旅館の膳というのは、不思議な旨さがある。青大も昔、興味本位で旅館の味を試そうとしたことがあるのだが、到底出せるものではない。
「ふぅ――――やっぱ、旅館の膳は旨いわ」
味もそうだが、温泉に入った後に食すという雰囲気もまた、味を引き立てているのかも知れない。
「山菜が美味しい! 茶碗蒸し、甘いよぉ」
ホクホク顔の明日香の表情を微笑ましそうに見つめる青大。
「だったら、これも食べるか」
「えーっ! ホントに? ありがとー!」
遠慮無く青大の膳に手を延ばす。
「あはは……、美味しかったから思わず食べ過ぎちゃったよ。お腹いっぱいだね」
「大丈夫か、明日香」
「んー……満腹」
両腕を支えにして斜めに身体を伸ばす明日香。
「腹ごなしにまた行くか。温泉」
青大が勧めると、明日香はぱっと身を乗り出す。
「そうだねー! 混んでなきゃいいけど」
「確かもう日帰り客の利用時間は過ぎたじゃろ。ゆっくり出来ると思うわ」
「うん。……それじゃ、青大も行こうよ」
「おお」
明日香に押されて青大も再び温泉に向かった。
青大が戻ってきた時、明日香はまだ温泉から上がっていない様子だった。よほど気に入ったんだろうか。結構な長風呂のようである。
客室に戻った青大は驚く。布団が二組、ぴたりと並べて敷かれていた。
よく読む恋愛漫画でのお約束シチュエーションと言えばそうなのかも知れないが、青大はわざわざ布団を引いて離すと言うことはしなかった。意識するのもあざとい気がしたからだ。
その時、荷物に押し込んでいた携帯電話が鳴った。着信画面に、由良尊と表示されているのを確認し、通話ボタンを押す。
「おう、尊。どしたん」
『どしたんじゃねェよ青大、お前何で帰って来ねーんだよ』
「何でって、聞いとるじゃろ。オレは今、明日香と一緒におるんじゃ」
『は、はァ!? そんなん聞いとらんぞおい』
「なんだよ、誰も話しとらんかったんか」
すると電話から離れたところで尊と会話する声が微かに聞こえる。
『……って、せっかく柚希ちゃん来とんのに――――ってぇ!』
バコンッと、あきらかにメガホンか丸めた雑誌で殴りつけたような軽快な音が響き、喚き立てる尊の声がフェードアウトして、新しく電話を手にした人物の声が聞こえてきた。
『あーもしもし、ハルト? ウチ』
加賀月だった。
「お、おう月か。……尊のやつ、どうしたん?」
『ああ、そこで芋虫のように丸うなっとるよ』
「って、お前何かで叩いたからじゃろ、思いっ切り」
『まーまー、そんなことはどうでもいいじゃん。それよりハルト、今明日香ちゃん家なん?』
「いいや、岩手に来とる」
『い、岩手ェ!?』
電話の先で大きな声を上げる月。周囲が驚いている様子が目に浮かぶ。
『なにしょおるんねハルト。明日香ちゃん家に行ったんじゃないん?』
「バカか。話は最後まで聞けや。その明日香と来とるんじゃ」
青大は広島に行かなかった理由と、岩手に来ている経緯を端的に話す。
『へえー、じゃあ良かったじゃん。明日香ちゃんのお母さんは大事なくて、沖縄じゃないけど、旅行も出来たって事でしょー?』
「ま、まぁな」
『そっかそっか。うんうん。ハルト、行って正解じゃったね』
「あ? ああ、まぁ……な」
『何冷めた返事しょーるん! 素直に嬉しいって言いんさいな』
「…………」
『こっちはもォ、ブチ混んどって大変。なんで新幹線にしろ道路にしろあんなに……。まァいいけど。そうそう、ハルトの家にみんな集まっとるから』
「オレんちに?」
『うん。だってハルトの家、大っきいしさ』
「ああ、自由に使っとれ。広いだけが取り柄じゃけえ」
『うん。それに柚希ちゃんたちも来とるからさ。みんなで花火とかしよう思っとるんよ?』
「お、おう……枝葉も来とるん……じゃったな」
『うん、今スイカ切ってもらってる。あ、代わろうか?』
一瞬、青大は間を置いたが、こう答えた。
「いや、別にええわ」
『そうなん?』
「おお、枝葉によろしく言っといてくれ」
『うん、オッケー。で、それよりも青大、須川温泉ってどんなとこなん――――?』
「そんなん帰ってきてからゆっくり話すわ」
『あ、そうじゃね。ゴメン、お邪魔じゃったね』
「違うわ!」
『……? ああ、ハイハイ。ごめんハルト、柚希ちゃんに呼ばれた。清美ちゃんに代わるから。じゃあね、ごゆっくりぃ』
「あ、おい月! ……ったく」
『もしもし?』
次の声の主、清美だった。
「おう、浅倉。夏の広島はどうじゃ」
『ふふっ、いい風情ね。結構好きかも、こういう雰囲気』
「そりゃ、よかったわ」
