Chapter.5 理性と背徳の狭間に
青大は理性を辛うじて保った。
世界が変わる。それまでの価値観が変わる、というのも大仰だ。
しかし、意識はしているものの、それが決して避けられない見方であると言うことは、自分自身が一番よく分かっている。
柚希と結ばれるに至るまで、数えきれぬほどの修羅場や峠を越え、他人を傷つけ、また友を失ってきた。
柚希と恋人として一線を越すと言う事は、青大にとって何よりも価値があり、また掛け替えのないものであるのだ。
それが、不可抗力の流れとはいえ、懍とあっさりとそう言う方向に至るという、事態の安易さに、青大は激しい両親の呵責を感じた。
「どうしたの青大くん? 何かあったの?」
半ば上の空な様子の青大を気に懸ける柚希。
今までは事態を隠さず、全てを正直に柚希に話してきた。馬鹿正直なほど、青大は起こったことを話し、それで柚希の不安を取り払おうとして来た。
だが、懍とのことはこれまで以上に逡巡した。
柚希の妹ということもあるが、それよりも彼女を巡る枝葉家の確執が、まだ記憶の片隅に生々しかったからだ。
懍とのことを正直に告げることが、正しいことなのかどうかが、青大には分からなかった。
「ああ、何でもねェけど、少し疲れたわ」
「疲れた? 懍とまた何かあったの?」
「懍ちゃんにはよォついて行けんところがあるけぇ、ブチ疲れるわ」
「そうなんだ。いつも言ってるのに……ホントごめんね、青大くん。今度、もっとちゃんと言っておくから」
懍も絡んだ広島時代から重ねてきた、ほぼテンプレートと化した柚希の返答。
「あぁ…」
それに対し、青大もまた、ほぼ生返事のようなものだった。
「あっ……ん、んんぅ――――!」
夜。
青大と柚希は今では日を置いて汗に塗れた肌を重ね合い、互いの熱の源泉を貪り合い、渇きを潤すかのように蠢き、迸る熱を喉に流す。それでも、近所を意識して押し殺した柚希の嬌声が微かに響く。
だがどうしてだろうか。柚希と身を重ねても、青大はまるで心に枷を掛けられたように感情があまり昂ぶらなかった。
初めて広島に訪れたあの日。それ以来、心の深奥であれほど愛おしく、宝石にも代えがたいほどに恋焦がれた柚希の声。甘い汗、浅い繁みに隠れた泉、形の良い乳房の間に顔を埋めながら溺れた幸福の淵も苛立つくらいに浅く、波に乗ることすら出来ない。
「柚希……」
今までと違う自分に対し慙悸の色を強めて名前を呼び、真上から愛おしい恋人の顔を見つめる青大。
「大丈夫。たまにはこういう日もあると思うよ」
優しい微笑みで柚希が青大の頭に腕を廻し引き寄せて唇を重ねる。
「あぁ……」
罪悪感の最中にありながら、青大は力なく頷く。
一線を危うく維持してきたとはいえ、青大からすれば懍との“不祥事”が重く伸し掛かっていた。
正直、心の何処かに懍が仕向けた策略に自ら嵌まることを望む人格がいたのではないだろうか、と。
背徳は甘美なるもの。という言葉に嘘偽りはないと思う。
自分でも驚くほどに、懍とのことを考えると、胸底に疼く痛みが、禁断の快感となるように感じた。だから、その言葉の真実性が、青大の中で実感するのだ。
青大のように、一人の女性に対して純粋なほどに貞操を守ろうとする男にとって、一度背信背徳の味を知ると、その禁断の蜜にのめり込んでしまいそうになるものだろう。
だが、青大は柚希のために文字通りに東奔西走をしてきた。それほどまでに意志の強い男である。
恋人の美しい妹と嵌まりかけた陶酔と、理性との鬩ぎ合いが、心中深くに到り支配した。
それから数日、青大のテンションは頭打ちで、柚希も尊や月らもそれほど注目するべきことではないと、普段のように振る舞った。
懍からはあれから音沙汰がない。
消息不明などという大袈裟な事態ではないが、彼女から青大に関する話題が発信されたという気配は感じられなかった。
柚希との交際に腐心する青大にとっては、それは願っても無いことであるはずなのだが、気付かないうちに段々とそれが気になって仕方がなくなっていた。それでも、懍の通学路や家の前で待つというのもあざとく感じる。
日々募る不安が却って懍の存在を大きくしてゆくと言うことに、柚希絶対を自覚する青大は敢えて直視しないでいるようにも思えた。
そんなある日だった。コンビニでのバイトを終え、青大はいつものように店を出た。
その時……
「青大さん?」
横合いから声が掛かり、思わず青大が振り向く。
「り……懍ちゃん……」
胸元が開いた長袖の上着に、細く長い脚を見せつけるようなミニスカートと、往来の男達が皆、振り向き視線を集める。
それが、運命の岐路だった。
「お前……またそんな」
青大の咎を、今度は懍が割り入って止める。
「今日は茶化すのはナシです」
