるはず。宗室は市井の名も無き家族の如きに非ずして、凡民の長として、その指導によって盛衰が定まりまする。宗室は国体。このルディス・カーリンはたかが志学の豎子。上に逆らい僻者として朋からも距離を置かれた食み出し者ゆえに経験もなく、また賤民の出でございます。そのような青二才が宗室へ意見など、申し上げる身分ではございませぬ。どうか、ご容赦を」
跪いて拝礼するルディス。
するとミネルバは小さく溜息を押し殺しながら、手を合わせるルディスの片手に、そっと自らの細くしなやかな指を重ねて握しりめた。驚くルディス。
「何を言うのだルディス・カーリン。そなたは噂に違わぬ……いや、このミネルバが今この目で見て確信した。そなたは紛れもない、王佐の才を持つ者だ。それは誰しもが認めている。いや、誰しもではない、このミネルバが確実に認めているのだ。だから頼むルディス。私は何をすればよい。どうしたら良いのだろうか、教えてくれないか」
ルディスの手を握りしめ懇願するミネルバ。ルディスが思わず眼差しを上げると、ミネルバの紅く美しい瞳が、微かに潤み、藁をも縋る思いで自分の言葉を渇望していると言うことが伝わってくるようだった。
普通ならば情にほだされ、また聞きしに勝るミネルバの凜とした美貌に男の下心が擽られてしまうだろう。
しかし、ルディスはミネルバの包み込む掌からそっと自らの手を引き抜くと、二歩ばかり膝を擦って後退る。そして、視線を正面に、ミネルバの腰の辺りを見つめる高さに顔を上げてから、言った。
「かつてアカネイアの廉宣帝には、やはり施政・後継を巡る宗室の暗闘がありました。されば皇太子イセキオスと、炯公マルシオスの兄弟でございます」
「…………」
ミネルバは言葉を呑む。
ルディス曰く――――
聖アカネイア第十五代廉宣帝には二人の王子がいたが、アカネイアの爛熟した時代、いよいよたる権力腐敗が目立ち始めた時期にあって、廉宣帝は凡庸だが温厚な第一王子イセキオスを皇嗣に据え、有能だが些か苛烈な性格のマルシオス第二王子を西パレスの炯公に封じた。
時の枢機相マルグレードは、藩鎮諸国の政治的独立傾向と併せ、宮廷のイセキオス第一王子派と炯公派の分裂抗争を案じ、水面下で調停を図った。
パレス保守派の間では、炯公こそが難局を乗り切るべき皇嗣であるとの衆論があったとされた。
枢機相は大司教エネオスに諮問し、
“普天静謐を庶幾いたくば中庸を以て最善と成す”
の一言で裁定し、イセキオス第一王子の正式皇嗣を決めた。
ところが、世情は枢機相の思惑通りに事は運ばず、炯公派の不満を静める方策が不発に終わり、世情は大いに紊乱の気配を見せた。
結局、廉宣帝が皇嗣を定めぬまま登遐されると、パレスや藩鎮諸国を二分にした政争の末に炯公が第一王子を追逐し帝位に就いたが、炯公の厳しい処断を受けて枢機相マルグレードは縊死し、大司教エネオスは国事諍乱の咎を受けて斬刑に処されたという。
エネオスは聖職の地位に在りながら政に係わったがために受難したことを大いに悔やんだと伝えられた。
「ミネルバ様は、このルディス・カーリンに大司教エネオスになれと御下命に――――」
「下命などと……そうではない。私はただ、この焦臭い身内の空気を、如何にして払えば良いのか、それだけを訊ねたいと思っているだけだ」
「大司教エネオスもそのような立場を以て提言し、後に帝室の追咎を受けたのでございます」
「このミネルバは王統を継ぐ立場ではない。ただ、人として、一家の娘として、ただ一途に家の掻乱を静めたいと願うのみ」
「畏れ多うございます。しかし、私めにはかような大事を語る資格はございません……」
平伏するルディス。
「どうしてもか……」
ミネルバの口調が哀しみを帯びてくる。無言で頷くルディス。
――――ここ数年来、父と兄の暗闘相剋を見せつけられ、何も出来ぬ己の無力さに虫酸すら奔る日々であった……。
ミッチェル伯が亡くなられ、父と兄の仲は日を追う毎に険悪となり、私は王公を越え一個たる父の娘として、また兄の妹として、何とか二人が仲直り出来ぬものかと尽力してきたつもりだった。
