明日の行方を
探しに行こう
この世界で君がいて
僕は生まれた……
その日から、いつもと変わらない理奈に触れるたびに、由奈の心は少しずつ『良心の呵責』にさいなまれる。
(オレは結局、栗見由奈じゃないんだ……。
本物の理奈ちゃんの姉さんには、なれないんだよ……)
『乱堂せんぱいに逢いたい……』
遙か天界にある故人に逢いたいなどと哀しむ理奈の表情は、彼女の素直な気持ちを表していた。
しかし、同時にそれが、彼にとって心を苦しめることになった。
乱堂(自分)として暮らしていた頃は、思いもしなかった、他人を思いやる気持。
それが、いかに自分が好きな娘のことであるとはいえ、思いやりに心を痛めたことはなかった。
「理奈、ちょっと出かけてくるね」
スニーカーの靴ひもを結びながら、彼は何気に自分の身体を一瞥した。
空手で脂肪を取り、そのままやせた身体。
それが幸と出たのか、Tシャツの袖からほっそりと伸びた腕。
ショートパンツから、すらりと美しい線を描いた細い脚は、本物の女の子どころか、なまじ素人モデルにさえ引けを取らない程だ。
約束の日曜日まであと三日。天気予報では日曜日まで晴天が続くらしい。今日もまた、朝から暑い。
「はぁ――――」
取りわけ、何をするというわけではない。ただ少しばかり、理奈から離れていたかった。
気のせいだろうか、ジリジリと照りつける陽射しに汗ばみながらも、日陰に差し掛かると、心なしかいく分過ごしやすくなってきた気がする。
(秋が目を覚ましはじめた……)などと柄にもないことを思うと苦笑してしまう。
どこまでも高い霄(おおぞら)の彼方の青が、秋の澄み切った空へと、その姿を移す始まり。
通りの木陰のベンチに腰を下ろした由奈は、そっと天を見上げた。
するとそこに、悠然と雲間に翼を広げる鳥が見えた。
何のしがらみもない、自由な大気を君だけの世界にして、まるで、小さな檻に閉じこめられているかのような顔をしている由奈を見下ろすように、大きな円を描いている。
「……オレも……せめてあいつのようになれたらな――――」
高天の覇者に想いを寄せながら、両膝に肘をつき、合わせた手のひらに細い顎を乗せ、ため息をつく由奈。
らしくない……。
彼は心の中で、自分をそう罵っていた。
愛しい理奈をすぐ側で見守ってあげられる立場に、彼は満足ゆえの不安にかき立てられる。
理奈が時々に見せる悲しみが、何よりも強く、苦しいほどに伝わってくるからだった。
「あれ? ……由奈じゃない?」
不意に由奈の真横から聞き慣れた声が聞こえた。
「……? あ――――」
声のした方にゆっくりと振り向くと、そこには、由奈と理奈の親友、クラスメイトの赤井美都里が、きょとんとした顔で彼を見ていた。
「美都里――――ちゃん」
由奈が不意に美都里の横に目を配ると、遠慮気味に一歩退いた、見知った少年。
「あ……渡辺――――くん?」
その呟きに、少年は笑みを浮かべて、左手を軽く挙げて挨拶した。
彼はクラスメイトの渡辺裕介。
取り分け美男子という訳ではなくて、早々目立つ感じでもないが、嫌味のないさっぱりとした性格で、由奈となってから、友人付き合いをしている。
(乱堂の時だったら、真っ先にオレのパシリ隊だぜ)
「どうしたの? 珍しい組み合わせだね」
由奈が揶揄すると、美都里も裕介も一笑する。
「ちょっと由奈ァ、誤解しないでよっ。たまたまそこで会ったから、話していただけだって、ね、ユースケ」
美都里が裕介に振ると、裕介は興味なさげにウンウンと頷く。
「ホント。大体、ユースケなんかじゃ物足りないんだからー」
美都里がいやいやしげにそう言うと、裕介は呆れたように即答する。
「ああ、さいですかー。なんつっても、あなたは成華高イチのコレで、ウツクシイ赤井チャンですもんねー」
と、自分の胸元でアーチを描く裕介。
「あぁ、ちょっとソレってイヤミぃ?」
「ご想像におまかせだよ」
由奈を見かけるまで、この調子だったのかと思うと、意外とお似合いじゃないかと邪推してしまう。
だから、思わず笑ってしまった。
「何がおかしいのよォ、由奈」
頬を膨らませる美都里。
「あ、ううんゴメン。……なんかちょっと面白かったからつい……」
「ん……ところで由奈、アンタこそどうしたの、こんなところで。理奈は?」
