午後十一時。東京行きの終電が過ぎた。
「行ってしまったわね……」
「……お前のせいじゃ……」
それはあからさまな建前に過ぎない、気の抜けた言い合いだ。どちらかが、それを望んでいたのかも知れない。
夜遅くになって、天候も悪くなってきた。草木の匂いと雨の匂いが漂い始める。
「どこか、休まんと。始発まで、こうしとる訳にはいかんしな」
「そうよね……こうしてるわけには行かないわ」
駅前に戻る。東京とは違って、さすがにこの時間は人通りもわずかだ。ビルや商店の明かりも大分減り、これから地方都市の眠りを迎えるとばかり。
青大と清美は手を繋ながら、歩む。火照る青大の掌に、清美のひやりとした、滑らかな手の感触が、妙に生々しい。
こんな街にも駅から少し外れると、そう言う宿泊施設がある。
結局、この時間帯にまともに入れる場所は、こういう所しか無かった。
意識はしている。それまでさほど気にもしていなかった清美の容姿を、青大は何故か直視できなくなっていた。
「雨が降るわ。入りましょう」
清美が先立ち、空いている部屋を指定し、キーを受け取る。てきぱきとした動きに、青大は驚く。
「慣れてるんか?」
「馬鹿なこと言わないで。説明書きがあるでしょう」
本当に、愚問だった。清美は呆れながらもスルーしてくれた。
明かりが点いていたり消えていたりする部屋の写真パネルを見ながら逡巡する青大に、清美が声を抑えて急かす。
「早く行かないと桐島くん。ぼうっとしてたら恥ずかしいでしょ!」
「あ、ああ……」
青大の袖をつまみながら、清美は先導した。
今時のそこは非常にお洒落だと聞いていたが、言葉通りで、全然そういうことをする場所のようには見えない。部屋も広く、そこいらのホテルの一室よりも高級感すらあり、設備も大画面テレビ、カラオケもそうだが、ゲーム機やUFOキャッチャーみたいな機械もある。超ミニチュア・アミューズメントパークだ。
「ほわー……ビックリじゃ」
驚き、ただ突っ立つ青大をくすっと微笑みながら見つめ、清美が荷物をテーブルに置き、制服の上衣のボタンを外して行く。
「シャワー……浴びてくるから」
「お、おお」
「私の後に、桐島くんも浴びた方がいいわ」
「わ、わかった」
多分、多くの恋人たちも、同じ様な、似たような会話をしているのだろう。いざ、清美とそんな会話を交わした青大は、その言葉の持つ艶めかしい意味を咀嚼し、更に鼓動が高鳴った。
窓からは駅前通の明かりが見える。時々、飲食街に向かうタクシーのテールランプや、ハザードランプの光が、霧雨煙る夜気に反射するのが見えた。
(そういや、風間の奴、御島とラブホ行けって言うてたことがあったな)
思い出して、はにかんだ。今はその相手が、まさか風間に想いを寄せていた清美であるとは、寸前まで予想だにしなかった。
シャワー室。といっても真っ当な仕切りがカーテン一枚という実用性の高いところが、この部屋の特殊さを象徴している。静かな空間に、絶え間なくタイルに打ちつける水音がけたたましい。
青大は意識を散らすために、備え付けの冷蔵庫を開け、飲み物をひとつ取った。ジンジャーエール。プルタブを開け、一気に喉に流し込んだ。
当然炭酸が閊え、少しだけ噎せた。しかしそうでもしないと、緊張で今にも倒れそうだった。焼けるような喉越しも紛らわし程度にはなる。
やがて水流が止まり、しばらくしてカーテンレールが開く音がした。
少しの間があり、そして清美の声がする。
「……上がったわ。桐島くんも、どうぞ」
「そ、そうやな――――」
半分残っているジンジャーエールの缶を持ちながら、青大はそそくさとシャワールームの方へ行こうとする。
「あ、桐島くん。それ、残ってる?」
「え? ああ」
思わず振り返ると、青大の身体はまるで石のように硬直してしまった。
白のバスローブを纏った清美が、俯き加減に片腕で胸元を押さえ、もう片方の手を伸ばし、青大の持つジンジャーエールの缶を求める。
青大はそろそろと清美にそれを手渡す。
「ありがとう。シャワー浴びると、喉が渇くわ」
微笑し、残ったジンジャーエールを呷る。
「冷えとらんだろ、それ」
青大が冷静を装って言う。
「大丈夫。構わないわ。新しく出すと、お金かかるでしょう?」
「……現実的じゃな。それに、よう飲み残しとること判ったな」
「空ならそんな持ち方しないでしょ。それにしても、半分以上残っていたわね」
「適当に取ったからな」
「あなた、ジンジャーエールあまり好きじゃないでしょう」
「そんなことはないわ」
青大が声を荒げると、清美はくすくすと笑った。
そんな会話の中で、いつしか青大の身体の硬直も解れている。
「あ……間接キスね」
「子供みたいなこと言うなや!」
と、言いながら顔が赤くなる青大。
「ふふふっ、それよりも早く浴びてきた方が良いわよ。さっぱりするから」
「あ、ああ。そうじゃな」
青大は清美のペースに巻き込まれているような気がした。考えすぎかも知れないが、その緊張もすべて清美の術中にあるような邪推まで浮かぶ。
清美が使ったシャワールームには未だ使用後の湿気が残っていた。ボディソープやシャンプー、トリートメントの香り。何故かそれが、青大の心、思春期の健全な男子の色欲を擽る。
「色即是空、空即是色じゃ!」
