SHOPPING a subsequent tale
「Not even dream of it!(寝ぼけないで)」
ぼう然とする佐野に、微笑みの残像を刻みつけ、沢近愛理は二つに結ばれたブロンドの髪を翻し、仄かな柑橘系の香りを贈っただけで、その姿は道の彼方に消えていった。
「…………」
開いた口がふさがらないとは正しくこのこと。佐野は固まったまま、様子を見ていた取り巻きたちの嘲笑を一身に浴びる。
「……チッ……」
「お前じゃ相手になんねぇだろうがよ佐野。何つったって、沢近はイギリスの外務省高官のお嬢様だって話だからな」
「それがどうしたよ、クソがッ!」
「政府高官の帰国子女様が、お前なんか相手にするわきゃねえだろって事だよ。分を知れよ、佐野」
その話に、佐野の理不尽な逆恨みはますます募ってゆく。
「いい度胸じゃねえか。こうなったら、あの女の鼻っ柱へし折ってやるよ」
「佐野?」
「政府高官のお嬢様も、どこまでそのプライド保てるか、俺が試してやるぜ」
「おいッ、お前やべぇこと企んでんじゃねーだろな?」
「フンッ、るせーよ」
佐野は吐き捨てるようにそう言うと、つかつかと去っていった。
突然降り出した雨に打たれながら、愛理は気が抜けたように父の乗ったリムジンを見つめていた。
すっ――――。
不意に雨が遮られる。驚いた愛理が顔を上げると、飄然としたサングラスとヒゲの男がまっすぐ道の彼方を見つめていた。
「…………」
「そこまでだったら、送ってやるぜ? ほんのそこまでな」
「…………」
愛理を濡らす冷たい雨から守るように傘を傾けた男のワイシャツが雨を含み透けてくる。
「ねぇ、あなた肉じゃがとカレー、どっちが好き?」
何故か愛理の表情は綻(ほころ)んでいた。さっきまで心を絞めるような虚しさがとらえていたのに、今は少しだけ楽になった気がしていた。
「カレー…………」
「…………」
やや格好つけたような口調にぎこちなさを感じながら、愛理は彼の答えにわずかの沈黙の後、くつくつと笑い声を上げた。
「……何がおかしぃんだよ」
「あ――――ごめんなさい。残念だったわね。カレーの材料じゃないの」
「食わねえ」
ぶっきらぼうに言う男に、愛理は微かに唇を尖らす。
「何よ。私の料理が食べられないってワケ?」
「そうじゃねえよ」
あくまで男は視線をまっすぐ前に向けている。愛理を突き放すような態度だが、傘をしっかりと濡れないように愛理に傾けている。
(…………)
無器用な優しさを、愛理は感じていた。男の肩はすっかり雨に濡れて袖口から滴がしたたっている。後ろに流した髪の毛もベタベタに張り付く。
「あ、そっか。あなた、確か塚本さんのことが――――」
「はっ、ハッ、HA……ハックショィ!」
突然、男が大きくクシャミをした。鼻水がだらしなく、長い糸を引く。無様だった。
「あははははっ」
愛理が笑った。
「わ、笑うんじゃねえよちくしょう!」
ずるずると糸を吸い戻す男。
「くすくす。播磨君、あなたって本当面白い人ね」
そう言いながら、愛理はポケットからレースのハンカチを取り出し、播磨に差し出した。
「いらねぇよ」
「遠慮しない!」
「いいよ」
女のハンカチなんか使えるか。鼻水ぐらい腕で拭えばいい。
しかし、愛理の押しの強さはなまじ噂だけではなかった。
「…………」
本当に遠慮がちに、本当に申し訳程度に、播磨はハンカチを鼻頭に当てた。顔は恥ずかしさで真っ赤になっていた。
「でも、これで決まりね。播磨君、うちに寄ってってよ。濡れた服、乾かさないとだめでしょ?」
「じょ、冗談じゃねえ」
「だって、そのままじゃ風邪引くわよ?」
「いや、マジで遠慮しとく」
播磨の頭の中には飛躍した想像が駆けめぐっていた。
