月光が差す青大の部屋。布団に横になりながら、窓の外を見つめる。満天の星が、青大の瞳に反射していた。
(何も言わんといて――――ちょっと……だけ、こうしててもいい?)
七海は青大の言葉を、自分を呼ぶ言葉を遮るようにそう言うと、青大の胸に顔を押し当てた。背中に腕は回さず、縋るように両手も青大の襟に添えた。
どのくらいの時間だったか、よく覚えていない。ただ、青大が皎皎とした月光のようにはっきりと覚えていたのは、七海から伝わる温かさ、そして、かすかな震えだった。
「神咲……」
呟いた声が、透徹とした秋の夜気が満ちる部屋の中に響くようだった。そして、七海のことを考えていると、眠気が遠のき、冴えた。
起き上がり、窓の方へ行く。そこから見晴らす鄙びた町。この時間は殆ど家々の灯りも消え、月光の青白き夜の世界一色だ。数えるほどのかすかな家々の窓の灯りは、皆青大の知っている友人たちの部屋だとわかる。まだ、あいつは起きているんだな――――と、一人笑った。
「神咲……七海――――か」
東京へ飛び出す決意が、この町に。七海や月、そして尊たちに何をもたらしたのだろう。散々、多くの人たちに迷惑をかけ、そして何よりもやり残したこと、片づけなければならないことが多かった。そんな気がする。
都会を回顧すれば、心が鳴る。今は、その音を聴きたくはない。
秋の夜長とは、田舎にあってこそ相応しい言葉だろう。夏の名残の虫の音が、辛うじて青大の心を今に留めた。静寂と虫の音、青皎き月光。ようやく、青大に睡魔が訪れた。ほどよく冷えた部屋の中で、布団一枚を掛けると、すぐに眠りの縁に落ちていった。
透徹の青空は、この故郷をも眩しく照らす。朝、涼しい風とクリアな陽光に目を細めながら、青大は制服を着て玄関を出た。ここの高校に通っていた時に着ていた制服だ。
再編入したわけではない。ただ、長期休暇でもない時期に戻ってきている以上、クラスメイトや恩師には挨拶しておきたかった。風間恭輔を直接知らなくても、無理を通して編入した先で起こった事を話しておく道理はあった。
恩師もしかり、クラスの連中は久しぶりの青大の姿に歓喜の声を上げて迎えてくれた。事情を知る月や尊は、一定の気を遣って囂しさの片棒を担ぐことはしなかった。
「桐島くん……」
七海が教壇で事情を話す青大を悲痛な色をにじませて見つめている。クラスの連中も、事の経緯を聞き、静まった。
授業を聞いてゆくかという先生の勧めを、青大は遠慮した。夕べ帰ってきたばかりの久しぶりの広島、色々と足さなければならない用事があると言った。先生も、無理強いはしなかった。
青大が挨拶を済ませて玄関から出ようとした時、ぱたぱたと駆け足の靴音が廊下に響き、近づいてきた。
「き、桐島くん!」
「神咲……。どうしたんじゃ。授業、始まるじゃろ」
細く綺麗な足を少し屈み、両膝に手を当てて息を整える七海が、一つ深呼吸をしてから青大を見つめていった。
「桐島くん……放課後にもう一度、学校に来ん?」
「は……ここに?」
「うん」
怪訝な表情を浮かべる青大に、屈託のない微笑みを向ける七海。その笑顔は、爽やかさの中に、母性的な温かさのようなものがあった。それは青大自身、よくわかる。
「わかった。ええよ、別に」
青大の返事に、ぱあっと満面の笑顔に変わる。
「ありがとっ、桐島くん。……じゃあ、ここで待っとって――――ね?」
そう言って七海は笑顔を湛えて手を大きく振りながら廊下を駆けていった。
