君は振り向き、そこに刻まれた足迹を数えたことがあるだろうか featuring 君が微笑むなら from Yasushi Nakanishi 第1話

Chapter.1 遙かなる想い

 野々村の指摘は、懍の胸中を鋭く突き刺した。
 自分でも気がつかなかった。いや、多分気がついていたのだろうと思う。単に、それを意識することが怖かったのだ。

(私は、青大さんのことが好きなんだ…)

 一度、それを自覚してしまうと何と、止めどなく感情が溢れ出てくるのだろうか。
 今まで、心の中で怺えていた堤防が決壊し、静かに、それでも激しく渇いていた心の深奥まで沁み、満たしてゆく。
 機会があれば、青大を揶揄することが楽しみとなっていた時間。
 理由をつけては、青大と会う口実を探していた。それが、今は待ち遠しくさえ思うようになっている。
 青大と柚希は恋人同士だ。二人が結ばれたのは当たり前のことで、むしろ遅すぎるくらいなのに、青大から自然に柚希とそうなったことを聞かされた時は、茫然自失となりかけた。
 青大や、柚希も認める気の強さで隠し通せた動揺。

(そんなに好きだったんだ、その人のこと)

 “従僕”である友人・野々村の忌憚なき言葉が、心の堤防を壊したのだ。
 周囲からはまるで野々村が外道とばかりに映るくらいに、懍は号泣した。困惑困憊の野々村を他所に、懍は青大への恋愛を否定した。ひとりぽっちになってしまったような気がしたと、誤魔化した。
 青大のことを、御島明日香との偽りの恋愛を破り、柚希に回帰させる力となったのは、青大のためか、柚希のためなのか。懍はただ青大の裡にある真意を看破していたからだった。恋愛の道化となる青大を見かねたのか。少しでも、自分に気持ちを向けて欲しい。そんな想いがあったのだろうか。

 柚希を愚物と嘲り、蔑んでいた時期もあったが、青大と出会ってからはいつしか、そんな思いも変わっていった。青大の直向きさに懍は次第に惹かれ、また柚希への想いも次第に“姉妹”への情へと変わってゆくのを感じた。
 頼りない姉と、心優しい青大。そういう構図がある意味、しっかり者の懍の心を捉えて止まないのだろう。

 懍の中で青大への想いがどのような変移を見せようが、二人の間は何も変わらない。
 もどかしさが少しばかり強調されながら、日々は過ぎていく。
 微かに秋を匂わせる清澄な空気が、この都会にも感じるようになってきた。
 大学の講義を終えて、懍はいつものように門を出た。
 しょっちゅう、同性の友人達とショッピングや食事などをして彼女も“女子大生”を満喫している。
 父・枝葉義昭の些か過保護的な方針によって、懍はアルバイトを禁止されている。柚希と青大の件が、義昭の逆鱗を更に刺激し、名古屋からの仕送りで日常生活を送るように厳命されている。
 資金管理は兄・樹が行い、仕送りから懍の小遣いは支給されているのだが、温厚で、殊の外懍を大事にしている樹は、何も言わずにアルバイトを掛け持ち、その報酬を生活の足しにしている。懍は分かっているから、遊びはしているが羽目を外すようなことはしてこなかった。
「懍――――一緒に行かない?」
「あー……今日はウチゴハンの当番だから。ゴメン!」
「あ、そうだったね。じゃ、また後でー」
 今日は樹の帰りが遅くなる。家庭教師のアルバイトは結構な報酬らしく、樹は見た目同様、頭脳派らしい。楽しんでやっているから、晩御飯の当番じゃない日は決まって遅くなるのだ。
 友人の誘いを断って、献立を考える。料理は出来なくはないが、正直あまり得意じゃないし、やりたくない方である。
 キャンバスバッグを持ち直し、脳裏に献立を思い描く。レパートリーの少なさを自虐する事はしないが、今日は何となく気乗りがしない。
「コンビニにしよっかなァ」
 そう思ったが、樹はコンビニ弁当や総菜は嫌いだ。どんなに安くても雑でもいいから、なるべく手料理にしろ。と拘る系である。懍はそういう兄が多少、面倒臭く思いながらも、レパートリーを周回させるようにしている。目玉焼きと野菜炒めに、最近は“肉じゃが”のスキルを身につけた。
 それでも今日は何か乗り気がしない。気候のせいか。怒られてもいいから、コンビニにしようかと、意識が大きく傾いていた。