由奈が神妙な顔をして一人ぼうっと通りのベンチに腰掛けているのを、美都里が不思議に思わないはずがない。
「うん……ちょっとね、考え事……かな」
そう言いながら小さく笑う由奈。
「……今にも首くくってしまいそうな顔してたけどなぁ……ユーナ」
そう言って苦笑いを浮かべ、首を絞める仕草を見せる裕介。
彼は理奈のことは『栗見』と名字で呼ぶが、由奈のことは名前を取って『ユーナ』と呼ぶ。
理奈と区別するためにそう呼ぶんだと由奈は思っていた。
「ちょっとユースケ! 冗談でも……」
美都里が小さく怒ると、裕介は舌を覗かせて笑った。
「…………」
そんな裕介に、彼は不思議と嫌悪感みたいな感情は抱かなかった。
『こいつには、何でも話せる気がする……』
それは好意と言うには烏滸がましい、同性の友人という意味。
「何だよ、そんなにじっと見るなって」
急に頬を赤らめて目を背ける裕介。
「え……あっ――――」
慌てて由奈も目を背けた。
どうやら、そのつぶらな瞳で、じっと裕介のことを見つめていたらしい。うっすらと頬が染まり、わずかに潤んだ感じの瞳が揺れる。
「ご、ごめん……なさい……」
端から見れば愛らしくさえ見える、由奈の照れ仕草。
「なぁに赤くなってんの由奈ァ?」
何故か揶揄するように由奈に顔を近づける美都里。
「えっ――――何って……」
きょとんとする由奈と裕介を交互に見回す美都里。そして
「そっか。ふーん……」
にやりと白い歯を覗かせて嗤う美都里。
そして、おもむろにポケットから携帯電話を取り出すと、液晶画面をのぞき込む。
「あ、やばっ。……恵子から催促が来てる。急がないと。じゃあね由奈! ユースケも、由奈に変なことしちゃダメよ」
棒読みのセリフのごとく、そう声を張り上げると、携帯を握りしめる手をぶんぶんと振りながら、長い脚を大きく躍らせて去っていってしまった。
「あはははっ、赤井のやつ見え見えなんだよなー」
呆れたように笑い、頭を掻く裕介。
そして、若干の沈黙の後、由奈が声を上げた。
「……ね、ねえ渡辺くん?」
「ん?」
どこかぎこちない口調で裕介を呼ぶ由奈。
「ちょ、ちょっとわ……私にカオ……んんっ、つ、つき合ってくれないかなぁ?」
男に対しての女言葉は言い慣れない。
木ノ下たちには半ば本性を出せるが、他はそうはいかない。
「ん、ああ。何か相談事?」
「……ま、まぁ……ね」
ポリポリと頭を掻いて苦笑する裕介。
「恋愛相談以外なら受け付けますゥ」
「はぁ?」
目を丸くする由奈。
「あはははっ、冗談だよ。んー……どうせ予定もないし、いいよ。俺で良かったら、ちょっとそこら辺でも歩くかー?」
と言いながら、親指で歩道の先を指す。
決して嫌味のない裕介の笑顔が何故か眩しく感じた瞬間だった。
(俺……乱堂の時、こんな笑顔だったのかな……)
「ほらっ」
自販機の取り出し口から、良く冷えた缶コーヒーを取り、由奈に放り投げる。素早くキャッチする由奈。
「あ、ありがとう……」
何故かじっとラベルを見つめる由奈。
「あぢぃな」
ぷしゅっと炭酸の吹く音を上げて、裕介はコーラをぐびぐびと喉を鳴らして飲む。
「ぷっはぁあ―――――! うめぇ」
炭酸のげっぷを惜しげもなく漏らして笑う裕介を見ているうちに、由奈の喉の渇きにいっそう拍車が掛かった。
耐えきれずに自分も缶コーヒーを一気に呷る。
ほろ苦い甘さが、熱く渇いた身体を冷まし、潤すように食道を伝ってゆく。じわりと滲んできた汗が引くのが分かった。
「かはぁ――――うめえ!」
あまりの美味しさに、由奈は思わず地が出てしまっていた。
「あ……いや……」
慌てて言い直そうと慌てる由奈。しかし、裕介は気にする風でもなく、自然に微笑みを向けていた。
「その方が『らしい』よ、ユーナは」
その言葉に、思わず裕介を見る由奈。
彼は空になったコーラの缶を意味もなく弄び、くしゃりと握りつぶすと、どこまでも高い夏の空に、それをかざす。缶に浮かんだ汗が陽射しにきらめき、即興のプリズムを創る。
「ほいっ」
投球フォームで潰れた缶を振りかざし、放り投げた。
放物線を描いて、ゴミ箱に収まる缶。カランという乾いた音が夏の空に吸い込まれてゆく。
「ストライック! あははっ」
清々しいほどの笑顔だ。
