「会いたいんです!」
芹澤は悲愴とも、この上ない情熱とも取れるような震える声で、そう静かに呟いた。
鬼気迫る形相。悍ましさを感じたじろぐ彼女の友人が持つスマートフォンから、懐かしくも心の真綿に沁み込むような、玲瓏とした声が芹澤の鼓膜に響く。
「芹澤君?」
その瞬間、芹澤の胸底に鬱積していた熱い想いの塊が、堰を切ったように溢れ出す。
「サムスン!! 俺、絶対会いに行くから!!」
声が炎となって、粉雪を溶かす。
「ぷっ……あははははははははっ!」
スマートフォンの音が割れるほど、彼女は放笑していた。何を馬鹿な事を言っているのか、と、芹澤は顔を引きつらせる。
ほんの十数秒だっただろう。それでも、とてつもなく長い時間、そして何物にも代えがたい大切な人の声だった。
「はは…………」
ふっと、笑いが跡切れ、静寂が続いた後、スマートフォンはこう伝えた。
「……うん……」
その答えに、愕然となる彼女の友人。怪訝そうにスマートフォンの画面を見つめ、芹澤を交互に眉を顰めて見回す。一方、芹澤は急に力が抜け、その場にへたり込んだ。積もりかけの雪が溶け、ジーンズを濡らした。
芹澤の顔は酷かった。ボロ糞に殴られたような得も言われぬ形相で、目を腫らし、鼻水まみれで街路灯に浮き上がり、まるで妖怪だった。
「ばんご……番号! 変わってないから!!」
芹澤は舌をかむ勢いでまくし立て、それから何も話せなくなった。返答もないまま、彼女の友人のスマートフォンは切れた
また少し気温が高くなってきたのだろうか。雪はぼた雪に変化し、芹澤の髪に数粒降り積もるだけで、真っ白になってゆく。
数秒の沈黙が続いた後、芹澤がクイと顎を上げ、彼女の友人を睨みつける。
「ひっ!」
悍ましい表情で身じろぐ彼女の友人。
芹澤は口の中に溜まった唾を一息に呑み込むと、地面に両手をついて頭を垂れた。
「ありがとうございます!」
思わず、そう大声を張り上げる芹澤。
「ちょ、ちょっと何してんの、やめてよッ! キモッ!」
通り過ぎてゆく周囲の目を気にするように、彼女の友人が“土下座”をする芹澤を迷惑そうにあしらう。
「あーっ、もう分かったからさ。まずは立ちなって。人目もあるし迷惑なんだけど――――」
その言葉の直後、芹澤はすくっと立ち上がり、得も言われぬ綻ばせた顔つきで目を瞬かせていた。
「えー……あのー……」
困ったという表情で、芹澤と目線を合わせようとしない、彼女の友人。
「どうしたらいいのかなあー……」
「……?」
彼女の友人がばつが悪そうに話し始める。
「なんかよく分かんないけど、アンタとあのコ、一度別れてんでしょ? だからさ、なんて言うか……」
要するに、サムスンの連絡先をそのまま芹澤に教えていいものかどうか迷っている。と言うことだ。
「ああ――――そうですよ、ね……」
かくんと、芹澤は肩を落とす。
電話先で、サムスンは放笑していた。表情は窺えなかったが、あの“うん”という返事は、芹澤の耳に焼き付き、脳裏にその時のサムスンの表情が見えるような気がした。思い過ごしかも知れない。でも、確かに嬉しい時に見せた、少女のような無邪気さ。
でも、確信は持てなかった。自分の電話番号は変わっていない。もしかすると、あの突然の別離から今日のこの時まで、一度でもサムスンの方から電話を掛けてくるかも知れない。なんて都合の良い思い込みがあったわけでは無いが、事実着信も、SNSでのコンタクトも無かったからだ。サムスンは突然の“元彼”の発狂じみた叫びを、若しくは嘲笑していただけなのかも知れない。
