君は振り向き、そこに刻まれた足迹を数えたことがあるだろうか featuring 君が微笑むなら from Yasushi Nakanishi 第8話

Chapter.8 背徳の涯

 それから、青大と懍は柚希はもとより、自分たちのことを知る人達の目を盗むようにしては、所を構わず、身体を重ねるようになった。そう、駅や公共施設のトイレや、非常階段、少し暗くなると、公園の植え込みでもした。青大が後ろから突き、時々、懍の腰を抱える形で激しく交わることを厭わなかった。
 互いの獣欲にただ徒らに嵌まってゆく。そして、それをひた隠しにしてきた二人だったが、そうした二人の様子がいつまでも続くという確信はないままだった。
 様子の変化を気づいたのは、誰であろう、柚希だった。

「青大くん」
 夕陽の逆光線で、柚希の表情が見えなかった。声はいつもと同じような、穏やかで、そこはかとなく不安を帯びた響き。
「ん?」
 いつもと変わらない相槌。
「この前の土曜日、私用事があるって言ってたじゃない?」
「ああ。確か両親と出かけるって、言ってたような」
「……うん。でね――――? 
 少しの間が開き、柚希は続けた。
「夕方にちょっと言い忘れたことがあって、電話したんだけど、留守電サービスに繋がっちゃって……」
「え……? あ、そうだっけ!?」
 青大は一瞬、まごついた。それを、柚希は見遁すことは出来なかったのだ。
「……そうなんだ」
 柚希の返答に、青大は何故か根拠もなくほっとした気持ちになった。
「で、言い忘れたことって何じゃ」
「え? ああ、うん。もういいよ。済んだことだし」
「はぁ」

 多分、青大はその時の柚希の様子に、高を括っていたのかも知れない。
 翌日。
 昼食に与っていた青大のスマートフォンにメール着信があった。差出人は“枝葉懍”
 目を細めて青大は開封する。
『講義が終わったら、家で待ってます』
 それは、今や青大にとって見慣れた一文。かつて常に感じていた罪悪感が、今はすっかりと薄れてしまった。
 午後のカリキュラムを済ませて、青大は何気なさを装い、懍のマンションに向かう。
 そして、いつものようにインタフォンを押す。
「…………」
 以前は周囲を気にしながら来たものだった。誰か知っている顔はいないか、柚希。尊、いや特段浅倉清美なんかに会ったら、半殺しじゃ済まなくなる。
 だが、いつからだろう。そうした後ろめたさも感じなくなってきたのは。まるで、平安貴族達の通い婚のようだ。
 ……がちゃ……
 アンロックの音が響き、扉がゆっくり開く。
「あ……」
 隙間から覗く懍の表情が、そこはかとない戸惑いの色を滲ませている。
「懍ちゃん――――」
 青大は名を呼ぶと、グッと扉を開き、身を滑り込ます。そして、言葉を交わすこともせずバッグを放り、懍をそのままかき抱く。
「あ……ま、待……」
 問答無用とばかりに、青大が懍の唇を塞ぐ。
「ん……んんぅ……はぁ」
 懍は制止しようとするのだが、青大の力にあっさりと諦める。
 青大の片手が懍のティーシャツをたくし上げ、手慣れた指の動きでブラのホックを外す。そして滑らかな肌を伝い、はだけたばかりの柔らかな膨らみを指先で味わいながら、少し固めの尖端を弄ぶ。
「あっ、あっ……はる……とさぁん!」
 青大は懍を玄関の壁に凭れさせると、もう片方の膨らみを口に含む。優しく舌を使うこともそこそこに、荒々しく歯で齧る。
「あっ……だ、だめぇ!」
 上体を強張らせて、懍は首を振る。どうしたのだろう。何故か、本当に嫌がっているように思える。
「懍……」
 何故か嫌な予感がして青大は身を離す。
 むき出しの懍の双丘が淫靡に光り、懍もまた快感を中止されて全身に力が入らない。くねらす姿が欲望を擽る。
 その時だった。通路の奥から、がたんという物音が発し、一瞬空気が凍った。
 青大が予想もしなかった状況の扉を開くその物音に茫然とし、逃避の出来ない意識は、必然的にその音源へと向かせられる。
 そして青大の硬直は、懍の身体にもまるで電気を通したかのように伝わる。
 LEDブラケットライトに照らされるも、居間ほど明るくはない廊下。その奥に佇む人影は、哀しく、そして怒りとも絶望とも取れない雰囲気をもってあった。

