Chapter.3 夜の心渚
懍のマンションのキッチンも使い慣れたものである。
彼女も兄の樹もあまりここを使わないのだろうか、実に小綺麗なものだ。
青大にとって若干手に馴染んだ鍋や俎板、ボウルなど、下拵えの器材を揃えて食材を捌いてゆく。
料理のする男の背中は格好良い、などとまるで流行雑誌やテレビメディアなどで時々囃し立ててはいるが、それを真に受ければレストランの料理人などと言うのはモテまくり、というものだろう。
懍が青大の背中に見るそれは、そう言った一般論の感情ではなく、単純に好意がもたらす感覚なのだろう。
「私も何かお手伝いしますかー?」
懍の言葉に、青大は眉を顰めて返す。
「何もせんでええ。黙って座っとれ!」
青大からすれば、いつも懍は料理の邪魔をしているように思えた。
そりゃあ、庖丁を握っている傍から腕を絡めてきたりするのは、危険以外の何物でもない。
まあ、しかしながらそれで黙って引き下る懍ではないのも事実。だから、青大は機先を制して命じる。
「食器の準備でもしてくれるか」
「りょーかい!」
片腕を元気に天に突き上げる。その程度でも、懍にとっては嬉しいことなのだろう。
スキップをする勢いで、食器棚から皿やら匙やらを取り出してゆく。
「いただきまーす!」
礼儀正しく挨拶をしてから、盛りつける。
「この間もビーフシチューでしたよね」
懍が美味しそうに匙を口に運びながら言う。
「なんじゃ、飽きとったんか」
「違いますよ。私、大好物ですもん、青大さんのビーフシチュー」
「それは光栄ですね、作り甲斐があるというものです」
わざとらしく敬語を用いる青大。しかし、懍は悪戯っぽく微笑む。
「ですよね。だから青大さん? なら、毎日作ってくれてもいいんですよー」
「さり気なく無茶苦茶なこと言ってんな」
半目で懍を見る青大。
「えー、何のことですかー?」
「いや……ええわ。とりあえず食せ」
「さり気なく本気かも知れないですよー」
にやりと嗤いながら、懍が呟く。
「ふぅー、美味しかったです」
皿まで舐める勢いで食べ終えた懍。
「樹さんの分と明日朝の分もあるけぇ、チンすりゃええわな」
「ありがとうございます」
食器類を片付け、流し台に立つ。
ここには贅沢にも食洗機なるものが常備されているので、正直、片付けが非常に楽である。
「そこに立っていると、完全に“主夫”ですね、青大さん」
「おう、そうじゃろ。この際、天下無敵の主夫目指してみるのも悪くねぇか」
我ながら、懍の去なし方が上手くなった、という気がする。
「働きに出るのは女性の方ですか? 私なら青大さん一人、養える自信はありますけど」
「オーッ、それは有難いねェ。じゃけぇ、理想と現実はかなり違うけェ期待するのは早い様な気ィするわ」
やんわりと懍の言葉を躱し続ける青大。
「青大さんだったら、一人で家族を養ってくれる自信がありますか?」
「てか、今から人生設計立てんのは時期尚早ってもんじゃろ」
「そうですか? 青大さんなら、もう完璧じゃないかと思ってました。姉さんとの将来設計!」
すると青大は途端、妙にしんみりとする。
「柚希とはなァ。今が楽しい……ってゆうか、まだ将来のことをあれこれ考えるほど余裕がないっつーか……」
「初H済ませて、ラブラブだってのにですか?」
その言葉に狼狽する青大。
「それとこれとは別問題じゃ」
青大が守勢に転じた。懍の口撃が始まる。
「そうなんですか? 長年の想いを叶えて、やっとそうなれたのに」
「そうなれたからこそ、不安も大きくなるんじゃ」
ふと、寂しげに瞼を伏せる青大。
「幸福は不安と紙一重なんだと思う」
青大の言葉に懍が小さく唸る。
「でも、不安ばかり気にしていると、疲れますよ」
「それはそうじゃけど……なァ」
