SOME DAY~エピローグ③~ featuring 逢いにゆくよ from DEEN

第3話 君のいない街(三)

 見慣れた1Kのボロアパート。
 今、この腕に支えられているアーバンチックな美女のいい匂いを感じなければ、周囲に広がる濃紺の夜景も素通りしていたはずだろう。
「う、う~……ん……」
 酔いの呻きを発するサムスンのブーツの踵が、錆色の鉄階段にカン、カンと、ゆっくりとした鈍い音を立てる。
「ほら、足下気をつけて、滑るから!」
 下心のある男ならば、これから何をするのかなどという欲望と妄想に浮つくのだろうが、現実はそんな余裕はない。気を抜けばサムスンは崩れ落ちてしまう。すっかりと芹澤に寄りかかっている。スレンダーな身体とはいえ、さすがに全身で凭れられると結構重く、ましてや急な鉄階段だとそれこそ汗だくとなって気を遣わなければならない。
 二階の端、鉄階段を上ってすぐの二〇五号室が芹澤の部屋だ。
 サムスンと半同棲していた時に住んでいたマンションと較べれば、住み易さとしては格段に落ちる。だが、芹澤にとっては大学に入学したときから住んでいて、ここを舞台に甘苦様々な想い出が込められた、自分の“城”に、間違いはなかった。
 セキュリティシステムなど大層なものはない、ドアノブの鍵を開け、扉を開く。やや軋んだ蝶番の音とともに、暗い部屋から独特の冷気が火照った芹澤の頬を掠める。
 この間、大掃除をして良かった。ああ、食べ残しや残飯、消費期限切れのものも大丈夫だよな……。
 一度、深呼吸をした。大丈夫。やや古びた建物の、木や少し黴びたような、男臭さが感じるだけだ。いつもの我が城だ。
「ほら、サムス、ン! 着いた。ブーツ脱いで。今、暖房点けるから」
 芹澤が先に靴を脱いで上がり、サムスンを一度抱え直す。
「んんー!」
 不満げな呻きを上げつつも、芹澤の介添えを得てやっとの思いでブーツを散乱させ、引き摺られるように奥の居間に連れられる。
 部屋に辿り着いたと安心した途端に、スレンダーな荷重が身に応える。思いきり放り投げたい衝動を抑え、芹澤はゆっくりとサムスンをシングルベッドの上に降ろす。幸い、寝起きのままだったから布団は弾かれていた。
 肩を抱きかかえるようにしながら、芹澤はサムスンの小さな頭を掌で支えながら、枕に埋めさせる。
「ううー……ん……」
 サムスンがもぞもぞと窮屈そうに身動ぐが構わない。ストレートパンツも皺になるだろうが、アイロン掛ければ良いだろう。両脚も抱えて仰向けにすると、布団を掛けた。
 電気を点ければ明るさに目覚めるだろうか。頭が痛くて、水を欲するだろうか。
 サムスンはしっかりしていて、それでいて凄く無邪気で、手が掛かって可愛い面もある。あの同棲の期間で、芹澤が感じた、彼女の姿だ。
 スイッチを入れた。グローが点滅し、チカチカと音を立てて蛍光灯が点いた。冷えていたせいか、やや暗めに部屋を照らす。サムスンは一瞬、身動いだが、起きる気配はなかった。
 普段は節約のために、殆ど使うことのないエアコンのリモコンを探る。片付けていて正解だった。だが、リモコンの乾電池を抜いていたため、テーブルや押し入れのクローゼットをまさぐった。ガサガサと漁った末何とか見つけ、セットし、スイッチを入れた。大丈夫、故障などはしていない。ピッと電子音が立ち、暫くしてブオオオという籠もるような轟音を吐きだし、冷たい部屋を必死で暖めようと稼働した。

 一通り終え、芹澤はシンクに立ち、コップの水をぐいと呷った。飲み慣れた不味く冷たい水道水が、今日はやけに美味く思えた。微酔いの五臓六腑が、水を欲していたのだろう。
 部屋が暖まってきた。
 やはり冷えていたのだろう。酩酊で眠りこけていたとはいえ、少しだけ震えているように見えていたサムスンが、緊張がほぐれて安眠モードに移行したように見えた。寝相が悪いから、そのうち布団を蹴飛ばしたりするのだろうと思うと、うんざりもあるが、今はそれがそこはかとなく愛おしく思える。
 テレビも点けなかった。スマフォも何か触る気が起きない。

(あ……、そういえばサムスンが、家に来るのって――――)

