現在を大切にする君のために‥‥ featuring 大事にするよ by Tokunaga Hideaki 第11話(終)

最終回

 青大は東京駅に向かっていた。
 正直、ここに来るまでに青大は何度も迷った。いや、迷ったと言うよりも、何度も自分の心を確かめた。
 そして、その答えが青大の足をここに向かわせていたのだ。
 柚希をどこかで想っていた。それは、誰の所為でもない、自分自身が蒔いた種。
 チケットを買い、新青森行の車輛に乗り込む。
 その日は朝からどんよりと曇っていた。少し肌寒い。本格的な夏まではまだ時間があるようだ。
 窓を打ち付ける雨。流れゆく灰色の景色。
 青大に心空く思いをさせないかのような、冷たく、重い雨。

 明日香と共に降り立った駅は、あの時と雰囲気が変わらない。構内アナウンスの声、人波、店舗の照明。青大の決心などお構いなしに、いつもと同じ時間と色を見せている。

 明日香への電話やSNSはしない。着拒にはされていなかったが、あれ以来電話やSNSは暗黙の忌諱だった。明日香からも電話は掛かってこない。
 もし、今明日香にそれをすれば、きっと会ってくれないだろうと思っていた。
 駅前でタクシーに乗り、明日香の実家へと向かう。実家に押し掛けるのは憚られると思うのだが、それが最初で最後の賭けだった。
 会えなくても良い。
 かつて、自分が柚希を追って東京に移ってきた時に何度も柚希の家の前で待ったことがある。ストーカー呼ばわりされても構わなかった。それくらい、想い続けてきたからだ。
 数日の野宿の覚悟は疾うに出来ている。今はそれほどまでに、明日香に直接会って、この胸の本心を伝えたかった。

 雨が強くなる。明日香の家の窓から灯りが見えている。
 新幹線の駅で買ったビニール傘をたたみ、意を決してインタフォンを鳴らす。
「桐島青大です」
 母親だろう。その応答に、青大は毅然と名乗った。
「まあ、青大くんだが! しばらぐだったねぇ」
 青大の姿に明日香の母は諸手を挙げて青大を家に招こうとしたが、青大は一歩引いて、唇を結んで言った。
「明日香は……いますか?」
 すると明日香の母は残念そうに言った。
「明日香は友達に誘われで、遊びさ行ってる。泊まるかもしれねえって言っでだ。明日か明後日には帰ってくるど思うげど……電話はしだの?」
「……あ、いえ。ならば――――いいんです。すみません」
 青大が踵を返そうとすると、明日香の母が止める。
「ちょっと待ぢなさい青大くん。どごさ行ぐ?」
 明日香の母は青大を引き留め、泊まって行くことを勧めようとしていた。
「いえ。オレは……」
 すると今度は奥から明日香の父親が姿を見せ、青大を見るなり、頷く。
「娘がらは何も聞いでねが、青大くんさば青大くんの事情があんだべ」
「…………」
「娘さ連絡しね方がいいが」
 青大は頷く。
「わがっだ。だばしね。君の思った通りにすればいい。――――ああ、母ちゃん」
「はいな」
「勝手口の外さ置いでるポリバケツの蓋の裏さ、鍵ついでんだったな?」
「え? んだ。勝手口の鍵です」
「なら、いんだ」
 それが明日香の父の遠回しの気遣い。青大が窮したら、いつでも家に上がってきなさいと言う意味だった。青大は深く明日香の両親に頭を下げると、玄関を後にした。

 どんなことがあっても、明日香の両親に縋るつもりはなかった。予定調和の回帰など意味がない。どんな時間が経っても良い。ノーオファーで直接会い、伝えなければ意味がないのだ。
 明日香の家の敷地にしゃがむ。外を歩けば、不審者として警察に咎められる。交番などに連行される訳には行かなかった。
 傘に打ち付ける雨音、吹き付ける冷たい風。ズボンも濡れ、上着も濡れることが避けられない。
 植え込みの裏に身をかがめて時を過ごす。何とも背徳や罪を犯して逃亡する人間のような惨めさだ。だが、それは受け入れなければならない、過ごさなければならない時だった。
 朝になり、いささか雨足も弱まった気がしたが、再び降り出す。先日確かめた週間予報では、今日も一日雨で気温が低いということだった。
 明日香の母親が心配して青大の様子を窺うが、父親が止めた。それが青大にとっての試練だと言うことを言い聞かせ、母親は渋々と内に引いた。
 食事も取らずに、昼が過ぎ、日が傾いた。
 雨雲に覆われた空が暗くなるのは早い。
 ただじっと、青大はそこに蹲る。
 じっとして、緊張していると不思議なものだ。お腹が空かない。丸一日以上、物を口にしていないのに、腹の虫が鳴らないのだ。
 寒さを意識すると、震えが来る。だから、ひたすら考えることを無くし、虚無に置く。
 そして、御島家の窓から灯りが消えた。その日も、明日香は帰ってこなかったのだ。

(オレは神さまなんてあまり信じとらん。……じゃけど、これはオレに対する神さまの試練じゃ――――天罰じゃ……。明日香に対する……枝葉に対する、償いじゃ……)

 寒さの中で、青大は眠くなる。遠のいて行く意識の中で、青大が自嘲する。そして、浮かぶ姿は、彼女……。

(雨の中、ずっと笑ってさ――――両手拡げて、笑ってたんだ)
 ずぶ濡れの心。
 でも、いつかそれが止んで、やがて見える筈の青空を信じて、生きてきた。

(青大がいて、私は私らしくなれたんだ)

 …………
 …………

 ………と?

