現在を大切にする君のために‥‥ featuring 大事にするよ by Tokunaga Hideaki 第10話

一週間後――――

 明日香の言葉を良く憶えていない。ただ、青大の身に突きつけられた現実は、明日香がそれ以来、青大と行動を共にしなくなったということ。隣人なのに、こんなにも遠い。遠く、突き放された哀れな廃兵。隣の音が、めっきりしなくなり、まるで常闇に呑み込まれるかと思うほどに明日香らしくない静寂さだ。
 ファンタジーランドのしましま猫のストラップ。明日香とのお揃いのやつも、外せるはずもない。いつか見たことがある、いつか過ごしたことがある、突然の奈落。
 潸潸と降りつづく雨足。その音が、今は心地よい。ぼうっと、携帯を眺めていた。と、突然着うたが鳴り響く。
「もしもし――――」
『こんにちは、桐島くん』
 浅倉清美からだった。

 カフェレストラン・天見は東京・広島組の糺問所だ。何かがある度に、ここに集うのが慣例。
 奥の座席に縮こまるようにしてコーヒーを啜る青大の耳に、ドアベルの音が聴こえた。そしてそれから間もなく、エナメルバレエの音が近づき、青大の横で止まった。
「元気――――な、訳ないか」
「冷やかしに呼んだんか、浅倉」
 青大がじろっと視線を向けると、清美は呆れたようにため息をつく。
「わざわざ雨の中、あなたをからかいに呼びつけるほど私は暇じゃないわ」
 そう言いながら青大の対面のソファの奥に傘を置き、清美も座る。
「何があったの?」
「相変わらず、単刀直入じゃな。少しは気ィ使えや」
「暢気に社交辞令を交わしている場合じゃないような気がするけどね」
「はぁ……ったく、訳解らんわ」
 青大は取りあえず、経緯を清美に語った。実家のこと、岩手行きのこと。そして、結ばれたことも、包み隠さずに清美に話した。
 それなのに、東京に戻って突然、青天の霹靂のような、一方的な別れ話。
「何か、御島サンの気に障ることやっちゃったんじゃないの?」
「下的な意味で言ォるんか? ふざけてる場合じゃねェわ」
 青大の憤慨に、清美の方が更に反論する。
「ふざけてなんかいないわよ。あなたがいつもみたいに、軽はずみなことをやっちゃって、知らないうちに御島サンのことを傷つけちゃったんじゃないかって、そっちの方を心配してるのよ」
「いつもみたいにって何じゃ! 人を色魔みたく言うなや」
「あら、違うの?」
「当たり前じゃ! お前、オレのことどんな目で見よっとんじゃ」
 コーヒーをひと呷りする青大に、今度は清美も茶化さない。
「……で、見えたの?」
「何がじゃ」
 憤然として清美を睨み付ける青大に、ため息で返す。
「何が、じゃなくて。だから、今まで気づかなかったこととか、見えなかったものとかあなたには見えたのかって訊いているのよ」
「そんなん、よォ分からんわ」
 すると、清美は少しだけ眉を顰めた。
「……そう。あなたには、分からなかったのね」
「……? どう言う意味じゃ」
「桐島くん。私が言ったのは、あなただけに当て嵌まることじゃないわ。御島サンだって、同じ事よ」
「…………」
「短い時間でも別の場所であなたと一緒にいて、気づかなかったことに気づいたり……見えなかったものが見えたりするのは、御島サンのほうが、あった……。そういうことじゃない?」
 清美の言葉に、青大は絶句する。
「桐島くん、私がこんなことを訊くのはおかしいと思うけど――――」

 ――――あなたは、御島サンのこと、本当に好きなの――――

 窓に雨が打ちつけ、店内に流れるヒーリングミュージックをかき消さんばかりだ。
「人って……」
 清美が窓を見つめながら、そっと口を開く。
「人って、人を好きになればなる程、その人の心の奥底が見えてくるものよ。見えなくていいこと、見たくないことまでもが、見えてしまう……。どうしようもないことだって分かっていても、それでも……追いかけたくて、どこまでも――――でも、どうしようもなくて……ね」
 それは、まるで自分自身にでも言っているかのような、呟き。
「浅倉……」
「御島サンの気持ちに何があったのかは分からないけど、桐島くん。……もう一度、自分自身の気持ちと向き合ってみるべきだわ。御島サンのことを思うなら、嘘をついちゃだめだと思う」

