Chapter.4 邪恋の汀
青大はシンクの角に腰を軸になり、手足が宙づり雁字搦め状態となって、身動きが取れなかった。
懍は青大の体勢が不安定なのをいいことに、彼への密着を強めた。青大が懍を突き放そうとすると、バランスを崩してシンクに仰向けに倒れてしまう。刃物類があるから相当、危険だ。
そういう状況で、懍は青大の背中にしがみつくようにその細い腕を絡めて、半ばなすがままに青大に強制的なキスを続ける。
普段はいつも小生意気な態度で青大や柚希を翻弄する懍も、そういうことには全然慣れていない、それどころか全く初めてであると言うことが分かるくらい、怯え、震えて、ぎこちなくただ抱きつき、唇を押し当てている、と言った感じであった。
(り……懍……)
身体の変な部分に力が入る体勢で、懍のような美人にのしかかられている事に対する感想を考える余地は正直、なかった。
「ん……」
勇気を振り絞って御化け屋敷に入る恐がり屋や、高所恐怖症がバンジージャンプに挑戦するといった様子とは違う。
懍はきっと、フレンチキスという経験はなく、耳年増なだけの“少女”そのものであることは、青大も気づいている。だから、ぐりぐりと唇を押しつけるだけで、その先の行動を思いつかないのだろう。
青大はこの不自由な弥次郎兵衛のような体勢から立て直すことを、混乱した思考回路の間隙を縫って優先させた。
腹筋をバネにして密着している懍の身体を撥ねた。
「あっ!」
カチンと、一瞬青大と懍の歯がぶつかった。そして、懍が強引に引きはがされ、飛ばされる。
「ぃつ……」
懍が掌で口許を覆い、咄嗟に蹲る。
「ど……どういうつもりじゃ、懍ちゃん!」
青大が懍を睨視し、怒気を込めて叫んだ。
「…………」
懍は視線を合わせず、口許を掌で覆いつづけている。
「いきなりこんな……こんなことしよって――――俺はな、懍ちゃん……!」
しかし、懍はその形の良い眉を痛みに歪め、長い睫を伏せてしまった。
「お……おい、どうしたんじゃ」
青大が途端に怒気を焦躁に変換させる。
「…………」
懍は手で口許を覆ったまま、青大を一瞥した程度で再び瞼を伏せる。青大が思わず、懍の両肩を手で掴むと、強引に正面へ向かせた。
「……どうしたんじゃ、手ぇどけてみろ」
「…………」
懍は覆ったまま、力なく首を横に振り、項垂れようとする。
「いいから、見せろ」
青大が懍の手首を掴み、引きはがす。
「あ……!」
青大は愕然となった。
懍の愛らしくも蠱惑的な唇が、明らかに唇の色では無い朱に染まっていた。
「もしかして……今――――」
ぶつかった時、懍は唇を微かに切っていたのだ。血が流れ、唇を濡らしていた。
「わ、悪い……」
青大に落ち度があるわけではないのに、思わず謝ってしまう。仕掛けたのは懍で、自業自得なのに、それでも青大は自分のせいだとしてしまう。こういうところが、懍は眩しかった。眩しくて、エスカレートしてしまいたくなる。
「痛いです……」
やや呂律の回らない声で、懍が言う。
「ど……どうしたらええんじゃ」
「傷口は舐めればいいって言うじゃないですか。だから、青大さんが……舐めて下さい」
懍の言葉に、青大は狼狽する。
「だ……だから、バカなこと言うなや。オレには柚希が……」
「私――――、舌も少し切って痛いんです……。お願いします、青大さん……」
それは哀願のように聞こえるが、選択肢の無い強請のようだった。
「…………懍ちゃん――――」
青大は眉間をややしかめる懍をじっと見つめた。心の鬩ぎ合いがあったが、よく覚えていない。
そして、青大は虚しく根負けした。
「分かった。……懍ちゃん、立てるか」
「……はい。え、どうしたんですか?」
意外な要求だったのか、懍が思わず、目を瞠る。
「……立っててくれんか――――、色々と……な」
その言葉に、青大は羞恥に戸惑う。
「――――あ、わかりました」
青大の言葉の意味を、懍はおぼろげながら感じたのかも知れない。それが、青大が譲れない、最後の自制心であると言うことだ。
懍は青大に支えられるようにゆっくりと立ち上がる。