……だが、全ては詮なきことだった。それもこれも私の不徳の致すところ、二人の仲を元に戻すという願いは虚しくし、遂に今日に至ってしまった。頼れる者もなく、絶望感にこの身堕ちんばかりの日々……。
だがどうか。昨今、その父や兄を公然と非難する人物がいると言うではないか。
古のドルーア帝国が復活せんばかりという時勢の中、世の者たちは己の保身のみを考え、奸佞の輩が増えている中、そのような者がいるという。
聞けばまだ、志学十五の若者。
王立学校参謀学科の首席であり、またそれが因で停学を受けているという鬼才の少年――――。
私は希望を抱いた。神は足下にあったのだと。四面常闇なる世界に、小さな灯明を得た心地だった。
そして私はこうして、その少年に僅僅の望みを託そうと……。
父と兄のこと。そして、この後私の進むべき道はどこなのか、教えを乞いたいと。
……だが、そなたは遠慮をし、何も教えてくれない。私は天にも見放され、人にも見離されたと。ああ……願わくば、不肖なるこの身をここに滅ぼし、せめて肉親相剋の凶運を断つことをば、願うのみだ――――。
涙声で切々と語り終えると、ミネルバはいきなり剣を抜き、白刃を自らの細い頸に宛がう。
「な、何をっ――――!」
ルディスは愕然となり、咄嗟にミネルバの手を掴んだ。そして、握られた剣を取り上げようとする。しかし、さすがは武術の達者と評判の王女だ。ルディス如き非力な書生が力を入れても動かない。
「放してくれっ! これもまた運命。わが無能にただ恥じ入るばかりだ。せめて、ここで私が諫死すれば、父も兄も少しは考えを改めてくれるであろう」
「おやめ下さいミネルバ様。そのような脅しは詮なきことです」
よもやミネルバが本気な訳があるまいと思った。が……
「…………っ」
ミネルバの美しく白い首筋に、白刃が食い込んだ。途端に紅い線が奔る。
「馬鹿なッ!」
ルディスが渾身の力を込めて、ミネルバの手を叩き、剣を落とす。カランと音を立てて床に弾み落ちた。
ミネルバの首筋から、血が滲み落ちる。白い肌に、眩いばかりの赤い血。ルディスは狼狽し、思わず袖を引き千切って身を乗り出し、ミネルバの首筋に押し当てた。
「まさか……何てことを――――おやめ下さいっ! そのような事をされても、オズモンド王、ミシェイル殿下は心変わりすることはございませぬ!」
興奮したせいか、思わず目尻から涙が滲んだ。
ミネルバ自身に引き千切った袖を宛がわせ、ルディスは再び半身に構える。
「ミネルバ様が御生害されて父子相剋の因果が断たれるのであれば事安きことです。しかし、ミネルバ様の御命を捧げてなお詮なき仕儀なれば、元も子もなし。ただの犬死にでございます。事はミネルバ様お一人の命で左右されるものではありません」
ルディスの言葉に、ミネルバは顔を紅潮させ、唇を血が滲むかと思うほどに噛み、震える声で返す。
「ならば……、ならばどうしろと! あなたは全てを見通しているのだろうが、私には分からぬ。考え、夜も悩み、老臣にも尋ねた。それでも分からぬ。尋ね、返ってくる言葉はむしろこの悩みを増すものばかり。益体なき我がことにただ苦悩するならば、いっそうのこと生の苦しみから解放されたいと思うのは、人の思いというものではないのか」
「それは名も無き我ら民こそが思いを致す事。万民を遍く治むる天命を背負いし王族たるミネルバ様が、安易に思ってはなりません」
ルディスの静かだが、強く窘める声色が響く。ミネルバは身体の芯からわき上がる慟哭を懸命に抑え込もうと身を屈め、状態を揺らしているように見えた。その姿に、ルディスは深く息をついた。
「…………わかりました。それ程までに仰せられるのならば――――」
その言葉の瞬間、ミネルバは顔を上げ、凜々しくも美しい、やや充血した瞳でルディスを見上げた。
「おお、ルディス。教えてくれるか!」
その表情は、まさにミネルバが言ったように、常闇で見つけたかすかな灯明を見つけたときのような、安堵と希望。藁にも縋る。とは言うが、ミネルバがルディスに寄せる思いの強さは、そのようなものではないように思えた。
