早暁に目が覚めた青大は、隣に視線を向けると、明日香もちょうど目覚めていたのであろうか。切なそうに瞳を潤ませ、青大を見つめていた。
「おはよう……明日香」
「うん。おはよ、青大――――」
「いつから、起きとったんじゃ?」
「さっき……かな?」
「オレの寝顔、見とったんか」
「うん――――ヨダレ、出てた」
「マジでッ!?」
「あははっ、ウソだよ」
「っつ! お前なァ」
布団の中で裸でじゃれ合う刹那。身体の奥から一つとなった実感の後、こんな時間が恋人としての至福の時なのかも知れない。
「あ……温泉――――行くか?」
「うん――――実はそれを待ってたりして」
明日香がにこりとしながら、身を起こす。
早暁のしんとした館内を通り、露天風呂へ向かう二人。
「混浴だよね……一緒に入ろ?」
青大の腕に抱きつきながら、明日香が甘えるように青大に言った。
「お、おお……じゃけェ――――」
「他のお客さんが入ってくるのが、その……は……恥ずかしいのか?」
「えと……お前はどうなんや――――」
「恥ずかしかったら……言わねえっぺよ」
馬鹿なことを訊いたと、青大は少し後悔した。そして、返事代わりに軽く引っ張るように歩幅を広げて露天風呂に向かった。
栗駒高原の朝、朝靄が低く東の空を黄金に染める。夕方とは逆に、コントラストは西に去る闇夜と、東の旭光。朝の新鮮な山気に、硫黄の湯気が一層引き立つ。
湯船の岩場に青大と明日香が腰掛け、白む東の空を眺めている。
「誰もいない早朝の温泉ってのも良いもんだな」
明日香が両手の指を絡めながら背伸びをする。
「この景色、独り占め……って感じじゃな」
青大も海老なりに背中を反らし、空気を吸う。
「青大が風流なこと言ってる」
そう言って、明日香が笑う。
「なんや――――ヘンなこと言ったか?」
「言った」
「こいつ……」
即答し笑う明日香の額を軽く小突く青大。
そして暫くの時間、互いに無言。青大は真っ直ぐ強くなってくるコントラストを見つめ、明日香も青大に凭れながら、眼差しを同じくする。
「ほわぁ――――ねぇ、すごいよ青大、ほら……」
ふと、明日香が湯気が流された空を指さす。
「?」
「雲ひとつない空……」
東の稜線から広がってゆく青い空。清澄な朝の天空。
「青い空って、やっぱ何か良いよねー」
「へぇ……」
驚いたように、青大が明日香を見つめる。
「な、なに?」
「お前って、空って言うより、外だったら何でも好き、って言うイメージがあるわ」
揶揄ったつもりだったが、明日香は言った。
「うん、好き。……外は窮屈じゃないじゃん。……それに――――」
「それに?」
明日香は一度深呼吸をしてから、言った。
「雲ひとつ無い時の朝の空が、好きになった。今」
「今かよ!」
青大がこける仕草をしてみせた。明日香は、眼を細めて青大を見つめていた。
明日香に影響され、青大はしばらく天空を仰いでいた。
「……ねえ今、何考えてる?」
ふたたび、明日香が口を開いた。
「ん――――解るか?」
青大の訊ねに、小さく首を横に振る明日香。
すると青大は小さく微笑みながら手の平で湯を掬い、肩に掛けてから言った。
「明日香と、出逢ォた日のことを思っとったんじゃ」
「……え?」
その瞬間に、明日香の脳裏に過ぎる光景。
青大は笑いながら言う。
「考えてみりゃ、明日香とこんな事になるなんて、あン時は夢にも思ォとらんかったな」
(空き巣はアンタでしょ! 葵さんの部屋で何してんだよ!)
(……は? オレはここの住人じゃ! 空き巣なんかじゃねーわ!)
(見え透いたウソついてんじゃないよ!)
(うわーっ!)