浮かれていた熱い気持ちが、寒風吹き荒ぶ空の下に放り出され、一気に凍えるような気分になる。
唖然呆然と口を半開きにして青ざめる芹澤の様子に、彼女の友人はますますどん引きながらも放っておくことが忍びなかったのだろう。スマフォと芹澤を交互に見回すこと数回。思いついたように表情を晴らす。
「あ、そうだ。ねえアンタ、いい考えがあるんだけど」
「?」
「あのコの連絡先は私からはさすがに教えられないけど、アンタがどうしてもって言うなら、私が仲介してあげても良いわよ?」
「え、ほ……本当ですか!?」
「アンタからの連絡、あのコに取り次いであげるわ。勿論、あんまり酷いのは断るけど」
「あ、ありがとうございます!」
再び平伏しそうな勢いの芹澤。彼女の友人は慌てて芹澤の腕を摑んで止めた。
「はい、これが私の番号。悪戯したら容赦しないから。あ、あと探偵事務所なんてもっての外!」
警告を忘れず、メモ帳に記された彼女の友人の電話番号。電話でも、ショートメールでも良いとのことだった。彼女の友人の独断で伝えないかも知れないというリスクはあったが、その懸念を察知したのか、そんな意地悪なことはしない。と更に念を押してから、彼女の友人は芹澤を残し颯然と帰路に戻った。
旧友との邂逅で、芹澤の軌跡が語られた。周りは進んで行く。取り残されない、取り残されたくない。ただその見栄と体裁だけを盾にして、かけがえのない女性たちを失ってきた。
走馬燈なんてよく表現するが、見られるものじゃない。古疵を抉るだけの、グラインダーだ。
しかもそれが瞭然とした記憶の視野を甦らせると、きたものだ。だがせめて、名前を敢えて出す事もないと思った。
皆、収斂して行く。麻のように乱れ、先行きが見通せなかった芹澤の世界の双曲線上に、ふと重なった彼女たちは、きっとそこから再び大きく飛躍し、きっと人並みの“幸福”を摑んで行くのだろうか。
このままで、友達たちが人生を駆け抜けて行くのをただ見ているだけの生き様で良いのか。
「恋愛なんて、俺には向かないのかもな……」
この蔓延するカルチュアの海の何処かで、ひとつ聞いたことがあるようなフレーズ。恋を弾くことが、クールだった。別離は俺から切り出した。そうやって、皆、俺は女性の気持ちじゃ無く、自分の心に甘えてきた。
結局は、自分の殻に閉じ籠もっていた方が傷つかないんだよ……。
なんていう仮寝だったのか。泡沫の夢を見た彼女たちが昇華して行く事を風の便りで聞く程度だった。それが、芹澤の深層心理の奥底に、焦りなのか、それともひとつの達観として変化したのだろうか。
夏――――晩夏、あれは九月の残暑の候に思えた。窓辺に干したハンガーが吹いてくる乾いた風に、擦れ合い、鳴る。
ふと、瞼が上がると芹澤は柔らかい膝枕に頭が乗っていた。白いティーシャツに、白のスキニー。アーバンチックなサムスンのために、これでも頑張って見た目だけでも彼女に合うように努力したつもりの部屋。
ああ、でもボロアパートじゃ、不釣合いな……。
古疵を抉ったグラインダーは、錆びた感情をそぎ落としてくれたのだ。キラキラになった胸中に見えたのは、そんな何気ないボロアパートで決して華美ではないが、互いに瞳が合えば照れくさそうに、それでも愛おしく笑い合った、芹澤と、サムスンの未来予想図だったのだ。
昨日までの俺だったら、どうだった……?
逢いたい気持ちを圧し殺して諦めていたか?
伝を頼ってでも、無様な未練をさらけ出してもサムスンとの繋がりを再び求められたか?
