明日香が地元に帰る三日前。青大はいつものように、彼女の部屋でマガジンを読み、明日香もベッドの上で雑誌を読みふけっていた。
彼女の性格からすれば、事前に里帰りの支度をしている風でもない。
青大は時計を見上げ、夕食の準備をしようと立ち上がる。
「今日は何すんの?」
「中華丼とコンソメスープじゃ」
「わぁ、やったぁ! ね、ね、ウズラ多めにね」
「はいはい」
まるで子供のようだと青大は呆れつつも、いつもより多めに缶詰めのウズラを取り出した。
キッチンからいい匂いが立ちこめてくると、決まって明日香は身を乗り出して青大の作業をすり寄って眺める。
「おい。摘み食いはすんなよ」
「うっ……」
小型のフライパンに出来上がっていた中華丼の具に手を伸ばし、ウズラを狙っていた明日香を、さりげなく止める青大。
「ウッ……じゃあないわ。黙って座っとけ」
菜箸でそのまま座卓を指し示す青大。
「はぁい」
頬を膨らませて不満の表情を浮かべる明日香。言われる通りにしようとした時、不意に明日香はにこりと微笑み、青大の背中に抱きついた。
「えいっ!」
「う、うわっ。こ、コラ! 危ねぇじゃろ!」
慌てて持っていた小鍋をコンロに戻し、怒りの様相で振り返る。
「コラ明日香ッ、邪魔すんな。火傷したらどうすんじゃ」
しかし、青大の胸許から悪戯っぽく見上げ、見つめる明日香の表情を見つめると、その可愛い容貌に、怒りもすうっと萎んでしまう。
「全くお前ってヤツは……」
呆れながらも青大は菜箸でウズラを摘むと、胸許の明日香の口に運ぶ。
「んふふー」
パクリと、ウズラを頬張り、明日香は満足そうにもぐもぐと咀嚼する。
「さ、早ォ座れや。もう出来るぞ」
青大が横を一瞥すると、炊飯器からは湯気が勢いを増していた。後数分で炊き上がるのだろう。
「うん、わかった」
明日香は青大の背中から腕を放すと、徐に踵を上げ、青大の唇にキスをした。
「ちょ、お……おまッ!」
再び不意を突かれた青大。明日香は無邪気に笑いながら颯然と座卓に向かう。
「全く……口にとろみついてもーたわ」
嘆息を漏らしながら青大は唇を吸い込み、明日香がつけたとろみを舐めた。
「うーん、美味い。やっぱ青大の料理は最高!」
ウズラが誇張する中華丼にぱくつく明日香。かたや正直、青大の丼にはウズラは二個くらいしかない。
気分洋々でそんな食事を満喫する明日香に、青大は丼を半分ほど食したところで手を休め、一度、箸を置いた。
「なぁ、明日香」
「んー?」
食事が一番、幸福の時とばかりに、ほくほくとした表情で丼を持ちながら箸を動かす明日香。
「俺さ……いや――――俺もお前ン家、行ってもええか?」
その言葉の直後、愕然となったのか、ぴたりと明日香の箸の動きが止まる。
「え? ……うわっ!」
予想にもしなかった青大の言葉に、明日香は思わず手に持っていた丼を落としかけてしまい、慌てて持ち直す。間一髪、転倒は免れた。
「おいおい、気ィつけェや」
苦笑しながら手を伸ばし、丼を支える。
明日香は殆ど空になった丼をゆっくりと座卓に置くと、おずおずと青大に視線を向ける。
「急にどうしたの? 青大、実家には帰らないのか?」
「あぁ。家にはその気になりゃいつでも帰れるし、実際帰ったところで何もすることがないんじゃ」
「そうなの? ……でも、冬にお邪魔した時は結構、忙しかったじゃん、青大」
「あん時はお前や浅倉がおったからな。勝手を知らんお前らの面倒見ないといかんかったやろ、オレが」
「ま、まあ……そりゃ、そうだけどさ――――でも……」
「ああ、嫌なんなら別にええけどな。それやったら実家帰るし」
すると明日香は驚き、慌てて頭を振る。
