桐島青大×浅倉清美編 涙の夜に~Night of tears~ 第1話

 不思議なほど、涙がこみ上げてこなかった。
 彼女を追って、追いかけて。無理強いをしてまで上京し、そこで出会った親友。
 姉の葵が言っていたように、彼、風間恭輔は尊のようであり、御島明日香は月のような感じだ。かけがえのない親友なんて、本当に偶然に出来るものなのだなと、軽くあしらう程度だった。
 でも、そんな軽いものが、だんだんと大きくなって、見かけなくなると、何か心が落ち着かない。
 あんな軽そうな奴でも、夢はしっかりと持っていて、一本筋の通った奴だ。女友達は多いが、交際したのは……そう、彼女だけ。もう、それも遠い話。

『手術が成功したら、彼女に択んでもらおう』

 まるで、二度と還らぬ特攻隊兵の遺言のように、あの日屋上で風間は告げた。何かを達観したかのように、そう言った彼は怖いほどに清々しかった。

 彼の急逝の報せが届いたとき、桐島青大は不思議なくらいに涙が出てこなかった。むしろ頭の中が透徹に澄み渡り、風間の姿を追うことが出来た位に。

(そん時に、清美とつき合わねーかって言ってんの)

「まったく……ほんまバカなこと言いよぉわ、ロン毛ヤロー……」
 その瞬間、すれ違った彼女。自分でも驚くほどに、言葉も、心も、あれほど風間とやり合っていた気持ちが、嘘のようになくなっている自分に驚いた。
(今のアイツに…オレから掛ける言葉なんかねェ…)
 その直後、青大の視界に入ったのは、ぽつんと一人、席に座っている少女。
 そう、風間があの日、こともあろうか青大に託した幼馴染みの浅倉清美である。
「浅倉……」
「…………」
 青大の呼びかけに一瞥する清美。泣きはらしたのは眦が酷く腫れているからすぐに判った。
 グラビアモデルも顔負けとばかりの抜群のスタイル。腰の辺りまで伸びた、黒くストレートの髪。ぱっつんに揃えた前髪。少しきつめだが、風間も青大も目を瞠る程の美少女。
 喩えるなら高飛車な女王、マニアックな言い方をすればツンデレ。そんな言葉がよく似合う清美も、風間の入院見舞いから知り合い、彼女を巡って騒動を起こした。初対面なのに、異性を越えて気が合った。
 少し間の抜けたところもあるが、風間に一途に惚れ抜き、一向に振り向かない風間に対しそれでも想いを通してきた。彼女にも堂々宣戦布告するなど、恐れも知らぬ猪突猛進ぶりは、青大も自分に似ているためか、共感できた。だから、出会って、すぐに“親友"になれた。
 青大は膝を合わせ、肩を窄めて涙を堪えている清美の隣の席に腰を掛た。
「風間はこうなることも覚悟の上やったから、後悔なんてしとらんハズやって……お母さん言うとったぞ」
 清美は風間が手術に向かう直前、最後の直筆となる言葉を、ヘルメットに遺したことを青大に告げた。
「見てあげて……ホント、小学生みたいで笑っちゃうから……」

 青大が祭壇に置かれた、ヘルメットの文字を見た瞬間、すうっと血の気が引き、眩暈を起こした。ふらつき、危うく転倒しそうになる。
「桐島くん!?」
 清美が思わず立ち上がり、駆けよろうと足を伸ばす。しかし、青大は踏みとどまり、ヘルメットに両手を添えながら、初めて涙が溢れた。風間が死してから、青大が初めて流した涙は、激しい欷泣であった。ヘルメットが置かれている祭壇の下に膝を屈し、青大は全身を切り刻むような悲愴感に窒息してしまいそうだった。
「…………」
 清美は青大の後ろに歩み寄り、右手の平をそっと青大の背中に当て、擦った。

