テイルランプが交錯し、エンジン音が絶え間ないドップラー効果を齎している歩道は、日中や夕方のような激しい人の往来も緩やかになり、カップルの足跡に照らされるそれぞれの物語を、幻想的に散らす。
青大と清美は何故か、まるでテレビドラマのカメラワークによる、フレームの両端に映る程の距離を置いて歩いていた。
しばらく、二人は多分柄にもないほどの神妙な面持ちで歩を進めていたのだろう。傍目からすれば、紛れもない恋人同士の筈なのに、醸し出す切迫感は半端ないものがあったようである。
下手をすれば職務質問をされかねないような悄然とした空気に、青大はふと気づき、信号で止まった頃合を見計らって踵を返した。清美も、青大に倣う。
都会の中にある公園は、意外にも静かなものだ。恋人たちの情事の舞台とばかりではない、喜怒哀楽の踊り場のように、様々な人々が、散在する。
こんなビルの谷間でも、目を凝らすと星というのは見えるものだ。
「星なんて見えるのね……」
いつしか、傍らに寄り添うようにしていた清美が、そう呟いた。
「ああ、そういや星なんて、広島から出てきてからよう見とらんのォ」
清美に促されるように顔を見上げて表情を綻ばす青大。
「ふふっ。青大って、何かしんみり星空なんか見るようなロマンティストのイメージじゃないわ」
「な、失礼な! 自慢じゃないがのォ、こう見えても学校の帰りとか夜遅ォなると、お星様が街灯代わりじゃったわ!」
清美の揶揄に、青大は少しだけムキになる。
そんな掛け合いに、自然と二人の間を包んでいた緊張感が解ける。
「俺も“星”になるかと思ォた」
「なあに、それ」
素頓狂な青大の言葉に失笑する清美。
「清美との仲、認めてもらえるとは、正直思わんかったわ」
「あ……」
つい先刻の情景を思いだし、口を窄めて小さく頷く。
三十分前――――
「清美のことだね」
健嗣が単刀直入に尋ねた。
「回りくどいことは面倒だ、青大君。わかるな」
「あ……は、はい……」
穏やかで訥訥さを感じない声色だったが、決して浮薄な回答を許すという雰囲気はなかった。
健嗣はじっと青大の表情を見ると、顔を引き、小さく頷いた。
「よし、言ってみなさい」
全てを見透かされている。そんなような気がした。そして、この人、清美の父ならば烈火の如き怒りで問答無用という事はないだろう。そんなひとつの確信にも似たフィーリングを感じていた。だからこそ、言えた。
――――清美に、俺の子が宿ます――――
その瞬間の清美の様子はわからない。ただ、決して飾らず、取り繕いも、言葉の暈しもしない。桐島青大、そのままの言葉で、ありのままを伝えた。
後は野となれ山となれ。次の健嗣の言葉が発せられるまでの刹那に、青大の脳裏には閃光のように様々な未来予想図が迸った。幸運な未来、不幸な未来…。
だが、青大には清美を捨てるという構想はなかった。今の時世、駆け落ちなんて時代齟齬も甚だしい。だが、青大には根拠無き楽観があった。そんな刹那の時にも、清美と一緒にいる事への自信があったのだ。
青大を凝視していた健嗣が、徐に手をつけていなかった徳利に手を延ばすと、それを手酌し、ひと呷りする。そして、それほど表情を変えずに口を開いた。
「そうか」
その一言で、再び刹那の沈黙が包み込む。
そして、健嗣は視線を娘の方に向けた。今度は滑らかに言葉を発する。
「清美は、良いのか」
その問いの持つ真意は深いのか、清美は父の表情を真っ直ぐに見つめながら頷く。
健嗣は傍らの有美を一瞥すると、一回小さな溜息をつき、言った。
「二人がそれで良いのならば、それで良い」
それは、当の本人達が拍子抜けするほどのあっさりとした容認の言葉だった。健嗣は再び、手酌をする。
「…………」
思いもよらぬ肩すかしに、何と答えたらいいのか、青大は言葉を失う。
青大と同じ心情だった清美は、母・有美に視線で助け船を乞う。
「どうしたの。お父さん、良いって言ってくれているのに」
「え……えっと――――うん、なんか――――意外とあっさりだったかな――――って」
その言葉に、健嗣が小さく笑う。
「猛反対でもされると思ったか」
「え? あ、うん――――」
清美が途惑いながら頷くと、今度は諦めがちに溜息交じりに口の端で笑う。
「仮に反対をしたところで、君らは諦めたか」
「…………」
二人とも返す言葉がない。
