Chapter.9 君が微笑むなら
三年後――――
柚希とは別れた。懍とも経緯があるから会いづらい、会えないという蟠りが足を鈍らせ、そのままだ。
懍の頸には、痣が残るほど絞めつけられた痕跡がある。殺すつもりは多分、無かったのだろうが、世界が青白く薄れてゆく様を、今でも鮮明に憶えている。
何度も考えた。柚希に殺意があったのかどうなのかは判らない。しかし、人の命を奪うというのもなかなか大変だ。人というのは存外、簡単に死ぬものではない。ドラマなどのように、ただ殴っただけで頓死するならば、世間の多くいるであろう、悩み多き人々は総じて殺人犯のリスクを背負っていると言うことになる。
青大はその後、大手酒造メーカーに就職し、当初は四国高知、一年後には東北秋田へと転属させられた。
その間にも、会社の同僚や顧客の関係先など、女性達との出会いや交際の機会は多分にあったが、不思議なことに浮いた噂が青大から出ることはなかった。
身持ちが堅いと言うよりも、青大自身がそういうことに消極的だった、と言った方が正しいのだろう。
職場は内陸の鄙びた山間にあり、昼間でも滅多に車が走ることのない県道。そこから更に車がやっと擦れ違える程度の私道に入った山肌に、青大が暮らす社員寮がある。職場から社員寮までは歩いて十分程度。舗装が真新しい道路の歩道をてくてくと歩いて通う。
夏。蝉のさんざめく音、そしてじりじりと照りつける陽射しに、噎せるような青草の匂い。道路脇に広がる小規模の田畑。どこかしか広島の田舎を偲ばせる情景だが、やはり東北の夏景色は広島とアトモスフィアが違うようだ。
金曜日。週末。今週は業務も落ち着き、久しぶりに連休に入ることが出来そうだった。午後六時に仕事が捌けて退勤。連日の晴天も北日本の山間の平野に吹く夕風に秋の気配すらそこはかとなく漂う気がする。
晩蝉が橙色に染められた景色を奏でる主役。静かな県道沿いの道。こんな夕方でも、あまり車は通らない。
作業着に長靴、または麦藁帽子かヘルメットか。そんな出で立ちこそ景色に溶け込みそうな中で、ワイシャツにリュック姿の青大が、どうも場違いの様にも見えてしまう。
社員寮に通じる私道への丁字路から少し進んだ先に小屋つきのバス停留所がある。日に朝・夕とバスが停まるのだという。
せせこましい都会では煩い“乍らスマホ”も、この人為的喧噪のない田舎道では問題にならない。青大がスマホを手にしながら、てくてくと歩いていると、背後から独特のディーゼル音が徐々に大きくなって行き、青大の横を通り過ぎていった。そして、ブレーキの軋む音とともに、バスはその停留所に停まったようだった。
そして数十秒の後、バスは再びディーゼル音を吹かして、ゆっくりと遠ざかっていった。
晩蝉の鳴き声が一瞬、歓声のようにけたたましく響いた。ふと、青大は手を止め、前方の停留所の方に視線を向けた。
「…………」
思わず、青大の足が止まる。
それは正直、青大のイメージとして彼女には不似合いな萌葱色のワンピース。妙に平成初期調の色彩。夕暮の山間の景色に、妙に映える。何故か、青大はこそばゆい。
彼女と視線を一定に交わし合いながら、青大が歩を進め、やがて彼女の目の前で立ち止まる。至近距離で見つめ合いながら、青大は嬉しいとも、呆れたとも取れるようなため息をひとつ漏らした。
「似合わんわ。誰かと思ォたわ」
「開口一番、随分ヒドい言い方ですね。そういう青大さんも、萎びた社畜らしくヨレヨレですよ」
彼女もそう返す。それは、懐かしいような、それでも愛おしい当たり前だった会話。
そうするのが当たり前のように、青大は片腕で彼女をそっと抱き寄せた。
「よォ来たな……懍――――」