「ユーナもやってみなよ。面白いぞ」
何が面白いのか由奈は首を傾げていたが、あまりにも楽しそうな感じの裕介にほだされて、空になったコーヒーの缶をじっと見つめた。
「よーーーーし……」
腕を振り上げて狙いを定める。
そして、陽射しにきらめいた空き缶は、裕介と同じ形の放物線を描いて吸い込まれていった。
「あっ……や、やった!」
由奈は思わず躍り出してしまいそうになった。
嬉々とした表情で裕介を見ると、彼は優しさを湛えた眼差しで、静かに天空を見つめていた。
「……渡辺……くん?」
不思議そうに呼びかけ、彼と同じ視線を向ける。
高天の覇者は、今も悠然と、美しいほどに巨大な輪を描いている。
「ふー……あっぢぃよなぁ」
不意に裕介がそう呟く。
「へ? あ、ああ……」
雰囲気とかけ離れた言葉に、思わず唖然となる由奈。
「でもさ、なんか……すげえ気持ちいいんだよな――――」
そう言って笑う。こいつには哀しむなんて言葉あるのかという邪推が、由奈の中に浮かぶ。
「栗見のことか――――?」
「え……?」
いきなり核心をつく一言に由奈は愕然となった。
「な、なんで……?」
勘繰りを入れ、真っ青になる由奈。
「なんでって、普段からお前ら見てれば分かるよ――――」
裕介は呆れたように高笑した。栗見姉妹の仲の良さは、裕介ならずとも仄聞されている。
ゆえにこの二人が何か悩んでいるとするならば、まず始めにお互いに対する事だと思い描くのは至極当然のことだった。
「何だよ、違うってーの? んー……」
苦笑する裕介。
「あ、いや……その……違くはない……」
曖昧な返事をする由奈。
困惑した由奈の表情に、裕介はひとつ大きなため息を浴びせかけ、気を取り直すかのように声を高らめた。
「わかったッ。つまりこういう事だろ?」
「えっ、えっ?」
「要するに、栗見が好きになった人を、ユーナも好きになってしまった。
双子ならではのありがちな話。
妹想いのユーナは、栗見と仲のいい赤井や佐野にそれを相談することも出来ず……?
取りあえず丁度居合わせた俺に愚痴を聞いてもらいたい――――と」
明らかに裕介は茶化そうとしていたに違いない。
だが、皮肉にも彼の揶揄は必ずしも全面否定出来るわけでもなかった。
「…………」
意外に手応えのない由奈に、裕介は肩すかしを喰らった感じを受けた。
「え……マジ……?」
すると由奈は寂しげに微笑んで首を振る。
「似てるようで、違うかな……」
「何だよそれ」
ふわりと浮き上がりそうな心。
裕介の言葉や仕草にほぐされたと言えば過言かも知れない。
でも、裕介が笑うと、由奈も自然と微笑みを浮かべることが出来た。
セミがさんざめく緩やかな坂道を伝う。
やがて、街を見下ろす高台に二人は辿り着いた。
どこまでも、どこまでも遠い夏の青空に包まれた理奈と由奈の暮らす街は、眩いばかりの陽射しを受けて、銀色に輝いていた。
「ああ、すげえ……」
思わず素地を出して感嘆する由奈。
「何だよ、初めて来たのかよユーナ」
不思議がる裕介の問いに、由奈はゆっくりと頷いた。
「いい景色だぜ――――」
その呟きに裕介は敢えて答えなかった。
北の国に訪れた、短い夏に包まれた街に見入る彼をしばらく見守ろうという、裕介なりの気遣いだったのかも知れない。
「なぁ、渡辺……くん」
セミのざわめきが一瞬途切れた間を縫って、由奈が声を上げた。裕介は意識を由奈に傾ける。
「もしも、自分の大事なヒトが……
すぐ傍にいるのに……
何もしてあげられない自分がいたら……
どう、思う?」
由奈は上体を動かし、裕介に背中を向けて手摺に寄りかかっていた。彼の眼下に広がる穏やかな街が滲む。
裕介は由奈の様子を察し、わざと素知らぬ振りをして笑った。
「どうだろう――――俺だったら……
そんな自分を恨んでしまうかなぁ……
それとも、いつかきっと……
その人のために何かが出来ると信じて、
ただ前向きに、考えるだけかなぁ……」
裕介は何となく、由奈の言葉から量る意味をこの言葉に代えた。
「何かが……出来る……?」
由奈の声は震えていた。
声だけじゃない、女の子にしては少し広い肩を、小刻みに震わせている。
「ユーナ……おまえ…………」
「それが――――
それがたとえ――――悲しいものでもか?
