逢いたいという気持ちは同じだったことが、芹澤にとっては何よりも嬉しかった。でも、嬉しかったからこそ重みもあった。
なかなか、次の連絡というものが自分発信しづらくなるという。ようやく聞くことが出来た彼女の声。スマフォに登録された電話番号。
声が聴けた翌日に再び電話をするというのも、どこか軽挙に過ぎるような気がした。もしかすると思い過ごしかも知れない、自意識過剰なのかも知れない。
サムスンも同じだとするならば、彼女から再び連絡が来ないのも、また然りなのだろう。
逸る気持ちを鎮めるのに二晩かかった。
サムスンの声を聴いた日の夜は、寝付けなかった。充血した眼で出勤して、羽生女史に指摘された。
数少ない休憩時間の合間を縫って、芹澤は意識を固める。
気がつけば週末だった。このままどちらからもアクションを起こさなければ、再び自然消滅してしまう。あの奇跡を、芹澤に最後に与えられた奇跡を無下にするわけにはいかなかった。
十二時半。コンビニ弁当を掻き込み終えた芹澤は、外に出てスマフォを手に取る。
それまで激しく逡巡していたのが嘘のように、電話帳に登録されたばかりのサムスンの項目をタップ出来た。
プルルル……プルルル……
今は色々なメロディを着信音として登録出来るらしい。だが、至ってシンプルなデフォルト。
十秒ほど呼び出し音が響き、それが止まった。
『……もしもし……芹澤君?』
「あ――――サムスン――――」
『ん……こんにちは』
それは予想外に、滑らかな声色。少しだけ、微笑みを感じさせた反応だった。
「ごめん、休んでた?」
『ちょうど、ラウンジでボーッとしてた。コーヒー、ちょっとだけ微温くなってるよ、ハハ。芹澤君は?』
何を考えてぼうっとしていたのか、なんて野暮なことは訊かない。
「いま、飯食い終わったとこ。今日は定時で、どうしても終わらせたくて!」
『あ、そうなんだ。何か用事でもあるの?』
「うん。そのことなんだけど――――今日さ、もし良かったら、久しぶりに飯でも――――って思って」
『えっ……!』
サムスンが驚いたように声を上げた。しかし、それは悪い意味の驚きではなかった。
『あ……、うん。いいよ――――』
そんな会話。二人の間で止まっていた時計の針が、再び動き始めたかのように、話してみればかつての感覚が驚くほど鮮やかに蘇った。
早春の雪。季節に一度ある都心の大雪。街はイルミネーションやら車のライトが雪に反射し、眩いばかり。路面はややシャーベット。街行く人も、そろりそろりだ。
約束の時間より、約三十分遅くなった。サムスンもまだ来ていない。SMSで互いに少し遅れる。と確認していた。
かつてのサムスンとの待ち合わせは、遅れない事を目標に随分と気張っていた。だからこうして、誰かを待つ、という時間の余裕を感じることもまた、芹澤にとっては新鮮だった。
そして、芹澤が眺める交差点の光茫。ゆっくりとした人の波とは逆に進むすらりと伸びたシルエットが映った。
「さっぶ~~~~いッ!」
彼女は、懐かしくも愛おしく、疳高くも甘えるような声を上げ、ストールを片手で押さえながら、懸命に足下に気を配りながら、小走りにやって来た。
「もーっ、なんでこんなに雪降ってんの!? もう春じゃなかったのかっ!」
ブーツの踵あたりを濡らす、砂埃混じりのシャーベットをやや気にしながら、彼女は自然現象にひとり怒る。
まるで、昨日見たような光景だった。気持ちが、時間がまるで巻尺か掃除機のコードのようにしゅるしゅると音を立てて縮まって行く。
「今朝の予報は、午後から四〇パーセント。ところどころ、大雪に注意」
少しだけ呆れた感じに、芹澤は呟く。
「そんな日に飲みに誘ってくれる芹澤君って、何考えてるのー?」
少女のように無邪気に微笑みながら、彼女はバッグを提げている腕を突き出し、指で芹澤の胸板を押した。
「サムスンに逢える日は、いつも雨……あれ? 雪?」
顔にかかる冷たさを感じて、芹澤はそう戯ける。
サムスンは照れ臭そうに薄い唇の端を僅かにつり上げて微笑んだ。
「おかえり」
「ただいま」
あの日の、突然の蒸発の理由もまるでその瞬間に夢か幻か、どうでも良くなった、かと思えるくらい自然に、昨日と同じような挨拶のトーンが交わされた。
そして、芹澤がまるで思い切ったように手を差し出すと、サムスンは一度、手をきゅっと握りしめてから、ゆっくりと手を重ねた。滑らかでほっそりとした、心地よく冷たい感触に、芹澤はそこはかとない安心感を覚えた。
