「ハルト君、料理上手だなやー」
「ハルト兄ちゃん、うめー」
御島家を訪れた青大を待ち受けていたのは、明日香の父親と、弟。祖父たちは、明日香の母親が入院しているという県立病院へ行っているのだという。距離も結構離れているとのことで、別の親戚の家に二、三日ほど厄介になっていると聞いた。
青大が明日香の後に紹介を受けたその瞬間は、娘の彼氏、姉の恋人と言うことで、それぞれ敵愾心やら好奇心などが“氣”となって緊緊と青大に伝わった。
それにしても“芸は身を助く”とは、よく言ったものである。
青大が手っ取り早く御島家との友好度を上げる方法は、明日香も電話口で肉親に言っていた、家事のスキルが最も有効だと思った。
明日香の家に着く前に、青大はスーパーに立ち寄りたいと言った。訝しむ明日香に、青大は料理をこなして、自分をアピールしたいと返した。
明日香はそれに賛同し、実家に向かう途中にある大型スーパーに立ち寄り、青大と食材を調達した。
メニューは七塚ヶ原のサービスエリアで、天城紫歩から仕込まれたカツ丼。青大にとっては直近で最も勝負を懸けやすい料理である。
あれから上京してからも、姉の葵や明日香、風間恭輔にも好評だった、青大の自信料理。
百の美辞麗句よりも、ひとつの料理。それで自分を認めてもらおう。青大にとっては、初めて訪れる恋人の実家に向かう緊張感と、親に対する自己アピールの手段をずっと考えた上での答えだった。
その答えは正解だった。いや、むしろ期待以上の成果となって、青大に返ってきたのである。
青大の作ったカツ丼と味噌汁は明日香の父や弟に非常に好評で、初めは警戒心剝き出しだった父も、一息に青大への好感度を上げた。
特に、味噌汁にかけては関西と関東だけでもだいぶ違う。高校時代に、明日香と年越し蕎麦のつゆについて論争したことは記憶に新しく、以来料理の味付けに関しては、随分と明日香に慣らされた感じがした。
青大も広島人としての矜恃はあったが、今はこれほど明日香に感謝したいと思ったことはない。
「ハルト君がいでくれたら、がさつなこいづも安心だな」
青大が淹れた濃い目のお茶を満足げに啜りながら、明日香の父は揶揄うように笑う。
「な、何言ってんの父ちゃん!」
当然のように顔を真っ赤にして狼狽する明日香。
「照れることねえべや。ねーちゃんのカレシなんだべ?」
弟もにやにやとしながら明日香と青大を交互に見回す。
「もー、うるっさいなァ!」
明日香が苛つくように立ち上がると、さっさと居間を出ようとする。
「明日香、ハルト君が料理を作ってくれだんだ。洗い物くらいしてあげなさい」
父がそう言うと、明日香は思い出したかのようにぴたりと足を止めて踵を返した。
明日香が台所に立ち、後片付けをしている。
一方で青大は、居間で明日香の父と談笑をしていた。弟は携帯ゲーム機に夢中の様子。
「それにしてもハルト君、よく来てくれたなぁ」
「いえ……その、ご挨拶をしなければとは思っていたんですけど、何か色々と立て込んでいる時期にお邪魔をしてしまったようで」
すると明日香の父はいやいやいやと大きく状態を揺らして苦笑する。
「何か聞けば娘が大袈裟に騒いでしまっだみたいで、かえってハルト君に気ィ使わせてしっまっだんじゃねえべがっで、逆に申しわげね」
「あ、いえ……そんなことはないですが……あの、お母さんの方は……」
「そごだ。娘が何で言っだが分がんねけど、母ちゃんはなに、大ぇした事はねぇげ。長ぐでも一週間ばがり入院すれば退院出来るっつうごとだがんな」
「え……?」
青大が思わず、きょとんとなる。そこへ、ゲーム機に集中して両手を事細かに動かしていた弟が口を開く。
「ねーちゃん、いっつも大袈裟なんだ。母ちゃん手術するって言っただげで、人の話最後まで聞かねーで、勝手に大騒ぎ!」
「ちょ……うるさい!」
台所の方から激しい動揺の声。
「でも、男だけになるから困る。色々とすることがあるって聞いたんですけど」
