公園前の道路を、バイクのマフラーが轟音を立てて駆け抜けていった。これが、結構鼓膜を劈くかのようだったが、青大も清美も、顔を顰めることもなく、さも懐かしそうに、目を細めていた。
「恭輔くんのは、もう少し静かだったかな……?」
「ああ。風間のも相当煩かったじゃけど、あそこまでじゃあなかったわ」
青大がくつくつと笑う。清美の両親との掛け合いに安心したのか、今はどんなことにもポジティブに捉えたい心地だった。
遠離るマフラーの爆音と共に、再び過ぎる、彼の姿。それは、青大と出逢うだいぶ前の事だった――――。
「おーっしゃ! 第一段階クリアーーーーイェイ!」
教習所の正門に自慢たらたらと高笑する恭輔を、清美は不安そうに溜息をつく。
「これで愛しのSRXに――――うはっ! マジヤベえ」
「何言ってるのよ。まだまだ先は長いんでしょう?」
「まぁ――――な。ま、でもよ、着実にステップは踏んでっぺ?」
「う――――ん、まぁ……ね。取りあえず良かったわね――――って、何か素直に言えないわ。恭輔くん、本当に大丈夫?」
制服のブラウスの上から、細くくびれた腰に両手をあてて、清美はそこはかとなく偉そうにはしゃぐ恭輔を見つめている。
「大丈夫って、おいおい。俺はこれからじっくりゆっくりな熟成期間の始まりなんだぜ? SRXちゃんにもまだ逢ってないってばよ」
「うん……分かってる。分かってるけど――――恭輔くん、バイクずっと欲しかったでしょ? 念願叶って、浮き足立たないかなって心配で……」
形の良い眉をそっと曲げて清美の言葉の語尾が弱々しくなる。
「…………」
それを見た恭輔は、まるで一陣の涼しい風のように、熱く興奮した表情から、穏やかな微笑みに変わり、言った。
「愛車の処女運行記念に、どうよ、タンデムすっか」
愕然となる清美。
「ええ――――! いきなり二人乗りって……」
鋭い視線で恭輔を咎めるが、恭輔は何故か確信的に苦笑する。
「あーっ、そう言うことか!」
どうやら、昨今のロールプレイングゲーム等々にあるように、初期レベルは必ずしも“1”ではない、と言うことだった。
その時だった。
「そう言うことか! でも、すっか! でもねぇわお前ら」
二人に冷水を浴びせるように野太い声がして、振り向く。
「真理谷先輩――――」
真理谷信崇(まりやつ・のぶたか)。恭輔が慕う先輩である。
「取ってすぐタンデムは出来ねーよ。捕まる気かっ」
「え……あっ――――そうでしたっけ?」
「風間ァ、あんま浮かれてっと、免許取った日にソッコー事故るぞ。気ィつけろよ?」
真理谷の窘めに、まるで叱られた犬のように肩を落とす恭輔。
「ああ、そうだ清美ちゃんさー」
真理谷が声色を変えて清美に目を向ける。
「今度の日曜日、何か予定あるかい?」
「え――――? えっと……特には――――」
まさかデートの誘いか。と勘繰る暇もなく、真理谷は続けた。
「おーっし。風間ならば今週中に二輪取るだろうし――――なァ、風間。どうよ?」
「あ、いいっすね先輩」
恭輔と真理谷が見合って笑う。そんな彼らの様子に何か不安が先行する清美だった。
次の休日。朝から雲ひとつない快晴だ。
「重畳、重畳!」
どこで覚えたのか、古風な恭輔。満足そうに東の空を眩しそうに見上げる。
「おはよう、恭輔くん」
珍しくデニムパンツの清美。この日はスカート系は止めておけ、と恭輔に言われていた。
恭輔は清美の装いを見て“おっしゃ”と頷く。
「じゃーん」
先日に発行されたばかりの免許証を翳してはにかむ恭輔。免許発行に合わせたように、真新しい恭輔のバイクが朝日を反射していた。