「お……思い出したくねえ事を……」
明日香が顔を赤くして俯いてしまう。
「そうか? オレは今もフシギなんじゃ」
「な、何が?」
「空き巣と勘違いして、フルフェイスで問答無用にオレのことを撲殺しょーとしたのに、告白された時は初めて会った時から好きだったって言ォるんやからな」
「だ……だがらそれは! ……その……」
人が人を好きになるのに理屈はいらない。でも、人を好きで居続けられることには根拠がある。
初めは何の根拠も無い一目惚れだった。どこぞの芸能人がビビビッて来た。とかなんとか言葉を残したことがあるが、ぶっちゃけて言えばそんな感じだった。
でも、彼が常に湛える憂色が、心を捉えて止まなかった。母性本能なんて、そんなものじゃない。
“好きな人”を追いかけて、広島から上京をしてきた。なんて無謀で、ストーカー紛いな事をする奴なんだろう。
初めはそんな感情を抱く事なんて、自分自身も青大と同じ思いだった。
だが、気がつけば心裡にいつも、青大の姿があった。
恭輔には全く抱かなかった感情。がさつで乱暴な性格の中に、お節介焼きという部分があって、青大が自分たちに時折見せる微笑みと、戯けの裏に隠す憂いが、放っておけなかった。
考えてみれば、自分だって可笑しい話だ。
好きな人がいる青大を好きになって。
恭輔が他界し、青大は“好きな人”への長年の想いを断ち切った。いわば棚牡丹の恋愛成就。僥倖に他ならないのに。
青大と交際するようになってからも、少し身体や精神的に疲れがたまった時、時々思い出してしまう。
思い出し、勝手に落胆してしまう。
“青大は、枝葉柚希が好きだった”という事実――――。拭い去れない、直近の過去だ。
「青大のこと……本当に好きだよ――――」
「わかっちょるって。……そうじゃねえと、こんな事せんわ――――」
ぐいと明日香を抱き寄せ、じっくりと濃厚なキスをする。
「んん……っ」
空いた手で、そっと明日香の綺麗な形の胸をまさぐる。
「あ……んっ……ここ……で?」
「さすがに、人が来たらマズいか」
火が付きかけて止めた。
甘さが滲みかけたその空気が、山気に掃われた時、露天風呂へ通じる扉が開く音が響き、話し声が聞こえてきた。どうやら、他の宿泊客のようである。
「上がろぉか」
「そ、だね」
湯気を遮幕にして二人はそそくさと混浴の露天風呂を後にした。
千葉のおじさんが来たのは、昼前だった。
フロントの呼び出しを受けて、青大と明日香はチェックアウトをする。
「どうだったね、温泉」
「え? あ、はい。とても良かったです!」
青大は千葉の質問が普通なのに一瞬戸惑った。一発がどうとかと訊かれるかと思ったからだ。
「明日香ちゃんも楽しめだが?」
「はい。お陰さまおじさん! ありがと」
「おっしゃ! せっかくだがら、ここいら案内すてやるべ」
張り切る千葉に呑み込まれるように、青大と明日香は千葉の四駆車で下山してからも、観光地を案内された。
平泉、衣川、星見の高台・種山高原。二日目は、歴史の町観光に没頭した。
「明日は帰ェるのが?」
千葉の家で二日目は厄介になることになった。食事を終えた後に、千葉が訊ねる。
「はい、帰ります。やっぱり、家のことが心配なんで……」
明日香が残念そうに言うと、少し寂しい表情で千葉が笑った。
「そっか。宮沢賢治のどごさも案内しようと思ってだんだがな。それはまだ今度だな」
「すいません、わがままなことばっかり……」
青大の謝罪に、ぶんぶんと首を振る千葉。
「そんだなごどね。いやあ、二人ども良い子だなもんで、帰ェすのが惜しぐでなァ」
奥さんと顔を見合わせ、笑う。
「ま、青大くんも、こんな可愛い娘さんばカノジョに出来で幸せだなや。大ぇ事にすんだぞ?」
「あ……は、はい!」
千葉の訛りが一際、青大の心に響いた。そんな気がした。
岩手を後にした二人は、明日香の実家に戻った。
「もっとゆっくりしででもいがったんだぞ?」
明日香の父がそう言ってからかう。
手術も容易に成功し、間もなく母親は退院するそうだという。
「母ちゃんが退院するまで、オレもいようか?」
「え、ホントに? いでくれるのけ?」
青大が言うと、明日香は喜んで頷いた。
その日の夜には、明日香の母親から連絡が入った。
「明後日の朝に退院するって!」
コードレスホンを手に廊下で話し終えた明日香は、隣で話を聞いていた青大に思わず抱きつきながら、喜びを露わにする。
「良かったな、明日香。これで一安心じゃな」
「うん……! ありがと――――青大」
「何言うんじゃ。当たり前やないか」
片腕で明日香の背中を抱きしめながら、もう片方の手で明日香の髪を撫でる。
「ねぇ……青大?」
「ん? どうした」
甘えるような声で、明日香が言う。
「私……青大のこと、好き――――」
「また――――これで何度目や」
「…………」
神妙になる明日香。青大は、繰り返した。
「オレも――――お前のこと、大好きじゃ」
何度も、何度でも確認するように、明日香は問い、青大がそれに答える。答えるたびに想いが強くなる。互いの心が透明になってくる。明日香はそれを望み、また嬉しくもあった。青大も、明日香への想いの強さを思い知る。自分が想像している以上に、明日香のことを好きでいるという実感。
翌々日、明日香の母が退院してきた。
大袈裟に抱きつき、喜ぶ明日香。元気なところを見せつけて宥める母。そして青大の紹介。
明日香の母は青大のことを聞いていたのか、諸手を挙げて歓迎した。明日香の婿になってくれるなんて嬉しいと口走ると、明日香の父や弟からそれはないよと突っ込まれ笑う。明日香はがさつで男勝りだから貰い手がないと心配していたが、青大のような奇特な青年がいてくれて嬉しいとも言った。
「ありがと……青大」
東京に戻る日の新幹線の中で、御島家の人々の姿が車窓から消えた後、流れる風景を見つめながら、明日香はぽそりと呟いた。
「明日香……?」
明日香は微笑っていた。その時、青大は気がつかなかったのだ。彼女の整った美貌に浮かぶ笑顔に滲む、そこはかとない寂しさと、哀しさに。
そして、それから三日後――――。
明日香は後生丁寧に御島姉弟の住む部屋のインタホンを押した。
「なんや、明日香。どうしたんじゃ」
明日香は泣きそうな顔を必至で堪えながら微笑みを浮かべながら、こう、告げた。
「別れよ? 青大――――――――」
その瞬間、青大の脳内の聴覚野から、全ての音が消えた。