理奈にとっちゃ……
慰めにもならねえ……
気休めにもなるかわからねぇものでも……
それでも――――?
オレに……何かが出来るのかな……」
すっと、由奈の隣に裕介が歩み寄り、由奈と同じく手摺に寄りかかる。
今の自分を一瞥しようともせず、ただ青い高みを見上げる裕介の気遣いを、由奈は無意識に感じていた。
「栗見は……、何を望んでいるんだろう」
突然の裕介の呟きに、由奈は愕然となった。
「え……?」
眼差しを裕介に向けると、彼はどこか寂しそうに白い雲を見つめていた。
「栗見のために、お前は何をしてあげられるんだろう……
ユーナがユーナらしくなくなるまで、思い悩むなんて……。
栗見は……お前に何をして欲しいんだろうね――――」
由奈は内心、彼の言葉に不快感を覚えた。
まるで、彼の言葉の真意は理奈を貶し、必要以上に“由奈”を気遣っている……そんな風に受け取られたからだった。
「だ……だから、お……わ、私――――」
いささか興奮モードの由奈に、裕介は今度は大笑した。
「な、何だよォ――――」
裕介の笑い声が雲間に吸い込まれてゆく。由奈はわずかに頬を赤らめながらそんな裕介を恨めしげに睨む。
「なぁ、ユーナよぉ。ちょっとだけさ、ハズいこと言いつづけてもいいか?」
「えっ――――な、何?」
きょとんとした表情で裕介を見る由奈。
裕介はひとつ大きく息を吸い込むと、空に高々と積み重なる雲を見つめた。
やがて、一際由奈の髪を揺らす程に、どこかしか初秋の味を含む夏の風が吹き抜けていく。
セミのさんざめく声に乗せて、裕介はゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「街も、空も……
いつも同じ形をしている訳じゃない……。
あの雲だって……
型枠とか、思い込みに囚われて形づいてる訳じゃない。
でも……
どうしてだろうな?
ありのままに見上げてみりゃ、
どんな形だろうと、空は綺麗だって思える……
高台(ここ)から見下ろす街も、なかなかのもんだよ――――」
「あ、ああ……そう、言われてみれば……」
由奈は裕介の言葉に意識して、高台(ここ)から夏の景色を見ていた。
すると、彼の言葉通りの世界が、由奈の中に拓かれてゆくような気がした。
「空も……、この街も……
きっと、ひとつひとつを見れば、
何かが欠けていると思う。
何かが欠けているから、
きっと、それを求め合うように集まって、この風景を描いているんじゃないかなって。
完璧なものは、きっと魅力なんてないと思う。
何かが足りないから……それがその魅力となってるんだなぁ――――」
はにかみながら、裕介はわざとらしく背伸びをする。
「…………」
由奈は何故か彼の言葉に何か引きこまれてゆくような気がした。
「ユーナは、栗見のことが……本当に好きなんだな――――」
「え…………そ、そりゃ……当たり前だろ」
咄嗟に反応する由奈。
「だったらさ――――いいじゃんか」
「え――――?」
由奈が裕介を向くと、彼は満面に微笑みを湛えて由奈を見つめていた。
ただ、純粋に心が癒されるような、裕介の微笑。
「ユーナが今、栗見にしてあげたいって思っていることを、素直にしてあげなよ――――」
裕介はどこかこともなげに言う。
「…………」
由奈はわずかに眉を顰めた。
「それが……だから…………」
上手く言葉が浮かばない。それが、由奈が由奈らしくなかった。
裕介は小さく息をつくと、今度は悲しげに微笑む。
「……ユーナが何かにビビって、立ち止まってるのなら、栗見に吹く風は来ないと思う」
「……?」
