現在を大切にする君のために‥‥ featuring 大事にするよ by Tokunaga Hideaki 第1話

「ゴメンなさいっっ!!」
 四つん這いの体制で腕を伸ばし、上体を倒し声を張り上げて謝罪する御島明日香。
「ウチの母ちゃん、昔っから腰が悪ぐで、そんでとうとうヘルニアが酷ぐなって八月の初め頃から入院して手術するって……。んだがらじっちと父ちゃんと弟の男だけになって色々困っがらァ――――休み入ったら、ウヂさ帰って手伝いしでくれって……」
 半べそをかきながら、きょとんとしている恋人・桐島青大に向かい、事情を説明する。
「もしかして、それで今日元気無かったのか?」
「だってェ!」
 徐々に明日香の泣き声が酷くなってくる。
「青大がずっと、楽しみにしてたの知ってっから……。どうしてもそんなごど私から言えねーし……。でも、ウヂのゴドも心配だし……んだがら……」
 青大は温和な眼差しで、小さくため息をつく。
「だったら別にええよ。……そんなん、家族の方が大事に決まっとるじゃろ? 旅行はお前が落ち着いてからでいいから、帰ってあげろよ」
 青大の提言に、それでも駄々をこねるように明日香がせがむ。
「でも…そんなこと言ってたら夏も終わっちまうし……海なんて入れねーべ?」
 青大が苦笑する。
「だから、沖縄じゃなくてもいいって」
 青大が右手をぽんと泣きべそをかく恋人の頭に載せる。
「オレは、お前と一緒ならどこだってええよ。心配事が無くなってから、ゆっくり行こうぜ。……な?」
 説諭されて、明日香は真っ赤にした瞳に微笑みを浮かべながら頷く。
「ありがと……やっぱり優しいね、青大って」
「いや、普通じゃろ。……そんな話聞いても、行きたい言うヤツおらんて」
 すると今度はばつが悪そうに肩をすぼめる。
「でもゴメンね? 夏休み、ヒマになっちゃうね青大……」
「ん? あはは、気にすんなって。それならそれで、バイト増やすし」
「ってゆーか、青大は実家に帰ったりしないの?」
「え? まァ、帰る気ではおるけど……」
 すると明日香は夕立が過ぎたあとにみるみると開けた青空のように笑顔を浮かべると、言った。
「じゃあ、私と同じ日に田舎帰んなよ! そんで、私と同じ日に東京帰ってくればいいべ!?」
 それを聞いた青大が苦笑する。
「何でそこまで同じじゃねえといけんのや」
「だってホラ……あの……」
 明日香は泣き顔とは違う、羞恥にほんのりと染めた頬で、横目に青大を見つめる。
「寂しいじゃん。帰って来て、青大がいないと……」
 その言葉に、青大もまた思わず顔を染めて、絶句する。
「お前さァ、いつも急にそーゆーコト言うのやめェや!」
「え? なんで? 私、変なこと言った?」
「あ、いや……えぇけど……」
 テーブルに置かれた茶碗をひと呷りに明日香を見る。
「そーお? ……あ、そうだ」
「ん? なんや」
「私、シャワー浴びてくる。へへっ、ちょっと泣いちゃったから顔が……」
 苦笑を浮かべる明日香。
「そォか。なら、オレも部屋戻るわ」
 青大がぐっと立ち上がる。同時に明日香も膝に力を込めて立ち上がった。
「うん。ゴメンね青大、わがままばっかり言っちゃって」
「気にすんなって言うたじゃろ?」
 青大が明日香の頭を軽く撫でると、踵を返す。その瞬間、青大の背中に明日香がしがみついた。
「大好きだよ、青大……」
「明日香――――」
 背中に感じる恋人のぬくもりに青大も応えるために振り返り、明日香の背中を抱きしめる。
「オレもじゃ。お前のこと……ほんまに好きじゃ」
 明日香が顔を上げ、睫を伏せると同時に、唇が重なる。
「んっ……」
 最近、明日香も慣れてきたのか、自ら舌を入れるようになってきた。青大に負けてられないという、明日香らしい対抗心が純真な彼女を積極的にさせつつあったのだ。
 唾液の絡みつく音が鼓膜を刺激し、互いの鼻を左右に入れ替えながら、むさぼるように唾液を吸い合う。
「あっ……青大――――」
 ぽうっと顔を赤らめ、甘えたような潤んだ瞳で見つめてくる明日香。それでも、青大はキスの快感に便乗して、明日香の大きくはないが形の良い胸に触れようとはしない。
「一緒に……入る?」
 明日香が恥ずかしそうに呟く。
「いや。戻るわ――――って、シャワーも風呂も下の銭湯じゃね?」
「あ……そうだった」
「アセったー。本気で部屋に風呂あるかと思ったわ」
「あはは。でも残念だよね。あれば良いのにさ」
「銭湯でも十分贅沢や」
 青大が微笑みながら明日香の肩を軽く押し、離れる。名残惜しそうに、明日香は青大を見つめ続けていた。
「そうだね。……うん。ホントにアリガト、青大。……お休みなさい」
「ああ――――」
 青大は今度は振り返り、部屋を出た。