「大丈夫よ。執事の中村がいろいろ手配してくれるから。お礼がわりに、ね?」
「シツジ……?」
あ、一人暮らしじゃなかったっけ……などと、播磨は半分安堵、半分落胆の表情を浮かべた。
「決まりね」
にこりと、屈託のない笑みを浮かべる愛理。彼女らしい押しの強さで、決定。
「あ、これ借りるぜ」
「オッケー」
播磨はレースのハンカチを無造作にズボンのポケットにねじりこんだ。
「ふ――――ん……」
半ば興味がなさそうに播磨は唸る。
雨の中で、買い物袋をぶら下げて独りたたずむハーフの少女。播磨は単純にその理由を訊(たず)ねた。愛理は話した。
英国外務省・東亜大洋州高官として多忙を極める父。湾岸戦争以降の世界情勢で依然として続く北朝鮮や台湾など様々な政治・外交問題を抱えながら、父は家族団らんのゆとりを得ることは極少だった。そして今日、久しぶりに休暇を得て愛理や母と過ごせるはずのひと晩。
だが、時か世情か。それはとかく非情だった。
中東情勢の悪化に伴い、愛理の父は、本国・英政府の指令で急きょ中東の特命全権大使としてアンカラに発たなければならなかった。
政府ため国益のため、『平和』のために、父はほんのわずかな家族との時をも棄てて、発つのだと。
播磨にとっては、そんな細々とした背景事情はどうでもいいことだった。かいつまんで言えば、愛理が楽しみにしていた、父親との夕ご飯がダメになった。それだけの事実。
「おまえの親父って、すげえ人なんだな」
播磨の言葉に、愛理は寂しそうに微笑む。
「ええ、すごいわよ。格好良くて、頭もいいし、やさしいし……うん……大好き」
笑顔が痛く見えた。
お嬢様ゆえの苦悩などと播磨にとってはどうでもいいことだったが、ただの沢近愛理をそこに見たとき、播磨は思った。
多分、その横顔に、いち友人……いや、いちクラスメイトの素顔を映し、きっと何か似たものがあるのだと……。
「食わせてくれるってんなら、な」
「……ふふっ」
それから幾日も経たない頃。何故かハリマの姿が見えなくなっていた。
「そう言えば、播磨君はどうしたの?」
いつもの三人と喋っていた時、ふと愛理は訊いた。
「あ、ハリマ? この前、見たぞ。神社で」
こともなげに返す周防美琴。
「神様になってたな、見たところでは」
「?」
「……まぁ、音沙汰がないというのは元気でいるという証と言うからな」
高野晶が飄然と言う。
「そう……」
それほど意識をしている存在ではない播磨だったが、さすがにこうも姿が見えないと一抹の淋しさを覚えるものだった。
「それよりもカッパだよ、カッパッ!」
「あんたのそのペースは大震災が起こっても崩れそうにないわね」
塚本天満は実に繊細という言葉の、よく似合わない少女である。
その日の放課後――――。
「おい佐野、マジでやめとけって」
「うるせぇよ。あのコーマンなツラ、一度ズタズタにしねーと気がすまねぇんだよ」
理不尽な逆恨みの刃が、愛理に向けられようとしていた。
「はぁ……」
最近、何かと立ち直れずの播磨拳児。理由は思いたくもないこと。間違いだと信じたいこと、早とちりだと言って欲しいこと。
学校に行けないと言うのは身勝手なことだが流石の彼も今回ばかりは様子が違う。公園で出会った女性の家や公園、神社と他愛もない家出と決め込んだが、もやもやは一向に晴れない。
「俺らしくもねぇか――――」
絃子も半ば呆れ気味に連絡を取ってきた。播磨の行動パターンなどすでにお見通しのような言い草だった。そのためか更に輪をかけて落ち込んでしまう。
矢神神社から立ち去ろうとした時だった。
「播磨――――」
野太い声が播磨を取り押さえた。振り返ると、そこにいたのはスキンヘッドの巨漢、天王寺昇だった。
「天王寺……」
「何やってんだ、テメェ――――」
「…………」
