結局、夕方五時近くまでサーキットの観客席にいた青大と清美。そこから出た二人は、何だかんだと雑談を交わしながら時間をつぶしていく。つくば市に戻り、マックで軽い食事を摂った。
「そろそろ電車乗らんと、遅うなるな」
時間を気にする青大。駅前通に出たとき、時計は午後八時を廻っていた。今から帰れば、九時半ごろには家に戻れる。
「なあ浅倉。そろそろ――――」
「ね、ねえ桐島くん?」
青大の言葉を遮るように、清美が繕った笑顔で青大を呼ぶ。慣れぬ顔をしているためか、引きつっているようにも見えた。
「な、なんや」
一瞬、気圧される青大。
「せ、せっかくここまで来たのだから、もう少し歩きましょうよ」
すると青大はジト目で少し首を傾げながら清美を見る。
「はァ? お前、何言うとるんじゃ。時間見てみィや。こんなところでブラブラしとっても仕方無いろォが」
「…………」
清美が何かを秘匿している子供のような顔で青大から視線を逸らしている。
「それにはよ帰らんと、電車のォなってしまうやんか」
青大はそう言って先立って歩き出そうとした。ところが、清美は外方を向いたまま腕を組み、いわゆるモデル立ちでその場から動こうとはしない。
「おい浅倉、何しとんじゃ! はよせんと電車行ってまうやないか」
「…………」
しかし清美はぶすっとした表情のまま、青大の言葉に反応しない。
「ったく……置いてくぞー」
青大は横断歩道を渡った。何をごねているかはわからないが、渋々とついてくるだろうと。
「…………」
ところがいつまで経っても清美の気配を感じない。振り返ると、彼女の立ち位置はそのままで、往来の視線を一身に集めている。確かに、清美は遠目から見ても見栄えのする美人である。
「…………ったく、あいつは。何考えとるんじゃ!」
信号が意外にも長い。東京でもないのに結構、人がいるものだなと感じた。
青に変わり、青大が頭を掻きながら踵を返す。やる気無さげに歩を進めていると、青大は愕然となった。
見知らぬ男が、清美に声を掛けている。ナンパであった。
「っ……あのアホッ!」
青大の足が自然に駆けていた。
「おい浅倉ッ!」
「!?」
擦れ違いざまに清美の腕を掴む青大。驚き、怒鳴り声を上げる男を置いて、清美は青大に引っ張られるようにその場から離れた。
「何考えとるんじゃお前は!」
青大が怒る。しかし、清美はぶすっとした表情を崩さず、ぼそっと呟く。
「そんなに帰りたいなら、一人で帰ればいいじゃないかしら。私のことは放っておいてもいいでしょ?」
その言葉に、青大はあからさまに大きく嘆息を漏らす。
「そんなん出来るわけ無いろォが! 困らせんなや、浅倉!」
がくりと肩を落とす青大。本気で困惑している彼の様子を、清美は一瞥する。
「お願い、桐島くん……いいって言ったでしょう。今日は私に付き合うって」
しおらしい声で肩をすぼめる清美。青大は駅前の時計を見ながら、一度瞼をきつく閉じた。
「はぁ――――――――わかったよ。こうなったら、お前の気ィ済むまで、付き合うたるわ」
やけくそだった。ありがとうと返す清美は笑顔を繕ったが、哀しみの色など消えるものではなかった。
中央公園には大きな池と森があり、遊歩道が続いている。ライトアップされていて物騒さというものが感じない、夜でも落ち着く雰囲気がある公園だった。
「こんな日に……まるでデートやな」
並んで歩きながら、青大が呟く。
「デートはともかく、今日だから意味があったのよ」
清美の声は落ち着いていた。
「……お前にとって、大きな意味がある言うんなら、それでええんやけどな」
青大のその言葉に、清美が思わず歩を止める。それに気づき、青大も歩を止めて振り向いた。
「どうして……?」
「は?」
俯き加減の清美の細い瞳が、微かに震えている。
「どうして、貴方はそんな……」
突然泣きそうな声に、青大は狼狽する。
「ど、どうしたんや浅倉。オレ、何か悪いこと言うたか?」
両腕を空に回し、おろおろとする青大。しかし、そんな青大に向かって一歩、足を踏み出すと、その胸元に清美は額をとんと押しつけてきた。