ルディスはゆっくりと立ち上がり、渇ききった喉を潤すために番茶を一服口に含めると、小さくため息をつき、ゆっくりと語り始めた。
「……私は縦横機略とは何たることかを学ぶためにここにおりまする。お聞き及びかとは思いますが、私はその場凌ぎの美辞麗句や、同情・慰撫の類いは苦手でございます。そのことをまず、はっきり申し上げておきましょう」
「分かっている。分かっているからこそ、そなたに訊ねたい……」
「はっ。その上で申し上げまする。……畏れながら、陛下と殿下の間は、もはや地にこぼした水のようなもの。いかなる者でもその亀裂、覆水を修復することは極めて困難。ゆえにミネルバ様が一命を懸けられたとしても、詮なきことと申し上げております」
ミネルバの胸中に、少しの希望でもあったのだろうか。それとも、彼の返ってきた言葉がある程度覚悟していた予想通りのものであったからなのだろうか。僅かに肩を落とし、瞼を閉じる。
「……そう……か――――」
――――陛下の御叡慮は、臣道。アカネイアの藩?として鴻恩を享け道を進み、民に静謐なる日常を保たせんとするものにて、争いを決して好まぬ衆民からすればまさに条理です。
かたや、ミシェイル殿下は、覇道。万代たるアカネイア支配の腐敗に虐げられしこの束縛から解き放ち、王に尊厳を取り戻し、民に真なるマケドニアの誇りと自由をもたらさんと庶幾うものにて、これもまた条理でございます。
陛下、殿下ともに国思うも進むべき道を違い、相容れぬものにございますが、いずれにも非は無く。また、その道は山行く道と、大洋を行く道のようなものにて、決してひとつになることもございません。
「ならばルディス。私には何も出来ることはないと言うのか」
ミネルバの問いに、ルディスは無言で項垂れる。
「このままなれば、陛下か殿下。お二方いずれかのお命に係わる仕儀となりましょう。……特にミシェイル殿下は野心の強いお方ゆえ、陛下を弑逆される可能性は高いかと――――」
「な、何だとっ!」
愕然とするミネルバ。
「誠に失礼ながら、殿下は沐猴にして冠するお方。ミネルバ様ならばお解りでしょう。お父上を弑することに躊躇い、また臣下の諫言で思い留まられるようなお方ではございますまい」
「…………」
「仮に、弑逆に及ぶようなことあらば、マケドニアは未曾有の混乱に陥ることになりかねません」
ミネルバの鬼気迫る表情が、ルディスを突き刺すようだった。
「そこまで見通しておきながら、何も出来ないのか……ああ、そうか――――」
ルディスの言うような予兆も何も起きていない、ただの憶測で行動する訳にはいかない。と言うことなのだろう。ミネルバは絶望にも似た大きな嘆息をつくと、その場に崩れるように身を屈める。
「そうだ……父上にそれとなく注意を促し、護衛を増員するというのは、どうか……」
ミネルバが力なく呟く。誰もが思いつく案だった。
「千の近衛兵に警護され危難を乗り越えられるというのならば、私が述べずとも既に国王近臣が提言されているはずです」
全くルディスの言う通りである。しかし、ミネルバにとってはそのようなことでも、万一なりに良策があるという淡い希望を抱かずにはいられなかった。
しかし、そんな寸分の望みすら断たれた。ルディスは気休めなどではない、厳しい現実を述べているのであった。
「ミネルバ様。貴女様にしか出来ぬ事があるとするのならば、ただひとつです。陛下ではなく、ミシェイル殿下の軽挙妄動によく注意されませ。万が一にも陛下を弑し奉り、ミシェイル殿下が簒位されることとならば、マケドニアの国体は大きく傾きましょう」
「何と……ならば、今までと変わらなくても良いと……そう、言われるか」
力なき声に落胆の色滲ませるミネルバ。
――――いえ……大きく違うことがひとつございます。
これまではミネルバ様はお二人の間を取り持たれ、肉親の情もて事態緩和をお図りになられていたように推察致します。
しかし、陛下への気配りはよろしゅうございます。陛下は御自らミシェイル殿下を御手討になさることはございません。