「なにさ別に死に病でもねぇげ、予定あんならそっぢ先に済ませでがらでも良いって言ったんだがな」
と、父。続けて弟。
「いっづもの事じゃん。ねーちゃんの暴走グセ、東京行っても直んねんだな。ハルト兄ちゃん、もしがしてねーちゃんの暴走に遭ったことあるでしょ」
弟の指摘に、青大は三秒で記憶を遡り、初めて出逢ったあの日のことを思い出した。
「ああ、フルフェイス」
「ん、ふるへいす?」
青大の呟きに素っ頓狂な声を上げる明日香の父。
「ちょ、ちょっと青大。それは言わないでいいがら!」
「ん? 何があったのかなハルト君」
「あはは。ちょっとした誤解でして――――」
明日香が騒ぐが、簡単に経緯を説明すると、明日香の父は顔を真っ赤にして明日香を睨み、弟は歯を出しながらにやにやと笑っていた。
「明日香ッ! お前って奴は……」
「ねーちゃんサツジンミスイ」
「ワーッ! 違うってゆってっぺ!」
騒がしい明日香とその家族。青大は親子のやりとりを眺めながら、少しだけ広島の田舎を思い出して目を細めた。
青大は弟の部屋で休むことになった。風呂上がりに冷たいビールに与った明日香の父は、夜のテレビ番組のスポーツコーナーを見終わると先に休むと言って部屋に向かった。
弟もよほど青大とゲームをするのが楽しかったのか、仲の良い兄弟のようにすっかり馴染んだ。やがて疲れたのか、気がつけば布団に仰向けになって眠りこけてしまった。
時計を見れば夜中の十二時半過ぎ。暑さも少しだけ和らぎ、涼しい田舎の空気が漂う。
居間に下り、縁側に座る。
しばらくして、台所の方から物音がした。
「青大?」
囁くような声に青大は手を上げて応える。
「……ちょっと待ってて」
なにやらごそごそと作業をする音が続き、やがて足音が青大に近づいた。
「はい、麦茶」
「ああ、さんきゅう」
手を伸ばし、氷に冷やされ汗をかいたタンブラーを受け取る。ショートパンツから伸びた、細くすらりとした脚が青大の視界に入り、縁側に伸びる。
「どうしたの、寝れない?」
「いや、何となく。……ここに来てから、明日香とゆっくり話出来んかったからな。こうしてれば、もしかして来るんじゃないかって思うとった」
青大の言葉に、明日香は思わず、小さく笑った。
「なにそれ、何かのマンガの話みたい」
「弟君、ゲーム鍛え甲斐があるな」
「あー、あいつ負けん気強いからしつこかったでしょ。ゴメンね」
「あははは。楽しいって、ほんと面白かったわ」
「でも青大、弟の部屋と一緒でいいの? もし良かったら……」
「彼女の実家にお世話になるのに、さすがに部屋まで一緒はまずいじゃろ。ええよ。弟君と布団並べて寝るのも。……オレ、男の兄弟おらんしな。憧れなんや、弟と一緒に枕並べるのが」
「うん……ありがとう。何かゴメンね?」
明日香が申し訳なさ気に謝ると、青大はくすくすと笑いながら、空いていた手で明日香の頭をごしごしと撫でた。煩そうに肩をすぼめる明日香。洗いたてのショートの髪から、シャンプーの良い香りが散る。
「謝るなって言ってるじゃろ」
そのまま青大は明日香の肩に手を回してすっと抱き寄せる。
「でも……母ちゃんのこど――――」
甘えるように青大の肩に額をすり寄せる。
「大事がなくて、良かったやないか」
「でも……私の早とちりで――――青大、こんなところに来させでしまっで」
明日香の声が潤み出すと、青大は子供をあやすように、タンブラーを置き、その腕を明日香の背中に回し、両腕で優しく抱きしめた。そして、ゆりかごのように前後に軽く揺らす。
「何万も掛けて、決まった予定で行動しなきゃならんツアーなんかより、こっちの方が、断然ええって」
「青大……」
青大の腕に、タンクトップ越しに明日香の細身の身体の感触が伝わる。彼女の体温が、無性に心地よい。
「……なんか、ずっとおってもええかも知れん」
青大の言葉に、明日香は青大の胸の中でくすっと笑う。