 久しぶりに見る、サムスンの寝顔。酔い潰れているとは言え、懐かしさと新鮮さが混淆した、こそばゆさがあった。
 眠っているからこそ、見つめていられるのか。
 テレビも、スマフォも、ラジオも要らない。
 失って初めて気づく、大切さという感情があるとするならば、きっとこう言うことなのだろうか。
 ややアルコールの香りが立ち込めるも、綺麗な寝息を立てるこの女性。改めて見つめる度に、心の奥底から、温かい感情が立つ。飽きない。寧ろ、ずっとこの時が続けばいいのに、。身体だけの関係じゃないと信じていた。少なくても、あの季節は確かに、心が繋がってとさえ思うほどだ。
 寝込みを襲う――――三流ドラマや小説などでは常套なシチュエーションだという。だが、芹澤は全くそんな気が起きなかった。
 半同棲していた時は、気分が高まると趣くままに身を重ねていた。周りも振り返らずただ、我武者羅に愛を求めていた気がするいたんだ。
 サムスンの立てる寝息が、心地よかった。
 この部屋で、過去に“恋人”だった女の子の寝顔や、寝息も聞いてきたはずだった。だが、こんなにも沁み入るような心地よさというものがあったかどうかなんて、憶えていない。憶えていないと言うことは、それだけ、我武者羅に何かを、何処かへと駆け抜けていたんだと思う。

 …………

 クォーツ掛時計の秒針が一瞬、耳に響きはっとなった。静かな部屋。明るく、微睡むような暖かさ。ベッドではサムスンが寝返りを打っていたのか、芹澤に後頭部を向けて熟睡していた。時間は、3時を示している。少しだけ、テーブルに突っ伏して寝てしまったようだ。
「毛布……あったよな」
 来客用にと敷布団と毛布をクローゼットに取っていたはずだ。
 半ば寝惚け眼でクローゼットを開ける。
「ああっ!」
 確かにあったが、押入れ用収納ボックスの下敷きとなっていた。一応、あるとはいえ、最近まず使うことのないものだからと言う理由からなのだろう。大掃除は、大掃除であって、整理整頓とはまた違う、と言うことなのだろう。
 大きな音を立てないように、するりするりと寝具を引く。しかし、その摩擦は意外と積載物を不安定にさせる。
 カタカタ……
 敷布団を引き抜こうとした、その時だった。
 収納ケースの上から、ぽとりと、厚紙仕様の小さなペーパーバッグが布団の上に落ちた。

「あ…………」

 それは大掃除の時、質屋に出そうかどうか少し逡巡して、後から考えようとクローゼットにしまい込んでいたもの。臙脂の包装箱に包まれていたのは、そう。芹澤祐輔がそれまで挫折を痛悔する暇もなく、ただひたすら駆け抜けてきた時間が生み出した、ひとつの結晶。
 その人のために、初めて形を示すことに喜びを感じたもの。
 そして、決して忘られぬ、後悔と未練の証だ。

「…………」

 彼女との音信が途絶えたとき、捨て去ろうかと、本気で思ったこともあった。いつか読んだ歴史小説で、鎌倉幕府の都・鎌倉を攻撃した新田義貞の如く、武運祈願を込めて由比ヶ浜の波間に太刀を捧げたように、これを芹澤祐輔の恋愛祈願とするべきかと考えた。格好つけなければ、彼女への想いを断ち切るなんて出来るはずがないと思った。そう。その通りだ。出来ずにいた。
 運命の悪戯か、導きか。などという格好つけたものじゃない。無様な、男の醜さだ。
 目の前で眠りについている女性の残影を慕んだこの心の証を今、どうするべきなのだろう。
 まるで神が。それこそ新田家の氏神・南無八幡大菩薩が今こそその想いを遂げるべきだと命じているのだろうか。
 芹澤は一度、瞼を何度か瞬かせると、改めて毛布をそっとサムスンに宛がった。

 本当に不思議な感覚だ。彼女がそこにいる。安らかな寝息を立てている。正直、昨日までは想像すらつかなかった。その“未練”が、尚更意識を強くさせた。
 興奮で眠れない、なんてことはなかったが、うとうととしていたようだった。
 気がついてみれば、外は白んでいた。あまり寝られなかった、というのは多分事実だろう。視界が定まり、カーテン越しの暁を感じる。
 エアコンはもう少し早い時間に止まっていたようだ。部屋が冷え切らずにまだ幾分暖気が残っているようだった。
 芹澤が瞼をひとつ指でこすり、寝台を見る。
 寝相がすこぶる悪い彼女の割には毛布が思ったほどぐしゃぐしゃとはなっておらず、全身をくるむように盛り上がっていた。そして、その塊の中からかすかに寝息が聞こえる。
 彼女が眠っていた。
 良くドラマや恋愛物語では、書き置きのひとつでも残してそっと出て行く。或いはキッチンに立ち、朝食の準備等もしていたりするものだろうが、そんなシチュエーションは無い。

