鈴虫や蟋蟀たちが、清夜の畦道に連綿と合唱する。
夏祭りはこの町が殷賑とする数少ない時。だが、今はその夏祭りもとうに過ぎ、静かなる十三夜の秋涼。夏祭りの会場となる広場も、今はただ虫たちの合唱に包まれるだけの静寂。
「ブチでけえ、月やな」
皓然と、快晴の東天に浮かぶ秋月を青大は思わず立ち止まり、見上げた。
上京してから、雑踏やネオン、車のクラクションや排気ガスにまみれ、そして人同士の煩雑なつながりに齷齪し、空を見上げる余裕などなかった。いや、空どころか、心の余裕も、きっとこの町にいたとき以上に、失われてしまっていたのかもしれない。
微風に運ばれてくる稲藁や小川の匂いが、やはり心地よい。
山崎部長の家がある地区は一応、分かるが、どこの道を行けば良いのかは分からなかった。今朝、七海にメールをして、待ち合わせしてから一緒に行こうと誘った。
(もちろん! 一緒に行こう)
余分なほど付けられていた絵文字が、七海の感情を良く表していた。
学校へ通じる桜並木の道。昨夜も別れた岐路で、青大は待つ。途中のコンビニで、缶紅茶と缶コーヒーを買った。もう、ホットが置かれている。
待ち合わせの約束の時間は七時。昨日、調理部で誂え物をし、帰った時間だ。 七海は今日も部活動で遅くなるのだろうか。学校の方からやってくるんだろうと思った。
桜並木の間から見える十三夜の月を見つめていると、煩雑なことが脳裏を駆け抜けて行く。風間との別れまでの東京の出来事が、不思議と脳裏を抜けてゆく。
穏やかで澄んだ夜気が、執心を解してくれているようにも思えた。
まるで人狼が皓月を見つめるような……ほど食い入るようにでもない。まるで平安の貴公子が短冊と筆を持ち、一首を拈るような装いで佇んでいる。青大はすらっとした長身で、そこそこの美男子である。東京で、夏越美奈が会食に誘ったとき、青大の容姿について話題になったことがあると聞いた。そうらしい。
「……そんなわけあるか」
月を見上げながら思い出し笑いをする青大。
その時、青大の予想に反した場所から、からからと乾いた音が響いてきた。
「き……桐島くんっ!」
学校の方向ではなく、七海の家の方角からだった。青大が振り向くと、浴衣に下駄履き姿の七海が、もどかしそうに駆けてくる。
「か、神咲ッ。走んなや!」
その姿に驚く間もなく、青大が思わず叫ぶ。
そして、青大が危惧していたように、カランカランという乾いた音が、一瞬、ガツッという荒い音を立てた。
「きゃっ!」
青大はすかさず七海に向かって駆け寄り、手を広げた。
つんのめりになった七海は手に提げていた小物入れを落とすと同時に、青大の胸に倒れ込む。青大がしっかりと、七海の背中を両腕で支えた。
「それみぃや、お約束じゃな神咲」
クスクスと笑う青大。
「ご、ごめん……き、桐島くん……」
青大の胸に抱かれている格好で、七海は顔を真っ赤にしている。
「下駄、大丈夫か。鼻緒切れたんやないか」
青大が七海の肩に手を当て、話そうとするのを感じた七海は、慌てて声を上げる。
「ううん。大丈夫。下駄は何ともないからっ。ただ、ちょっと躓いてしまっただけ」
青大のシャンブレーを掴む七海の両手の指に力が入る。
「ごめんね、桐島くん……ちょっと足に力が入らなくて……」
「ああ、ええよ」
七海が青大の温かさをゆっくりと感じ取るように、その胸に顔を埋めるようにする。青大も体勢を気にするように、七海に寄り、身体全体を接した。
しばらく、そうしていた。何故か、互いに言葉が出ない。七海を支え、支えられていた七海も、いつしか抱き合うような格好になり、意識したのか、鼓動が速くなる。
「そろそろ、行かんと……」
青大が囁くように言うと、七海はゆっくりと、それでもどこかしか名残惜しむように身を離した。足はもう、震えてはいない。
襟元をただし、青大が拾い、土を払った小物入れを受け取ると、七海は照れくさそうに笑った。
「ありがと、桐島くん」
青大は半ば呆れたように微笑み、嘆息する。
「こんなに寒ィのに、浴衣って……」
すると今度は七海が笑った。
「やだ桐島くん。これは浴衣じゃないよ。単着物って言うんよ」