いつもの挑発的な言動も冴えない。
「この前の時といい、てめぇ俺をバカにしてんのか?」
つっかかろうとする天王寺。だが、播磨はらしくない調子のままだった。
「待ってろよ。今のままじゃ、俺はおめえの相手になんねえ――――」
「なんだと!?」
拳を振り上げる天王寺に、播磨は不具合なほどにシリアスな眼光をサングラス越しに突き刺す。
「くっ…………」
元々闘いの実力は播磨に遠く及ばないことを知らしめられていた天王寺は、この気迫に圧されてしまった。振り上げた拳を無様に下ろさざるを得なかった。
「…………」
「…………」
妙な沈黙が境内を包んでゆく。
「はっ――――」
「あ?」
気配を感じた播磨が声を上げた天王寺を無理矢理物陰に引きずり込む。
「なにすん――――」
「黙れこのバカッ!」
播磨の拳がスキンヘッドの脳天に直撃する。
「ふぅ――――」
ブロンドのツインテールの髪を風に靡かせながら、沢近愛理はゆっくりと矢神神社に続く階段を上る。
「ヘンね……なんか変……」
自分でも良くわからない感情が、愛理の心をノイズのように奔っていた。そして、それは徐々に迫る身の危険すらも、鈍化させてしまう危険を孕んでいた。
「ああなんか私らしくないわ………」
雑念を振り払うかのように愛理は何度も首を振りながら一段一段、昇ってゆく。その白く細い脚には疲れの様相は感じられない。
「…………」
はるか後方から愛理を睨むように、理性を失いかけた少年が段を上ってゆく。
「今さら後には引けねえぞ、分かってるだろうな」
「あぁ」
無理矢理つき合わされた感じの取り巻きが、渋々と頷く。
やがて、愛理は社殿の前で足を止め、ポケットに忍ばせていた五〇〇円硬貨を恭しく賽銭箱に投じた。長い睫を伏せ、そっと胸元で手を合わせる。
「神様――――私はクリスチャンですけど……お願いを聞いて下さい――――」
――――父が、無事に仕事を終えて、戻ってこられますように…………
そして、お母様と三人で、一緒に…………。
「…………」
「……いい娘じゃねえか」
ボクッ!
何故か涙目でそう呟く天王寺の頭をどつく播磨。
「んっ!?」
気配を察して、播磨は五官を極限に敏感にさせた。
「どうしたよ、播磨」
「天王寺よ、てめえもケンカ屋の端っぱなら気づくだろうがよ――――」
囁くように、それでも突き刺すような声で、播磨は天王寺に注意を促した。
「……ん、おぅ――――」
野性の感覚では播磨にも勝る天王寺は、播磨の言葉の意味をすぐに理解できた。
「今日のところは休戦だな」
播磨が不敵ににやりと笑うと、天王寺は横柄気味に鼻を鳴らす。
「俺は手ェ貸さねぇぞ、播磨」
「上等。サルの脳ミソでも、それくらいはわかってんじゃねえか」
「…………ケッ!」
呆れたのように唾を吐くと、天王寺は一回、軽く播磨の胸座をつかみ上げると、挑戦的に目を細めて睨みつけ、ゆっくりと後退し、そのまま姿を消していった。
「フン、天王寺(あのバカ)らしいぜ……」
その時だった。
熱心に祈りを捧げている愛理の背後に、三,四人の人影が殺気悉く燻らせて現れた。
「おいっ――――……おい沢近ッ!」
いきり立つように、少年は声を荒げる。
「……?」
名前を呼ばれ、ゆっくりと振り返る愛理。きょとんとした様子で、いきり立つ少年を見る。
「……えー……っと、あなたは?」
「…………っ!」
愛理の言葉に、少年の顔色が変わる。
「……そうかよ。政府高官のお嬢様ともなれば、一般下民の端くれなんか、名前は愚か顔すらも憶えてもらえねえってか?」
ぷるぷると震えていた。
「あ……んー……」
愛理は思い出そうとしていた。
「佐野だよ、佐野。お前にハナから相手にしてもらえなかったA組の佐野浩介だ」
「……ああ、サノ君ね。ごめんなさい」