 しばらく、青大の欷泣・慟哭は続き、やがて落ち着いたのか、ひとつ深呼吸をすると、ゆっくりと立ちあがる。
「大丈夫……?」
 清美が心配そうに眉を顰めて青大を見ると、青大はくしゃくしゃな顔に笑顔を繕って言った。
「お前に比べりゃ、大したことねェわ」
「え……?」
「オレよりも風間を失った傷が深いのは、あいつでもオレでもねえ。幼馴染みのお前じゃろ」
「…………」
 青大の言葉に、堪えていた涙が、再びあふれ出してきた。
「オレのことはいいから、誰もいねえ所で思いきり泣きはらせや。泣くことしか、今は出来ねえやろ」
「…………ありがとう――――」
「おお」
 ニイと口に笑みを作る青大。さり気ない青大の言葉の中にある気遣いに、清美はわずかに俯きながら、それでも嬉しく思った。だが、清美は踵を返して歩こうとはしない。
「? ……どないしたんや」
「桐島くん――――これからどうするつもり?」
「これから――――? ああ、家に帰るだけや。街をぶらぶら……って気分じゃないしな」
 それもそうだろう。顔を腫らしたまま、殷賑甚だしい繁華街もない。清美はそれを聞くと、少し顔を綻ばせて、言った。
「だったら、今日は私に付き合って、桐島くん」
 少しだけだが、気丈な浅倉清美の色で、青大に対した。
「え、ああ。……別にええけど」

 コンビニのレジ袋を提げながら先導する清美の後ろに青大はついた。
(胸とかデケェしさ、それに割と美人じゃん?)
 風間が評した言葉が過ぎった。
「……まァ、な……」
 思わず呟いた声に清美がぴくりと反応した。
「え? 何」
「あぁ――――何でもないんじゃ!」
 首を傾げる清美、しかし何事もなかったように、歩みを進める。

「なぁ浅倉。どこに行くんじゃ」
 電車の切符を買わされ、青大は流されるように清美に追従する。
 行き先は茨城下妻市。そう、風間に連れられ、彼がまさに風の如くバイクで疾走したサーキット場だ。
「ここは……」
 一度だけ来たことがあるだけなのに、やけにその景色が目に焼き付いている。心なしか吹きぬける風に、風間が使っていたトリートメントの香りがするような気がした。
「…………」
 清美が受付とやりとりをして青大に振り向き、手招きをした。

 スポーツカーの祭典などで有名なテーマパーク。モータースポーツ好きの楽園としてその知名度は全国的だ。
「今は……スポーツカー競技の練習みたい。バイクじゃないわね」
 見たこともない、都心や広島の片田舎でもないような派手な様相をした車が、コースを轟音を立てながら駆け抜けている。
 観客席もいわゆる本戦じゃない上、平日も相まって疎らだった。
 清美は観客席の最上段。近くの周囲に誰もいない席に青大を導き、腰を掛けた。
「うっわぁ、ここから見ると、何かおもちゃの車みたいやな」
 ビュンビュンと軽快な爆音が響き、おもちゃ屋などで売っている模型のようなスポーツカーが、綺麗な軌跡を描きながら旋回している。
「バイクもそうやけど、クルマも、はまる奴ははまるからな」
「桐島くんも、そう?」
「いや。オレはそうでもないんやけど、地元のクラスメイトでむっちゃ好きなやつおって。もう、一度火がつけばそら――――」
 広島の話に火がつきかけ、慌てる青大。清美は静かに青大を見つめながら、淋しそうに微笑んでいた。
「ごめん……」
「どうして謝るの? 別にかまわないわ。続けて」
「いや……また今度にするわ」
「…………」
 自分で火を消してしまった青大は、今度は黙ってコースを見つめる。清美は手に提げたコンビニの袋をまさぐり、缶詰を取り出す。
「それは……」
 青大が一瞥し、愕然となった。
「うん……」
 風間の入院見舞いに託けて清美の想いを成就させようという、稚拙な計略が大頓挫した遺物。白桃の缶詰だった。
「お前……そんなんどうした」
「食べないかなって、持ってきたんだけど」
 祭壇に置かれた、あの時の缶詰。この缶詰のように、清美の思いも封じられたままだった。
「ここでかよ。ベタつくだろ」
「大丈夫よ。ウェットティッシュも用意してあるから」
 と、袋からもう一つ、ウェットティッシュの箱を取り出す。
「…………」
 呆れ顔で清美を見る青大。しかし、清美は“どう?"という感じで見返す。
 青大はやれやれとばかりに長嘆し、首肯いた。
「気分爽快なカーレースの練習風景見ながら、桃缶頂きますかー」
「ふふっ、さすが桐島くん」
 清美がわずかに微笑みを浮かべた。青大が、言う。
「それでええよ」
「え……?」
 思わず、オープナーを持つ手が緩む清美。青大を見る。

「お前が買うた桃缶、風間と一緒に食べようや」

「……っ………………う……うん」

 哀しみは止まなかったが、青大の言葉の優しさが、清美の心に満遍なく注ぎ込まれて行く。言葉の節々にある、青大のさり気ない優しさが、とても嬉しく思うようになっていた。