「言葉を強いて意志を覆すくらいならば、それを真実とは思わないさ。人を愛するのは覚悟と、決意だ。だからこそ、愛情を重ねてそう言う結果になった。プロポーズや、親への挨拶などと言う手順の問題ではないだろう」
健嗣は穏やかに微笑んでいる。
「子が出来たことを報告することに対して遅疑逡巡するなら良いさ。君はその心の裡に清美のこと、お腹の子のことを考えていると言うことだからね。だが、子が出来たことを悔やみ、その謝罪の言葉を選び逡巡していたとするならば、私は決して赦しはしなかっただろう」
健嗣がそう言って青大の杯に再び、ノンアルの飲料を注ぎ込む。
「だてに君たちの倍を生きているわけじゃない。君を見ていれば、思いの真贋くらい分かるさ」
青大が杯をぐいと呷るのを眺めながら、健嗣は言った。
「……お父さん、もしかして――――」
清美が確信を持って訊ねると、健嗣はふっと睫を落とした。
「はぁ――――」
ぱっつんを掻き上げて額を押さえながら、突然、清美が発した大きな溜息に、青大は驚く。
「ど、どうしたんじゃ」
思考が混乱する青大に、清美は呆れたように言う。
「青大――――お父さん、確信犯よ」
「え――――?」
清美の思いも寄らない言葉に、青大は再び絶句する。
「お父さん、私たちが言いたかったこと、最初から判っていたって事!」
清美が顔を真っ赤にして捨て鉢な声を張り上げると、やる瀬ない視線を泳がせた挙げ句、卓に突っ伏してしまう。
「えぇ――――え……っと――――」
それはまるで“どっきりカメラ”か“モニタリング”か。極めてシリアスな場景の中で突然突きつけられた、仕組まれたシナリオ。 清美は寸秒の放心を良しとして顔を上げ、両親を睨む。
「お父さんも、お母さんも……人が悪いわ!」
娘の恨み言に、有美は苦笑する。
「何もそんなに嘆くことなんかないわよ、清美」
有美がそう言って微笑むと、清美は不貞腐れたように唇を尖らす。
「お父さんと私も、今の貴方たちと同じようにして一緒になったから、あなたたちの気持ち、分かるのよ」
その言葉に、清美は絶句する。
健嗣と有美は、典型的な恋愛結婚だったという。しかし、その結実に至るには、実に数奇な運命の中で半ば駆落ち同然に結ばれた関係なのだという。
しがなき営業社員の健嗣と、いわゆる富裕層の娘・有美。意外だが、馴初めは父が清貧生活を余儀なくし、母がお嬢さま系だったらしい。
そんな不釣合いな二人が、いかにして結ばれたのか、話は長くなるから割愛するにしても、有美が勘当同然に実家を飛び出して健嗣と一緒になったのは、今の時世では失笑してしまうほどに陳腐な“愛”という感情だった。そして――――
「清美――――あなたが、ここに……いたからよ」
そう言って、有美はそっと、お腹に掌を中てる。
「あなたのことを考えているとね、これから遭遇する色々な苦難なんて、想像するのが何かおかしい、って言うかきりがない。って思ったの」
「…………!」
清美がはっとなって母を見上げる。
「でもね、清美。これだけは自信を持って言えるし、今日ここまで来られた最大の原動力だったと言えることがあるの」
そう言って有美は目を細めて健嗣を見つめ、微笑みながら頷き合うと、青大と清美を見て言った。
「清美がこの世に命を宿した事を、心の底から、喜んだわ。一度も、後悔なんてしたことがないということ――――」
その言葉を聞いた清美が顔を覆わんばかりに両手をあてて肩を震わせて哭泣したのは自然の理だっただろう。
「青大くん」
「は、はい」
健嗣が改めて青大に向かって語る。
「私はね、でき婚を否定しないよ。自分たちがそうだったというのもあるが、でき婚だろうが、そうでないだろうが、夫婦というのは心構えと、覚悟の違いだと思っている」
「はい――――」
青大の胸中に、健嗣の言葉が沁み渡ってゆく。
「どんなに手順を踏んだ正当な夫婦親子だったとしても、壊れるものは壊れる。世間から認められない、紛い物の夫婦だったとしても、添い遂げる場合もある。常識や価値観に囚われた真贋評価なんて、何ら意味のないことなんだよ」
青大は理解した。健嗣が話していたことの真意を。そして、決意を込めて健嗣を見る。
「君ならば、大丈夫だろう。清美を大切にしてくれる。そして、生まれてくる子供も、きっとささやかな幸せの中で育ってくれるだろう、ってね」
健嗣は有美ともう一度視線を合わせると、力強く頷いた。そして、青大の肩に顔を埋めて哭泣する清美を構う青大の姿を、懐かしそうに見つめていたのである。