枝葉柚希篇 STARTING OVER


 夜の九時も半ば。今頃、故郷の田舎町は月の静寂の中にあるだろう。それに較べて、この街は電光が昼のように路を照らし、建物の窓の灯りが連なり、車の往来やエンジン音、雑踏が交錯し、酔客のさざめきが絶えない。いつもと同じ、都会の夜。
「枝葉!」
 思わず、青大は大きな声で小走りに暗闇に駆けてゆく柚希を呼び止めていた。
 その声は、そんな殷賑の往来でも、一際響き、透るものであった。
 まるで再生しているビデオ映像を、一時停止させたように、彼女の足が止まる。
「…………」
 足を揃えて立つ彼女の背中に、声を掛けようとしたその時、マナーモードに切り替えていた、青大の携帯端末機が振動した。
【どーせカワイイ子に囲まれてニヤニヤしてんだろ! あんまり遅くなるとさすがに怒るよ!?】
 御島明日香の咎戒。早く帰ると約束してきた。
「あ――――――――……」
 苦笑する青大。
「どうしたの、青大くん?」
 奇っ怪な呻き声を上げながら、端末機を相手に逡巡する青大に、柚希はくるりと踵をひねり、振り返る。長い髪の毛が舞い、無邪気さが残る微笑みを向けた。
「ええとな…………」
 端末機を握りながら、視線を柚希との間で交錯させる青大。
「…………」
 そんな彼の様子を、柚希は哀愁を帯びた微笑みで見つめ、言う。
「彼女、待ってるんでしょ? 帰らなきゃ」
「…………」
 青大を見つめながら微笑む柚希。確かに一年有余の間に雰囲気が変わった。言い換えるならば、大人になったような気がする。
 だが、何故だろう。柚希を見ていた青大が無意識に、声を発する。
「枝葉――――もうちぃと、時間……あるか」
 サブリミナル効果というものが本当にあるというのならば、こういうことを言うのだろうか。
「え……あ、でも――――」
 腕時計に眼差しを向ける柚希。確かに、彼女の家には門限がある。それを気にしているのだ。
「久しぶりに逢うたんや。もうちぃと、話をせんか」
 青大はそれまでの躊躇と狼狽から一転、不思議なほど落ち着いた口調で言葉が紡がれた。
 困惑する柚希だったが、青大の瞳に燻る灯りが、見失っていた心の閂を照らしたように思えた。
「……うん、いいよ。……あ、ちょっと待ってて――――」
 家に連絡を取るために、柚希はハンドバッグから携帯を取った。そして、青大も握りしめていた携帯端末機を手に取り、メールを打った。
【悪ぃ。二次会に行ってくるから、先に寝てろ。十二時までには、帰る】
 多分、明日香は青大の部屋にいる。正確には、青大の姉・葵の借りている部屋であり、青大は居候だ。明日香は右隣に住んでいる。
【ほら見ろ、やっぱりそうだ! もうウワキなんてしたら一生、口きかないからな!】
 返信はすぐに来た。最初の文面に愕然とする青大。だが、タッチパネル上を指でぐいぐいと下に向けてこすると、本文の最後に、追記があった。
【……なんて、冗談だよ。わかった。じゃあ、私部屋に戻ってるから。飲みすぎないように!】
 絵文字までついた文。かつて月から指摘されたことがある。愛想尽かした相手には、返信なんかしないし、ましてや絵文字などは使わない。安心した。
 端末機をポケットにしまい込むと、ちょうど、柚希も電話を終えて、おもむろに青大の隣に並んだ。
「どうだった?」
 青大が訊ねる。
「うん。出たの懍だった。お父さんとお母さんには話しておくって。でも、あんまり遅くなるとさすがに……ね」
 苦笑する柚希。
「ははは。俺も同じじゃ」
 日を跨ぐはずがない。そんなはずがない。ただ、枝葉と話をするだけだ。
 言い聞かせるように、青大は心の中で反芻する。

(私たち、もう会うこともないのかな……)