 夜から雨が激しくなるという予報だった。
「ただいま」
「あ、お帰りー。じゃないよアンタ、どこ行っとったんね?」
 葵が責めるような口調で青大を詰る。
「え? ちょっと友達とお茶しとったんや」
 すると、葵は憮然として項垂れる。
「な、なんや姉ちゃん」
「なんや……じゃないわよ。明日香ちゃんのコト聞いとらんの?」
 青大の胸がずきんとなった。
「明日香が……どうしたんじゃ」
「休学届、出したって」

「……え……?」

「アンタがいない間に来て、そう言って帰ってったわよ? 何があったん、アンタ達」
「……くっ!」
 青大は葵の話を聞かずに飛び出そうとした。
「ハルト!」
 一際大きな声で、葵が叫んだ。竦むように、立ち止まる青大。
「どこ行くん? 明日香ちゃんなら、家にはいないよ。実家に帰るって言ってたから」
「……」
 途端に足が鉛のように重くなり、動けなくなる。踏ん張っても、力が入らない。
「何があったのかはアンタ達二人の問題だから詳しくは訊かないけど、今追いかけたって逆効果よ。少しは冷静になりな」
 その言葉に、青大は心を締めつけられたように、胸を掻き毟った。

 明日香の姿を捉えられぬまま、日が過ぎた。
 そして、そんなある時――――偶然の電話が、掛かってきた。
「もしもし」
(あっ――――青大くん?)
「枝葉……」

 再び、因果は廻る。
 何気なしに会っていた元彼と元カノの関係。それがゆっくりと収斂してゆくように、“元サヤ"になるのも、自然の理だったのかもしれない。

七ヶ月後

 季節は春の息吹がいよいよ本格的に景色を包む。
 青大と枝葉柚希は、外から見れば普通の幸せそうな恋人同士に見えていただろう。
 だが、実情は何も変わっていない。青大と柚希の間には、何か見えない枷があるかのように、関係の深化を押し止めていた。
(今日は時間がある? 青大くん)
 電話先の柚希の声に、授業を終えたばかりの青大は気懈そうに答える。
「課題も終わらせたし、ええよ」
(うん……じゃあ、先に行って待ってるから)
 スピーカーから聴こえてくる柚希の声が、そこはかとなく乾いているように聴こえた。

「あ、青大くん! こっちだよ」
 カフェレストラン天見。その出入口に近い席で微笑みながら手招きをする柚希。
 青大もまた微笑みを作って返しながら、そこへ向かう。
 つきあい始めてから二人がこうして外でお茶を飲むなんてことは、殆ど無かった。柚希は幾度も誘ったが、青大が乗り気ではなかったからだった。理由を付けては忌諱し、柚希もまた、青大の思いを斟酌してきた。
 笑顔を交え、時折広島時代に良く見せた屈託のない漫才を交わし、一向に柚希を追っていた頃の青大の満願成就を描いていた。
 明日香に別れを告げられ、自答し、きっと自分の心の奥底には、枝葉柚希が息衝いていたことを知ったのかも知れない。
 柚希と再び会い、自然に交際関係に発展した。好きという言葉も、多分使ったのだろう。
 柚希が側にいて、得られたはずの幸福感。
 それなのに、晴れない。繕った微笑みばかりが出る。
「――――ねぇ青大くん、聞いてる?」
「お、おお。どうしたんじゃ」
 視線を上げ、柚希を見る。青大に見せる柚希の微笑みはまるで何かを決めたかのように瞳が凜然と輝き、ドライな笑顔に映った。

「青大くんは、私のこと、好き?」

 唐突な質問に、一瞬躊躇ってしまう青大。
「な、なんやいきなり……」
「――――茶化さないで――――」
 柚希の声のトーンが、落ちた。
「好きに、決まっとるじゃろ」
「決まってる……んだ」
 青大の言葉に、柚希の声が、一瞬震えた。
「枝葉――――?」
 すると大きく息を吸い込んだ柚希が、毅然とした表情を向けて言った。
「青大くん。……あのね?」
「…………」
「私、夏休みの時に青大くんの実家に行ったこと、憶えてる?」
「あ……あぁ」
 それは、意識的に避けてきた話題。戸惑い、同時に胸奥をじわりと焼き付けるような感覚が起こる。
「私が、どうして広島に行ったのか……今なら青大くんに言える」
 そう言って、柚希はゆっくりと語る。