「あっ、嫌じゃねェ、イヤじゃねェっでば! 違うんだハルドぉ……」
明日香はなぜか頬を染めて、肩をすぼめる。
「嬉しいよ。……私さ、あの冬休みの時、青大に無理言って広島さ押しかけたじゃん? だがら……そのお返しってワゲじゃねんだげど――――青大のこと、機会があっだらウヂさも呼んでみでーって思っでだんだ」
「明日香……」
「だげど……約束しでだ旅行もパーになっで、家さ帰ェるのは母ちゃんの事だし……二人でゆっくりって訳には――――」
また泣きそうになる。青大はすぐに言葉を挟めた。
「じゃけェ、オレも何か手伝うことあるじゃろ?」
「……え? 青大――――」
危うく瞳から雫を落としそうになるところを怺えきり青大を見ると、彼は優しい微笑みとため息をつきながらじっと明日香を見つめ、戯けた感じで“な?”と首を傾げてみせた。
「それに……」
「うん……それに?」
青大は先日、浅倉清美と話したことも踏まえて、言った。
「やっぱり……たとえ数日でも、お前と会えなくなるんは、いやなんじゃ」
その言葉に、明日香の心はすうっと軽くなってゆく感じがした。とても、青大の言葉が嬉しくて、心に沁み入り、反響してゆく。
「私もだよ……ほんとうのこと言うとね、私も青大と離れるの――――嫌なんだよ。ずっと、一緒にいたいもん」
泣き止んだ後の甘えるような声で、明日香はそう言いながら、切ない表情で青大を見つめる。こういう表情や言葉が、青大の心を惹きつけてやまなかった。
「ああ、じゃけ……」
青大が返答を待つ。
「あ、あ……うん。モチロン大歓迎だよ。ああそんだ。家サ電話しねーど。父ちゃんと爺っちに言っどがねーば!」
明日香は浮かれすぎているのかフワフワと両手が踊り、携帯電話と残った丼、思わず弾いてしまった箸をきょろきょろと落ち着かない。
「明日香、落ち着けェや。誰も逃げはせんぞ」
そう言って苦笑しながら、青大は転がった箸を拾い上げた。
明日香が緊張した面持ちで電話を掛けているうちに食事を終え、片づける青大。
なにやら時々声を張り上げたり、急に悄々となったりと、携帯電話に喜怒哀楽を豊かに表現する明日香の様子を背中越しに聞く青大。
そして、別れの挨拶の直後に明日香の嬉々とした声が、洗い物をしている青大の背中に当たる。
「来ても良いって! 父ちゃん、青大の料理食べでみでえって」
「あははは。そっか。なら明日香、早ォメシ済ませや。食い終わったら、小旅行の準備じゃ」
「あっ、うん!」
洗った箸を差し出すと、明日香は軽やかにそれを受け取り、残った中華丼と取っていた数個のウズラ、そしてスープを一気に平らげた。
三日後、朝。
「それじゃ、行って来ます!」
ハイツ旭湯の入り口。キャミソールにショートパンツという実にラフな格好で、明日香は青大の姉・桐島葵に敬礼のポーズを取る。
「気をつけて行ってらっしゃい。お土産はいつものでいいから」
「うん、わかってる。遠野まんじゅうね?」
明日香が上機嫌に確認を取ると、葵は大きく頷き、隣でキャリーバッグとショルダーバッグを提げる青大をにやにやしながら見る。
「アンタも律儀よねー」
「ハァ? なんやいきなり」
「いきなりも何も、もう“種”を仕込んじゃったから、明日香ちゃんのご両親に挨拶に行こうって言うんでしょ?」
葵の言葉に青大は分かりやすいほど狼狽し、明日香はみるみるうちに顔を真っ赤にしてゆく。
「バカかっ! 何も仕込んどらんわ!」
「ホントにィ~? 時々、隣の部屋から変な声聞こえるけどォ?」
「……」
葵の揶揄に明日香は凝固し、俯いてしまう。
「それはお隣の秋月サンじゃろ! オレらじゃねェわ!」