 いつも買い物をするスーパーを通り過ぎ、ブティック街を通り抜けて家に向かう進路を選んだ。
 前は青大がアルバイトをするコンビニに良く立ち寄ったが、それ以来は何故かあざとさが先行して行きづらいと感じるようになっていた。
「はぁ……」
 いつしか瞳を伏せ気味に歩いていた懍がふと睫を上げると、とあるブティックの前でショウウインドウに真正面に立ちはだかり、腕を組みながら頬杖を突いている、見慣れた怪しい青年の姿が映った。
 その瞬間、そこはかとなく落ち込みかけていた懍の感情が、いつものような悪戯心に逸る。
 女忍者とは大仰な言い方だ。子供が背後から近づき、大きな声を上げて相手を驚かす時の仕草、と言えば分かりやすい。
 ヒールの音をなるべく抑えるようにして彼の背後に回ると、にやりと嗤いを浮かべてから胸に息を吸い込んだ。

「わっ――――――――!」

「おわぁ!!」

 本当、他愛もないことなのに、いちいち大袈裟に反応してくれる。こういう部分が、懍は今まで“楽しかった”のだ。
「何をしているんですか、青大さん?」
 気持ちの逸りを抑えて、あくまで小悪魔を装う。
「おぁ、り……懍ちゃん!?」
 脅かした際に激しく飛び退き、懍との距離が大分開いた青大が、蹲りながら瞳を潤ませて張本人を見上げる。
「こんなところでキョロキョロして…思いっきり挙動不審者ですよ」
「んー……」
「アヤシイオヤヂ」
 いつもならばそこで、“お前とひとつしか違わねーわ!”という突っ込みが入るところだが、今日は何かが違う。真剣な眼差しで、苦悩の表情を浮かべているのだ。
「……どうしたんですか? 傍目から見て、本当に怪しいです」
 懍が真面目に訊ねると、青大は言った。
「オレと柚希がつきあい始めてから、もうすぐ一年になるんじゃけどなァ。今までこう、なんてーか、贈り物らしい贈り物して来んかった気がしてな。何かこう……ちゃんとした良いもんでもと、思うとんじゃけど」
 そう言いながらショーケースを見つめている青大の表情から、その言葉が真剣そのものであるとのが、懍にはよく分かる。痛いほどに、分かってしまう。
「贈り物なら、いつも何かに託けて続けてきたじゃないですかー。私から見れば姉さん、破格の待遇ですよ」
「それはそうなんじゃけど……、うーん……もっとこう――――なんてーかなァ……」
 じくじくとした口調に懍も多少、イラッとする。
「ちゃんとしたものが、服……ですか。姉さん、ああ見えて結構、お洒落じみているんですよ? 変なもの買ったら絶対に着ませんよ」
「分かっとるわ。じゃけぇ、こうして迷うとるんじゃ」
 “柚希のために”見せるこの苦悩の表情が、妙にもどかしい。それでも、懍は青大のために言える。
「仕方ないですねェ。……それじゃあ、姉さんの好み知っている私が、買い物つき合ってあげても良いですよ」
 すると、青大は懐疑的な眼差しを向けてくる。
「お前と行くと、お前の好みの物しか選ばんじゃろ」
「あーっ、随分酷い言い掛かりですね。……だったらいいです。姉さんの嫌いな物を買って、青大さん嫌われてしまえば良いんです」
 こういう言葉に、青大は弱い。彼は意外にも体裁を気にする小心者だ。柚希に対して好い顔をしようとする指向性がある。
 外方を向く振りを見せる懍を一瞥しながら、青大は心の中に様々な場面をシミュレートする。
 そして。
「懍ちゃんに頼みがあるんじゃけど」
「何ですか。どうしたらいいんでしょうねー」
 突き放す素振りを崩さない。青大の答えを確実なものにする。
「一緒に選んで欲しいんじゃ。柚希の服」
 青大の遇い方は懍は懍なりに心得ているつもりだ。その経験から言わせれば、それ以上の焦らしは却って逆効果である。
「仕方ないですねー。私、忙しいんですけどぉ。姉さんのためなら、つき合ってあげます」
 良く言うと思う。そもそも、家に帰っても何もする気が起こらないと思っていたじゃないか。
「お礼は青大さんの夕御飯でいいです」
 また、プロフィールに記載するマイフェイバリット「青大の手料理」にありつけた。
「わかっとるわ。そんくらいなら、お安い御用じゃ」
 青大の方は、無謀困難な要求をされるかと怯臆の極致にあったが、いつもと同じ要求だったことに心からホッとした。
「わぁー! ありがとうございます!」
「こ、こら!」
 青大の腕に抱きつき、形良く膨らんだ胸を押しつける懍。それを払いのけようとする青大。
 青大はきっと、兄に甘えるやんちゃな妹という感覚で懍を捉えていた。そして、懍は手に届かない姉の恋人として、半ば割り切っていたと思う。
 傍目からすれば、どう見てもフツメンと、不相応な美少女のラブラブカップルであった。