バイク初乗りの通過儀礼とでも言うのだろうか。まるで恋人を愛撫するかのように、恭輔は満願成就のマシンをこよなく構う。多分、何かしら意味があるのだろう。
恭輔の奇異な行動に面食らっているうちに、道路の向こうから、爽やかな朝に似つかわしくない爆音を立てて一台のバイクが恭輔と清美の前に停まる。フルフェイスのメットを取ったその人物は真理谷信崇だった。
「おはよう。早速だけど、良いか」
挨拶もそこそこ、雑談もなしに本題だ。
「はい先輩。いつでもいいっすよ」
「どこに行くの?」
「まぁ、まず乗れよ」
ニヤリと笑い、恭輔は真理谷のバイクを親指で促す。
「清美ちゃんと初タンデムか。悪ィな、風間」
真理谷が冗談めくと、恭輔は笑って即答する。
「泣く泣く譲りますよ、先輩」
その意味が何となく分かる気がして、清美は少し複雑だった。
恭輔のバイクを先頭に、清美を乗せた真理谷のバイクが国道6号線を北にひた走った。初めてのバイク。風圧をもろに受け、清美は必死で真理谷にしがみつく。さすが手慣れた感じに真理谷は空いた道路でアクセルを回す。
やがて、二台のバイクがスピードを落とし、停車した。そこは茨城県の下妻市内を抜けたとある場所。少し開けた場所だった。
「着いたぜ。ここさ」
メットを外し、長めの髪を掻き上げた恭輔が言う。
「ここって……」
「おうよ。サーキット場」
恭輔が無邪気にはにかんだ。
そうだ。恭輔は良くレーシングの話題を熱く語っている。余程、嵌まっているんだろう。いや、嵌まっているというレベルじゃなく、多分、きっと彼の“夢”そのものなのかも知れない。
「風間の“祝・二輪取得イベント”って奴さ」
真理谷がくつくつと笑いながら恭輔の背中を軽く叩く。
「ま、そーゆーことさ。ちょっと行ってくるわ」
「え? 行くって、どこへ行くの?」
全く意味が分からない清美。真理谷が清美を降ろして身軽になったマイバイクに再びエンジンを掛ける。そして、恭輔もまた、おもむろに自分のバイクに跨がる。
「真理谷先輩や他の知り合いが、俺の二輪取得を祝ってくれるんだよ。まあ、見ていろって」
言うが早いか、恭輔と真理谷のバイクがレーン入口の方に消えてゆく。清美は溜息交じりに観客席側の入口へ向かって行った。
水を得た魚のよう、と言う。恭輔がまさにそうであった。碧空のトラックを満面の笑みで周回する。清美が視界に入ると、恭輔は目を見開いて呼びかけているのだ。
サーキットにハレーションを起こしながら、恭輔は翔ぶ。銀色の光跡が幾重にも連なる。まるで、天使の輪のように。
長く焦がれた玩具を手に入れた子供のように、無邪気にはしゃぐ恭輔を温かな眼差しで見つめていた清美。
やがて、ライディングを終えた恭輔が汗を拭いながら清美の座っている観客席の隣に腰掛けた。
「ホイ」
手に持った紙コップのひとつを清美に差し出す。
「逆じゃね? お前が“恭輔~お疲れ様。はい、冷たいジュース”って渡してくれれば最高なのによー」
「私って、そんなキャラじゃないでしょ?」
当たり前のようにそれを受け取ってひと呷りする。
「……っ! ちょ、恭輔ェ――――コレ……」
顰めっ面の清美に恭輔はしてやったとばかりに悪戯な笑みを浮かべる。
「ドロリ濃厚ピーチパンプキン」
噎せかけを何とか抑え、長嘆する。
「運動した後に飲むものじゃないわ」
「そうか? かなり美味いぞ」
恭輔は事もなげに同じ中身の入った紙コップを呷る。喉が奇怪な音を立てる。
真理谷とその他のメンバーはなおレーンをひた走っている。爆音を立てて競争をしているようだ。そんな光景と騒音に雰囲気を駆り立てて、さも清美と恭輔は、傍目からすれば一介のカップルに見える。