青大は俯いている懍の両頬を両指で包み込むようにして、そっと懍の顔を上げた。か細い少女そのままに、軽く、絹のような肌の感触。
「あ……」
青大と瞳がぶつかると、今度は懍が躊躇うように頬を微かに上気させ、アルパイングリーンの瞳を逸らす。
青大は意識し、自制心が強い中で選択の余地が無い背信行為を前に、脳に恍惚物質が発生し、一瞬くらくらとなった。
「唇、開けぇや」
青大の命令を、懍は逡巡しながら、小さく頷く。そして、上と下の唇を、僅かに離す程度に開いた。
(これは仕方が無いんじゃ……不可抗力じゃ)
青大は自己弁護の念を心の中で反芻すると、懍に顔を寄せ、舌を突き出した。
ぴく……
血痕が付いていた懍の下唇を、青大はゆっくりと舌先でなぞる。触れた瞬間、懍が一瞬、身体を強張らせたのが分かった。
「動くなや」
舌先から伝わる、懍の唇の柔らかさが、青大の何かを突き動かそうとしていた。
自然に腕が伸び、懍の小さな頭を抱えるようにする。肩まで伸びてきた柔らかで良い匂いのする髪を、指に絡める。
「動いたら、やめるわ」
「動いてませんし!」
負けじと、懍は身体に反発して硬直を装う。
青大は舌の先で、数回懍の唇をなぞりながらも、決して唇を当てようとはしない。
そのギリギリを保つバランスと、微妙にかかる息遣いが、そこはかとなく心の深奥に潜む劣情を煽り、堅い理性をぐらつかせる。
唇をなぞる度に、一瞬の電流が走ったように身体を強張らせる懍。徐々に力が抜けてくるのか、懍は青大の肩を掴んでいる手に力が入ってくる。崩れ落ちないように、青大も懍の背中を片腕で支えながら、舌を動かし続けている。
「はぁ……力が抜けてきます……」
鼻に掛かる声で、懍が囁く。そして青大の唾液でてかる懍の唇が、青大の神経を抉った。
青大はもう一方の片手で、懍の額に掛かる前髪を掻き上げながら、そのまま後頭部を包むように支えながら、言う。
「舌を見せぇ」
「はる……とさん…?」
「止めてもええんか」
「…………」
すると、懍は睫を伏せながら、躊躇いがちに舌を覗かせる。
懍が言うように、舌を切ったのか、腫れているのかなどと言ったことは、最早どうでも良かった。
二人の唇の隙間で、互いの舌先がゆっくりと絡みつく。
「はっ……」
懍の甘い息遣いと同時に、ビーフシチューの残香と、懍の匂いが青大の舌伝いにダイレクトに伝わってくる。
(くぅ――――!)
普通の男ならば、ここで思い切りこの少女の唇を塞ぎ、激しく舌を絡めて蹂躙したくなる衝動に駆られるだろう。だが、青大は本当に理性を維持している。
ちろちろと、懍の甘い舌先周りをなぞる行為に留められていた。そう、唇を触れてしまっては、もはや歯止めが利かない。そんな気がしていたのだ。
「はぁ……はるふぉ……はぁ……ん」
腕を青大の首に巻き付けるも背中を抱えられ、青大の腕に上半身の体重を預け、がくんと力なく仰向けになる懍。上から被さるように、青大が舌を絡めている構図。得も言われぬ淫靡な体勢。懍も意識が朦朧とし、譫言のように青大の名前を喉奥から発する。それが、動物的本能で、青大の倫理観を削ってゆくのだ。
しかし、そんな理性と淫靡の微妙な境界線に立つことの危険性は、言語に絶するものがある。
(……青大くん……)
黒い雨雲の隙間から一瞬見えた薄縹の空に、青大は我に返る。
豁然と目を見開き、顔を上げる。繋がった銀の糸が、冷たく懍の顎に落ちた。
「え……?」
驚く懍。青大は飛び退くように身を離すと、懍は一瞬ぐらつくが、自ら足を踏ん張って立った。
「悪い、懍ちゃん。もう、ええじゃろ」
取り返しの付かない事をしてしまった、究極の後悔を犯した人間というのは、究極の恐怖を目の前にする時と同じように、ただ笑うしかない。
青大は顔面から血の気が失せて、文字通り苦笑を浮かべながら、引き摺るように後ずさる。
「オレ、帰るわ……」
「あ、青大さん!!」
青大は柚希のために買った服を手に取ることを忘れ、止める懍の声も届かず、這々の体でマンションを飛び出してしまった。