桐島青大×神咲七海篇 たどり着いた場所へ featuring 星の雫 by DEEN 第2話

 山麓に夕陽が隠れ、西の低い空が紅化粧をし、東を振り返れば、群青の空が見事なコントラストを繋いでいる。
 この日も、温泉には青大と七海以外にはほとんど客も居なかった。一人、顔見知りの老爺(じいさん)と挨拶を交わした。
「ありゃりゃぁ、青ちゃん! なにしょんここで。どこ、行っとったんね」
「こんばんは、おっちゃん。ちょっと東京行っとって」
「あらそうかー。急におらんようになってぇ、心配しとったんじゃー」
 確かに、知人たちにも声を掛ける暇もなく、裸同然で東京に出奔したのだ。こんな狭い町、人情の色濃く残る町にあって、青大の行動は多くの人に心配と迷惑を掛けてきたのかも知れない。
 老爺が今度遊びに来んさいと言い残して浴場を後にすると、誰もいなくなった。
 一人だとそこそこ広い露天の岩風呂を四肢を広げて占領出来る。昔はよくやっていたことだ。少しだけ大人になり、一瞬の恥じらいを感じつつ、それをやってみた。気持ちが良かった。群青の色に覆われて行く空の下、過ぎる追憶。

「桐島くん?」
 竹柵の向こう側から玲瓏とした声が響いてきた。七海の声だ。
「神咲――――入っとるんかー」
 青大が声を張り上げると、カポンと、檜の湯桶の音が響いてきた。
「うん、入ってる。今、身体洗ってるの」
「え……そ、そうなんか」
 一瞬、青大は想像し、慌てて掌に湯を掬い、何度も顔に浴びせる。
「うん…………」
 しかし、それから話が継げない。話題を考えるべき脳裡が混濁して、今にもショートしてしまいそうだった。
「なァ、神咲――――」
 そんな沈黙を破ってきたのは青大の方だった。
「えっ、な、なに!?」
 裏返りかけた声を慌てて抑え込む七海。

「やっぱ――――この故郷(まち)は、ええな――――」

 透き通った感じの青大の声が、湯気に乗って響いた。
「そ、そうだよね! やっぱり、ふるさとがいいよ」
 七海が嬉しそうに、やはり声を上擦らせてしまう。
「あっ……ご、ごめんなさいッ――――つい……」
 勝手に嬉々として、勝手に落ち込む。そんな七海の喜怒哀楽がくっきりと表れるようになったのは、青大の哀しい失恋の直後からだ。あの後、青大を励まそうと、七海は一生懸命に構ってくれた。そして、不意討ちと言えるほどの告白…。
「ぷっ……あははははははっ」
 青大が突然、声を上げて笑った。それに慌てたのか、女湯の方からからんからんと、湯桶らしいものが転がる音。
「ちょっと! ヒドいよ笑うなんて、桐島くん!」
 小さな忿怒の声。それでも、玲瓏とした響きが心を安んじるようだ。
「ははははっ、悪ィ。……でも、神咲――――変っとらんで……安心したわ」
 その言葉に、七海はきゅっと胸が痛んだ。
「桐島くん……」
 安心したわ――――。その一言が、何故か七海が抑えていた心の鍵穴を抉るような気がしたのだ。