今は道を違えど、殿下に寄せる期待は、血の繋がりで推し量るべきものではありません。いずれマケドニアを統べる君徳を磨き、御譲位の時宜を待つ御身であると……。そのような方が、まして我が子である殿下をお討ちになる事は決してありませぬ。
うっすらと睫を濡らすミネルバに、ルディスはそう語ると、ミネルバは僅かに怪訝の色を浮かべてルディスを見た。
「その根拠は、あるのか」
ルディスが答える。
「陛下も、殿下のお気持ちがおわかりになるからです」
「……!」
愕然となるミネルバ。そこまで王と王子の心を読むものかと畏怖にも似た感情に囚われる。
「しかし、ミシェイル殿下は違いまする。英邁なる気性に打算に優れた方に、陛下の御叡慮はただただ懦弱で隷従たるやに映りましょう。陛下を除き、国是を武力行使にて枉げることに躊躇いを感じぬお方でございます」
「…………」
「しかしながら、今この時にミシェイル殿下に弑逆の企みがあるのかを確かめる術はなく、またミネルバ様もそれを匂わせてはなりませぬ。よもや藪蛇、火に油を注ぐ結果となり得ましょう。千言万語は寡黙に及ばず。どうか、ここは隠忍されて静かに成り行きを見守ることこそ、上策でございます」
その言葉に触れるや、ミネルバははっと目を瞠り、手を打ち鳴らした。そして鬱々としていた美しい顔が、みるみる嬉々とした笑顔に変わった。
根本的に父子相剋を止められるという策ではない。手ずからその悲劇の時を遅らせるための遅延策、と言ってもいいだろう。しかし、それでもミネルバには救いだったのだ。
「さすがだな、ルディス・カーリン。考えてみれば、そなたの言はいちいち尤もだ。確かに、父の気性で兄を殺すようなことはすまい。だが、兄は分からぬ……兄が何を考えているのかが、全く分からぬ時がある。……わかった。そなたの言う通りにしよう」
「畏れ入ります。……あ、ミネルバ様、もう一つ。御妹君マリア様の警護も、抜かりなきようお取計らい下さいませ」
「マリアの……何故だ?」
「その理由もまた、ミネルバ様が一番良くご存知のはずです。かけがえなき縁や宝物は、いついかなる災厄にも備えて然る可きこと。事が起こった後では、悔いを千載に残しまする」
「…………!」
少し思考を巡らせて、ミネルバは目を見開いてルディスを向いた。ルディスは小さく頷く。そう、ミネルバは幼い妹のマリアを、何よりも一番に大事に思う存在であった。
万が一、不測の事態が起こり、マリアにその混乱の害が及ぶようなことがあれば、決して大袈裟な話ではなく、生きて行く縁を失うことになる。驚いた。ルディスはそんなことまで見抜いていたというのか。
ミネルバは再びルディスの手に手を重ね、視線を揺らぐことなく合わせながら、言った。
「ルディス・カーリン。そなたはまさに稀世天賦の才を持つ者。……頼む。卒業したならば、このミネルバの側に来てくれないか」
その言葉にルディスは深々と頭を下げる。
「ははっ。畏れ多いお言葉でございます」
「……ありがとう、ルディス。やはりここに……あなたのところに来て良かったと思う。この胸中の痞えが、少し取れたような心地だ。……お茶、ありがとう。美味しく、頂いた」
ミネルバは満足したように頷き微笑みを送ると、身を翻して立ち去った。
「…………」
ミネルバ一行の気配が消えても、ルディスはそのまま、王女がいた余韻に与っていた。真顔で、ミネルバが座していた方を見据えている。
『ミシェイル王子は――――必ず…………。ミネルバ様――――』
ルディスには判っていた。それは、誰もが大河の流れを堰き止めることは出来ないように、押し寄せてくる暗雲を払うことは適わないことを。どうしようもない、得体の知れぬ何かを、ルディスもまた感じていた。
その時、再び入り口の扉をノックする音が響く。
「ルディス君。いるかい」
ガサガサとした少女の声。リーシャである。ルディスの返事を待つことなく、ドアノブを開く。
「許可を出してはいないが」
「私と君の仲だろ。水臭いこと言うなって」
ルディスの顰蹙を持ち前のがさつさで躱すリーシャ・キュトラ。
