大学を卒業した青大は料理の道には進まなかった。向いている向いていないの前に、清美のことを考えた時、現実的な選択を迫られたのである。
風間恭輔の葬儀の直後に、彼の思い出が残るテーマパークに向かい、清美と結ばれた。
初めは悲愴感に囚われただけの出来心、ただ雰囲気に流されただけだったのではと思っていたが、不思議なほどに二人は心から想いを通じ合わせてきた。
「ねぇ、青大は私のことどう思っているのかしら」
「何や、いきなり」
腕を組みながら、上から目線で不意に訊ねてくる。怪訝そうに清美を見る青大。
「いいから!」
拗ねるように青大を睨み、答えを迫る。
「す…………きじゃ――――」
俯き気味に口籠もる青大。
「え? なに、聞こえないわ! 男だったらはっきりしなさいよ!」
「あーっ、もう! 好きじゃ! お前のこと大好きじゃ! こ……これでいいろォが」
顔を真っ赤にして肩をすぼめる青大。清美はそんな青大の背中を目を細めて見つめると、くすっと笑って腕を絡め、横合いから青大の頬にキスをしてくる。往来の中でも、全くお構いなしだ。
振り返れば、二人の仲は日を追うごとに深くなっていた。奇縁とでも言うのだろうか。相性が非常に良かったのかもしれない。
清美は見た目の通りに気は強いが、根はすごく寂しがり屋で素直である。青大に対しても、上から目線の物言いが多く、喧嘩の数も巷で聞く普通のカップルたちよりは多いと思った。
だが、清美はあまりわがままを言わない。しっかりとした性格で、媚びるようなことは好まなかった。
だからハイツ旭湯に新たに部屋を借り、青大と一緒に住むという選択も、決して彼女が媚びるためと言うことではなかったのだ。
高校を卒業して、大学も決まった時、二人は言葉に出さずとも、同棲を強く意識していた。
姉・葵の居候だった青大は独立を求めて密かに部屋を探していたのだが、それに気づいた清美が怒りの様相で旭湯に乗り込んできた。
「青大、ちょっといい?」
葵、そして隣人の御島明日香を招いてのいつも通りの夕食の支度をしていた青大が強引に連れ出された。ぽかんとする葵と明日香は、惘然と連行されてゆく青大を見送るしか出来なかった。
「なんや清美。今飯のした……」
「ふざけないで!」
「はぁ? いきなり押しかけてきて何じゃおい」
階下で怒鳴りつけられた青大がさすがに眉を逆立ててにらみ返す。
「青大。あなた私が何も知らないって思ってるの?」
「ん? 何の話じゃ」
清美の凛とした眉がそこはかとない寂しさに揺れる。声も、少しだけ震えている。
「誤魔化さないで。……知ってるわ。あなたがいずれここを出て、新しい部屋を探しているってこと」
「…………」
青大が言葉を呑み込んだ。図星だった
「なぜ? どうして?」
「そりゃ、お前……いつまでも姉ちゃんのところに居候するって訳にはいかんじゃろ」
「だから! それで何故ここを出払わなきゃならないのよ」
「当たり前じゃろ。ここ出てどっかで一人暮しせんと、お前とゆっくり過ごすことなんて出来んろォが」
青大の反論に、清美は細く長い首を振る。
「だからって、どおしてここを出て行く必要があるの? 空き部屋ならここにもあるって聞いたわ」
「そ、そりゃそうじゃろ。その……お前――――清美と一緒にいることが、姉ちゃんや御島たちに筒抜けになるじゃろォが! も、もし……その……」
すると清美はいつものように腕を組みながら凛とした姿勢で長い髪を靡かせ、上から目線で言った。
「私は全然、構わないわ!」
「は、はぁ?」
ひょっとこのような顔で、青大は呆然としながら清美を見る。
「いい、青大。新しいアパートを探すのはいいけど、ただじゃないわ。引越の費用も考えればバカに出来る金額じゃない。それに、見合った部屋が見つかる可能性なんて高くない。そうでしょ?」
「は……はい。仰る通りです」
「仮に安い部屋が見つかったとしても私はお風呂もなかったり、狭かったりするボロアパートは嫌よ。広いお風呂じゃないとだめなの」
「…………」
「管理人さんも、若くて綺麗な女の人じゃないと話にならないわね。年を取って、ちょっと動きの鈍くなったネコは必須条件だわ」
「あのー……清美サン」
恐る恐る、青大が訊ねた。
「なに? ハードル高いわよ。それ以外は絶対嫌だわ」
「高いもなにも、要するにここから出るなってコトを言いたい訳ですね」
「……コホン。なによ?」
