ACT1
日曜日
「んん――――ぅ……」
 カーテンの隙間から差し込む朝の日差しと、心地よい雀のさえずりに、夢が優しく覚めてゆく。

 シャー………

 カーテンを開くと、眩いばかりの青空と、真っ白な光が一瞬にして薄暗い部屋に溶けてゆき、全身を包み込む。
「いい天気……」
 窓を開け、新鮮な朝の空気を胸一杯に吸い込む。
 乱堂が事故で亡くなったという報せを受けてから一年が過ぎた頃、ようやく彼女――――栗見理奈の心は、ひとつのショックから癒されようとしていた。
「ふぅ……」
 息をつき、何げに小さくガッツポーズをしてみる。何となく、心が躍る日曜日の朝だった。

 こんこん・・・・・・

「あ、はーいっ」
 足取り軽く、ノックされた部屋のドアを開ける。
「オハヨ」
 そこに立つ、『理奈』がはにかみながらそう言った。

「あ――――おはよう……お姉ちゃん―――――」

 一年という、長くも短い時間を経て、家出をしたまま行方不明になっていた“双子の姉・由奈”は帰ってきた。
 そして、その由奈が実は、事故死したはずの乱堂であると言うことを、理奈はもとより、誰ひとりとして知る由がない。
 そう……。理奈や両親たちは、純粋に姉が帰ってきたことを歓喜し、『由奈』のことを受け容れてくれた。
 成り行きであるとはいえ、彼も『栗見由奈』として生活してゆく決意をしたばかり。

 本物の栗見由奈が見つかるまで――――。
 そして……、本当の自分を取り戻すため――――。

「今日の約束なんだけど……」
「あ、うん。お姉ちゃん、大丈夫?」
「理奈さえよければね。いつでもオッケー」
 大きな瞳をウインクさせて、軽くブイサインを理奈に向ける由奈。
「ねえ、お姉ちゃん」
「ん? 何」
 理奈は何か思いを秘めるように一つ息を吸うとにこりと微笑みを向けた。
「今日、晴れて良かったね」

 由奈が失踪して以来、理奈の心には一抹の喪失感があった。
 それは彼女の心の奥底で小さな、小さな残り火のようにくすぶり続け、常に何かにあくせくしていた。
 こんなに清々しく、美しい光溢れる日曜日の朝どころか、決して同じ形に成さず、そして、決して同じ色に彩られることのない、青空を流れる雲すら、理奈は見ることがなくなってしまっていた。

『心からの笑顔――――』

 由奈が戻ってきてくれたことが、理奈の中で多分、その意味を思い出すきっかけになっていたに違いがなかった。
「行って来まーすっ!」
「いってきまーすっ!」
 彼もようやく慣れてきた。
 理奈と言葉がはもる。双子らしい美しい響きすら感じられた。
 決して柔道部主将・乱堂の時のように過酷な訓練を重ねたわけではない。最低限の気遣いと、身体的失態に注意する以外は、ありのままで栗見家の長女として生活していた。
 人間って、時にその状況に対して不思議な適応力があるもんだ。
 彼は無意識なりに、自分が『女』として、そして『栗見由奈』として生活できていることを感心している。
「お・ね・え・ちゃんっ!」
 ひしと理奈が腕を組んでくる。
「り、理奈……」
 苦笑いを向ける由奈に、理奈の屈託のない笑顔が眩しく映る。
 端から見れば異様とすら映るだろう、仲睦まじい双子の姉妹。
「は……恥ずかしいなぁ」
 顔を赤らめる由奈。
 彼にとって、理奈はずっと想いを寄せていた少女である。
 いかに理奈が姉を慕っている証であるとはいえ、こればかりは何度されても慣れることがない。
「さって……今日はどこに行く?」
 木洩れ陽が眩しい並木道を歩きながら、由奈が呟く。
「んん……どうしよっか……」
 あてもない約束だった。

(今度の日曜日、お姉ちゃんヒマ?)
(え……うん。特に予定はないけど)
(よかったぁ――――じゃあ…………)

 それはごく普通の、ありきたりな姉妹の会話だった。
 そして、行く先の決めていない日曜日。ただ何となく、理奈は由奈と、由奈は理奈と歩いてみたかった。
 家からさほど離れていない河川敷公園。
 小川のせせらぎ、遙かに高い夏の空の下で水辺にはしゃぐ子供たち。
「夏だよねー」
 エゾゼミの声がけたたましく、北の短い夏を奏でつづける。カツラの樹下のベンチに腰掛け、キラキラと輝く木洩れ陽に汗ばみながら、理奈はしみじみとそう呟いた。
「今年の夏は――――長くなるのかなぁ」
「理奈……?」
 ふっと、寂しげな表情を浮かべる理奈。
「お姉ちゃんがこうして帰ってきてくれたのに――――なんか……」
 理奈が見上げる空は、どこまでも高く突き抜けていた。
 彼にとっても、『栗見由奈』として見上げるその蒼き高みが、自然と素直に、綺麗だと感じることが出来ていた。
「どうしたの、理奈?」
「うん……」
 わずかに熱気を帯びた風が吹き抜けてゆく。子供たちの無邪気な歓声が和やかな空気へと変え、辺りを包み込む。
「乱堂……せんぱい……」
 セミが一際かん高く鳴き、息を休めた。由奈が思わず動きを止めて理奈を見つめる。
「…………」
 幾層にも積み重なる夏の雲に、理奈は何を思い寄せているのだろうか。