「いつも、同じじゃないから……
いつも、風は彷徨っているから……
だから……どんな形で吹いてきても、
優しく、感じることが出来るんじゃないか……」
「渡辺…………」
「栗見が、もしも明日に迷っているとするならば、ユーナ……
お前が……風になるべきだ……」
「…………」
街を見下ろす高台に、また、夏の風が吹き抜ける。秋の迷いを微かにふくんだ、爽やかな碧の風。
見上げる青の高みにそびえる雲は形を変えながら流れてゆく。
裕介の言葉に、由奈自身の小さな悩みすら、その高みに溶けてゆきそうな気がした。
しばらくの沈黙の後、突然裕介が高笑する。
「ハイ、以上終わり!」
照れたように顔を赤くしながら、大きく深呼吸する。
「さぁ――――って、そろそろ戻っか」
先に立って踵を返す裕介。
「な、なぁ……渡辺……くん」
「…………」
由奈の呼びかけに裕介は振り向かない。
「さんきゅ――――」
由奈はそう、小さく呟いた。
「あははっ。でも、ホントにキザだぜ渡辺くん」
由奈は女にうつつを抜かす男が大嫌いだった。
当然、歯の浮くような言葉を羅列して口説こうとする、小早川のようなタイプは生理的に受け付けない。
だが、裕介の言葉はなぜか、素直に彼の心に入ってきた。
「こう見えても、僕は演劇部なので……」
そう言ってはにかむ裕介に、由奈も穏やかに笑っていた。
見慣れた風景、いつもの街並みを望む頃には、空の色も青からオレンジ色に変わりつつあった。
「きょ……今日は本当にありがとう……」
裕介との別れ際、由奈は素直な気持ちでそう言えた。
「別に、大したことは言ってねーよ」
苦笑を浮かべて謙遜する裕介。
「……なぁ、渡辺くん」
「ん?」
「……ひとつだけ……、訊いてもいいか」
由奈はそのつぶらな瞳を真っ直ぐ裕介に向けた。
「ん……どうしたの?」
「どうして、渡辺くんは『私たち』のこと、そんなに――――」
その質問の直後の裕介の表情は、西日の逆光に翳って見えなかった。
わずかの間の後、裕介はにこりと笑いながら言った。
「何か……お前ら見てると、他人のような気がしなくてな――――」
それだけ言うと、裕介は大きく左腕を振り上げて走り去っていった。
「どういう意味だろう……」
由奈は裕介の言葉をしばらく考えてみた。だが、結局、謎は解けなかった。
「お帰りぃお姉ちゃん」
いつもの笑顔で由奈を迎える理奈。
「ただいま……」
由奈が理奈を見る眼差しは変わらない。ただ、心に残るわだかまり、ひとつだけを除けば……。
(お前が、風になるべきだ――――)
裕介の言葉が脳裏に反芻する。
(理奈ちゃんのための、風――――)
「ん? どうしたのお姉ちゃん――――?」
茶碗を持ちながらぼうっと箸を止めていた由奈を不思議そうに見ている理奈。
「あ、あはは、ゴメン。あ、おかわり頂戴」
由奈は慌ててご飯をかき込み、空になった茶碗を理奈に差し出す。にこりと笑顔でそれを受け取り、ご飯をよそる理奈。
そして、風呂場で自分の身体を一通り見回した由奈は、ひとつ大きなため息をつき、瞳を閉じた。
(……理奈ちゃん……
たとえ一時の慰めにもならなくていい
君に少しでも違う風が吹くきっかけになるのなら……俺は……
俺はそれでもいい……
それでも良いから……
……君に、笑っていて欲しいんだ……)
風呂は便利だと思った。
由奈の美しい瞳からこぼれ落ちる雫を、隠してくれる。
シャワーの音が、微かな嗚咽をかき消してくれた。
……泣かないで、ひとり
……僕が、傍にいる
……君の笑顔が、好きだから……
To be Continued...