愛理は笑った。純粋に、佐野のことを憶えてはいなかった。嫌味のない、笑い。だが、それが佐野にとっては屈辱的なもの以外の何でもなかった。
「沢近。忘れっぽいお前の記憶から、俺のこと一生忘れられないようにしてやるよ」
「what?」
佐野がにやりと嗤い、おもむろに制服の内ポケットに手を差し入れた。その時だった。
「ふぉふぉふぉふぉふぉ」
老人を装うにはあまりにも短絡的すぎる作り声。
「そこなる野郎……じゃなくて少年よ、全ての煩悩を棄て、仏の道に帰依しなさい。それがそなたに残された、ただひとつの道なーりー……」
唖然とする場。
(え……まさか…………)
「今のうちならば、キリスト様もモハメッド様も、てめぇ……じゃなくてそなたをお許しになるであろうに……」
白い布、傘の柄、石灰か埃で塗し白くした髪。だが、いかに変装しようが、最大の特徴が、彼を彼だと断定させる。
「お、お前は……何で……」
佐野の顔が冷めていった。
「播磨君?」
よくよく状況をつかめていない愛理。
神様を装った播磨は、それでもなりきりながら三文芝居を続けていた。
「達観じゃ、達観。危機を未然に防ぐのが神様の使命なのじゃ」
呆れたように一瞬、凍り付く境内。しかし、すぐに佐野は毒づいた。
「ちっ…………」
いかに乗り気のない取り巻きたちも、さすがに身構えた。対播磨の戦闘態勢。
「ふぉふぉふぉふぉ、後悔しますぜよ」
それでも、なりきっていた。
佐野とその取り巻き達。複数対一では、さすがの闘将・播磨も分が悪いはずだった。
ところが、播磨は余裕綽々とばかりに神様笑いを続け、不埒者たちを見回している。
「怪我は互いにしたくないものだよな……」
サングラスの奥に光る眼光は見て取れない。「ぐっ…………」
取り巻きたちよりも佐野が一番動揺しているように見える。
ゆっくりと傘の柄を突き出し、播磨はにやりと嗤い佐野を睨みつける。
「…………」
その行動に言いしれぬ威圧感を与え、佐野を怖じけさせていた。
「さあ少年、どうするのじゃ? ワシはどちらでも一向に構わんが?」
淡々と播磨は威圧をかける。
「クソッ!」
佐野は舌打ちをして身構えた。窮鼠なんたら……とまではいかないか。
「播磨君っ!?」
愛理が思わず声を上げていた。一瞬、気を取られてしまった播磨だったが、幸い佐野は飛びかかっては来なかった。相手が天王寺だったら、確実に首を掻かれていただろう。
「ああ。安心しときな、沢近」
ヒゲに薄い笑みを浮かべて播磨は悠然と答えた。その表情を見た瞬間、愛理の胸に迸るものがあった。多分、今までも幾度も感じたことがあるもの……。意識している今、余計に強く、それを感じる。
「コノヤロウッ!」
無謀にも佐野が斬りかかる。ケンカの最高権威、播磨にとってはあまりにも相手にならなすぎる。何度も何度も、佐野の攻撃をかわす……などという言葉すら似つかわない。
「帰れ少年。お前のやっていることは、『すとぉかぁ』と申すのじゃ」
「何だと――――!」
その言葉に、佐野は過敏に反応する。
「名前すら憶えてもらえぬ存在とは哀れなり――――。それに比べてワシはまだ……ああ、いやいやそれよりも――――」
「…………」
もはや神様のコスチュームなどすっかり崩れて俗世の一人間・播磨拳児と化した播磨だったが、それでも彼らしい一縷(いちる)の優しさが愛理の心を捉えて止まなかった。
「やめておけ少年。そなたにはまだ未来があろう――――。時には諦めることも肝要じゃ。沢近はそなたを想ってはおらぬ。そなたの行いは、天に唾をするも同様じゃ――――」
時代劇(役者丸広事)ファンの播磨。受け売りの言葉を連ねる。佐野に諭すその言葉が、そのまま自らを傷つけるようで、胸が痛む。
「うるせぇ!」
ひゅん――――!
