清陽――――。
“きよきひなた”と書いて“はるひ”
女の子が生まれた。その前後の不安焦躁や狂喜乱舞ぶりは割愛するにして、さて寿限無ではないが、今流行のキラキラネームだけは止めておけと、青大の父・貞雄から鼻息荒く電話で念を押されたが、青大はそれだけは無いから安心せえと呆れたのだという。
偏諱を賜う、なんて小難しい用語も、命名関連の本や資料をまさぐると出てくる。要するに自分の名前の一字を付ける、という奴だ。
しかし、どうもそこまで仰々しくもない。確かに、生まれてくる子供は想像以上に愛おしいものかも知れないが、名前で愛する子の生涯を縛るような事はしたくない。それこそ、江戸以前のように自由改名の制度もないからだ。
悩める青大に、清美の父・浅倉健嗣と、母・有美はアドバイスした。
有美「良いんじゃない? 青大くんの名前を入れても」
健嗣「他人に容易に読めない読み方を考えようか、なあ青大くん」
青大の真剣な悩みも、まるで面白さを求めるような軽さで嗤笑する清美両親。
そんな桐島・浅倉の両親サイドのアドバイス(?)を受けて、三昼夜……と言えば極端だが、そのくらい悩み抜いた青大が考案した名前が『清陽』――――。
青大の青の字を残し、清美の清の字にも通じる。陽は青大と清美、二人がそれぞれ想いのある季節の夏の眩しい太陽に通じる。そして、四季最盛の刻の象徴。
清を“はる”と読ませるのは、当て字に他ならないが、浅倉健嗣の要望にも適う。かと言って、桐島貞雄の忌諱するキラキラネームでもない。
『清陽』と書いて、はるひ……。どうだ。我ながら良い名前だとは思わないか!
目の下に大きな隈を拵えて、青大は自画自賛で英気を養ったのである。
バッ――――!
どや顔でまるで判決“全面勝訴”とばかりの勢いで、自ら辷らせた筆書きをひけらかす。
「命名 清陽」
その揮毫に場がどよめくかと思ったが、周囲は予想外にしんとなってしまった。
「なんや、それ。セイヨウって読むんか。男みたいやな」
と、すかさず由良尊が口火を切ると…。
「アンタも見かけによらず、キラキラネーム好きなんね」
加賀月が尤も厳しい突っ込みを入れる。
「だからどこがじゃ! 星影夢(ぽえむ)でも流墨愛(るぴあ)でもねーわっ」
「“きよはる”か。おおー、いいじゃない?」
姉・葵まで小悪魔の様相。
「姉ちゃん、生まれたばかりの姪を揶揄うなや」
と、まあ皆好き勝手青大と清美の慶事を揶揄い祝う。
「青大――――」
と、貞雄が言いかけた瞬間。
「いや親父までボケなくて良いから」
実父のボケをスルーする。何だとつまらなそうに貞雄は鼻を鳴らす。
一生にそう何度もあるわけが無い(人にもよるだろうが)この通過儀礼を一種のギャグ漫画然とされちゃあたまったものじゃない。
だが、それくらい温かく、またそれくらい青大の周辺は幸福であったと言えるだろう。
外に出ると、眩いばかりの夏木立がざわざわと戦ぐ。
「うわ、暑ィ……」
太陽を腕で遮りながら、思わずしかめ面をする青大。
「こんな時も、青大くんらしいね」
正面からそう言いながらクスクスと笑う声が近づいてくる。
「枝葉――――」
自らの台詞が懐かしいような響きだった。
「来てくれたんじゃな」
「もちろん!」
青大と枝葉柚希。夙縁とも言えた二人の関係も、風間恭輔の没後、途絶えた。いや、今となっては昇華したと言っても良いだろう。
「青大くんの晴舞台だから、来たよ?」
それは、晴朗透徹なる地平線を望む広原のような、淀みなき世界。今までの愛憎や、蟠屈の想いも全て清澄な夏の空に醇化された関係。
「元気そうじゃな」
「ふふっ――――そこそこに」
かつては口籠もる事もあった振りに対する切り返しも上手くなった。
そこに見る枝葉柚希。嘗て青大が一心不乱に追い続けてきた、盤桓の少女は、いつの間にか青大の記憶とは違う、大人へと変わっていたのである。
「来てくれんと思うとったけぇ、ブチ嬉しいわ」
「恭輔くんのためでもあるから――――」
そう呟く柚希の微笑みが、彼女をあの日以来ここに現れた意味を集約していた。
だから、青大もそれ以上は何も言わなかった。恭輔が望んだこと。いや、もしかすれば恭輔が巡り合わせたのだろう。
「ところで青大くん? 青大くんの子……名前なんて言うの?」
この名前を尋ねられ、一瞬逡巡する。
「お前までか」
「え、なぁに? 別に笑わないよ」
「誰が笑えゆうとんじゃ。んー……でもまあ、笑ろォたら承知せんで」