 ……る……と?

(ん――――んん……)
 意識が闇の底から引き上げられて行く。
 雀の囀りが、さんざめく。青大が茫然とした意識の中で、瞼を開いた。
「っ……!」
 眩いばかりの朝陽が、照らしている。
「んん……っと……」
 青大が目を細めて太陽から外方を向いた。その時だった。

「青大――――あんた、何やってんだ?」

 呆れ果てたようにため息をつきながら、青大が知っている、いつもの通りの大好きな彼女の顔。
「明日香――――おはよう」
 青大が疲れ果て、今にも事切れそうな意識の中で、最大限にそう言って笑った。
 明日香は何も突っ込まなかった。ただ、青大の様子を見て、彼女なりに何かを見つけたのだろうか。
 明日香は青大の前を横切り、朝陽に向かって立つ。

「ねえ。私ってさ、青い空って、好き」
 その言葉にはっとなり、青大は顔を上げる。雲ひとつ無き、真っ青な空。
「どんな、ところがじゃ」
「ずっと、変わらないところ。……ていうか、ずっと同じ青さってところが、かな?」
「青空を嫌う奴なんか、おらんじゃろ」
「そうかな? 少数派でいるかもよ」
 他愛のない会話。それが意味があると実感する。
「あとね、雨も好きかな? うん、雨! 今、すごく好きになったよ」
「全部やないか」
「雪も!」
「それは知っとる」
 青大の味気ないツッコミに、明日香が頬を膨らましながら、青大を睨む。

「オレは……明日香が好きじゃ」
「嘘」
「嘘――――じゃねぇわ」
「信じない」
「信じらんわ、オレだって」
「は?」
「お前と離れて……お前のことが、こんなん――――こんなん想うとったんなんてな」
「…………」
 青大ががくがくと肩を震わせながら、涙を流す。
「……ねえ、青大」
「な――――なんや」
「私ってさ、何色の空……かなあ?」
 唐突な質問だった。だが、青大はそれを正面から受け止め、答える。

「たとえんなら……この空の色や。雨上がりの青空って、すごく澄んどるんじゃ。……お前は――――明日香はこの空じゃ」

 ふわりと、明日香の両腕が青大の頭を包み込み、その胸に青大を抱きしめた。
「ほわぁ……青大、すっごく冷たい」
「お前が暖かいんじゃ」
 ここに来てもなお、いつものような二人。それが何にも代えがたい、

 傷つかない恋愛なんてない。
 柚希が傷つき、七海が傷つき、そして明日香も傷ついた。
 大切な物を失くしていったのは、結局は青大自身が蒔いた種だ。
 そして、そんな傷つけた人に気づかされた想い。柚希を追い続けながら、そしてその柚希に気づかされた、現在を、この時を、明日を、未来を共に歩むことが出来る女性を。

(あの日。明日香は思っただろう。この空の青さが、ずっと……ずっと続けばいいのに)

 空はいつまでも青い。雲が晴れれば、いつも同じ色の青さが続いているんだ、と。
 明日香の母が玄関を開き、明日香を迎えると同時に、青大の元に駆け寄った。青大の受戒は、終わった。

――――数年後

 青大は、明日香の実家に近いところに家を買った。リフォームをして、小さな食堂を開いた。
 明日が、その開店初日である。
「頑張ったね、青大」
「お前のお陰じゃ、明日香」
「でも……本当に、最後までネタだと思ってたよ?」
 そう言って小さく笑う。
「じゃけぇ、馬鹿にされんよォに頑張ったんじゃ!」

 大学を終えて、青大は広島に帰った。明日香は東京に残ったが、青大と離れたくないと、彼の後を追って広島に来た。
 広島のB級グルメ試合で最優秀賞を獲った有名な料理人・只野麦、ゆう夫妻の営む小さな食堂で修行をした。調理師の資格を得て、只野夫妻のお墨付きを得た。
 青大の実家から通えないこともなかったが、蛍雪を選んだ。暮らしは楽ではなかったが、得られたものは多かった。

「店は、明日香の街で開こう思ォてる」
 そう告げられた時は、明日香は驚いたが、途轍もなく嬉しかった。
 事実婚だったが、まだ籍は入れていない。
 青大の夢が叶う時まで、それは敢えて封印した。
「流行ると、いいなあ」
「これからも二人で、頑張って行こうや。お前の家族もおるしな」
「ありがとう……青大。大好き……」
 この町を選んだ。青大が変わることが出来た町。明日香への想いを確かなものとして、新しい自分を見つけることが出来た町。

 明日香は今、栄養士の資格を取るために、日々猛勉強中だという。地域に密着したボランティア的な何かがしたいと言って、始めた。ふたりの子供は、まだまだ先になりそうな感じだ。