毅然とした懍の眼差しに、青大も気圧される。
懍は青大の片手を両手で包み込むように握ると、ぐいと引っ張るようにして建物の隙間へと連行していった。
「り……懍……」
薄暗く、狭く細長い空間。往来はあれども誰もそんな隙間など気に懸ける人もない。そんな中で、青大を見つめる瞳だけが爛然と輝いている。
「どうしたんですか青大さん。いつもみたいに、私のこと遇ったらいいじゃないですか」
「……」
青大が何も答えない。
「あー、それともォ、しばらく会えなかったから、寂しかったんですかぁ-?」
戯けるような口調。しかし、冗談という感じがしないと思った。
「寂しいわけねェわ。ただ……」
「ただ? ……なんですか?」
懍がぐいと顔を寄せてくる。
青大が僅かに瞳を逸らし、力なげに呟く。
「お……お前があんなことしょおるけえ、気分が落ち着かんのじゃ」
「あんなこと……? あんなことって、何ですか?」
わざとらしく懍は言う。
「……」
息を呑む。言葉が出てこない。懍の扇情的な挑発に青大は完全に、また心の何処かではそれを渇望していたかのように欲し、また嵌まっていた。
「や、やめぇや」
再び接近してくる懍の顔。言葉で拒むも、青大の身体が反応しない。
「青大さん……」
潤み、また恍惚と瞼を半閉じに懍が唇を寄せてくると、青大も今度は自ら唇を寄せた。
「私……ずっと、青大さんのこと、見てました」
ギリギリに触れるまでの位置で、懍が言う。
「お前な……」
「青大さんだけしか……見えてませんから――――」
ずくんと、青大の心に何かが刺さる。そして、遂に唇が触れた。
「んんっ……」
その瞬間に、青大の舌が懍の柔らかな唇の隙間から侵入する。
一瞬、驚いたような懍の表情。だが、すぐに瞳孔が虚ろになり、自らの小さな舌で応戦する。
「はぁむ……んん……ちゅ……ちゅく……」
徐々に熱くなり、湿り気を帯びてくる互いの息遣い。触れあう鼻の位置を左右に入れ替えながら、柔らかな唇を求めるように触れ合わせ、舌を絡めて互いの唾液を注ぎ合う。
「んん……ふひ……ふひへふ――――はぃふひ――――!!」
(だめじゃ……このままじゃ……柚希に……)
追い打ちを掛けるかのように、ディープキスを重ねながら青大への想いを譫言のように吐く懍。それが更に激しく干渉する堅い理性。だが、愛する柚希の美しい妹との密やかなる背徳の蜜は、堅い貞節、純粋な思慕すら一瞬にして吹き飛ばしてしまいそうなほどに恐ろしい味を絶え間なく与え続けてくる。
「は……ぁ……はる……ふぉ……はん――――!」
銀糸を伸ばしながら、一瞬離れた唇で、なおも絶え間ない譫言として甘い声を上げる懍。
かくかくと震えながら、身体の力が抜ける懍。青大が腕を背中に廻して支える。
「はぁ……あぁ、青大さんて……キスが上手いんですね……」
懍がうっとりと、溢れそうに潤んだ眼差しで見つめながら、鼻声を出す。
「やっぱり――――慣れてるんだ」
意地悪げにそうはにかむのを見た青大は、腕に力を込めて懍を引き寄せると、毒舌を吐く唇を激しく塞ぐ。
「んん……っぅ……!」
青大の舌が躍り込むと同時に、懍もまた応戦する。互いの舌が絡み合う粘音が二人の身体に響く。
青大のもう片方の手がするりと伸び、懍の胸元を弄った。
「……ぁ!」
ぴくんと、懍の身体が反応する。ふわっと、搗き立ての餅という表現じゃ足りないくらいの絶妙な感触が、青大の指に伝わるのだ。そしてそれは、柚希とはまた別次元の痺れるような感触。
「今日も……ノー……ブラなんか」
青大の呟きに、懍は蕩けるような表情の中で嗤笑する。
「そんなこと……考えていたんですかぁ?」
「…………」
青大は反駁するのも羞づかしく、反論の代わりに指を蠢動させる。
「んっ……! あぁ! は、ると……さぁん!!」
柚希よりも確実に大きな懍の胸、そしてその先端にある突起に中指と薬指が触れる。柔らかく、ふにふにとしたその感触と共に、懍の声が狭い空間に響いた。
女性の肌というのは、男を本能的に昂ぶらせる何かを持っているのかも知れない。
懍の胸、肌をゆっくりとなぞりながら、青大はぞくぞくと、身体の奥から得体の知れないどす黒い何かが沸き立ってくる恐怖と快感に、焦がれてしまいそうに脳裏が朦朧としてくる。
「懍ちゃん、オレを見るんじゃ」
「あ……はぃ……」
青大がそう言うと、懍は素直に小さく頷くと、じんじんと震える上体をゆっくりと動かし、僅かに涙痕が伝う頬に微笑みを浮かべながら、青大と見つめ合った。
「悪ィ子じゃ、お前は……」
そう呟くと、青大は掌で懍の乳房を少し強めに押しつぶす。
「ああああっ! い、痛……っ!」
顎を反らして、顔をゆがめる懍。青大はすかさず懍の唇を塞ぎ、そのまま、首筋へと舌を滑らせていった。