激昂する青大を遇うかのように葵が流し目で弟を見る。
「あら、別にいいのよ? つき合ってんだから、何したって」
「だからまだしてねェって!」
思惑通りに嵌まってくれるこの弟を揶揄するのが、ある意味葵のストレス発散法でもあるようだ。
そんな応酬が続く中、明日香の指が青大のシャツの裾をくいくいと摘む。
それを合図に、応酬が終わる。
「ったく揶揄いやがって。時間もねェし、もう行くぞ?」
「あははは、行ってらっしゃい。青大、明日香ちゃんと“ゆっくり”してきなさい」
笑いながら踵を返し、手を振りながら中に戻ってゆく葵。
「姉ちゃんが言うとみんな下ネタに聞こえてまうわ、ったく」
からからとキャリーを引きながら憤慨する青大。
かたや青大の隣には、葵の揶揄の余韻さめやらぬ明日香がまだ顔を赤くし、俯きながらてくてくと歩いている。
「そ、そういえば青大、知ってる?」
「ん?」
「秋月さんって、その……でき婚――――らしいよ?」
「でき婚……できちゃった婚ってやつ?」
明日香が頷く。
「その……高三の時にね――――その……」
「ふーん、そうなんや」
意識をあまりしない様子の青大。
「青大は――――、どうなのかな」
「ん? どうって、何がどうなん?」
「…………」
全く通じない。明日香は半ば呆れたようにため息をつくと、首を横に振った。
「ゴメン――――何でもない」
そうだった。青大は普段はあまりそういう話を意識しないのだった。きょとんとする青大に、明日香は微笑み返し、そっと腕を組んだ。
「やっぱ、どこか遊びに行ければ良いね」
「バカッ、お前のお母さんが入院するから、家の手伝いを兼ねて行くんじゃ。遊びに行くんじゃねぇって。お前も言っとたろォが」
青大がびしっと的外れなことを言う明日香を窘める。
「分かってるよォ。分かってるけど……だって……嬉しいんだもン」
「…………」
「私の実家だっても、青大と一緒にいられることが、本当に嬉しいんだもン――――」
明日香は本当に心をグッと捉える甘えの達人だ。青大の保護者気分も形無しになる。
「ま、まぁ……お母さんの状態見て、時間に余裕があったら、どっか案内がてら遊びに連れてってくれや」
青大がそう言うと、明日香はぱっと表情を明るくしてぎゅっと抱きつく。
「うん!」
「こ、こら危ねェって! あんま抱きつくな、ブチ暑ィんじゃけェ」
往来からすれば、朝っぱらから茹だるような暑さの中で、旅行の装いでいちゃつくバカップルに白い目線を送るのは至極当然のことであった。
そして、通勤の人込みも一段落した東京駅から、青大と明日香は颯爽と“はやぶさ”に乗り込んだのである。
(あなたも、明日香ちゃんを想っているなら、東京でも、広島でもないところで、明日香ちゃんと二人で過ごす時間が大切なんじゃないかしら)
出発のアナウンスが響く中で、窓の外の薄暗い構内を眺めながら、青大は清美の言葉を反芻していた。
「青大?」
「ん? ああ、なんや」
「荷物、上に上げようよ」
「おぉ、そうじゃった! 忘れてたわ」
促されて荷物を載せ、席に着く。駅で買ったお茶のペットボトルを明日香から受け取ると、それをひと呷りする。
「ぷはー、暑かったけェ、ブチ生き返るわ」
「あはは。ご苦労さん。何かボーッとしてたから、熱中症にでもなったかと思ったよ」
「まァな。ちょっと、考えてたんじゃ」
青大が再び、窓越しの構内を見る。
「え?」
「明日香とこうして行くって事がさ、オレにとって途轍もなく大事なことなんじゃ……って、何かそう感じとった」
「青大……」
明日香が澄んだ瞳で青大を見つめる。
そして、ゆっくりと新幹線は動き始めた。