 一旦、部屋に戻った青大は、明日香が銭湯に向かった後、再び部屋を出る。
 蒸し暑い都会の夜。心なしか、湿気とともに排気ガスが噎せるようだ。
「あっちも、似たようなもんか……」
 蒸し暑さは古今東西、都鄙皆同じなのかも知れない。青大は階段を下り、踊り場で町の空を見上げた。

 青大くんの実家――――ホントだよ?
 それだけ伝えとこうと思って――――

 柚希が何故、わざわざそんなことを伝えたのか、真意を測りかねていた。彼女のどこかしか穏和な雰囲気が、何故か得体の知れないもので首を絞めつけてくる、そんな気がしていた。

(オレその日から彼女と旅行に行くんじゃ)

 にこりとして、柚希は事情だけを伝えて帰って行った。無意識に、青大の心臓が、脈動を早めていることに気づかない程に。
「なんじゃ――――この訳分からんイライラ感は!」
 拳で鉄製の柵を叩く。カンと音と振動が、伝播する。
 綿密に立ててきた明日香との旅行計画がここに来て頓挫してしまったことなのか、あるいは柚希がこうも頻繁に、偶然とは言うものの接触してきているコトに対する苛立ちなのか。青大自身、理由が見つけられない。
(何か、嫌な感じじゃ……)
 それは漠然とした得体の知れない不安。虫の知らせなどと言うほど六感が優れているとは思えない。ただ、青大は思っていた。明日香の家庭の事情のこと、そして柚希が広島に赴くこと。心なしか、その重なりが自分にとって何か大きな偶然の悪戯のような気がしていたのかも知れない。
 懍が仕組んだ柚希とのファンタジーランド。体裁を上塗りするために買ったストラップ。それでも明日香は自分を疑わない。慚愧な思いが過ぎる。
 近くのコンビニでペットボトルのお茶を買うなどして、往復する。じっと部屋で寝袋に横になっても寝付けそうにない気がしていた。それでも、時間潰しには余り有る。
(このまま、オレも広島帰ってええんじゃろか……)
 そこはかとない虚無感と慚愧が交錯し、青大をますます眠りから遠ざける。
 明日香のあけっぴろげで、純真無垢な陽気さに支えられてきた自分がいた。
 柚希を失った後の心の空白を埋めてくれたのは、紛れもない明日香だ。彼女の明るさと屈託のなさが、青大を強く惹きつけてきた。
 明日香を好きになって一年有余、不満なんてとんでもない。
 だが、柚希との邂逅が、何か仕組まれた運命の歯車のようだ、などという陳腐な文学的イメージとして青大を捉えてやまない。
 深夜に近づくにつれて、八つ当たり的に妙に煤臭い空気が嫌悪感を助長させる。
「いい加減に帰るか」
 そう思った場所から、ハイツ旭湯へは徒歩数分。青大は戻り、着替えを持って銭湯へ向かった。彼が、その日最後の“客”であった。