いきり立った佐野が腕を一閃。
「――――――――っ!」
瞬間、播拳蹴が横を薙いだ。
「きゃあぁぁっ!」
愛理の短い悲鳴が境内に響く。
そして、次の瞬間、佐野は無念そうに唇を噛み、膝を崩した。
「……どうする。まだ、やるか――――」
ぽた……ぽた…………
播磨の足元の土に、赤い雫が長い間隔で斑点を作ってゆく。表情ひとつ変えず、播磨は佐野を睨みつけていた。
「…………うぅっ……」
突然、佐野は顔面蒼白となって腰砕けとなり、足を引きずるように逃げ出してしまった。
「おめーらも、見なかったことにしてやる。消えろオルァッ!」
取り巻き達もまた、佐野につづくように蜘蛛の子を散らしてしまった。
「…………ちっ、オレとしたことがよ」
腕に趨(はし)った赤い線を見ながら舌打ちをする播磨。
「播磨くんっ!」
そこへ狼狽した様子の愛理が駆け寄る。
「だいじょう…………あぁっ」
悲痛な面持ちで絶句する愛理。だが、播磨は余裕とばかりに笑みを作る。
「ああ、これくれえいつもの事よ。……それよりもお前――――」
「…………」
播磨の言葉を聞いてか聞かずか、愛理はおもむろにレースのハンカチを取り出し、播磨の腕にそれを当てた。彼女の切なげな表情が播磨の目に映る。長い睫(まつげ)が心をくすぐった。
「何よ――――」
播磨の腕をそっと支えながら、ハンカチを当てつづける愛理が不機嫌そうに聞き返す。
「あ……その――――なんだ……えー……」
妙に毒気を抜かれた播磨が言葉を詰まらせる。
「……………………」
愛理は無言で俯いたまま、ハンカチで傷口を縛った。なのに何故か、播磨の腕を放すのをためらいがちに触れたまま。
「…………ありがとう…………」
消え入りそうな声で、愛理はそう言った。顔を上げていればきっと、赤らんだ顔を播磨にまともに見られていただろう。
「……ありがとうじゃねえだろっ!」
突然の播磨の怒声に、愛理は愕然となり、思わず播磨から飛び退いてしまった。
「沢近、お前の話はいろいろ聞いてるぜ。誘われれば、誰でもつき合うそうじゃねえか」
「え……? そんな……」
「お前が学校でどんだけモテるのかは知らねえ。……だがな、お前の思わせぶりな行動が、奴のような野郎を引き寄せちまった。違うか」
「そんなっ! 私は誰ともつき合ったことなんか無いっ! ただ……ただのデートだけなら別に……」
突然播磨に怒鳴られて、愛理は無性な悔しさに囚われていた。声が震えている。
「お前が野郎共をどう思ってるか知んねーがな、相手の野郎にとっちゃ、そいつがマジと思えばマジになるんだよ」
播磨の怒声は、ずきんと愛理の脳に響く。
「…………はっきり言って、迷惑ね」
その言葉に、播磨の目の色が変わる。きっとサングラス越しに愛理を睨みつけ、レースのハンカチがまかれた方の腕の人差し指を愛理の眼前に突きつける。
「ここはエゲレスじゃねぇ――――ニッポンだ。憶えておけ? ニッポンにはな、武士道精神ていうのがあるんだ。惚れた女には命も張れる。それが、男の美学なんだよ。恋愛を遊びと思っている今のお前は……命いくつあっても足りねぇぞ」
播磨は吐き捨てるようにそう言うと、踵を返した。ぼう然と立つ愛理を背に、播磨はこう付け加えた。
「サンキュ。コレ、後で返すぜ」
「…………」
いつもと様子の違う愛理に、美琴は特に怪訝な眼差しを向けていた。