「ホント、恭輔って変わっているわ」
「今更気付いたのかよ。大したことねぇな、あははは」
その屈託のない笑顔に、清美は眩さを感じ、目を細める。
「そう言えば、恭輔……」
胸奥に秘めた想いに対する漠然とした不安が、清美にそれを言わせた。
「中学の頃に――――」
「ん?」
きょとんとする恭輔。思わず、後悔の念が過ぎりかけたが、下手に躱すと余計土壷に嵌まる。一呼吸を置いて、清美は続ける。
「ほら、中学の時に恭輔が気にしていた子、いるじゃない。えっと……」
「あぁ、枝葉柚希」
さらりと答える恭輔。
「柚希がどうかしたか?」
清美の心いざ知らずとばかりに、恭輔は興味を示す。
「うん……ほら、恭輔、その子によく自分の話しているんでしょ。だから、もしかして――――」
「あー、あれか。なるほど。いつか柚希を呼んで皆とツーリングでもしたいってか。なるほどなあ。賛成!」
勝手に思い込み、自分の都合の良いように解釈してしまう。友人知己の間の険悪な雰囲気もそんな恭輔の不思議な雰囲気に呑まれてしまう。はぐらかし、なのかも知れない。多分、そうなのだろうか。
そして、そうだった。恭輔の“想い人”
枝葉柚希の話題になれば、彼は話が弾む。聞きたくもない話だが、恭輔の饒舌を引き出すためには避けられない話題だった。
「でも、叶えられそうもねえな」
自嘲する恭輔の寂しげな表情。そう。枝葉柚希は、その頃忽然と恭輔の前から姿を消していたのである。
そんな表情を見ていると、清美はやはり激しい逡巡を覚えてしまう。
(来年になったら、私とタンデムしてくれる?)
そんな簡単な言葉が、なかなか言えない。
(タンデムするか?)
きっと恭輔は何気に語ったんだろう、その誘いの言葉を清美は反芻した。
「なあ、清美」
真里谷達のライディングを眺めながら、恭輔が言葉を発する。
「え? なに?」
「さっき、俺のこと、変わってるって言ったじゃん?」
「え? あ、あはは。気に障った? なら謝……」
「違ぇよ。そうじゃなくて。確かに、お前の言う通りだよなって、思ったんだよ」
「…………」
「柚希に告って、多分フラれた挙げ句に去られてさ、それでも考えることはバイクのことと柚希何してんのかなーって事ばっかで。ホント、変わっているっつーか、マジ変じゃん」
そう言って笑う。そうだ。恭輔はずっとこうだった。チャラいと言われながらも根本のところでは筋が通っている。柚希を語るところもひっくるめて、清美が好きになった風間恭輔なのだ。
そしてこの時間、また話を聞いた後に恭輔が不意に言った。
「清美はきっといい女になる。そして良い嫁さんになれる」
「何それ。バカみたい」
いつもの口説き文句くずれみたいなものかと遇うつもりが、妙に寂しい。
「割とマジなんだけどなぁ。風間恭輔の恋愛指南道場はクオリティ高いんだぜー」
「ふふっ。そうなの? だったら、その幸せな結婚をするために、今この想いをどうすればいいのか、教えて欲しいわ」
「おぉ? なに清美、誰か好きな奴いんのか!?」
柚希の話題以上に興味津々と瞳を輝かせた恭輔が、身を乗り出してくる。
「さぁ――――教えない」
清美がはぐらかすと恭輔は更に取っつく。それを揶揄うように更にはぐらかす。傍目からすれば、本当にカップルのようだった。
そして、手術壮行会とした、あの最後の晩餐の後。恭輔はその日のハレーションの陽射しの中で言った言葉を、今度は穏やかな微笑みを湛えて清美に言った。
「お前、すっげえいい女になったわ。……ホント、マジいい女だぜ」
何故かそれが哀しい笑顔だと、清美は思わなかったのだ。