「浅倉……」
顔を隠すように、清美は地面に向かって囁く。
「桐島くん……優しすぎだわ――――放っておいても、同じ電車に乗っていたのに」
「おまっ……!」
声を押し止める青大。突き放すことなど、出来るはずもない。
「私を離して、駅に行ってもいいわよ。私も……きっと同じ電車に乗るわ」
時計は未だ十時になっていないだろう。東京に行く終電までにはまだ間に合うはずだ。清美もこう言っていることだから、駅に向かうべきだろう……。
「だったら、お前も一緒に行くんや」
「…………」
返事をしない。
「同じ電車に乗るんじゃったら、一緒に行くんじゃ」
「…………」
うんともすんとも言わない。青大は呆れる。
「……そんなんで、信用できるか」
「……どうして? 大丈夫よ、私だったら」
強がりだ。青大は思わず、清美の両肩を掴み、ぐいと押した。俯いたまま、表情を隠そうとする清美。
「こんな日に大丈夫じゃなんて、そんなん信用できるわけねぇろォが。……ましてお前のこと、こんなところに一人置いていけるわけねぇじゃろうが!」
「……るいわ……」
ぽろ、ぽろ、と。俯いた清美の顔から、大粒の雫がこぼれ、灯りに反射した。
「え……?」
「…………ずるいわ、桐島くん…………」
がくがくと、青大に揺さぶられるがままの清美の肩。震える声で、清美が言う。
「人が弱っているときに……そんなに優しくされたら……」
妙なことを言うと思った。
「いや。優しいとか、冷たいとか言う問題じゃのうてな……」
「わかってるわよ。……でもね。やっぱりずるいわ、貴方……」
そう言って、ふっと清美は青大の手から離れた。
その瞬間、青大の頬に長い髪の毛が触れ、とてもよい香りが、鼻腔を擽った。背中に回された腕、制服の上からでもわかる豊満な胸が、青大の肋を圧迫した。
「無意識の優しさって、罪よ」
「……浅倉――――」
青大は一瞬躊躇ったあと、そっと左腕で清美の背中を包み、右手でその真っ直ぐで繊細な黒髪を撫でた。そうすることが、清美の心を落ち着かせる方法だと思った。
「貴方にキスしたって言う子も、同じかも知れないわね」
「え……?」
「……ふふっ、何でもないわ。気にしないで」
急にばつが悪い気になってきた。青大は腕の力を抜くが、清美が回している腕は、逆に強くなっている。
「浅倉。もう……」
「もうしばらく、こうしていてもいいでしょう」
清美の言葉に逆らう名分がない。端から見れば、恋人同士が抱き合っている図である。時々遊歩道を通るサラリーマンや、カップルも、羨望や揶揄の眼差しで青大たちを見ながら通り過ぎて行く。青大は敢えて瞼を伏せ、清美から与えられてくる体温を感じていた。
「……お前は、風間一筋だった筈やろ」
清美からの束縛を解き放つための言葉だった。
「貴方も……あの子、一筋だったはずだわ」
切り返された。解放どころか、清美は一度緩めたかと思ったが、再び、腕の位置を変えて青大にしがみつく。
「もう……終わったんじゃ」
いつからか芽生えていた諦念。清美に抱きつかれ、青大もまたそれに答えようとする中で、それがクリアに感じ、まさに明鏡止水と言った心情だった。
「私も……終わってしまったわ……永遠にね」
涙も涸れ果ててしまうくらい泣きはらした。たった数時間前まで風間の名前に触れるだけで、悲愴な表情を見せていた清美もまた、諦念に近い落ち着いた声で、そう呟いた。
「やっぱ……オレとお前は同じ……やな」
青大が清美の背中を包む腕に力を入れると、今度は清美が腕を緩め、身を離す。
そして、清美が青大の目を真っ直ぐ見つめながら、言った。
「同情?」
青大がそれに答える。
「共感……や」
青大の掌が、清美の耳許にかかる髪に触れる。
「なにそれ、バカみたい」
清美が呆れ気味に目を細め、唇を結んだ。
「そうじゃな……バカみたいじゃ」
細く滑らかなうなじに滑り込む青大の指。うっすらと閉じて行く、清美の睫。
「電車……無くなるわよ?」
「…………」
「ん…………」
言葉が消え、影がひとつになった。