そして、明日香もそっと両腕を青大の背中に回した。
「青大は優しいね……ほんとうに……優しいよ――――」
「なんや。何回も言われるとぶち照れ臭いわ」
きゅっと、明日香の腕に力が入るのが分かる。
「青大の匂い……んんーっ大好きな――――青大の匂いだぁ」
ティーシャツ越しに明日香の深呼吸を感じ、くすぐったさに身をよじる青大。
「子供みたいじゃな、明日香」
青大が微笑みながら明日香の髪を包むように撫でる。腕の中の明日香は、ソフトボール部のエースとは思えないほどの華奢な身体をしている。力を入れれば、今にも壊れそうだ。
「ねぇ、青大……」
猫撫で声で、明日香は見上げる。
「青大が一緒にいてくれて、私本当に嬉しいよ」
「?」
ただ、じっと見つめてくる明日香に、青大は不思議そうに見つめ返す。
澄んだ瞳が星彩を湛えて青大の心の奥に沁み入るようだ。青大を慕う真っ直ぐな眼差しが、何故か胸奥に突き刺さるように切なくさせる。
「なぁ、明日香」
「ん?」
「お母さん、大事ないんやったら、時間作ってどっか行こうな」
「あ、うん……そうだね」
「沖縄旅行の仕切り直し――――にはならんとは思うけど」
「私は青大と一緒なら、どこでもいい」
「オレもじゃ。なんなら裏山にでも行くか」
青大が冗談を言うと、明日香は肩を揺らして苦笑する。
「えーっ、うちの? さすがにそれはひどくない?」
「冗談や。せいぜい、高尾山のピクニックが最低ラインじゃろな」
「行くならもうちょっと色つけようよォ」
「あはははっ、そうやな」
抱きあいながらいちゃつく恋人同士。ふと、視線が絡み、談笑が止まる。
深夜に恋人が見つめ合うと言うことは、そういう雰囲気にすぐに陥るものなのかもしれない。
「……」
「……」
最初の頃のようなぎこちなさはなく、互いに、自然に引き寄せられる。
野球観戦の後に勢いで入ったラブホテルは思案の外だが、徐々に打ち解けていったおはようの挨拶、食事の準備の時に明日香が不意打ちにするキスとは違う、まさに性を欲する、濃厚な色合いが強いものだ。
潤み、光が燻る瞳がゆっくりと閉じられ、熱った吐息が互いの唇にかかる、その時だった。
ギシ……ギシ……
床板が軋む音に、明日香が真っ先に我に返った。磁石の同極のように跳ねるように青大から身を離す。
「……?」
明日香の温もりが、一気に夜気の冷たさを抱く形の青大。唖然となる。
(ゴメン、弟だわ)
明日香の小声。開け放たれた居間の障子。やがて廊下から響いてくるゆっくりとした足音と共に、明日香の弟が寝ぼけた様子でどこぞに向かう。
(トイレみたい。シーッ)
明日香の身振り手振りで、二人は息を潜める。明日香の弟はそんな二人に気づく様子もなく、また縁側が開いているという事にも気づくことはないまま、廊下伝いに背を向け、トイレのある方に向かっていった。
水の流す音、扉の閉まる音、長い欠伸とゆったりとした足音。息を潜めてから五、六分程が経ち、ようやく弟の部屋の扉が閉まる音を確認した。
「ふぅ……ビックリしたわ」
「う……ゴメン青大――――せっかく……」
申し訳なさ気に再び身を寄せてくる明日香。
「うち、古いからさ、音しちゃうんだよ。私もみんな寝静まっているから、起ごさねーように気遣って音立てないように降りてきたんだけんど……」
「確かに。明日香の気配は感じなかったなァ」
「そォ? やった!」
何故か勝鬨。
しかし、青大は不意にもたらされた緊張感から解放され、途端に大きな欠伸をした。
「ふわぁ……何か、寝むぅなってきたわ」
「ん……そうだね。今日はもう寝よっか」
「あぁ」
青大は頷くと、明日香の髪を軽くごしごしと掻き、立ち上がった。今度は本気で、眠くなった。
「おやすみ、明日香」
「うん。お休みなさい、青大」
明日香がにこりと微笑みながら、指をくねらせた。
そして、青大が廊下に行くその背中に、明日香はそこはかとなく寂しそうな眼差しを向けていたのである。