「やあ、久し――――ぶりでもないか?」
「俺と会っていたら、色々と拙いんじゃねえのかい」
ルディスがそう言って皮肉に笑うと、リーシャは鼻の下を指で拭いながら言った。
「君との“つまらない”会話と、型に嵌まった“為になる”授業。どちらを選ぶかと問われれば――――そうだね。私ならつまらない方を選ぶよ。君を見ていると、色々と面白い。それだけで、私は良い」
僅かに頬に朱を差しながら、リーシャは言う。
「君も存外、見た目に違わず変人のようだな」
そう返し失笑するルディス。
リーシャは慣れたように部屋へと入ると、シンクへと向かい、湯を沸かす。
「ペトゥス達からも止められていたんだ。……あいつら薄情だよな。……ん、いや――――それを言うなら、私も……か」
紅茶を淹れながら、リーシャの瞳の色がすっと消える。
「ごめん、ルディス君。私も、保身を考えたから……」
「然もそうずリーシャ。君やペトゥス達は正しい。むしろ俺が逆の立場でもそうしただろうさ」
「ルディス君……しかし、今ミネルバ王女が――――」
「ああ。教文卿閣下からの殊に厳しい咎めがあった。学生、しかも素行定まらぬ不良が王室を批判するとは百年早いとね。さすがは英邁の誉れ高きミネルバ王女。友を無くすと言われてはな」
「…………」
リーシャの淹れた紅茶をひと呷りするルディス。
「これ以上逆らえば、リーシャがこうして訪ねて節介を焼くことも適わぬだろう。二十歳に遠く満たずして畢生枯れて終わるわけにはいかないよな、さすがに」
自嘲するルディスに、リーシャは真顔で言う。
「王女が君を訪ねてきた理由は敢えて訊かない。……でも、私がここに来た意味くらいは、解って欲しいんだ」
さすがにそれを嘘と見抜いたリーシャが、じっとルディスを見つめる。それがどのような意味なのか、ルディスは考えた。
「ありがとう。心強く思う」
数日後、教文卿・ミネルバ王女の命令が王立学校に齎された。
直接的な言及を避けつつも、事実上のルディス・カーリン停学措置の解除を促すものであった。
髪を整え、部屋を出る。正面玄関を出ると、寮長のヘルマが待っていたかのようにルディスを呼び止めた。
「ほら、曲がってる。しっかりしなさい」
そう言ってネクタイを締め直してくれる。寝癖、髭と念入りにチェックされた。停学明けから草臥れた格好をするなと、昨夜散々にヘルマの説教を受けたのでルディスは自分なりに身支度を調えたつもりだったが、不十分だったようだ。
「有難うございます寮長。では……」
「頑張って」
まるで母親のようにルディスを送り出す。
「よう。オハヨ!」
寮の門前でぎすぎすとした少女がルディスを待っていた。リーシャである。
「おはよう。わざわざ出迎えに来てくれたのか」
「って、私は付き人かっ! まったくもう。出迎えじゃないよ。一緒に行こうって言ってんだよ」
「あはは、なるほどな」
久しぶりの登校の朝。人というのは怠け癖というのがあっという間につくものらしい。朝目覚めたときは全くもってどこにも出かけたくない気分だったのだが、こうして友人の顔を見ると、そう言う気もなくなってしまうのだから不思議だ。
「皆、変わりなく――――って、当たり前か」
ルディスの言葉に、リーシャはくすりと笑う。
「色々言っていた奴もいたけど――――私も、人のこと言えないか……」
学校への途上、ルディスを奇異の眼差しで見たり、ひそひそと話したりする生徒もいた。それは当たり前のことだった。リーシャは言った。それくらい解ってないと、ルディスの近くになんか来ない、と。
「おはようございます」
「ん――――ああ、おは……よう、カーリン君か」
教員と擦れ違い、挨拶した。驚いたようにその教員はルディスを見回し、怪訝気に挨拶を返す。別の生徒達からの挨拶を受けると、がらりと笑顔に変わった。
「…………」
リーシャがそのたびに項垂れる。しかし、それが現実だった。
王立学校の校舎。ひと月振りにルディスが通ると、誰もがばつが悪そうに彼に接した。
停学明け初日は、リーシャ以外殆ど誰とも会話を成さなかった。