どこかで憶えた般若心経の呪文を唱えながら、青大はシャワーを全開にし、ダッシュの速度で身体全体を洗浄する。雑念を捨て生理本能を、無理矢理封じ込めたのだった。
気合いが入ったシャワーを浴び終え、備え付けのバスローブを纏った青大。無意識に身体の様子を確かめる。隅々まで洗ったはずだと。
ベッドの方に視線を向けると、清美がベットの縁に腰掛け、携帯電話を手にしていた。
「上がったぞ」
青大が声を掛けると、清美は青大を一瞥し、微笑んだ。
「どう? サッパリしたでしょう」
「風呂入れば、誰でもサッパリするもんじゃろ」
素直じゃない返しは、照れ隠し。清美もただ笑って応えると、携帯電話の画面に見入っていた。
青大がさり気なく清美の隣に腰掛け、訊ねる。
「家に連絡か」
「そうね……さすがに連絡しておかないといけないから」
“友人宅に泊まる”それは常套句のようなものだろう。終電時間を曖昧にしてきたため、連絡するのを逡巡していたと、清美は言った。青大は一応、葵に対し、清美に付き合わされるからと、誘われた直後にメールだけはしておいた。両親と同居しているわけでもない、葵自身もアバウトな性格であるため帰宅時間にはうるさくはない。
しかし、家族に連絡を済ませたと言うだけでは、淋しそうな眼差しで携帯電話を眺めている時間が長過ぎた。青大はそれが何故なのか、すぐに判った。
「風間の写メか」
「…………うん」
清美は青大にも見せるように携帯電話を向ける。そこには、青大がよく知る風間の表情が多く収められていた。しかし、清美とのツーショットと呼べる写真は数えるほどしかなく、多くは複数の友人と映ったものばかりだ。
清美はそれを哀しそうな微笑みを浮かべながら、何度も見返していた。
「これは一昨年、高尾山に行ったときの写真ね……恭輔くん、すごくへろへろしてて、山登りなんかつまんねー! なんて騒いじゃって……ホント、子供みたいだったのよ」
「…………」
青大が微笑みながら語る清美の横顔を見つめている。
「これは鎌倉に行ったときのね……それと……これは彼の親戚の人と知人と、河口湖までバイクで行ったときの写真なの。……免許も取れない頃だったから、後ろに乗せられて、すごく楽しいって目をキラキラさせちゃって……。私なんかただ怖かっただけ。いつ振り落とされるか、ただハラハラしてたわ。こんな怖い乗り物、何が楽しいのかしら、なんて思ってね」
時々、笑顔。そして寂しさ、悲しさ。清美は懸命に、紛らわそうと饒舌に話そうとしている。しかし、それが却って清美自身を追い込むことになってしまうのだ。
「…………」
やがて言葉が滞り、その代わりに清美の見せた微笑みが、慟哭の前兆を思わせる。
青大はふと、携帯を持つ清美の手の動きの不自然さに気がついた。そして、思わず、それを横から取り上げる。
「何しとんじゃ、お前は!」
青大の激怒に、清美は瞼をきつく閉じ、肩を落とす。
青大が画面を見ると、『本当に削除しますか』の選択肢がハイライトされていたのだ。
即座に電源ボタンを押して操作を強制終了させ、待受け画面に戻すと、清美の手を取り、それを握らせた。
「お前……今何しようとしたか、わかっとるんか?」
「…………」
「そんなことして、何の意味があるんじゃ。馬鹿なことすな!」
青大が本気で怒鳴った。泣き声だった。清美が、ついにぽろぽろと大粒の雫を、落とし始めた。
「……だって……彼は――――彼はもう…………忘れ…………だから…………」
清美の肩ががくがくと震える。青大に握らされた携帯電話を持つ手にも、力が入らない。
その様子に青大は思わず、横から清美を抱きしめた。強く、包み込むように、バスローブ越しの背中にしっかりと腕をくるめた。しっとりと濡れた長い髪から、良い香りが青大の鼻腔を撫でた。
「そんなことして、後悔するのはお前自身じゃ。よう考えろ!」
「っ……うっぐ…………ふぐっ……うぇえぇぇ――――」
青大の肩に顔を埋め、清美が声を上げて泣き始めた。そして彼女の両腕が、青大の背中をしっかりと掴んでいた。
「たとえ写真は消せても、お前自身の想い出は消せるもんじゃねェ。心が落ち着かん一時の感情で、取り返しのつかねえようなことをするな!」
「……うぐっ……えっ……うえっ……っ……桐……しま……くん……!」
青大の肩の部分がしっとりと濡れてくる。
「風間がああいうことになって、辛いんはオレも同じじゃ、浅倉。無理せんと、一晩中でも、二晩中でも、泣き腫らせばいいんじゃ。傍におって欲しい言うんなら、いつまでも居ったる。一人になりたい言うんなら、黙って出て行く。……でもな、想い出を消そうなんて、馬鹿なことだけは絶対に赦さんぞ!」
青大の言葉に、清美は声を上げて哭泣する。清美を強くかき抱いたまま、どれくらいの時間が経ったのか、青大は清美の哀しみを、一身に受け止める。
やがて、清美がゆっくりと顔を離し、青大と見つめ合った。
「酷い顔じゃ。腫れぼった……じゃな」
ぱっつんヘアに、気の強さを具現化しているようなわずかな吊り目が、兎のようになっていた。青大は少しだけ揶揄をすると、右指で揃えた前髪を横に撫で、頬に伝い、掌をそのまま耳の後ろに回す。
「…………」
「…………」
何も言わず、ナチュラルに、青大と清美の唇が重なっていった。