何時間もぶっ通しでF1マシンで走り続ける耐久レース。レーサーがまさに男の死闘を繰り広げるサーキットの観客席で、フォークを手に桃缶を突っつく高校生の男女。
「うっわ。手がベタつくわ」
果物の缶詰というのは、何故か知らないうちに手がベタつく。不思議なものだ。親指と人差し指、中指を合わせながら糖分の感触に苦笑する青大。
「もう、子供みたいね貴方。はい、これ」
清美が呆れ気味に溜息をつくと、ウエットティッシュの蓋を開け、青大に差し出す。
「それにしても風間の奴、黄桃に拘っとったなぁ」
「……そうね。そっちの方が好きだったみたい」
フォークに刺した白桃の切り身を、遠慮がちに唇でつまむように口にする清美。食べる仕種は、意外と女の子としていた。
「白桃の方が甘くて美味いんじゃけどな。まァ、好みじゃからあれなんだけど」
青大が言いながら一気に半分を頬ばると、もふもふと頬を動かし、砕く。シロップの甘さが口の中を刺激し、思わず震えが走る。
その様子を、清美は小さく微笑み、片方の腕を伸ばし、おもむろに青大の膝の上に置いてあったウエットティッシュを一枚、引き抜いた。
「ばかね。もう少しゆっくり食べなさいよ」
そう窘めながら、清美は青大の口許に垂れるシロップをそれで拭った。
「んぐっ……!」
突然な清美の行動に愕然とする青大。口の中にわずかに残っていた桃の固まりをゴクリと飲み込んだ。当然、噎せる。
「ホラ、みなさい。無茶して喉つまらせても知らないわよ」
そう呆れながらも、清美は青大の背中を軽くノックし、さする。
「あら? 飲み物を買ってくるの、忘れたわね。シロップを飲んだ方がいいわ」
空のコンビニの袋を覗き込み、事も無げに恐ろしいことを清美は呟く。
「んんんんーーーー!」
ぶんぶんと首を横に高速横転し、缶を差し出そうとする清美を拒否する。
「?」
「はーっ、はーっ、死ぬかと思ォたわ!」
突っ込む暇もなく何とか胃に落とし、窒息を免れた青大が肩で息をする。
「自業自得よ。気をつけなさい」
そう言いながら再び自分の桃を口に運ぶ清美。コースに視線を送っている清美の横顔は、葬儀会場にいたときとは違って、和らいでいた。
(こ、こいつぁー……!)
淡淡とした清美らしい反応に少しだけ腹立たしかったが、青大が知る範囲での浅倉清美らしさが見えたようで、すぐに収まった。
軽快な爆音を立てながら、コースを旋回するスポーツカーを眺める。それが気を紛らわすという効果としては幾ばくかはあるだろう。だが、会話がなくなると、やはり心を覆う気の重さが、二人を包もうとするのだ。
「なァ、浅倉」
「…………」
「なんで、ここに来たんや」
一瞬、清美は青大を一瞥した。青大はピットに停止し、人が集まっているクルマを見つめている。それは決して興味がないという意味ではない。
それに触れれば都度悲愴に陥るであろう表情を見ず、言葉だけを聞こうという気遣いであることを、清美は感じていた。
「……桐島くんは、東京に越してきて間もない頃、彼と来たことあるんでしょう?」
「あぁ。御島も一緒だったけどな」
「…………」
少し間が開いた。爆音の中でも清美の整える息遣いが、青大には聞こえた。
「私は……彼がバイクの免許を取る前にね、一度だけ、一緒に来たことがあったの――――――――」
穏やかな口調で、清美は話す。
「“見てろよ、清美。俺は免許、一発で通って、初乗りはここでしてやるんだぜ!”――――って……。すごく……張り切ってたなぁ」
言葉が詰まる。それでも、青大は清美を振り向かない。清美の想いを、聞いてあげたいと、ただ聞いてあげたいと、思った。
「“そうしたら、お前を後ろに乗せて連れてきてやる”……ってね。……でも、彼が免許を取ってから……私はついに一度も、後ろに乗せてもらったことがなかった……」
「…………」
青大が瞼を閉じる。
「それは、“あいつ”も同じやと思う」
「…………」