「なんかおかしいな、沢近のヤツ――――」
「いつものことじゃなかった?」
相変わらず、素っ気なく晶は言う。
「いや、どう見てもヤツらしくはないだろ」
授業だけは真面目に受けていた愛理が一日中上の空で教師達に呼び出され怒られていては誰の目から見ても明らかであった。
「どうしたんだよ沢近。お前、最近ヘンだぜ?」
「…………え?」
話しかけてからの反応に時差を生じている。「ああ、何? 美琴」
「……だめだこりゃ。何でもねーよ」
呆れた。
「……ゴメン二人とも。今日はちょっと……」
「ああ。早く帰って寝なよー」
体調が悪そうな素振りを見せつつ愛理と美琴達は別れた。
「沢近さんも遂に恋を――――?」
晶がぼそりとそう呟くと、美琴が愕然となる。
「だから、あいつがそんなタマかって」
「分からないよ、それは」
どこか確信をしているような言い方をする晶。
「なんか知ってるか、高野?」
「まさか――――」
もしも謎というものが身近にあるというのならば、きっと高野晶をしてそう言うのではないだろうか。美琴はそう思った。
播磨が動物占い師としてささやかな人気を博していることは、町のちょっとしたネタでもあった。
「……」
愛理がここを訪れるのは二度目。始めは噂を聞いてやって来た。占い師がすぐに播磨だと気づいたのはともかくとして、らしくない彼の姿に、何故か愛理は苛立ちを禁じ得なかった。
「……良き運勢を――――」
最後の客を送り出した播磨が、『店』とは言い難い荷物の片づけに掛かった時、目の前にすらりとした少女の影が映った。振り向く播磨。やるせない視線を交わす。
「播磨君――――ちょっと時間あるかしら」
「あぁ、別にいいぜ」
播磨と沢近は近くの喫茶店に入った。
季節は梅雨。
雨模様の中、沢近の好きな動物園などと洒落込むわけにはいかない。
傍目から見れば随分と面妖というか、シュールな雰囲気の二人に見えただろう。
「……学校、まだ来ないんだ」
「……あぁ、まだ行けねぇ」
「…………」
「…………」
話の接ぎ穂がない。二人とも変にプライドが高い部分がある。余計な話が互いの心を傷つけてしまいそうで、怖かった。
「あのね――――この間のこと……」
愛理が沈黙を破った。
「ああ――――」
無愛想を装う播磨。
「……本当に、ありがとう……」
「…………別に礼を言われる事じゃねえ。男として、当たり前のことをしたまでだからな」
「……ううん、本当に。助けてもらったこと――――そして、播磨君が怒って言ってくれたこと……」
「……ああ、気にするな――――」
ブラックコーヒーをすすりながら、播磨はぶっきらぼうに言う。
「偉そうなこと、言える立場じゃねえんだよ……、俺もな」
そしてまた、わずかな沈黙。店内に流れる懐かしいマントヴァーニ。愛理の父が良く聴いていた。
「……優しいよね、播磨君って」
「はぁ?」
突然の言葉に慌て顔を顰める播磨。
「優しいわ、うん。すごくいい人だったりして」
「よせ」
人差し指で眉間を掻きながら、手のひらで顔を隠そうとする播磨。
「……お父様ね――――サウディ・アラビア大使として、リヤドに赴任することになったって――――」
「サウジ……?」
「英国のアラブ諸国外交の拠点よ。お父様、出世したの――――」
父の地位昇格。本来ならば、家族総出で喜ぶべきことなのだろうが、愛理の表情は悲しくさえ見える。