「…………はい」
もう片方の手で、枝葉懍の髪をくしゃくしゃにすると、彼女は目を細めて肩をすぼめた。
青大の拵えた夕食の相伴に与りながら懍は言う。柚希は今、日本にはいないのだという。
あれから懍と柚希は、家族という関係を事実上失った。懍は深くは語らなかったが、両親が柚希を離したらしい。青大に対して激昂した両親を何とか宥めたのは、他ならぬ柚希であったのだという。
それでも、家族関係が崩壊したというわけではなかった。そうならないように、柚希自身が自ら根本的に自らを変えるために海外への渡航を両親に願った。
「柚希は……今――――」
「今年の初めまではオーストラリアに。今は、多分ヨーロッパのどこかだと思います」
懍も、両親も正直柚希の所在を確認出来ていないのだとは言うが、おそらく青大には明かせない事情があるのだろうと言うことなのだろう。確かに、思い詰めれば青大は地元の高校を辞め、東京に編入を強行するような男だ。何をしでかすかわからない。
「今でも……会いたいと思いますか?」
そう訊ねる懍の表情に、青大が知る十代の頃のあの小悪魔的なものは感じられなかった。
「それは、ない」
青大の返答に、懍は確信的なものを感じた。戸惑いの色彩が無い、しっかりとした言葉だった。
「そう、確信があるからお前も、ここに来たんじゃろ」
「そんなことはないです。ずっと不安だらけだったんですよ!」
懍が思わず声を張り上げる。数年も会っていなかったなんて思えないほど、青大と懍は馴染んだ。
田舎の社員寮なんてたかが知れている。独身者や単身赴任社用で、家族で住むなんて仕様ではない。そういう連中は戸建てがある。そんなワンルームの部屋に、懍は否応にも映えた。
「ここは狭いけぇ。明日は――――」
青大が言いかけると、懍は首を振った。
「平気ですよ、私。青大さんが一緒なら、例えホームレスでも……」
ホームレスは極端だと思った。思わず、笑ってしまう。しかし、懍がそんなことを言うのは、もう冗談や揶揄というわけではなかった。戯けた、無邪気な面影の奥に、本気さが窺えた。
「ああ。じゃけぇな……」
青大もまた、懍がわざわざ青大の居場所を探し当て、ただ逢いたいが故にこんな鄙びた地にやって来たとは思っていなかった。
懍も覚悟を持って青大と会っている。今回ばかりは、雰囲気に流された、背徳ではない。そして、そんな青大もいつか叶うことなら、懍と一緒に人生を歩んでゆく。そんな決意を持っていたのかも知れない。
「明日、付きおォて欲しいところがあるんじゃ、懍ちゃん」
「街に行くんですか?」
懍が賑やかな都会を想像しているのを感じた青大は、苦笑しながら言った。
「ああ。その“序で”でもええわ」
翌日。
青大は懍と共に秋田の街に出かけ、初めて見る地方都市の殷賑に触れ、燥ぐ懍を案内した。そして、その最後に訪れたのは、不動産会社だった。
驚く懍。青大は今の社員寮を引き払い、懍と暮らすべき戸建ての借家を探すために、訪れたのだった。
懍は一度、帰京した。そして、最低限の荷物を青大の決めた新居に送り、一月後、再び青大の許にやって来た。今度は、帰路無き青大に寄り添うために。
懍の両親からは心底から喜ばれなかった。それでも、懍をこのような田舎に行かせることを認めただけでも、大きな進展だったと言える。
柚希からの手紙がポストに届いたのは、住秋三年目の春。
青大が抱く子供の傍ら。千秋公園の桜のベンチで、その封を開き、便箋に目を通した懍の瞳には、わずかに涙が光ったという。
それでも、青大は思う。過去の足跡はやがて良い思い出になる。今はただ、懍と、彼女との間に生まれたこの子の幸せを願うことだと。