社の縁側に七海と並んで腰掛ける青大。十三夜の月が、杉の木々の間から高く望む。社を挟んで社務所の方からは賑やかな笑い声が聞こえてくる。
「美味かったわー……」
月見団子を五個ほど食した青大がほうと一息をつきながら感嘆する。
「うん。ウサギの絵描いてたのにはびっくり」
「そやな。……なんか、食べるのが勿体なかった気もするわ」
「結構、大きく作ってたから、お腹一杯だったんじゃない?」
「そうみたいじゃな。料理部の連中(あいつら)、手ェでかいんじゃな」
「あはははっ。部長が聞いたら怒るよー」
クスクスと笑い合う二人。
社の建物の向こうから聞こえてくる談笑の声。そして、青大と七海の周囲には、虫のさざめきだけ。言葉が止まると、途端に静かな清夜になる。
「桐島くん……」
「んー?」
弱弱しげに七海が青大の名前を呼ぶ。さり気なく七海に振り返る青大。その瞬間、青大は思わず目を瞠った。
なんてことは無い。いつもの七海の姿。ただ、しんみりと腰を下ろし、膝に手を合わせて青大を見つめる七海は、皎い月に映えて、普段と意識が違う美しさを湛えていた。
「な、なんや」
思わず、突き放すような口調で問い返してしまう青大。そして、その問い掛けに七海は戯けることなく、答えた。
「……無理、しとらん?」
それはまるで、今までこつこつと作ってきた、スライドガラスの細工を、吐息ひとつで果敢無く毀れるかのような感覚。あまりにも核心を突いた七海の一言に、青大は金縛りを受けたように、一瞬凝り固まってしまった。
七海は、思わぬ一言が、青大の張り子の強がりを?がしてしまったことを自覚せず、固まっている青大を見つめている。
しばらく、そうしていただろうか。時折、大きく響く笑い声と、草の擦れ合いさざめきに似た話し声の中で、青大がやっと、表情を変えた。
「しとるわ――――」
秋澄むような青大の声に、七海は思わずどきっとなった。
「桐島……くん?」
七海が身を乗り出して青大に顔を近づけた時、愕然となった。
怺えていた何かが外れた瞬間。青大の眦からは止めどなく涙の線が伝い、それが雫となって、顎から滴る。
「そんな……泣いて…………私――――私……ッ!」
七海の声が、みるみるうちに震え出す。失言が、青大の心を抉ったと思ったのだ。
立ち上がり、駆け出さんとばかりにする七海の腕を、青大は猛然と掴み、引き寄せたのだ。
「あっ……!」
下駄が地面に擦れ、鼻緒を弾いた。一瞬の出来事だったが、七海は青大の胸に顔を埋めるような姿勢で抱きしめられていた。
「…………」
「…………」
七海は抵抗をしなかった。出来なかった。しようと思わなかった。
嬉しかった……。
様々な想いが脳裏を交錯する。
死を間際にすれば、人は思い出が次々と過ぎる、いわゆる走馬燈の如くと言うらしいが、何も生命の終焉に限ったことではないようだ。
今、七海の脳裏には、青大への想い、青大からの想いが走馬燈のように駆け巡っていた。
近くて遠いと言えば語弊があるだろうか。青大の想いを知っていた時。自分も、青大への想いに戸惑っていた時。紆余曲折が、結果として青大の心を離し、東京へと行かせてしまったこと。
もっと……積極的に彼のこと、繋ぎ止めておけば良かった……って。
(要するに、キープくんってことですよね?)
違う……そんなんじゃない――――でも、桐島くんのことは、失いたくなかったんだ――――だから……。
あんなに非道いことをした子を追ってまで、東京に行く決意をしていた桐島くんの背中を押してあげるなんて……そんなことしたくはなかったのに――――。
強がって、いずれ彼は東京に失望し、打ち拉がれて広島に帰ってくるなんて期待していた。最低なのは、自分なんだ。
東京で出来た親友が亡くなり、まるでドラマのように、彼は失恋した。お誂え向きの事情ではないか。
広島駅で久しぶりに見た青大の様子は、変哲もなく、快活な彼そのものだった。それが、無理をしているのだとするならば、七海にとって忸怩たるものがある。
映画やドラマのように、路上や波止場、夜景の見える海公園でしっとりと抱き合う恋人同士という感じではない。不格好に、まるで七海が飛び降りを間一髪、青大に抱きすくめられたような構図。決して見栄えの良い抱き合い方ではなかった。
七海は腕を青大の背中に回した。青大のそこは、かすかに震えていたように思えた。
声を必死で怺える青大の様子に、七海はそこはかとなく嬉しさがこみ上げた。
「悪ィ……少しの間や――――」
青大がそう呟くと、七海は小さく、首を横に振った。
「いいんよ――――こうすることくらいしか、出来んから……私――――」
青大が流す悲嘆は、七海は知らない東京の情景。
その腕、掌には青大の背中に触れて温かみが感じるのに、心が今なお遠く東京にあった。触れてはいけない心の領域を、七海は思っていた。
清夜の微風はさすがに身を震わせる。青大と七海はどちらからともなく指を絡めて手を繋ぎ、七海は青大の肩に凭れている。
「月に犬死にすると言われてな――――」
東京前夜に口げんかした月の言葉を反芻する。
「そんな……」
頭を上げ、嘆く七海。
「でもな、神咲。オレは東京(あっち)に行ったことを犬死にとも、徒労とも思うとらん」
「桐島くん……」
「ただ……都会って、ゆっくり待ってくれんのや。……時間が急すぎてな、考える暇もない。気がついたら、ど真ん中に、一人になっとった――――ただ、それだけなんや」
「…………」
それが、どれほど青大の心を疲弊させたのか、七海には忖度の術が無かった。どれほど言葉を択んでも、きっと青大の心には響かないと、そう思っていたのだ。
その瞬間、不意に七海の手が柔らかな圧迫感に包まれた。手を握っていた青大が、力を込めたのだった。寂しげな表情で、思わず青大を見る七海。青大もまた、七海を見つめていた。
「気がついたら、故郷(ここ)に向こォとった。ずっとな、自分でも不思議なくらい、心が晴れてたわ。あっちにいた時なんか、ずぅっと嵐の中におったようなもんやったけどな」
「…………」
「駅で、神咲見つけた時――――」
青大の鼻が、つんとなった。一瞬、言葉が止まる。
「どこまでも晴れて何も無いオレの中に、神咲の声が延々と響いていったんじゃ」
「桐島……くん……」
七海もまた、繋いでいた青大の手に力を込める。
「この場所(町)は……神咲は――――、そんなんオレのことを、ゆっくり待っててくれたんかな」
それは、東京行きを決断した青大の切っ掛けとなった、七海の言葉のこと。
「嵐の中で、遭難するかも知れんかったのに」
「あ……うん――――。私は大丈夫だよ? だって、私から言い出したことだし。……どんな答えでも……待っているよ――――」
七海の頬に朱が差した。恥ずかしかったのか、すぐに斜を向いてしまう。
「神咲……七海」
名前を呼ばれ、思わず顔を上げた。
その瞬間、ふわりと七海の視界から、皎い月光が闇に融けた。そして、温かく柔らかな感触が唇を包み、ショートの髪が後頭部から包み込まれた。
「あ……んっ……!」
それは、不意打ちのファーストキス。瞼を閉じないままの、七海にとっては不覚のシチュエーションだった。