「あー……そうなんや」
青大が感心すると、七海は何故か嬉しそうに言う。
「さすがに、浴衣じゃ寒いよ……」
すると青大はおもむろにシャンブレーを脱ぎ、七海の背後に回り、肩にそれを掛けた。
「あ、ありがとう……」
青大の温もりが残るシャンブレーの袖に七海は手を添えた。
「でも、桐島くん、寒うない?」
「オレは平気じゃ。神咲は見とるだけでこっちが寒うなるわ」
「そう? 私は桐島くん、てっきり東京の暖かさに慣れとると思ったから」
「あははは。いくら別のところにおっても、この町の季候を忘れたりはせんわ」
青大の言葉に、七海は無性に嬉しさを覚えた。
「そっか……よかった――――」
不意に七海がそう呟く。
「ん? 何がよかったんや」
「ん――――何でもない。さっ、行こうよ」
小さく首を振って、七海は青大の手を取り、先に歩き出す。
「か、神咲――――そんなに引っ張んな!」
鳥居の手前から、奥の社に続く階段の道の両脇に、提灯が連なり、淡い灯りが揺らめいている。皎い月の光の方が、よほど明るいほどだ。
「ほわー……なんか、本格的じゃな」
夏祭りに引けを取らないと思ったのか、青大が光の列を打眺めながら感嘆する。
「えー、もしかして初めてなん? ここに来るの」
「地区が違うじゃろ。オレからすれば、祭りの会場より遠いけぇ、来る機会がないわ」
確かに、青大の家からは正反対の方向。普通に歩けば、二時間くらいは掛かりそうだ。
「神咲はよォ来るんか?」
「ううん。まさか。私も同じ。友達はこっちの方にはいないし……」
「山崎先輩ン家は?」
「あはは。行ったことないよォ」
そんな話を交わしながら、青大と七海は階段に足を掛ける。
おもむろに、青大が掌を差しだした。きょとんとする七海。
「下駄じゃ危ないじゃろ。支えてやるけぇ、ほら」
「あ……ありがとう――――」
七海は頬を染めながら青大の差しだした掌に掌を合わせる。自然に、青大がきゅっと握りしめた。
「さ、行こうか。転ぶなや」
引かれるように、階段を登って行く。
夏祭りとは違って、格段に人出がない。むしろ本当にこの地区の中でも限られた、行事好きの人たちだけが繰り出す……といった感じだ。
「あーっ、神咲さんッ、来てくれたん?」
静謐な雰囲気にそぐわない山崎部長の素っ頓狂な声が響き、青大が失笑する。
「部長、こんばんはー」
七海の挨拶をそこそこに返し、山崎部長は青大の姿を見ると、途端ジト目に変わる。
「ははーん……なるほど、そういうコト」
「な、何すか……」
不快そうな顔をする青大に、山崎部長は一人で大いに納得したかのように、腕を組み、何度も頷きながら言う。
「いいよいいよ桐や…じゃなかった、桐島君。あのね、祭りと言っても、見ての通り、ちょっとしたお月見みたいなもんなんよ。だから……」
ぐふふと卑猥な嗤いよろしく、目元と口元を出歯亀みたく垂らし、山崎部長が青大の傍らに寄り、脇を肘でこづいた。
「うわっ、な、何すんなら先輩!」
「頑張りなさいよ、桐島君」
思わず飛び退いた青大に、悪戯っぽく笑う山崎部長。何の話か、いまいちよく分かっていない様子の七海。
「ちょ……」
言いかけた青大を振り切るように、山崎部長は再び七海に絡む。
「社務所にお月見団子とかお料理があるから、好きなときに来て食べて。ゆっくりしちょってええから」
「は、はい。ありがとうございます」
七海と青大にウインクを飛ばしたくらいにして山崎部長はその社務所の方へと走っていった。
「相変わらずやな、山崎先輩」
「ホント。美人で明るくて、人気があるの分かるなー」
「え、そうなんか?」
「なぁに? 気になるの」
「ち……違うわ。あんな悪戯好きの子供っぽい人ってこと、みんな知ってんのかよって、思っただけや」
「あははっ、でも猫かぶってるわけじゃないからね」
「よォ、分からんわ」
軽い談笑をする二人。
「先輩の言ってた、団子でも食べに行くか、神咲」
「うん――――。せっかくだし、ご馳走になろうよ」
「よぉし、じゃ。行くか」
青大は自然体に七海の手を取った。七海もまた、いつしか余計な緊張感から解放され、青大の手を握りかえしていた。