青大の核心めいた言葉に、清美が半分兎化した瞳を青大に向けた。
「御島は乗せてもろうたかも知れんけど、あいつは……ないわ」
青大の断言に対し、清美は言葉を呑み込んだ。
「そう……」
それがただ慰めるための気休めなどではないと言うことは清美自身が良く判っていた。
“彼女”を想い、ただ誠を尽くして来た青大。清美もまた、風間に対して一途な至誠を尽くしてきた。互いに似た境遇。それを理解できる青大の確信は、妙に生々しさを感じた。だから、すとんと腑に落ちるのだ。
「約束してた訳じゃないから、責めたりは出来ないけど……でも……でもね?」
「…………」
清美の声が詰まる。懸命に、言葉を紡ぐ。さしもの青大もいつしか視線を上げ、虚空を見つめながら瞼を閉じていた。
「……だから、せめて彼と一緒に来て、彼がその時話してくれた思いを感じたかったの――――――――今日――――――――」
それがこの日。人生たった一度の、大きな節目の日。
青大はやっと振り向き、清美を見た。気丈で、精悍とも言える凛々とした美貌が、すっかりと小さく、手折れそうになっていた。
「風間も、悔しかったんやと思う」
「……え?」
「あいつはチャラそうやったけど、約束を破るような奴やない。お前との約束も、忘れてはなかった筈や」
「桐島くん……あなたの方が、彼のことよく解っているのね」
「そんなことはねェよ。むしろ俺よりも、ずっと風間を見とったお前が一番よォわかっとる筈やろ」
青大の言葉が、じんと胸に沁み渡る。
「あなたって……本当、優しい人ね」
不意に、清美がそんなことを言った。
「な、なんや、いきなり」
「と言うより、お人好しかしら? 何も言わずに、こんなところまで付いてくるし――――」
言い直す清美に、青大は唇を尖らす。
「あそこでああ言われて断れるか。お前よォ抜けちょるし、放っておかれんじゃろが」
青大の不満げな表情を、清美は寂しげでも穏やかな眼差しで見る。
「彼があなたを買っていた理由――――わかるわ」
「……いや、だからな浅倉――――」
その瞬間、青大の目の前が、一瞬暗くなった。
「………………」
少しひやりとした、柔らかい感触が、突然青大の唇を覆った。どれくらいの時間なんてわからなかった。ただ、何度か同じような感触を経験した。それに比べると、やや厚みがある感触。そして今までのどれよりも緊張に震えていた。
「お、お前! ど、どうゆうつもりじゃ!」
唇に手を当てた青大が思わず口から出たのは、既視感が強い台詞だった。その叫びが、脳内に強く延々と反響する。
清美は凜としたその細めの瞳を伏せ気味にし、わずかに青大から顔を逸らし、頬に朱を差している。
「私が彼に出来なかったこと。あなたに責任を取ってもらおうと思ったのよ」
それでも声は気丈さを失っていなかった。
「何じゃそれ! 意味がわからん」
じわりと動揺する青大。声を荒げるが、清美はひとつも動じる素振りを見せず、尻すぼみになってしまう。
「……それに、お礼も兼ねて……かしら」
清美がしおらしく呟くと、青大が突然火が付いたように顔が真っ赤になる。
「オレはお前に礼をされるようなことなんかしとらんわ!」
青大の言葉に、清美は目を細めながら、コースに目を向けた。
「いいじゃない、別に。私がそうしたかったんだから。……ねえ、それよりもコース見ましょうよ。ね、ね。あれ、何してるのかな」
清美がはぐらかし、青大の腕を掴みながら、ピットに停まり、ボンネットを開いたポーツカーに群がる人を指差す。
「コラ! 指差すな指を。えーっと……あれは多分――――――――」
さほど気にする様子を見せなかった清美。しかし、意識という感情は、一度向けられると、全方位にそれが作用する。青大にとって、サーキットのコースを興味津々と眺めながら話をする浅倉清美が、そこはかとなく無理をし、懸命に寂しさを隠そうとしていることが、痛いほど伝わってくるように思えた。