わざとらしい咳払い。わかりやすすぎる言い回し。青大はそれでも自信満々に胸を張り、上から目線の清美を見て、思わず微笑んだ。
「何がおかしいのよ」
「清美、何でじゃ。別にここでなくても、お前と一緒にいることに変わりは無いじゃろ」
「…………もォ。相変わらずの分からず屋!」
「はぁ? わかんねぇよ。遠回しすぎじゃろ、言い方が」
青大が呆れると、清美は顔を赤くして半ば納得すると、拗ねたように唇を尖らかせて呟く。
「私も……御島さんや、葵さんたちと――――同じ屋根の下で……仲良くやってゆきたいのよ」
「え――――――――?」
意外な言葉が清美の口から出たことに青大は愕然となった。
「清美……それって――――」
「だから! もう何度も言わせないで!」
拗ねてぷいとそっぽうを向いてしまう清美。
その様子に一瞬、唖然としていた青大だったが、やがて頤を放った。
「なっ――――、大きな声で笑わないでくれる!?」
「あぁ、悪ィ。何か可笑しかったわ」
「……ひどい人」
少し沈黙の間をあけて、青大が言った。
「お前って、あんまり人と連むの好きじゃない思うとったから、意外じゃったわ」
「そ、そう……かな。ん、そうかも……ね」
照れ臭そうに言い淀む清美。
「お前のためにも、そっちの方が良いかなって考えてたんじゃけど……正直迷っとったから、心配かけんと言わんかったんじゃ」
青大の言葉に振り向く清美。潤んだ瞳で今にも落涙しそうな瞳で青大を見つめる。
「お前がいい言うんなら、それでもええかな?」
青大が微笑むと、清美はふわりと髪を舞わせて青大の首に腕を回せて抱きついた。
「そのほうが、手間もお金もかからないでしょう?」
「まだ言いよぉるこのひねくれモンが」
青大も清美の背中を強く抱きしめた。
「でも……私のことを考えてくれてたのね、青大……」
清美が頬をすり寄せてくる。綺麗でいい匂いのする長い髪が鼻頭をくすぐり思わずクシャミをしかけるのを必至で怺える青大。ここでクシャミをしてしまったら雰囲気がブチ壊れる。そう思った。
「当たり前じゃろ。お前はオレの彼女なんじゃ。お前を大事に思うんは彼氏として当たり前じゃ」
すると清美が顔を引き、抱きついたまま至近距離で青大の瞳を見つめる。気の強い凛とした眼差しが、青大を捉えて離さない。
「あなたって、普段はヘタレで、全然頼りにならないように見えるのに、そういうところ、すごく男らしいのね――――」
青大が顔を上気させ、背中にむずがゆさを感じながら、言う。
「お前だからじゃ」
「私……だから?」
青大を見つめたまま小首を傾げる清美。
「お前のその気の強さ―――――なんか見ていて放っとけん気がしたんじゃ」
「青大…………」
「お前と付き合うようになってから、お前のこと知る度にいつも思うんじゃ。……オレが支えてやらんと――――お前はいつか倒れてしまう。お前はしっかりしとる木じゃが、目に見えん土の中に匍っとる根っこは細くて、脆いってな」
「…………」
すっと、清美の睫が伏せた。
「……だから、オレは決めたんじゃ。オレが、お前の根になってやるって」
「青大――――」
「お前が倒れそうになっても、オレが土ン中でしっかり支えちょるけぇ、心配すんなやって……そう、思える存在にな」
その言葉に、清美は再び青大に甘えるように頬を合わせ、背中に廻している細い腕に力を込めた。
「ばか……上手いこと言っちゃって――――歯が抜けてボロボロになっちゃうようなセリフだわ」
突き放すような口調だが、青大には伝わった、合わせた頬に、しっとりと温かなものが伝わってくる感触。
「でも……好き……好きよ青大――――大好き」
「ああ。オレもじゃ清美。……オレも、清美が好きじゃ。お前が大好きじゃ――――」
清美の長い髪を何度も梳く。絹のような肌触り。あの時と較べればさらにまた、伸びた。
強く抱きあう。それだけで、心臓が止まりそうなほど高鳴り、愛おしくなる。肌を合わす時では感じられないような、温かな安心感に、包まれる。
……カコーン……!
金属を打つ音が突然上の方から響いた。驚いた青大と清美が思わず身を離し、音の方を見上げる。
「あ……やばッ!」
「あ、あはははー」
そこにはニヤニヤしながら身を潜める姉・葵と、引っ込み突かずに愛想笑いをただ浮かべる御島明日香の姿があった。
途端に真っ赤になって身を竦める清美。そして
「へ、へっくしょーーーん!!」
我慢していたクシャミを思い切り発散する青大がいた。