青大にとって、柚希との時間はどういうものなのだろうか。彼女を想い、考え続けることは恋人冥利に尽きるというものなのかも知れない。
だが、それだけで心が保つのだろうか。
懍は青大の性格を知っている。だから、それは茶化して笑い話で済ませるという問題ではないと思った。
「青大さんて、真面目すぎですよね」
「何がじゃ。よォ分からん」
「姉さんへの想いが、頑なと思うほどに真っ直ぐです」
「うーん……」
言い得て妙、ということでもないのだろうが、懍の言葉が青大の心裡を深く捉えたのは紛れもないことだった。
「何か、追われるような……。立ち止まる余裕さえない、って感じがします」
「そんなことはねェ……と思う」
一応、否定はしてみるが、どうも語気に自信が無い。
「あ、ボウッとしていたらお皿割っちゃいますよ。私が片付けてあげます」
「お、ああ悪ィ」
懍が考え事のために半分上の空な青大の傍らに立つ。
言われてみれば、立ち止まる余裕すら無かった気がする。
柚希を廻る青大とその周辺は、確かに目紛しく動き続けていたようだ。
盲目的だと言えばそれまでだ。だが、青大の柚希に対する想いというのは、一朝一夕では語り尽くせないものがある。
神咲七海から御島明日香まで、青大を囲む環境の変化は、懍が指摘したように慥かに立ち止まり、休まる時はなかったかも知れない。
紆余曲折を経て、漸く柚希に回帰した青大であったが、それでもなお、青大は疾駆し続けている。
ただ一向に柚希のためを想い、振り返らずに走り続けているのだろう。
「……青大さん?」
懍の声にはっと我に返る青大。
「ん? うわっ!」
濡れ手に持っていた食器を危うく滑り落としそうになる。
それを脇からすっと、懍の手が伸び、食器を支えた。
「わ、悪い。ぼーっとしとったわ」
青大が苦笑し、ワークトップにそれを置く。その瞬間、懍の指が青大の指に触れた。
「おっ……」
すうっと腕を引こうとした時、懍の指がするりと青大の五指に深く絡みつき、掌を合わせた。
「お、おいっ、何するんじゃ。片付けまだ終ぅとらんけぇ」
突然の懍の行動に目が泳ぎ、慌てる青大。その懍の顔に視線が行った瞬間、青大の心臓がひとつ、大きく高鳴った。
あの、いつも青大を揶揄い、時折柚希を見下すような小悪魔然とした生意気な少女が、実に神妙に。いや、むしろ恥じらいを必死で押し止めるように肩をもじもじとさせながら、それでも頬に溢れ出る赤らみ、震える形の良い唇をきゅっと結ぼうとして擦り合わせているのだ。
「お、おい懍ちゃんッ!」
いつもは態とらしかったからそうは感じなかったが、今は懍が意識しない胸元から覗く、俗に言うブラチラがそこはかとなくエロい。
思わず、180度首を反転させ、斜め天井を向きながら叫ぶ。ぐきっと、首の骨が鳴った。
「青大さん……」
声に潤沢と艶っぽさが混じる。揶揄う時、いつも聞き慣れた調子だ。
「ほら、懍ちゃん。もう大丈夫じゃけェ、向こう行ってな」
落ち着きを繕って優しい声色で窘める青大。しかし。
「青大さん……疲れてます」
そう言って、懍がぐいと掌を前に突き出す。
「わ、わわっ!」
青大が両手を無理矢理後ろに押される格好となって上体が後ろに傾いた。
「をわぁっ!」
反射的に上体をひねってシンクの上に海老反りになった。かしゃんとワークトップに置いていた食器が鳴ったが、割れてはいなかった。
青大がそれに安堵した刹那だった。
ふわりと一瞬、青大の鼻腔を甘く、それでいて柑橘系の香りが通り抜け、脳裏を痺れさせた。
そして、何が起きたか。
「ん……」
青大の瞳の至近距離に、懍の長い睫。頬骨に僅かにかかる息。
そして何よりも青大の意識を飛ばそうとしたのが、自らの唇に触れた、柔らかく、ひやりとした微かに震える、柚希の妹の唇だった。