 あの時、柚希が見せた哀しげな表情が、フラッシュバックする。はっとして、無意識に歩きながら、青大は隣の柚希の顔を見る。視線に気づき、にこりと微笑む柚希。
「どうしたの?」
「あ、いや……」
 慌てて顔を背ける青大。
「ねえ、青大くん」
「な、なんや」
「これから、どうするの?」
「こ、これからって?」
「どこか別のお店に行く? それとも……」
「あ、ああっ。そ、そうやなーあはは、えーと……」
 呆れたように溜息をつく柚希。
「もォ。相変わらずだね、青大くん」
「わ、悪ぃ――――」
 そして、青大は足を止め、少し思考を巡らせた。
「あんま金もないし、近くの公園でもええかな」
「くすっ。うん、いいよ。それで」
 何故か笑う柚希。
「なんで笑うんや、枝葉」
「ううん、なんでもない。あ、そうだ! ちょっと待ってて、青大くん」
 そう言いながら手を打ち鳴らし、突然柚希は通りかかったコンビニに滑り込んだ。
「な、なんやあいつ……」
 茫然と佇む青大。柚希は壁際に並ぶ冷蔵庫の扉を開き、ごそごそと物色していた。そして、小さな店内の騒擾が収まり、やがて袋を抱えた柚希が戻ってきた。
「なんや、それ」
「んー……か、く、て、る」
「か――――かく……って、お前それ、おさ……!」
「しぃーーーーーーーー」
 いきなり人差し指を青大の唇に当ててくる柚希。
「!?」
 青大の胸がばくんとなった。唇に当たる、ひやりとした柚希の指。その滑らかな感触に、一瞬全身の神経が集中してしまう。
 妙な感情に囚われかけるのを振りほどき、青大が声を押し殺して怒鳴った。
「み、未成年じゃろ。飲めるか!」
「いいじゃない別に、今日くらい」
 まるで駄々をこねる子供のような仕種。そんな彼女も知っている。すっかり忘れていたはずだった。忘却の彼方に、追い払っていた記憶。
「ったく……お前って奴は――――」
 頭を掻きながら、青大は嘆息した。勝ち誇ったように、笑顔の柚希。二人は並びながら、近くの小さな公園に入った。周囲は街灯や建物、ビルの明かりに照らされている都会の一角だが、静かな公園。公園を照らす外灯の側にあるベンチに、二人は座った。

 間が保ちにくい。柚希とは色々とあったが、やはり牆根のない関係だと思っていたが、どうやらそんなことはないようだった。
「はい。青大くん」
 そう言いながら、柚希はコンビニの袋を漁り、事も無げに缶チューハイを青大の眼前に突き出す。
「だ、だからなァ!」
「ん?」
「別に酒なんて飲みてーと思わんって、ゆうてたやないか」
「あれ、そうだったっけ?」
「お前なー……」
 断ろうとしたが、全く悪びれた様子のない柚希の表情に、青大は緊張と共に、毒気まで抜かれてしまった気がした。溜息をつきながら、それを受け取る。
 満足そうににこりと笑うと、柚希は自分も缶チューハイを取り出し、プルタブを開けた。
「んん――――、美味しい!」
 ひと呷りする柚希。目を細めながら、満足そうに息をつく。
「苺味」
「トマト味だったら良かったんじゃ」
 くくくと笑う青大。
「もォ、ひどーい。それに、トマト味なんてあったらそれはそれで嫌だよ」
「なに言うとるんじゃ。お前知らんのか。トマーテゆうてな……」
 少し放置するとゴミの山になる葵の部屋は、そのたびに多種多様の酒類の空き缶が発掘される。知識はそこそこあるのだ。
「えー。それって、すごく不味そう」
「飲んだことはないから、味までは知らんわ」
 相変わらず、トマトは苦手のようだ。
「それより、せっかく買ったんだから、青大くんも飲んでよ」
「お、おう」
 何となく勢いに押された気がした。プルタブを引く。
 カシュッ、と炭酸の抜ける音がして、青大はそれを一口、呷る。
「…………」
「どう?」
 青大の表情が、何とも言いようのない色に変わる。
「青……大くん?」
 のぞき込むように、柚希が青大の目を見つめる。
「…………」
 青大は手にした缶を無言で柚希に差しだし、片方の手で、彼女の苺酎ハイを求めた。
「え……飲みたいの?」
 二度ほど、頷く。
「わかった。じゃあ、交換」
 柚希は苺缶を青大に渡し、差し出された青大の飲みかけを受け取る。
「…………」
 青大は受け取った瞬間、それをぐいと一気に呷った。
「ぷは――――――――!」
「?」
 苦虫を噛み潰したような顔で柚希を見る青大。きょとんとしながら、彼女は青大と交換した缶酎ハイを呷った。
「う…………」
 途端に、柚希は固まった。