 翌日。
 青大は学食で同席した浅倉清美に、明日香との旅行が白紙になったことを話題にした。
「あら、それは残念ね」
「何や、まるで他人事じゃな、お前」
「他人事でしょ?」
「まァ……確かにそうじゃけど――――」
「……で? あなた何を悩んでるの?」
「は? 悩み? アホか。なんも悩んでなんかないわ」
「思いっ切り動揺してるように見えるんだけど」
 清美のジト目が突き刺す。
「目が泳いでるわよ、桐島くん」
 普段は天然ボケ気味なところがあるが、清美の鑑識眼には青大も舌を巻くところがある。
 青大は昨夜、明日香と別れた後に葛藤したところを清美に語った。
 すると、清美は微妙な表情で頷きながら聞き、麦茶をひと呷りすると、呆れ半分に諭すように言った。
「桐島くんって、明日香ちゃんのこと好きなんでしょ?」
「当たり前じゃろ!」
「だったら、答えはひとつなんじゃないかしら」
「………………」
「まぁ、当事者が私だったら、絶対にあり得ないし、そんなことしたら往復ビンタの二つや三つは飛ばすところだけど」
「こ、怖いこと言うなや……」
「ともかく、枝葉さんはあなたにとって、もう終わった人でしょ?」
「まぁ、な。何とも思っとらんわ」
「だったら、今は……ううん、これからは明日香ちゃんを大事にすることだけを考えれば良いんじゃないの?」
「……ああ。それは分かってる」
「桐島くん」
「ん? なんや」
「ひとつ訊くけど。あなたが、明日香ちゃんとつき合うことになったのはいつだったかしら」
「そりゃ――――高二の冬に、広島に帰った時……」
「その時に、あなたは明日香ちゃんへの気持ちに気付いたんでしょ? そして、明日香ちゃんの気持ちも――――」
「…………」
 清美は窓の外に視線を向けながら、続けた。
「私はあまり東京以外の場所って、行ったことがないからよく分かるんだけど……。あなたの実家にお邪魔した時、何か心がすうっと開けて、とても心地が良かったの。上手く言えないんだけど――――今まで、肩肘を張ってきた自分が、客観的によく見えたって言うか。なんていうのかしら……こう……」
「あぁ、何となし分かるわ」
「……だから、私思ったの。色々なことがあった東京を離れて、別の場所でゆっくりとした時間を過ごしてみれば、気づかなかったこととか、見えなくなっていたものが見えるようになるんじゃないかって」
「気づかなかった……こと」
 青大が反芻する。
「あなたも、明日香ちゃんを想っているなら、東京でも、広島でもないところで、明日香ちゃんと二人で過ごす時間が大切なんじゃないかしら」
「じゃけェ……」
「確かに。ずっと計画していた沖縄への旅行はなくなったみたいだけど……だからといって、それで明日香ちゃんとの時間まで全部無くなった、訳じゃ無いんでしょう?」
「浅倉――――――――」
 青大が感嘆する。
「明日香ちゃんとの時間を過ごすことで、善くも悪くも、あなたがここにいては気づかないことに気づく――――きっかけにはなると思うわ」
「せや……な」
 青大は溜飲を下げたのか、口許に微笑みが浮かんだ。
「あ、そうそう! ついでだから私もあなたに言っておくことがあるわ」
「は? なんや、また」
「私も夏休み、月ちゃんたちが帰省する時に、一緒に広島へお邪魔するから」
「ほう、そうか」
「多分、あなたの実家にもお邪魔するかも知れないから、よろしくね」
「おう。父ちゃんたちには伝えとくけェ」
 清美がトレイを持ち、席を立つ。そして、去り際に、青大に振り返り、言った。
「……それで、どういう答えを出すかはあなた次第。結局、なんだかんだと言っても、最後は自分の決断なのよね――――」
 それはまるで、清美自身に対して言っているようにも聞こえた。