「柚希…………」

 青大の声は、驚きなのか、哀しみなのか、開き直りなのか。どう捉えても不思議ではないほど平静だった。

「青大……くん……」

 柚希の声は、筆舌に尽くしがたい程に弱々しく、また絶望と怒りを滲ませているようにも思えた。
 ゆらりと柚希の上体が揺れる。俯いた顔を覆う前髪の下に覗く瞳が、光を失っているようにも感じた。
「…………」
 青大はぐいと懍から身を離すと、そそくさと居住まいを正し、柚希の傍に駆け寄ろうとした。
 懍ははだけたティーシャツの裾を掴みながら、不安げに青大を見つめる。
 しかし、青大の足はまるで石化したかのように重くなり、柚希の傍に駆け寄ることは出来なかったのだ。
「…………」
 重苦しい時間が流れる。竦む足。陰の気を放つ柚希。そんな様子を見守る懍。
 そして、微笑みを交えた声で、柚希が発した。
「懍に話があって。久しぶりに寄ったの」
 柚希の言葉に、青大は目線だけを懍に向ける。懍は青大と目が合った途端に、さっと顔を背ける。
「まさか――――。友達が言ってたことなんて、嘘だよね……って、思ってたから――――」
 聞かなくても分かる。見られていたのだ。
 青大が知っている人たちばかりではない、青大が知らない、柚希の知人友人たち。青大が知らなくても、そう言う連中が青大を知っている可能性だってあるのだ。
「青大くん……懍のこと、よくしてくれているから……嬉しかったんだよ?」
 柚希は微笑んでいる。そう、彼女はいつも、顔では笑顔を絶やさない。
「ここに来るのも、きっと懍のわがままで、食事を作って欲しいとか、樹兄さんが帰ってくるまで一緒にいて欲しいとか……、きっとそんな事だろうって……思ってたん……だよ?」
 柚希はギリギリまで、微笑みを“維持”しようとしていた。だが、心の土砂降りは、どんな頑強な堰でも防ぎきることは出来ない。
 遠目からも分かる程に、柚希の身体が震えている。

 非道い。最低。どうして。
 そんな言葉は出てこなかった。
 柚希は身体を震わせるほどに冥き炎を胸裡に燻らせながら、それでも青大を詰る言葉を発しなかった。
 柚希という女は、そういう人だった。青大を想い、青大だけを一途に想いつづけて、全てを犠牲にしてまでも、青大と想いを遂げたかったのだ。
 昔、ちょっと見たことがあると、柚希は言っていた、曾根崎心中。この物語の主人公とヒロイン、徳兵衛とお初のようになることが本望。柚希は多分、冗談半分だろうが笑って話していた。
 青大は柚希をずっと見ている。何故?
 彼が姉の柚希を一途に愛している事は知っている。でも、自分も姉に負けないくらい、いや、一度彼を振った姉なんか足下にも及ばないくらい、自分は彼をずっと好きだった。
 彼と初めて会った時から。ぼんくらな姉さんをそこまでして追いかけてくる、変な人だって思っていたけど、気になっているって分かった時から、彼のこと好きだって。それも自分でも驚くくらい、本気に好きなんだって、気づいた。
 姉さん、ごめんね。青大さんのこと、やっぱり欲しい。他は要らないから。家も、兄さんも、何でもあげるから、青大さんは頂戴……。
 青大から貰ったものは、全て宝物だ。さっとしたメモ書きも、来た時に使ったマグカップや食器も、青大を感じるための、アイテムだ。
 でも、青大は柚希だけをじっと見つめている。そんなに、現・恋人が同じ場所にいたことがショックだったのか。言い訳をただ、考えているというのか。一瞥して、目を逸らしたのは確か。でも、それきり、青大はこっちを見ようともしない。非道い。こんなに、姉さんにも見せびらかしてやりたいくらいに、青大さんのことを好きなのに……!

 ペタ……ペタ……ペタ

 スリッパがフローリングを擦る音が近づいた。硬直する青大の横を、ゆっくりと、そう、映画のスローモーションのように、エコーがかって、狭い廊下に響いたのだ。
 そして……

「うぅ……!」
 蛙を握りつぶしたかのような苦悶の音が青大の傍から突然、発せられた。
「――――!?」
 青大はその瞬間、喉を潰されたかのように声を失いながら、叫んだ。
 瞋恚の炎に胸裡を焼き尽くさんばかりに、ぎりぎりの微笑みを燻らせた枝葉柚希が、徐に妹・懍の細い首筋を両手で掴み、わなわなと震わせながら、絞めつけていったのである。

「ぐぁ……ぁ……ぁぁ……」
「柚希ッ!」