 温泉から上がり、休憩室の扇風機の前に胡坐をかく青大。スイッチを入れて間もなく、七海も上がってきた。
「ほら、神咲」
 フルーツ牛乳の瓶を差し出す。
「あ、ありがとう……桐島くん」
 嬉しそうに、両手を出してそれを受け取る七海。
「うわぁ、冷たい」
 気持ちよさそうに掌で瓶を包む。
「そうじゃろ、キンキンに冷えとったからな」
 何故か得意げに白い歯を見せて笑う青大。
「冷凍庫にでも入れとったん?」
「おう。冷蔵庫で冷えとったやつを冷凍庫に移したんや。いい感じで冷えとるじゃろ」
「ホント! なんか歯にしみそうな感じがする」
 片目を軽く閉じながら、七海が瓶の口に唇を当て、薄ピンク色の液体を含む。
「なんや、虫歯あるんか神咲」
「ちょ……違うよォ! 歯茎が冷えて、痛くなるかもってこと」
 大慌てで青大の言葉を拒否する七海。青大は笑って返した。
「わかっとるって。神咲に虫歯なんて、あるはずないじゃろ」
「え……そ、そう……なん?」
 言葉一つ一つのたびに頬を染める七海。青大は笑顔で言う。
「あるんか、虫歯」
「……ない」
「じゃろ?」
 青大がごくごくと喉を鳴らしながらフルーツ牛乳を呷ると、ぶはあとうなり声を発し、瞠目して七海を見た。
「ぶちうめぇ。温泉上がりはやっぱこれに限るな」
 そんな青大を楽しそうに目を細めた七海が、改めてゆっくりと喉に流し込む。
「あぁ――――、さっぱりしたわー」
 扇風機に向かって両手を広げながら声を発する。ここに来るたびのいつもの行為だ。ファンに反響して声が振動する。
「……よかった」
 不意に、七海が口を開いた。青大が振り向く。
 三分の一ほどしか減っていないフルーツ牛乳の瓶を両手で持ちながら、七海がまっすぐに、その温かな眼差しを青大に向けている。
「桐島くん――――少し元気が出たみたいだから」
「え…………あっ――――」
 思わず、戯けを止める青大。
「あのときから……桐島くんの穏やかな表情って……見られなかったから――――私……」
 七海がそう言って微笑む。しかし、そこはかとない寂しさが伝わる表情だ。
「神咲……」
 青大が見つめてくる。しかし七海は、青大に見透かされるかも知れない心に秘めた言葉を押しとどめるように息を整え、ごまかすように瞳をきょろきょろさせながら、ぎこちなく瓶を口に運ぶ。
「美味しいねこれ! 私もやってみようかなぁ。冷蔵庫で冷やしておいて、お風呂の直前に冷凍庫に移しておくんだ……ふむふむ……」
 諳誦しながら、ごくごくとフルーツ牛乳を飲み干してゆく七海。青大に見つめられて勢い余り、空になった後、口の中の感触は痛みを通り越してしばらく麻痺してしまっていた。

「もうじき、稲刈りか」
「そうね……」
 撓わに実った水田を両脇に、月光の畦道を並びながら歩く。稲穂が大きな月の光を受けて、銀色に輝く。
「神咲と二人でこんな時間に並んで歩くのって、初めてじゃな」
 青大がそう言うと、七海は記憶を瞬時に検索し、肯定する。
「そう……だね。桐島くんとはずいぶん長いお付き合いだけど――――ふたりで歩いたのって、昼ばかりだったかな……」
「はははは。ホンマ、何度もフラれよォて、それでも普通に接してくれとったな。心が広いわ神咲。名前の通りや。七つの海のように、広い心じゃ。“七海”って」
 青大の言葉一つ一つが胸に響く七海。その瞬間、思わず足を止めてしまう。
「……?」
 急に立ち止まった七海を不思議に思い、青大が振り返る。
「どうしたんじゃ、か……」
 瞬間、青大の声を遮るように、七海が声を上げた。
「いまっ……なんて……?」
「は?」
 月光を湛えた七海の瞳が、皎く揺れる。
 両手を胸元に合わせ、七海が切なそうに青大を見つめながら、言葉を絞り出す。今、言わなければ後悔すると、直感的に思った。
「いま……わ、私のこと……なんて」
 頬が赤らむ。月の光が、ごまかしてくれる。
「神咲のこと?」
 その言葉に、思わず唇を噛みそうになる七海。
「なんて……?」
「じゃ、じゃから……名前の通りじゃて。七つの海のよォに広い心でな」
「…………」
 七海が無言で睫を伏せる。そうじゃない。聞きたいのはそうじゃない。心の中で、青大を責めた。

「七海――――――――って、いい名前じゃ――――」

 青大の声が、七海の積もる心の暗鬼を一瞬にして追い払った。

「…………」
 その瞬間、七海の瞳から、ぽろぽろと銀色に輝く大粒が零れ、畦道に落ちてきた。
「お、おいかん……」
 再び、青大の声を遮るように、七海は踵を発条のようにして、青大の胸元に抱きついたのだった。