そこは何処にでもあるような小さな居酒屋。セレブリティ御用達のような敷居の高さを全く感じない。今どきタバコの煙が立ち込め、脂の焼けた臭と共に服に染みつきそうだ。そして何よりも既に酔余の熱気と昂揚に包まれている客の哄笑が響く。
「芝田さんとか、あ、ごくたまに羽生さんも来るよ。事務所の人たちといつも来るんだよ」
芹澤がそう言ってサムスンを向くと、彼女は心なしか瞳を潤ませて店内を見回していた。
そして、軽い足取りでカウンター席の壁際の空席を見つけると、そこへ陣取った。
「生ビール、中!」
嬉然と、サムスンは声を上げる。店員の大声の反応を楽しそうに聞きながら、カウンターに備えられているメニューを開いていた。
「慣れてるっぽい」
そう呟きながら、サムスンの隣に腰掛けてコートを脱ぐ芹澤。
「私も居酒屋、よく来るよ。て、言うかこっちの方メイン」
怪訝な表情の芹澤を悪戯っぽく見つめて、サムスンはメニューの一品料理を注文してゆく。
あの時、芹澤は背伸びを思いきりして、高級外食レストランを予約し、サムスンを喜ばせようとしていた。それが、彼女に相応しいからだと思ったからだ。
彼女の声を電話越しに聴き、会いに行くと思わず叫んだ時、そういう背伸びをするのは止めようと思った。気取らなくても良いような気がしたからだ。
「ハイ、芹澤君。久しぶりに、乾杯ー!」
中ジョッキを持たされ、乾杯をする。サムスンは美味そうにごくごくとそれを呷り、喉を鳴らした。
「ぷはぁ! 暑いくらいの暖かい店の中で思いきり飲む生ビール、最高!」
初めて逢った時、サムスンは中流階層が行くようなワインバーと言うのだろうか。随分と行き慣れた様相で話をしていたのを鮮明に覚えている。
それが、生ビールをごくごくと喉に注ぎ、一品料理に齧り付く姿を見つめていると、そのギャップに思わず笑ってしまいそうになる。
「なあに、何かついてる?」
芹澤の視線を感じたのか、サムスンは箸を止め、少しだけ唇を尖らせた。
「いや……その――――初めて会ったときのこと、思い出していて……その時と比べて」
その言葉に、サムスンは記憶を一瞬で辿り、はっとなって頬に朱を差す。
「ああー……あのお店はね、だから――――元カレが…………だけど勘違いしないでよ! 私は普段あんなところに行きません!」
そう言って、サムスンは今度はサワーを注文する。
「あ、じゃあ俺は……熱燗」
「お? いいねいいね芹澤くん! 日本男児って感じ」
少しだけ、酔いが入ってきたように思えた。
他愛のない会話だった。芹澤が訊きたかったのは、勿論、あの日あの時。何故、彼女は突然消えたのか、だった。
だが、今それを訊くものなのか、と思った。彼女と会うまでは、それが悶々と脳裏を支配し、時々夢を見た。悪夢のようだった。
しかし今、実際に彼女がこうして隣にいると、それまでの鬱積した謎や疑問が、霧消してしまいそうな不思議な心地だった。
「ハイ、芹澤君」
徳利を手に取り、小首を傾けて勧めるサムスン。洋装なのに、妙に似合う。美人は何をしても絵になる。
お猪口を手に取ると、サムスンは嫋やかな仕草で酒を注ぐ。
「とっとっと」
日本人の習性なのだろうか。思わずそんな声が出てしまう。本当に、旧き良き日本の夫婦のようだ。
五臓六腑に沁み渡ると言う。身体の芯から火照るとも言う。さすがの芹澤もその美味さに相好を崩した。
今度はサムスンがじっと芹澤を見つめている。布袋のような満面の笑顔に興味を惹かれたように、徳利を傾ける度に、お猪口を口に運ぶ芹澤を見つめ続けていた。
「カタメの杯」
わずかに紅潮した顔で、芹澤がお猪口をサムスンに差し出す。
「ははーっ、ありがたきしあわせ」
サムスンも乗ってくれた。両手でそれを受け取ると、芹澤が注いだ酒をクイと飲む。
素面で直視すると照れてしまう。だが、酔いというのは過ぎなければそういう枷を外してくれる。
小さな輪郭。少しほつれた、ダークブラウンのショート。少しつり気味の大きな鳶色の瞳。そんなに高くもない、整った鼻梁、小ぶりで薄い唇、細い首筋。
背伸びをして駆け抜けていた頃、芹澤は彼女と身体を重ねたこともあった。しかし、思いだけがつんのめって、よく分からなかった。
今、この庶民の殷賑と、煙草が燻る居酒屋の片隅で甘辛い酒をゆっくりと飲みながら、改めて自分が最後に辿り着いた女性を見つめてみれば、新しい発見が驚くほどに見つかる。癖っ毛、小さな黶、仕草。
芹澤が経てきた、女性達は多分、それぞれ美しくまた綺麗で性格も良かったのだろう。だが、サムスンとの決定的な違いがあることに今更気づかされた。
距離感だ。
考えてみれば、こうも肩肘張らずにいられる人は居なかったように思えた。