「えー、大丈夫だよ、多分……」
「多分ゆーな!」
「あはは」
青大はポケットからくしゃくしゃとなった揮毫の書を取り出し、広げて見せた。
「……きよひ?」
その瞬間、青大の狂乱ぶりが凄まじかったのだという。
青大が知る枝葉柚希。そして、風間恭輔が知る、枝葉柚希。
短い月日に、人はどう進化してゆくのだろうと思ったとき、青大の心の中に、ひとつの確信を得た。
それは、清美と出逢い、今こうして彼女と共に生涯を過ごすことを誓う、通過儀礼の日を迎えるために、その軌跡の中にあった、ひとつの思い出。
良く言う。男は想い出を美化し、女は想い出を忘却する。
多分、枝葉柚希もそうなのだろう。青大と過ごし、風間恭輔と交際を経て今――――、青大の目前で屈託無く笑う柚希は、様々な経験を得て青大や恭輔とのことを“昇華”したのである、と。
ウェディング・ドレス。
青大は清美にどうしても着せたかった。
人生のイニシエーションという意味ではない、女性としての喜びや夢を叶えさせたい、という殊勝な意味でもない。青大は尊とかつてこう語ったことがある。
尊『ウェディングドレスは男の夢やで』
青大『何がじゃ』
尊『ええか青大。あの純白絹で誂われたドレスは世の女達が、一生に一度は着てみたいと思う礼装じゃ。それはええ。それ以上に、男にとっては、ドリームじゃ、パラダイスじゃ』
青大『キモいぞ尊。はっきり言うたれや』
尊『わからんか青大ォ。あのうぇでぃんぐどれすをなぁ……』
皆まで言う前に青大は制裁を下した。えげつなき後半の主義主張は却下だが、前半の言葉は、普通に賛意を示す。
そして、それは恋愛を深化させし男女の、たどり着く夢の先。
神父の宣言、誓いの口づけ。そして、フラワーシャワーに、ブーケトス。
清美が蒼穹に投げ上げたブーケを受け取ったのが誰だったのかは、敢えて言及しないでおこう。
『桐島ッ!』
結婚式の主役はあくまで、美しく着飾った新婦。
青大は一歩引いて祝福を受けていた。多くの知己の祝福を受けているうちに、ふと周囲の歓声がフェイドアウトし、聞き慣れし軽佻の声がエコーがかって聞こえてきた。
「風間」
青大の眼前に、してやったりという表情を浮かべた親友が立っていた。
『おめでとう、かな』
「“かな”は要らんわ。喜んでくれんなら素直に言え」
『ははは、御目出糖』
恭輔はややニヒルに笑っていた。
「見ろ、お前からの一方的な約束、果たしてやるんじゃ、感謝せぇや」
『おーう。やっぱ、お前は俺の思った通りの奴だぜ。お前ならば、絶対に“約束”守ってくれるって信じてたからな』
「本当かよ」
青大が呆れたように溜息をつくと、恭輔はふっと笑い、徐に青大の肩に腕を廻してくる。
『――――あの日も、こんな空だったな……』
青大の耳元で、しみじみと呟く。
『正直、お前が清美を選んでくれるって、思わなかったからよ』
「何じゃ、お前信用ねぇなぁ」
『あの時はぶっちゃけ、お前のこと試したんだわ。まあ、結果的には瓢箪から駒――――って訳だわな』
そう言って青大の肩を揺さぶりながら笑う。
「おい…………」
眉を顰める青大に、恭輔はしんみりとした声で言う。
『ダメ元なんかじゃねえ。確かに大博打だったかもしれねえが、清美のことお前に任せたいって思いは本物だった。柚希のことも……俺はお前に対して、好い加減なことを言ったことはなかったぜ』
「…………ああ、解っとるわ――――」
恭輔が示した決意の日に見上げた時と同じ空の色、流れてゆく雲。どれもあの時と同じ光景に映る。
多分、それは本当に刹那の時間だったのだろう。青大と恭輔。空を見つめながら、短くも思いの大きかった日々を懐古していた。そして…
『桐島』
「ん?」
恭輔が呼び、指さす方に視線を向けると、両親や尊・月ら幼なじみたちが青大のことを呼ぶ為種。
『行けよ、桐島』
「風間――――」
顎で促す恭輔に青大は途惑う。
『お前も、清美も、そして柚希も……もうお前らみんな大丈夫だ。はーあ! これでやーっと安心したぜ』
そう呟く恭輔は、思いの丈を果たした。そんな清々しい表情を浮かべていた。
『御役御免――――ってカンジかな。肩の荷降りたっつーかさ』
「なに言ってんだよ」
冗談として受け流そうとする青大に、恭輔はニヒルながらも清澄な微笑みを向けて言った。
『桐島。ホント楽しかったぜ――――お前と出会ってから、こうなってからもずっと……俺もきっと、何かが変わったんだと思う』