また、彷徨って不毛な別の恋愛を追いかけ続けていただろうか。
今の芹澤に、逃げるという選択肢はあり得なかった。“あの娘”にも背中を押された。ただただ、感謝に尽きる。
“声が聴けて、素直に嬉しい。いっぱい、いっぱい話したいことがあるんだ”
駅改札口。芹澤は早速、彼女の友人宛にそうショートメールを送った。
家にたどり着くまでに、サムスンからの返信はなかった。彼女の友人が送らなかった? いや、そんなはずはない。ダメな奴だ。まだ、どこか自分の中に焦りがある。あの時は、突然の出来事に驚いて、思わずうんと言ってしまっただけなのかも知れないじゃないか。彼女の友人が警戒するのは当然だ。
浴槽にすっぽりと埋まりながら、芹澤は激しい動揺に苛まれていた。
(だめだ。今日は眠れそうにないな……)
心臓がばくばくとなっている。熱い風呂などに入って心不全など起こしはしないかと余計な事すら考えない。
コンビニで買った弁当と、第3のビール数本。風呂から上がったら急に空腹となった。アルコールは眠りやすくするためとして買ったのだ。今日は飲んでも酔えないだろうが、飲まない気分では無かった。
テレビの音もただの雑音で、芹澤の脳裏には、ずっとサムスンの笑い声と、あの肯定の相づちだけが繰り返される。
いつもと変わらない日常。明日も多分残業だろう。帰りに消費期限ぎりぎりの弁当を買って家に帰る。たまには自炊しようかな…。サムスンの声を聞いたこの時は、そんな殊勝なことをふと思ったのだ。
「…………」
夜のニュース番組の司会者が、それではまた明日。とエンディングの挨拶をした、その声にふっと反応した。少しだけ、仮寝をしていたらしい。第3のビールの缶が、二本目の半分程度残っていた。
風邪引くからそろそろ寝るか。と、残っていたビールを一気に飲み干し、テレビを消す。一気に静かになった。幸い、近隣も静かだ。
そろそろと壁のスイッチに手を掛けようとした、その時だった。
ピリリリ……ピリリリ……
スマフォという文明の利器が発す、近未来的な呼び出し音が響く。深夜だから控え目に、なんてことはない。
今はとても便利なもので、電話帳に登録されているアドレス別に着信音が設定出来るのだという。
しかし、芹澤のスマフォをならしているその無機質な初期設定の着信音は、アドレス非登録の初期設定。
液晶画面に表示される、見慣れぬ電話番号。
芹澤は吸い込まれるように、スマフォを取った。
『……あ……――――』
それは、彼女の友人のスマフォ越しに聞いた放笑とは正反対の、ひどく戸惑うような声。だが、芹澤は確信していた。まるで重いものを持つように、両手でスマフォを握りしめる。そして、手にひどくかく汗に、指が震える。
「サム……サム――――スン……?」
すると、受話器越しに鼻を軽く啜る音と、整えようとする息づかいに緊張を感じた。しばらくの沈黙の後に、受話器越しの彼女が、話し始める。
『芹澤君……あの――――あの……その……』
彼女もまたきっと、自分と同じように激しい緊張と戸惑いに寝付くことが出来なかったのだろうか。
「お、お久しぶり――――です……」
芹澤の方が、そう言った。
『あ……うん――――』
それからまた、刹那の間合い。
「あの――――俺、サムスンの電話番号、分からなくて。だから……」
『うん。……ごめんね。私――――急にあんな……』
「そんなッ、そんなことないッ! あの時は――――」
あの時は何だ。誰が良いとか、悪いとか。そういう問題だったのか。彼女は彼女なりの思いがあって、消えた。それを、自分は執拗に縋ることはしなかった。
「……いや。そんなことは――――なくはないけど……サムスン。俺――――、サムスンに話したいこと、一杯あって――――電話とか、メールじゃ伝えられないことも、一杯あって……」
「……うん――――」
心なしか、サムスンは涙を怺えているような声で返事をする。
「うまく言えないんだけど――――会いたくて」
「…………」
かすかに聞こえる鼻を啜る音。たぶん、サムスンは必死に涙を怺えている。風邪を引いている、なんてことはない。
(彼女も、俺と同じだったのか)
芹澤はサムスンの電話番号を知らない。彼女は芹澤の電話番号を知っている。ともすれば、メールアドレスも変わっていないから、送ろうと思えば送れる。
発信権がサムスンにある以上、きっと同じ胸の高鳴りでも、気持ちの重さは芹澤以上だったのではないだろうか。勇気を振り絞って、直接こうして電話を掛けてきたのだろう。彼女もきっと、様々な想いを秘めて、眠れない時を過ごしていたのだろうか。
「……私も――――……いたい……」
その怺え、消え入りそうな掠れ声が、静寂の部屋に谺したように思えた。