見慣れた高台の景色、見慣れた小逕の花。鼻腔を撫でてゆく微かな草木の薫り。どれもが常に傍にあった感触。
桐島青大はそこに何度目だろうか。今や正直、目を瞑っていてもスタスタとたどり着けることが出来る自信があるくらい通った。
『風間家之墓』
多分、他所からすれば奇異に映るかも知れない。殆ど、毎月のように新しく飾られている供花。居並ぶ墓石の一角に、盂蘭盆でも彼岸でもないのに見栄える。殊勝なことだと、管理人の住職が話しているという。
それもそうだった。
彼と、彼の恋人・浅倉清美は毎月、そして何か大きな出来事がある度に、ここに訪れた。
そう。今は亡き親友・風間恭輔の墓である。
青大はこの間、恭輔の母から言われたことがある。
(恭輔のことを思ってくれるのは嬉しいけど、あまり無理をしないでね)
反魂の季節に、墓石を磨き触れる機会が少ないと思われている訳がない。青大に対して、もう恭輔から解放されてもいいのではないか。いや、むしろそうして欲しいと願っていると言うことが、その言葉から伝わってくる真意に他ならなかった。
『今日はな。お前に後ろめたい事なん、残しとォないけぇ。いの一番に伝えとくために来たんじゃ。聞いてくれよ』
青大は傍らにいる清美に目配せをした。青大と視線を合わせた清美は、一度睫を僅かに伏せ、息を整えてから小さく頷き、ゆっくりと睫を上げ、想いを込めて墓石に対した。
……恭輔くん……
改まって言うのも、何か恥ずかしいから――――率直に言うわ
私ね……今、お腹に赤ちゃんがいるの。
彼――――青大くんの子よ……
あなたが巡りあわせてくれた、大好きな人……
あなたがいてくれたから……私は――――
それは、清美の心の中で語りかける言葉だった。
青大は彼女の想いを識る。声に出さなくても、伝わる。二人の世界がひとつになったあの瞬間から、まるで超能力者のように、青大も清美も、互いの想いがダイレクトに伝わるのだ。
数分の沈黙が、清美の眦をうっすらと湿らせるには充分な時だ。
青大が清美の横顔にそっと眼差しを向ける。
その瞳に映る表情は、青大にとっては多分、もう見ることが出来ない――――いや、彼とともに眠りにつく過去の柵。
風間恭輔、手術二日前――――
その日、恭輔の“壮行会”が開かれた。
彼の難手術に対する青大や清美。そして当時、彼と交際していた枝葉柚希ら有志によって持ち上がった、俄仕立てのパーティー。
『料理長』桐島青大が誂えたパーティディッシュは、彼の体調を最大限に重んじた、ベジタブルメニューだった。肉らしきものは、鶏肉。彼の大好物だった、青大特製・青紫蘇とトマトの玉子焼き。
悲愴感など微塵も無かった、不思議な雰囲気の中で、清美は告白した。永い時、心裡に燻らせていた、幼馴染みへの恋心――――。
それは怒濤の勢いで、とりつく島もないまま一方的にまくし立てた。きっと、恥ずかしさもあったのだろうが、それ以上に彼から断られる事への怖れが殆どだっただろう。
パーティの流れの中で有耶無耶になってしまった彼の返事。気になっていた清美の思い。
壮行会が終わり、そそくさと退散した枝葉。そして何だかんだと最後に青大と御島明日香が帰路についた。清美は告白の手前非常に居づらかったが、青大が押し留めていた。
ばつが悪そうにしていた清美。やはり話すこともままならず、青大の気遣いも詮無くして心にもないことを口に出す。
「わ、私ももう帰るわ。じゃあね! お休みなさい!」
いつもそうだ。
折角、周囲が気を遣って誂えてくれた機会をふいにする。幼い頃から清美はその失敗を繰り返してきた。
照れ隠しなのか、ただ単に小さなプライドが邪魔をしているからなのか。
恭輔は柳のようにしなやかで、周りに波風を立てるようなことをせずに、いつも清美の失敗を補ってくれていた。さり気なく、恩着せがましいことなど一切せずに。
来客を見送った静かな路上で、恭輔はズボンのポケットから携帯電話を取り出すと、おもむろに着信履歴を辿って発信ボタンを押した。
空に突き上げた拳ひとつ分、月が西に動いた。
路面を打つヒールの音が、清澄な夜気に響く。
「清美――――」
「…………」
彼の呼びかけに、清美は口を噤んだまま、肩を窄ませていた。
そんな様子に、恭輔は笑いを禁じ得ない。
「ちょ……ひどい、笑うなんて!」
清美がしどろもどろに、それでも嘲笑の彼を恨めしそうに睨み付ける。
「あはははっ、悪ィな清美。そんなつもりじゃねぇんだけどよ。……ただ」
「……え?」
語尾の一瞬なる神妙な言葉に、清美は反応する。
「迷ったけど――――やっぱ言うわ」
苦笑しながら、彼は頭を掻いた。
「お前とは、その……大事な幼馴染みでいたいっつーか――――」
全く、少しは間を開けるって事を知らないのか。
痛切な言葉をこの男は勿体もつけずにあっさりと言ってしまうものだ。
「恭輔くんって――――」
額に手を当てて長嘆する清美。こんな流れ作業というか、事務的な振られ方なんて、この先もきっとないだろう。デリカシー云々の問題じゃない。やっと判った。風間恭輔と浅倉清美の間には、そう言う以前の、気心が知れた幼馴染み。それ以上でもそれ以下でもなかったのだ。
「あはは……」
「はぁ――――もう、いいわ」
乾いた誤魔化し笑いをする恭輔に、呆れ顔全開の清美。そうだ。二人は最初から、こんな関係だったではないか。
清美の中で、それまでめらめらと燃え滾っていた感情が、一息に沈んで行くのがわかった。
枝葉柚希に対する憎しみさえも、その毒気を抜かれる。何か、今まで気張っていたものが急に軽くなった気がした。
『恋愛』
きっと恭輔はそんな枠を超えて清美を想っていた。恋愛は際物だ。熱い時は周囲をも見えなくさせるほど思考を麻痺させるが、夢から醒めた時、その現実は博奕のようなものだ。そんなリスクを、清美に負わせるわけにはいかなかった。
そう……、俺は命を賭けている。
「せっかくだ。清美、二人っきりで飲み直さねえか」
「人のことを振った言葉の二の句にそんなこと言うのね」
上擦り気味に、清美は言った。
「話しておきたいことは、山ほどあるわ」
「高校生がお酒を飲んじゃダメよ」
「今日くらいは治外法権、風間特区だ」
「……ばか」
清美が、苦い味のする笑顔を向けた。
プラタナスの並木道、寄り添いながら手を繋ぐ。なんて昔のラブソングの情景に出てきそうな風景だ。
「……今日はありがとう、青大くん」
「なんじゃ、改まって」
風が清美の長い髪をそよぎ、それを青大がさり気なく、指で梳く。
「考えていたの。今までのことを」
「今まで?」
清美の睫の先が少しだけ伏せた。
「恭輔くんを見つめてきた今までと……。あなたと出会って――――あなたと結婚をした、今日から明日のことも、かな?」
「清美――――」
ふと、青大の指がぱっつん越しの清美の額に触れる。
「?」
「らしくねぇ」
「! ちょッ、非道ッ!」
パチンと青大の指を弾き、清美が青大を突き放す。笑いながら、青大は再び清美をその腕の中に収めた。頬を膨らませながらも清美の機嫌はすぐに戻るのだ。