 朝の微睡みの空気も半ば心地よく、サムスンのくしゃくしゃとなったショートヘアを眺めていて飽きない。
 そうこうしているうちに、本格的な朝が訪れ、外には人の往来がいよいよ増してきていた。土曜日と言えども仕事のある人間の方が多い。寧ろ、土日祝の休みを確保出来る仕事というのがプレミアムだろう。
 まあ、芹澤はこの日のために日直を変わってもらったし、サムスンも休みだと言っていた。外界とは違って、この狭い空間にはまったりとした時間が流れている。
 色々と妄想が過ぎって頭がぼうっとなっていた芹澤が、ふっと我に返り視線をサムスンに戻すと、いつの間に目覚めていたのだろうか、臥りながら芹澤をじっと見つめていた。
「うわっ――――!」
 思わず肺の奥から発した奇声に、サムスンは悪戯っぽく目を細める。
「おはよ、芹澤くん――――」
 それは、酔いが入っていない時の彼女の声色。
「お、おはようサ、サムスン……」
 見つめられ、照れ隠しに顔を背けてしまう。
「ねえ、芹澤くん」
「な、何?」
「お腹空いた」
 それは芹澤が思い込んでいた、朝のまったりとしたムードをあっさりと壊すような言葉。
「あー……そうだね。何、する? パンとかは無いよ……」
「んー――――なんでもいいー」
 サムスンの様子に、芹澤は少しだけ心やすい気持ちになった。
 立ち上がり、シンクに向かう。確か、買い置きの袋ラーメンがあったはずだった。

 麺を茹でている間、寝台の方を向くと、サムスンは瞼を閉じて微睡みを愉しんでいる様子に見えた。暢気なもんだとは思ったが、そう思えることが、こそばゆくもあった。
 間を保つために、スチールラックの最上段に不安定に設置していたテレビのスイッチをそっと入れる。
 耳を澄ませば聴き取れる程の音量。朝の情報番組が映る。
「あ、今日の運勢やってる――――!」
 テレビの画面に映った映像に上体を起こし、目を瞠るサムスン。
「獅子座……獅子座っと――――」
 そわそわしたような様子で自らの星座を確かめる。「うん、よし。良い感じ」
 どうやら本日の運勢は良いようだ。納得したように目を細めると、ひとつ大きな背伸びをする。

 ラーメン丼を一個取り出す。湯気立つ鍋から丼に適量、麺とスープを注ぐ。具材も何もない。彼女が居ると言う事を事前に知っていれば、買っていたかも知れない。
 芹澤が知る、普段は小食気味なサムスンを思い、適量だ。それを、テーブルに運ぶ。
「出来たよ。具、何も無いけど」
「わあ! ラーメン!」
 もぞもぞと這い上がり、丼の前で居住まいを正す。
 芹澤がコンビニ弁当の余った割り箸を差し出すと、サムスンはそれを両手の親指と人差し指の間に挟め、拝むようにした。
「酔い醒ましにはやっぱりラーメンでしょう!」
 いただきますもそこそこに、サムスンは割り箸をきれいに割り、麺を啜った。
「んんーーッ!」
 ほくほく顔とはまさにこの瞬間の表情のことだろう。人間、食べ物を頬張る瞬間に幸せを感じると言うのも、あながち嘘では無いと言うことだ。
「あれ、芹澤君は?」
「俺は鍋のままでいいから」
 一人暮しの定番。と言うのだろうか。単に洗いものを少しでも減らす、という知恵なのだが。それがどうも一人暮しの男の王道のように見えたのだろう。
 片手で鍋の柄を持ちながら、もう片手で箸を持ち啜る芹澤を、サムスンは珍しそうに眺めている。
「ホント、美味しそうに食べるよね、芹澤くんって」
 不意にそんなことを言われ、思わず手が止まる。
「え。普通だと思うんだけど……」
 特段、意識したつもりはなかっただけに戸惑いのほうが大きい。
「何か、改めて見るとさ、そう感じて――――」
 そんなことを言うサムスンはやや照れたようにはにかみ、歯を合わせて小さく笑うと、雰囲気を流すかのように音を大きく立てながらラーメンを啜った。

『具無しラーメンもなかなかいけるね』
『袋麺は基本トッピングなしでも美味しいように出来ているんです』
『あー、でもさ芹澤君。いけるけど、いつも何もなしじゃ身体に悪いと思うな。ネギくらい刻もう。今度から!』
『んんー……生ゴミ増やしたくな――――』
『だめだよ! 二十一世紀の文明国で栄養失調で倒れられたら、クニの恥!』
『クニの恥……って、それ言いたかっただけ?』

 そんな他愛ない会話が、テレビの音を掻き消した。
 彼女の住むマンションで過ごしていたときとは違う、何か一言、この一分一秒がゆっくりと芹澤の胸に沁み入るような気がした。