「学校の中でまで俺の近くにいる必要もない」
甲斐甲斐しく気を遣ってくる彼女の様子に、ルディスはそう言った。有り難いのだが自分のためにリーシャの学生生活に無用な影響が出ては本末転倒だった。
教師達も、ルディス復帰を特に話題にする様子もなかった。腫れ物に触る、と言うのはやや語弊があるが、王族を痛罵して憚らない問題児に敢えて話題を振り、いたずらに炎上させる必要もないだろうという判断だった。
放課後。簡単に道具を片付け、校舎を出るルディス。
「おーい!」
玄関口から疳高い声が響く。リーシャだった。彼女はルディスの姿めがけて走り近づき、不満たらたらに背中をぽんと叩く。
「黙って帰るなんてさぁ!」
頬を膨らませる少年のような少女。ルディスは呆れたようにため息をつく。
「一緒に帰ろうと約束してたかい?」
「それは……してないけど――――でもさあ!」
「呼び止められたんだ。無下に断ることもない」
リーシャの意向を酌み取った。断る理由付けもない。
かといってそれまでは良く連んでいた友人の一人である。改めて何かを話題に上げながら帰路を共にすると身構えることもなかったが、ここのところリーシャが随分と目立つ。
「ペトゥスやニッケルたちに会ったかい?」
「うーん……見かけたけど、話す機会はなかったかな」
ルディスの言葉に、リーシャは呆れたようにため息をつく。
「機会がない。んじゃなくて、話さなかった――――と言うんだよ、そういうの」
ルディスは少しの間、その言葉の意味を考えて、肯定した。
「そうとも言うな」
「そうなんだよっ!」
リーシャの突っ込みは早かった。
「折角だから、何か食べてこうよ」
リーシャが誘う。
「寮で食事が用意されてる」
ルディスがそう答えると、リーシャは大きなため息をついて返した。
「スモーガスボードだって知ってて言ってるだろ! 食べなきゃ無くなるから問題ないって事も」
無表情で誤魔化すルディス。断る口実を失った。
通学路から少し外れた場所に宿屋を兼ねた大衆食堂がある。定食から若者向けのスイーツまで揃えてあるということで、アイオチュナの隠れたグルメスポットでもあった。
リーシャに“連行”されてきたルディスは、席に着くなりパスタ料理を頼んだ彼女の後に、悩んだ末にパエリアを注文した。
「ペトゥスたちも誘えば良かったのに」
ルディスの呟きに、リーシャはとぼけたように小さく笑う。
「何だよ。私と二人きりじゃ不満なわけ?」
「それはともかく、後から良からぬ事を密談していた、なんて詮索されたくはない」
「あははは。ルディス君って、そんな人の噂を気にするような質じゃないだろ」
リーシャが一笑に付す。図星なのでルディスも苦笑した。
「お待たせしましたー」
ウェイトレスが注文した料理を運んでくると、美味そうな匂いがお腹の虫を擽る。
「ではでは、いただきまーす!」
少女の作法なんて無縁のリーシャが、フォークにパスタを絡め取り、ぱくりと頬張る。その様子が健康な男子ばりで、何も知らない人から見れば、男同士に見えてしまいそうだ。
ルディスもフォークとスプーンを両手に、救うようにパエリアを頬張る。丁度、腹も減っていた。寮に帰れば食事まで少し間があるが、こうして外食もたまには良いものだった。腹も空けば考えもネガティブになる。色々と心や気持ちを落ち着かせるには十分だった。
「君の停学明けの祝い。私がしたかったんだ……」
ふと、食器を動かす手を止めて、リーシャが言った。ルディスがその言葉にリーシャを見つめる。少し切なげな微笑みをたたえていたリーシャ。少年の様だとはいえ、やはり可憐な少女らしさが、その表情に滲み出ている。
「ペトゥスや、ニッケル達もじゃなくて――――私が……」
素の声色に、ルディスは何を思ったのだろうか。しかし……
「ありがとうリーシャ。今度はあいつらも一緒に来よう」
「え…………」
ルディスの裏表のない言葉に、リーシャは一瞬、愕然となる。
「…………」
そして、また一瞬わき上がる怒りも通り過ぎて、笑った。
「あ、ああ。そうだね。今度は皆で来ようよ」