「いないん……だよね……もう……」

 痛いほど哀しげに微笑む理奈。
 そして不意に呟いた彼女のその言葉に、由奈は噴き出すように、言葉もない程の慙愧の念に駆られた。
 名乗りたくても名乗れないもどかしさ。もう、ある程度の暮らしになれていたと思っていた、自分の状況、そして理奈の気持。

『乱堂先輩のこと、好きだったの――――』

『俺がずっと、君のお姉ちゃんでいるよ』

 理奈の吐露、そして、由奈として生きてゆく彼の優しき決意。

(近くて、遠い存在――――それもいいか)

 彼は違う意味でたかをくくっていた。
 当たり前のことだが、本物の栗見由奈と比べれば明らかすぎるほどに理奈と共に過ごす時間は少ない。今までの時、理奈の素顔に触れた彼は、それでも理奈の心を理解していたつもりでいた。
「あはは……」
 透き通る青の高み。理奈の心に優しく、哀しいほどに広がってゆく。
「理奈――――乱堂さんのこと……まだ?」
 心持ち臆しながら由奈が訊ねると、理奈はすうっと胸一杯に大気を吸い込み、わずかに震えながらそれを吐いた。
 そして、間を置き由奈を向くと、小さく、本当に小さく首を振った。

「う……うん……」

 曖昧な理奈の反応だけが心残りに、そして、耳を劈くような蝉の声、河に戯れる子供たちの喧噪に、時はなおもゆっくりと流れる、日曜日の昼下がり。
 由奈は理奈の表情を見つめていた。いつもと変わらないはずの“愛しい人”
 姉に向けているものとはいえ、その気だての良さと優しさは、乱堂政という自分すら忘れさせてしまう瞬間(とき)がある。
「あはっ、ねえお姉ちゃん、見てみて、あの子――――」
 由奈がいなくなり、まがりなりにも、引き替えるように乱堂政までも失った理奈。
 この微笑みの奥に秘められた哀しみは、きっと計り知れないものがあるのだろうと、日を重ねるごとに、彼の思いは強くなっていた。

「ねえ……理奈?」
「? ……なあに、お姉ちゃん」
 少し離れた陸橋のアスファルトに熱せられた空気が、二人を撫でていった。
「もし……もしね?」
「うん……」
 言いかけて、由奈は一瞬、戸惑った。そして、その戸惑いが、言葉の続きを完全にシャットアウトしてしまっていた。
「ゴメン……なんでもない」
 胸に秘めた言葉の代役は、あまりにもお約束な言葉。
「えー……気になるよお」
 由奈は笑ってごまかした。他愛もない冗談、そのはずだった。

 時はゆっくりと流れてゆく。
 やがて、雑談もネタが尽き、いよいよ話すことも無くなってきたと思ったその時だった。
「お姉ちゃん……」
 不意に理奈が口を開く。振り向いた由奈は愕然となった。
「理奈――――!?」
 顔は優しく微笑んでいるのに、涙だけがぽろぽろとこぼれ落ち、彼女の小さな膝を濡らしている。

「ねえお姉ちゃん――――
 逢いたいよ……

 私……逢いたいよ……
 あの人に…………らん……

 乱堂…………せんぱいに……」

 何かが、彼女の心を素直にさせていたのだろう。
 今まで我慢してきた想い。
 姉の帰還と同時に失った、理奈の大切な存在。
 それはきっと、姉が家を飛び出していった時以上に、理奈の心を痛めたに違いがない。
 傷を隠しながら、家族や友人の前では決して涙を見せることの無かった健気さ。
「理奈…………あなた、やっぱり……」
 由奈が言いかけると、理奈はそっと肩にもたれてくる。目頭を押し当て、小さく震える。
 由奈の白いTシャツの肩口が、うっすらと濡れてくるのが分かった。
「…………」
 そっと理奈の肩を抱きしめる由奈。それでも、健気な少女は嗚咽を抑えるように顔を伏せている。