「私は……恋愛を遊びだと思ったことはないわ……。でも……そう見られても不思議じゃないのよね…………」
「…………」
「――――寂しいから――――」
大きな家。英国政府の要人の父、裕福な資産家の母、恵まれた環境。何不自由なく用意周到な執事・中村や使用人達の存在。
そんな彼女から発せられたその一言を、播磨は一瞬、理解できなかった。
「誰かと“楽しい”時間が過ごせたら…………寂しくなくなるのかなぁ――――って。美琴や晶……何よりも塚本さんのように、笑えることが出来るかな――――って……」
「天満ちゃんのように――――?」
わずかに充血する瞳。そして、さすがの播磨も愛理の気持ちを理解することは出来た。
「でも……間違ってたのかな――――私……全然……」
もろさを見せる強気な少女。怺えきれないコバルト・ブルーの瞳から、あふれ出す雫。
「おい……」
しかし店内の視線は痛い。全てが播磨を悪者としてとらえているように思えた。
「俺は……惚れた腫れたとか、他の奴らがどうなろうがゴチャゴチャしたことはわからねぇ。……でもな、これだけは確信して言えるぜ。沢近、お前は絶対に間違ってるとは思わない。……何となくだけどな」
「…………」
じっと播磨を見つめる愛理。見つめられて再び赤面してしまう播磨。
「だぁぁっ! 要するにだ。お前は、そのままのお前がいいってことヨ!」
半ばやけくそに、播磨は完結させた。
「…………」
「…………」
何事かと視線を向けてくる他の客や店員達を気にする風でもなく、播磨と愛理は固まる。やがて……。
「……確信してくれているのに、何となく?」
語尾を上げ、言葉尻をとらえて、愛理は意地悪っぽく笑う。
「あぁ? ああ。そうだ。何となく、確信できるん……だ」
「ふ――――――――ん……」
播磨を見ていると、どこかしか心の中に暖かい日差しを感じるような気がしていた。
「……ふふっ、ありがとう播磨君。ちょっとだけ、胸のつかえが取れた感じ――――」
「……そら、よかったな」
急に小恥ずかしくなった播磨はそわそわと店員を呼び、コーヒーのお代わりを頼んだ。
「でも……本当に、恋愛を遊びだなんて思ったことは一度もないわ……」
「分かったよ。何度も言うな」
入れたてのコーヒーをすすった瞬間、熱さに思わず悲鳴を上げる播磨。
「あぢ――――――――ッッ! 熱湯じゃねえかゴラァ!」
全く、何事もあと一歩のところで頓挫することが得意な播磨である。まるで一人コメディの芝居を見ているみたいに、愛理は笑った。
「あ……そうそう播磨君、ハンカチ……」
「ん――――あぁ、わりぃ。今日は持ってねえ。明日、返すよ」
「ううん、今度の日曜でいいわ」
「は――――――――?」
「私、動物園がいいな――――」
播磨の頭上約10度に視線を向けながら、愛理は言う。
「なんかあの子たち見てたら……行きたくなっちゃった☆」
どうやら、播磨の下僕たちのことらしい。
「うん、決まり。日曜に返して、播磨君」
「……………………あのー……話が……」
ぼう然とする播磨をよそに、何故か浮かれる愛理。
打って変わって本当に楽しそうな表情を見せるハーフの少女のペースに、播磨は有無も言わずに乗せられてしまうかも知れなかった。
そして、梅雨明けは、もうすぐだと、天気予報は伝えていた――――――――。