 ――――青大くんと出逢った日から、今まで、ホント毎日、色々あったね。
 もう、なんていうか、一言では語りきれないくらいに……。

 青大の相づちに期待をせずに、柚希は続ける。

 ――――でも、青大くんには新しい恋人が出来て……私は諦めるために広島に行って――――思い出の場所で青大くんのことを割り切ろうとして……。
 でも、青大くんが彼女と別れたと知ったとき、嬉しいと思っていた自分がいてね――――あぁ、私結局、全然吹っ切れてなんかいないんだ―ってさ。
 だから……私とまた、付きあってくれるって思ったときは、本当に嬉しくて――――。

「…………」

 “でも”
 その言葉が発した瞬間、青大は一瞬、硬直した。

 青大くんは……

 青大くんは……自分が思っている以上に、きっと――――明日香ちゃんのことが、好きなんだよ――――

 止まる意識、ホワイトアウトしてゆく想いで。
 やがて、視界の吹雪が収まってゆく。そして、柚希の言葉がリフレインしてゆきながら、見えてきたのは、彼女の姿だった。

 明日香と共に過ごしていた時のゆっくりとした空気、他愛のない会話。
 前向きに、過去に囚われず、いつも明るく、青大との時間を大切にしてきた彼女の存在に、青大は救われてきたのだろう。
 それは自分でも気がつかない些細なことの積み重ねだった。

 いつしか、青大の中で柚希を超える存在になっていた。

「枝葉――――」
「…………ね?」

 それは阿吽の呼吸というものだったろう。それこそ、幼少の頃に出会い、想いを共にしてきた、強い絆で結ばれてきた二人が交わす、無言の会話。

 天見を出て、空を見た。
 雲の切れ間から、久しぶりに遠い青色を映していた。
 心にすうっと、風が通り抜けた気がした。



「じゃーねー明日香! 今度つき合ってよ」
「うん、オッケー、バイバイ」
 高校時代の友人と別れ、明日香はいつものように、帰路についた。
 雲間から日射しが降り注ぐ。見上げる明日香がまぶしさに目を細めた。
 こんな天気の日になると、明日香はいつも思い出す。
「青大……元気だべか――――」
 無意識に思い描いてしまう、青大の顔。

 そうだ。
 人を好きになれば、好きになるほどその人の心の深奥が見えてくる。
 見えなくても良いもの、見たくないものまでもが、見えてしまう……。

(青大の心には柚希がいる。心の中では別の人がいるのに、付きあい続けるなんてことは、出来ない……)

 涙の宣言だった。不本意なのに、それしか選択肢が見当たらなかった。
 陽光に睫を伏せてショルダーバッグを持ち直して歩き出す。
 そう、明日香はいつも青大を信じていた。
 その一方で、その心裡では好きになれば、好きになるほどに不安も募っていったのだ。
 笑顔で青大と過ごしていても、心では明日香自身も気がつかないほどに細かい傷を負い続け、血を流していたのかも知れない。
 燻り続ける心の想いが再び燃え上がりかけ、また鎮む。ここにいても、何も変わらないのに。

(青大くんがずっと、思っていることをすればいいと思う)
(枝葉は……それでいいのか)
(うん……何かもういいかなって感じ)
(そうだったのか)
(ちょっとだけ、欲が出ちゃったかな、って)
(欲?)
(青大くんと、もしかしたらずっとつき合ってゆけるんじゃないかなって……)
(枝葉……)
(でも、甘かったみたい。……やっぱり青大くんの心、繋ぎ止めておくことは出来なかったな……)
(枝葉――――ごめん……オレ、最低やわ)
(違うよ。青大くんは立派。最低なのは私……。青大くんの気持ち、知っていてつき合っていたんだから)

 ホワイトアウトしている意識の中で、確かに交わしていた会話だった。そして、最後にこう言っていたのを、思い出す。

(待っていると思うよ……きっと)