サムスンが見せる笑顔は、他にはない強張った心を解す作用があった。
「んーおいしー」
鶏つくねを箸で刺し、ぱくりと頬張りながら至福の表情を浮かべるサムスンを目を細めて見つめる芹澤は、改めてそう感じた。
「ね、ね、君も食べなよ。これお酒に合う。チョーおいしーから!」
箸に刺した鶏つくねを芹澤の目の前に突き出す。
「ほい、あーん……」
形のいい唇をわずかに開けて促すサムスン。
芹澤はそれに“ささやかな幸せ”を感じながら、湯気立つ鶏つくねを頬張った。
「どう?」
鯉のようにぱくぱくさせながら熱熱の鶏つくねを味わう芹澤に訊く。
「ほ……ほひひ……は、はふっ!」
芹澤の反応が楽しいのか、サムスンはまるで少女のように笑う。
サムスンがおでんの具で一番好きなのは、黒蒟蒻なのだという。コンビニでたまに食べたくなるとき、黒蒟蒻がなければ別のコンビニを探す位だと言った。安いし、美肌効果もあり、整腸作用も抜群。
「玉子とか、餅巾着とか、昆布とか――――」
「コンニャクのあの食感とか、出しゃばらないムミムシュウ? そのままでもいいんだけど、カラシちょっとつけてパクリ! ああ、天国だわあ!」
恍惚とした甘ったるい声で、御所望の黒蒟蒻を頬張る。本当に好きなんだろう。もぐもぐと張りのある頬が、文字通り落ちそうに見える不思議。
「ならサムスンに出すおでんは、黒こんにゃくのみのおでんだな。あはは」
そう言って笑いながら、芹澤は定番の玉子と竹輪麩を食べる。
「もー、分かってないなあ芹澤くん。コンニャクだけでもダメなんだよー。あのねー……」
綺麗な眉を僅かに顰めながら語る。
酒が進み、意識が遠退くのももったいない。饒舌なサムスンの黒蒟蒻おでん蘊蓄を傾聴する。カウンターで調理する店員も、時々笑いながら合いの手を入れるから更に話が弾んだのだ。
二時間半くらい経っただろうか。饒舌さも間合いの間隔が大きくなり、やがてサムスンの綺麗な睫が水平に落ち、いよいよ大海への船漕ぎを本格化させようとしていた。
「可愛くて、面白い彼女さんだねー、芹澤さん」
馴染の大将がそう言って笑うと、芹澤は素直に頷いた。
「俺も、こんなに彼女が可愛くて、面白くて、愛しいと思ったのは初めてかも知れません」
「お! 惚気てくれるねえ。さあさあ、続きは家でしてくんなよ」
サムスンの様子を気遣って、大将は勘定をしてくれた。
「サムスン、帰りましょう」
「んんー……! ああ、しぇりじゃわきゅん! ちょっろ待って――――」
バッグから財布でも取ろうとしたのか、それを落としかけて芹澤が慌てる。
「いいよ、俺が誘ったんだし」
「らめだお。今どきそーゆーの古いんだお!」
「わかりました。なら、帰ってから頂きます」
「ふふふーすなおでよろしっ、ひっく!」
芹澤に腕を支えられて店を出た。
夜も更け、店に入ったときに比べれば人通りは少ないが、人待ちのタクシーが多かった。皆、同じように飲みの帰りとかなのだろう。
週末のためなのか、待っていた何台かには断られたが、存外早く空きのタクシーを捉まえることが出来た。
「どちらまで?」
ややぶっきらぼうな運転手の声。
「えーっと……」
芹澤は迷う。大方ならばここで“お持ち帰り”などという隠語でブティックホテルなどを指定するのだろうが、そんな選択肢はない。
絵に描いたようなお誂え向きのシチュエーションなだけに、脊椎がむず痒くなるようなストレートさはいらない。
「サムスン、家は……」
「んー……ぐぅ」
彼女を乗せた船は眠りの淵まであと数海里、と言ったところだろうか。
「えっと、じゃあ――――」
芹澤の自宅を指定した。結局はベタな選択だが、少しは迷ったし、そういう下心先行じゃあない。そう、言い聞かせた。
「お客さん、もし具合が――――」
酩酊客を乗せるときの注意事項。分かっている。興ざめだ。
「大丈夫です。そんなに泥酔している訳じゃないですから」
芹澤の言葉に安堵のため息で返す運転手。ゆっくりと繁華街を進んで行く。
「…………」
「…………」
片腕でサムスンの肩を支え、もう片方の手で、彼女の手をしっかりと握る。揺れを少しでも防ぐためと、温めるためだ。
極限に落としたラジオの音。分岐するときのウインカーのカチカチ音。ワイパーの音。いずれも独りの時は気にもかけるものではないが、こうして想う女性を傍にすると、そんな雑音も、車窓から見える風景も全く違って聞こえ、また見えた。
芹澤の肩に額を埋めるサムスン。少しだけ睫を上げると、再び下ろした。そして気持ち、芹澤に凭れる度合いを上げた。