『それより、明日香ちゃんとの旅行はどう?』
「どうって、今日着いたばかりじゃって。細い山道四駆でクネクネ上って楽しい前に疲れてもーた」
『ふふっ、でも好きな人と一緒だと、一瞬で疲れなんて取れてしまうでしょう?』
「う……ま、まァ……な」
『ねえ、桐島くん』
「ん?」
『折角ゆっくりとした時間が出来たのだから、明日香ちゃんのことを大事にしてあげた方がいいわ。あなた自身も――――ね』
帰広するべきか、明日香と共に行くべきか考えていた時に話した清美の言葉が過ぎる。
「ああ、サンキュ浅倉。恩に着るわ」
『うん』
電話越しに頷いた清美の声は温かく、あの凛然とした美貌に優しい微笑みが浮かんだ事を思わせた。しかし、青大には想像が出来なかった。
「ああ浅倉、お前枝葉のことあんまイジメんなよ?」
『枝葉さん? ふっふっふ――――そうね。配慮してあげなくもないわね……』
「……ったくお前は」
『はぁ――――ま、そういうこと。二、三日お世話になるわ。枝葉さんには代わらなくていいのね?』
「ああ、よろしく言っといてくれ」
『オッケ。それじゃあお、土産よろしくね。須川温泉の御饅頭』
「いの一番に買うたわ。楽しみに待っとれ」
『さすがね、ありがと。……それじゃあね!』
「ああ、また東京で」
携帯を切る。受話器越しに鼓膜に響いた広島の喧噪が余韻を残して静寂に変わる。
青大は温泉から上がった時に買っていた缶ジュースのプルタブを開けると、一口飲んだ。オレンジの甘さが熱った食道をすうっと冷やしてゆく。
広縁の障子を開ける青大。窓は濃紺で、部屋の灯りを反射している。
青大は何かを思ったのだろう。客室の入り口の方へ足を向けると、壁のスイッチを切った。
途端に、通路側の淡いダウンライトだけを残して、真っ暗になった。
そして、再び広縁に向かう。
「あー、やっぱりじゃ……」
窓を開く青大。山頂の涼しい空気が流れてきた。
そして、暗闇に目が慣れてくると同時に、青大の視界に映った世界――――。
その時、入り口の扉が開く音がした。
「わっ、暗ッ!」
無邪気な少女の声。
「ただいま、青大。なになに、どうしたんだ。真っ暗にしで」
本間をきょろきょろと見廻す明日香。
「明日香、こっち来てみな――――」
広縁の方から声がした。明日香はきょとんとした様子で青大の側へと歩み寄る。
浴衣に洗い髪、そして石鹸の良い香りが青大の鼻をくすぐる。
「なに、何かいるのか?」
青大が窓の外を指差す。明日香がゆっくりと焦点を合わせた、その瞬間だった。
――――――――ほわわぁ――――――――!
透き徹るように玲瓏とした驚きの声が、夜の高原に響き渡るようだ。
それは、満天という言葉だけでは足りないほどに、ぎっしりと敷き詰められた銀河の海。山並みの稜線が見えるほどに、その星彩は幻想的に瞬いていた。
「わぁ……すごい……! すごいよ青大ォ」
ぽかんと呆気に取られていた明日香が身震いをしながら青大の胸許にしがみつく。
「こんな星、プラネタリウムでも、実家でもみだごどねえ」
「オレもじゃ。オレの町も星がブチ綺麗なことで有名らしいんじゃが、こんなん星空は見たことがねぇわ」
静寂と銀河の海。天の川ってこんなにも濃くて明るかったのか。
「…………」
「…………」
自然と抱き合いながら、宙に見蕩れる青大と明日香。
「温泉もスゴく気持ちいいし、静かでしがもこんな星空見れるなんて……贅沢だべ――――」
明日香の屈託の無い笑顔が、星の光に映える。
「喉、渇いとるやろ」
広縁のテーブルに手を伸ばし、飲みかけの缶ジュースを取る。
「うん、ありがと青大。えへへ」
一旦青大から離れ、両手で缶ジュースを受け取り、くいと頤を上げる。こくんと可愛い音を立ててジュースを飲み込む明日香。
「ぷはぁ! 美味しい」
缶を窓の縁に置き、笑う明日香。
「温泉上がりはフルーツ牛乳って相場があるんやけどな」
青大がくすくすと笑うと、明日香が言う。
「腰に手を当てて、脚を開いて斜め上を見ながら一気飲みをして?」
「ゲップをして、さァもう一本!」
「あははは、お約束だよそれ!」
「せやな」
軽く笑い合う二人。そんな戯けた雰囲気も、幻想的な星の世界に流されてゆき、再び見つめ合う。
星の光でも、こんなに少女の貌を美しく照らせるのだろうか。
澄んだ明日香の瞳に、無数の星の光がひとつになる。揺らぎ、潤んだその光は、真っ直ぐに青大の瞳を捉える。
「仲居さん……もう、来ないよね?」
「……もう、みんなお休みの時間じゃ――――」
「ん……」
互いに吸い込まれるように瞼が閉じてゆき、唇が重なってゆく。