「ほんま何言ぅてんじゃ。だってお前はもう……」
『俺はさ、俺自身の決断を後悔しちゃいない。だから俺も、お前も、清美も明日香も……柚希も、みんな前に進んで来られたんじゃねえか』
「…………」
『俺とお前らは、あの時から少し進む道が違ったってだけさ。……まぁ俺はもう、そっちには行けねえけどな。あははっ』
「全く。あはは、じゃねぇわ。……ハハッ、はっきり言うなや。なあに、いずれ俺も……」
すると恭輔が哄笑する。
『バーカ。何十年も先のこと言っても説得力ねーよ。……でも、まあ。その時に備えて、たくさん土産話でも作っといてくれ。その時が来たら、お前とあっちでサシで語ろうや』
「ああ……あぁ!」
『最後にマジで、改めて頼むわ。……清美(あいつ)のこと、幸せにしてやってくれ』
「……ああ、お前に頼まれんでも分かっとるわ」
軽く突き放す青大に、恭輔は満面の笑顔を見せていた。
『じゃあな、青大――――。また、いつか!』
そう言って、恭輔はゆっくりと背中を向けた。青大が眺望する滲む視界にひとつ瞬きをすると、既に彼は光茫の彼方へと消えていたのである。
「じゃあな……か。また明日――――みたいじゃな……」
そう呟く青大の顔もまた、清澄とした色に染まっていた。
……と……ると――――――――青大?
「んっ!? あ……」
フェイドインした意識。不思議そうに青大の横顔を覗き込む清美が、そっと指を伸ばした。
「涙の痕……」
青大の頬をなぞると、青大は清澄とした表情で微笑んだ。
「一瞬、思い出に耽込んどったわ。でも、もう大丈夫じゃ」
青大がそう言ってそっと清美の手を握りしめる。
「青大って時々、あっちの世界に行っちゃうことあるって、由良君から聞いてるけど、本当だったのねぇ。へえー」
唇を尖らかせて揶揄する清美。
「あ、アノ野郎……人をヤバい奴呼ばわりしやがって……!」
尊を非難する青大。幼なじみ同士の掛け合いに清美は笑う。
人はそれを特別な日だという。偶然に出逢い、または往来で擦れ違い、人伝に邂逅する。運命的な出逢いだと、大仰に語る者もいる。
だが、良く考えてみれば、そんな運命的な出逢いも月並みな色の中で織り成す、人の生き様だ。
華々しい結婚式も、終われば寥然とした日常に戻る。それまで1人だったのが、連れ合いを傍らに始まる、果てしなき日々。それが、当たり前になり、やがて空気のようになってゆくのだろうか。
月、尊、七海、明日香、夏越、紫歩、柚希……帰路につく来賓たちと握手や会話を交わしてゆく清美の横顔に目を配した青大の脳裏に、ふと過ぎった。
(まだまだ、清美の知らんことあるけど、これから毎日、少しずつ知ってゆくことになるんじゃろうなあ)
長年、互いを知っていた恭輔が、清美の告白に愕然となったときのように、それでもまだ知りうぬ秘めたる部分があるのだろう。
出会ってから、恋人になった。時間は短かった。それから寄り添い、支えあってきた。それでもまだ、青大にとって月や尊ら広島の幼なじみ、清美にとっての恭輔、明日香。それぞれが過ごしてきた時間に遠く及ばない。だからこそ、楽しみがある。二人それぞれが過ごしてきた日々と人々の時間の先にある、未知なる世界。
「青大。それじゃ、行ってくるわね」
清美がサラッと言う。
「んん?」
「もー、だから、これから月ちゃんと七海ちゃん、それに明日香ちゃんや柚希ちゃんたちと二次会の女子会!」
「お、おお!」
「青大も由良君や市原さんたちと“男子会”なんでしょ?」
「ああ、そうだったわ。色々あって忘れとったわ」
「もう、結婚初日からこうなんだもの……しっかりしてね“だんな様”ふふふっ」
そう茶化すと、清美は軽く手を振り、長い髪を棚引かせながら遠くで手招きしている女子達に向かって駆けていった。
清美(きみ)と出逢うためここまで彷徨ってきたと
今は思えるから、二人の想いよ繋がれ
そして大きくなれ
まだ知らない君の全てを、時を掛けて知ろうと思う
ともに白髪となるまで……なんて格好づけはしない
昨日を、明日を、そして今この瞬間のひとつひとつを
確かに、君の温もりを感じながら生きてゆこう
それまで、ずっと気張り続けてきた青大が、ゆっくりと時の流れに身を委ねてゆく。新しき世界、新しき時間。新たに紡ぐ青大と清美、子供たちの歴史。
それは清美、そして清陽とともに過ごしてゆく永い日々の中で得られていった、かけがえのないものである。