「ごめんね……青大くん」
「いや、ええわ。せっかくお前が買うてくれたんじゃ」
 柚希からそれを取り返し、飲み乾した。
「それにしても、こんなんマジで売っとるんか。詐欺もんやぞ」
 空になった缶をくしゃっと握りつぶす青大。
「口直しに、もう一つ、はい」
「今度はなんや。しっかり銘柄見んとな」
 “赤紫蘇”……。
「これはお前のや」
「ええ――――!」
 有無も言わずに突き返す。袋を漁り、レモンを強奪した。
 食堂から異が熱くなる。少しだけ、アルコールの効果が出てきたように思った。
「酒飲めん言うとったのにな、オレら」
 青大が苦笑すると、やはり少しだけ上気した感じの柚希が笑顔で返す。
「そりゃ、あの場では無理だよー」
「それに。お前が飲めるクチやったなんてな。この不良が」
「ひ、ひっどぉーい! 私だってお酒くらい――――それ言うなら、青大くんだって――――」
 からかい、怒る。漫才のような他愛のない自然なやりとり。素面でないからこそ、出る自然さなのか。
 二人の間に静けさが戻る。空になりかけたレモンハイの缶を両手にしながら、青大は口を開いた。
「枝葉、ひとつ聞いてもええか」
「うん――――」
「さっき――――俺にメアド教えた時……なんで俺のを訊こうとしなかったんや」
「…………だって、昔のままだって言うから」
 柚希がそう答えると、青大が大きな溜息をつく。
「確かに、めんどくさいけえそのままなんじゃけど。そうじゃのぉて、お前――――」
 酒のせいか、禁忌も懼れず、遠慮もせず、どこかしか鷹揚な心地の中で言葉が出る。
 青大が柚希に向くと、彼女はまだそれ程減っていない、桃ハイの缶を両手に、それを見つめるように視線を落としていた。いつの日か青大が知る、寂しげな横顔だった。
「そうだよ……」
 ただ、その一言が返ってきた。それだけなのに、青大の胸の奥が、酒気の熱さではない何かによって突かれた感覚が奔る。
「枝葉……」
 青大の声に、柚希も顔を上げて、青大に微笑みを向けた。広島で過ごした時に見せていた笑顔の片鱗。まるで、あの時から時が止まってしまっているかのような無邪気さと、音信不通だった時に彼女が歴てきたことの喜怒哀楽が混在した色。
「枝葉――――俺は……」

 青大がすくと立ち上がった瞬間、カランと、物が落ちる音が響き、同時に青大の背中に決して強くない圧迫感に包まれた。
 地面に転がる桃ハイの缶、大地にそれが吸い込まれてゆく。
「枝…………葉………?」
 青大の頬に感じる、長い髪の感触。胸元に押しつけられる、その柔らかな感触。
 耳に微かに途切れがちな息づかい、そして居酒屋の煙草、香水、桃味の息が入り交じった匂いが、青大の鼻腔を掠める。
 それは、決して予想していなかった事態。
 柚希が何も言わず、突然青大に強く抱きついていることを。
「な……なんや、枝葉……お前……どうしたんや……」
 宙を彷徨う両腕、突然の柚希の行動に愕然として、鼓動が破裂しそうになる。
「……るだけだから…………」
 聞き取れなかった。
「は?」
「…………酔ってるだけだから…………」
 青大の胸に顔を押しつけながら、柚希が言う。
「だ、だからって、お前……」
 しかし、何故か押し退けることが出来ない。「青大くんも、酔ってる。だから、いいの」
 甘えるような口調は、悪戯好きな少女の色合いが滲む。その瞬間、青大はベタなシチュエーションであろう、悲しいことがあって男の胸で泣く女などという幻想が霧散した。
「お、おい枝葉っ! ふざけるのもええ加減に……」
「明日には……忘れてるよ――――、ううん、忘れなきゃ……ね」
 身を捩る青大に、柚希がそう呟いた瞬間、青大の動きが止まった。
「お酒のせい……お酒が悪いの――――」
 青大の背中を包む、柚希の腕の力はない。身を引けばすぐに解けることが出来た。
「…………」
 飲み乾した缶チューハイに全ての責任を押しつけよう。実に子供染みていて稚拙極まりない理由。だが、それが青大自身、あの追憶の彼方。飯田橋の駅口で感じた時以来の、か細い背中に触れる口実には十分だったのだ。 忘れていた。忘れようとしていた。
 それはとても脆弱な覚悟だった。青大の腕にしっかりと感じる温もりは、何を訊きたかったかなど、刹那に忘れさせた。
 胸の鼓動が高鳴り、互いの鼓膜に響く。
 アルコールのせいで程よく上気した二人の潤んだ瞳が交差する。

(酒の…………せいや…………)

 青大と柚希の互いの視界が暗闇に包まれ、そして次の瞬間に、温かい感触が、互いの唇を覆った。

 それから何を思い、何を考えていたのかは覚えていない。
 時計の針は、日をとうに跨いでいた。ただ気がつけば、青大は明日香の部屋の前にいた。十二時は過ぎたが、許容の範囲内だった気がする。それよりも、明日香はそれくらいで怒る女じゃない。
 呼び鈴を鳴らし、やがて扉が開いた瞬間、青大は玄関に昏倒した。明日香の叫きがただ、脳裡の彼方にフェードアウトしてゆく事だけは感じていた。