『こんなに側にいるのに、名乗れないなんて、残酷すぎるよ……』

 理奈をそっと抱きしめながら、彼はやり場のない怒りにも似た感情を燻らせていた。
 自分をこんな顔にした真鍋を恨むわけではない。まして理奈に寂しい思いをさせる要因になった、本物の栗見由奈を恨むのは筋違いだろう。
 どこまでも高い夏の青空。美しくも、残酷なまでに、理奈という優しい少女の心を素直にさせ、澄み切るほどに美しい涙を溢れさせる。
 たおやかでいて、決して枉げることが出来ない、乱堂と理奈に課せられた運命。全ての優しさが、この瞬間だけ、彼にとっては辛く、哀しいもののように思えた。
「…………そうだ――――」
 やがて、由奈はそっと理奈の肩を離し、顔を向かい合わせた。
「?」
 わずかに赤くなった瞳で由奈の瞳を見つめ、なおも微笑みを忘れない理奈は、もはや健気を越して痛々しいほどだった。
「ねえ理奈、来週の日曜日は、ヒマ?」
「え…………? うーん……」
 一瞬、驚いたように目を丸くする理奈だったが、しばらく考えた後、にこりと笑って頷いた。
「うん、大丈夫よ。でも……どうしたの?」
「ううん、良かった。じゃあ、空けておいてね」
「お、お姉ちゃん?」
「ねえ、理奈。ノド渇かない?」
 はぐらかすように話を逸らす由奈。
「え、あ……う、うん。そだね、どこかでお茶飲んでいこー」
 灼けるような陽射しに目を細め、再び他愛のない会話を重ねてゆくうちに、理奈は自然と、いつもの彼女に戻っていた。

「ふーん……そうか――――」
 事故から奇跡的に生還した乱堂を、栗見理奈の顔に整形してしまった医師・真鍋が半ば無精に彼の話を聞いていた。
「そうか……って、マジメに聞いてんのかよテメェ!」
 由奈が真鍋のワイシャツの襟を掴む。しかし、真鍋はいつものように動じはしなかった。
「どうしたんだい、乱堂クン」
「あぁ――――」
 いつも痛めつけられる時に彼が放っている、どこか清々しいほどの怒気が、今の彼には感じられなかったのだ。
「なぁ、真鍋……オメェの腕を見込んでひとつ頼みがある。聞いてはくれねぇか」
 口調は素に戻るが、憂いをたたえて俯く由奈の横顔は一言で言い表せないほど可愛く見えた。
 彼の心境をよそに、真鍋が自らの腕を賞讃出来る瞬間の一つだ。
「君が決意して性転換をすると言うのならば、僕は例えリオの街にいたとしても、駆けつけるけどね」
 いつもならば、延髄蹴りの一つでも見舞わせる真鍋の口癖にも、今日ばかりは、彼自身神妙だった。
「……そんなんじゃねェよ……」
「乱堂……クン?」
「それじゃ…………意味がねェんだよ……」
 どこか空虚の彼方を見つめる由奈の呟きに、真鍋はいつものような切り返しを放つことは出来なかった。
「…………」
 そして、しばらくの間、真鍋は彼の表情を見遣った。
 やがて、不意に顔を上げた由奈が、真鍋を一点に睨むと、つかつかと真鍋の前に立ちはだかる。
 そして、ひとつ深く息を吸い込むと、上体がほぼ真横になるほどに、深々と頭を下げたのだ。

「男・乱堂政、一生に三度とねぇ願いの一つだ――――。
 真鍋――――どうしても、あんたじゃなきゃ、頼めねぇ……」

「…………」
 ちくちくと、時計の秒針だけが響く診察室。無言のままゆっくりと時が過ぎてゆく。
 その中で、由奈はじっと、そのままの体勢でいた。
 何かを堪えるような彼の息づかいが、真鍋の耳に生々しく聞こえる。
 そんな彼のひたむきな意思を感じ取ったのか、真鍋の意思が固まったのは、それから十数分後のことだった。
「……わかった。そこまで言うなら、他ならない乱堂クンの頼み。今回は特別、貸し一つと言うことで、無料で聞いてあげようじゃないか」
 すっと、真鍋の手のひらが由奈の頬に触れる。
 瞬間、ぴくりと緊張する由奈。美しく大きな瞳が、頬に触れている真鍋の手に向く
「…………?」
「うーん……いい。やはり僕の整形技術は世界に冠たるに相応しい……」
 などと言いながら、さり気に由奈のあごに手を掛け、持ち上げようとする。
「…………#」
 真鍋の手のひらに顎を乗せながら、由奈の瞳はいつものような炎が立つ。
「ま、な、べ、ぇ……!」
 華奢な膝に置かれた由奈の拳がぷるぷると震える。
『ああ……お約束……
 でも、君はそれが一番いい……
 君らしさを失っちゃぁ……』
 いつもより大人しげに由奈にいたぶられながら、真鍋はそう思っていた。
To be Continued...

Act.1
featuring DEEN/日曜日
Words,Music/Shuichi Ikemori