夏の名残と、秋の清涼さがちょうど交錯する時季だ。青大は、唐突な東京編入の混乱と、盂蘭盆に帰省できなかった事を踏まえて、仕事のある父親は別にして、母親とともに墓参や親交のある知人の家などを廻った。やはり皆、大体が青大の行動を心配していたようだった。行く先先で謝罪のために頭を下げるのも、億劫になってくる。
「あんたのしたことはこういう事なんよ。こんな時に乗り気でないのはよォわかっとるけど、我慢しんさい」
わかっている。すべては青大自身が撒いた種だ。そして、青大自身が踏ん切りをつけるために、ここに来たはずだった。
比和にある本家で昼食を振る舞われ、足止めを食らった。大人の四方山話は長い。親戚同士としては珍しく仲が良い桐島家と本家の人々は青大の突出した行動を肴に会話が弾んだ。従妹のリエは不在だったが、彼女が帰ってくるとまた長くなる。
青大は時計を見た。午後二時を過ぎてなお、話は尽きない。話の間隙を縫って、言葉を挟めた。
「ちょびっと出かけてきてもええ?」
「別にええけど、晩ご飯も食べて行くけえ、早よう戻って来んさい」
母の言葉に大きく返事をすると、青大は本家を出た。
咄嗟にタクシーを拾い、学校へと急ぐ。近づくにつれ、下校してゆく生徒の姿が、ぽつぽつと道路に見えた。
放課後、だいぶ過ぎたが青大は校門にタクシーを寄せて、そそくさと料金を支払い、玄関に駆けていった。
生徒の数も減り、主立ったクラブ活動の声が校庭や校舎から響く。空いている下駄箱に青大は靴を押し込め、内履きの代わりにスリッパを履いた。そして、がらんとしたリノリウムの廊下を二、三度見回す。
そして。
「あ――――、桐島くんっ!」
嬉々とした声が玲瓏とした響きで廊下に谺する。青大が振り返ると、家庭科室と書かれた札の下にある扉から半身を出し、無邪気に手を振る七海の笑顔が映った。
「神咲……」
青大の顔が無意識に綻ぶ。青大が声を掛けようと口を開けると同時に、七海が叫んだ。
「こっち、こっち! 桐島くんに手伝って欲しぃんよ」
「まさか……調理部?」
青大が苦笑いを浮かべて呟くが、七海はひょいと廊下の視界から消え、家庭科室の中から喧しい女子生徒の歓声が響いてきた。
「あっ、本当にに桐山君だァ!」
姿を見せた途端、山崎部長が珍奇の客を迎えたような頓狂な表情で声を裏返した。他の部員たちも歓迎ムードで奇遇の客を迎え入れた。
「お、お久しぶり……ってほどでもないですが――――あの……オレは桐島……」
「あん時のおみくじクッキー、どうやったん? 美味しかったでしョ」
名前の訂正や思い出話もそこそこに、クスクスと笑いながら餞別のお菓子の話をする山崎部長。
「唐辛子満載クッキーを美味そうに食いよォ奴は、世界中捜してもオレだけでしょうね」
「あはははっ、そうだと思った。桐山君だったら絶対食べてくれるって、言ってたんよ? ねー、神咲さん」
山崎部長からふられ、一瞬狼狽する七海。
「えっ? あ、ああ。そう。そうなんよそう! 桐島くんは優しいから……捨てるなんて事はせんよーって」
青大をチラ見しながら、七海が言う。青大は苦笑しながら頭を掻く。
「あと、何すかあの“変”って。字ィ間違ぅとらんですか?」
「あはは。間違っとらんよ別に。言葉通り。……どう、当たったかしら?」
山崎部長の質問に、青大は一瞬睫を伏せ気味にして、聞こえないように一つ、深く息を吸い込んでから、言った。
「ハイ。……部長のおみくじは、ブチ御利益あります」
それを聞き、山崎部長がしたり顔で部員たちに自慢するのをよそに、七海は青大の表情を見逃さない。隠しきれない、その一抹の寂しさを。