SOME DAY~エピローグ③~ featuring 逢いにゆくよ from DEEN

第4話 途惑いを越えて

 サムスンにシャワーを促す。ボロくて狭いユニットバスだが、贅沢は言っていられない。
「ひさしぶりに一緒に、入る?」
「お気持ちはありがたくいただいておく」
 サムスンが冗談ぽく聞いてきたので、真に受けず流した。そこで“はい”の選択肢を選んだとしても、彼女は拒否はしなかっただろう。少しでもそのつもりが無ければ、言わない冗談だ。でも、芹澤は惜しんだ。何か、とてつもなく大切な存在に思えてならなかった。
 サムスンが上がった後に、芹澤もひと浴びした。人が使った直後の温かな浴室を使うのも、久しく忘れていた感覚だった。

 土曜日の朝は静かな時を刻む。インスタント・コーヒーの味もまた、格別のような気持ちになる。
 何処かにデートなどという約束をしていた訳でもない。かと言ってせっかくの休日。天気もそんなに悪くはない。雲は多いが、青空の領域は多い。こんな日に彼女とアパートにまったりとしたり、果てや彼女をただ家に帰すなんて大愚の極みというものだろう。
 芹澤が私服を取り出し、ユニットバスで着替えた。とは言っても、正直流行やお洒落にそぐうものを持っている訳ではない。サムスンの前ではいつも自らの“センス”のなさを嗟嘆する。
「あ、出掛けるなら一度、私の家に寄って欲しいな。私も着替えたい」
「あー……了解!」
 いつしか、言葉で直接言わずとも雰囲気で自然に行動を共にするスキルが付いていた。そして、フィーリングの合う場所が、二人の行きたい場所となるのだ。
 アパートを出てタクシーを呼ぶ。サムスンの家直行。でなければ意味がない。
「芹澤君も来る?」
 当たり前のような口調でサムスンが誘う。
 一度別れる前は、半同棲。往来は当たり前だったが、今は違う。と、言うよりもあの突然の別離後、初めて新しい彼女の家だ。今は違う。と言うよりも、あの突然の別離後、初めて新しい彼女の家だ。芹澤との蜜月を断ち、彼女自身が葛藤を乗り越えるために選んだ止り木。
「行ってもいいの?」
 さすがに訊いた。その場所を知れば、彼女の人生がひとつの画期を成す事になる。勢いや雰囲気任せだったなんて、後悔なんてもう御免だ。
 しかし、そんな芹澤の思いをサムスンは杞憂とばかりにさり気なく言った。
「なあに、行きたくないって言うのー?」
 せっかくの誘いを……とばかりに、その問い自体を疑問に感じていた。そもそも、芹澤の選択肢は、無かったのだ。

 多分そこは、前に住んでいたマンションくらいだと思う。
 正直、あの頃は二人の世界にひたすら没頭する事だけで、風景を記憶に留めるゆとりすらなかったと思う。それ程、サムスンとこうして邂逅し、この短い時でも隣にいて気づかされる大切なこと。
「あ、ちょっと待ってて。家の中片づけてなかったから、中入るのはまた今度!」
 と言う訳でマンション入口で立待だ。しかし、根拠のない口約束ではない。彼女の家は、確かにここなのだ。嫌なのを無理矢理に押掛けるつもりなどないが、安心出来る。
 十五分ほど経ち、彼女が戻ってきた。

 カジュアルと言うには少し重厚。かと言ってフォーマルと言うには少し語弊がある。象牙色の厚手のコート。黒のブーツに、濃紺の単色に近いスカートも短くない。あまり派手じゃない服。少し、大きめのショルダーバッグを肩に提げている。
「お待たせ。じゃ、行こっか?」
 彼女はいつものように微風のような微笑みを芹澤に向けると、少しだけひやりとした指を掌に絡めてきた。
 芹澤は途惑う暇もなく、サムスンに手を引かれてゆく。
 駅口まで来たところで、サムスンはふと足を止める。いつもよりは少ない人波が、二人を避けるように流れて行く。
「サムスン?」
 芹澤の袖口をしっかりと摘まみながら、彼女は寂しげな微笑みを湛えて、少しだけ俯いていた。
「どう……したの?」
 芹澤の脳裏に僅かに過ぎる不安。臆病になる。男は、得てして不安の畔を歩いて生きているようなものだろう。
「芹澤君――――」
 不意に、サムスンが一歩前に進み芹澤との距離を縮めた。何かを言おうとして逡巡しているというのは判る。だが、その表情に悪い意味を含んでいると言うことはないというのは、感じた。
「何――――? 何でも言ってよ」
 芹澤の問いかけに、サムスンはひとつ間を置いてから言った。
「これから、一緒に行って欲しいところがあるんだけど――――」
 拒否する理由などひとつも無かった。そして、その言葉がまるで呪のように、サムスンの想いと共に芹澤の中の不安がそげ落ちて行く。

 東京の景色が東に流れて行く。
 トンネルをいくつも越え、景色は白銀と水墨がかった自然豊かな山間の色彩を強めて行く。東京から二時間と少し離れたとある田舎の町。
「着いたわ、芹澤君……」
 太陽が中天からやや右に掛かる頃だった。サムスンがおもむろに座席を立つ。芹澤はひとつ頷くと彼女の後に続いた。
 東京の駅で買ったお土産の袋をそっと持ち直す彼女の表情は、きゅっと唇を結び、何かを決意しているように思えた。
 雪景色、と呼ぶに良いのだろうか。ニュースで聞いた事がある。今年は小雪であると。白壁に朱き六連の古銭をあしらえた駅ビル前から、二人はバスに乗る。
 四方の果てに美しい山の峰峰が連なる盆地。ゆっくりと走る路線バス。今の時間はそんなに人が多い訳じゃないみたいだが、サムスンや芹澤がいかにも都会から下ってきたカップルの空気が漂うのだろう。特段珍しい訳ではないようだが、サムスンの美しさはやはり瞥見の価値があるようだ。
 そこまで、芹澤とサムスンは会話を交わさない。いや、と言うよりも、サムスンの方が、何か事情があるかのような雰囲気を出していたので芹澤の方が話しづらかったと言った方が正しい。
 二十分ほどバスに揺られた。田園風景が広がる郊外のバス停のアナウンスが流れると、サムスンは停車ボタンを押した。
 閑静としたバス停。古今折衷とした駅前とは違って、この辺は在特有の温かさみたいなものがあった。
 バスから降りた二人は、一度左右を見廻してから、ひとつ深呼吸をする。
「んんーーっ! はぁっ! いい空気ーー」
 サムスンが不意に嬉々とした声を上げた。乗り物に揺られ続けてきた身体をほぐすように、一度ぐいと手足を伸ばした。
「サムスン」
 切っ掛けを得た芹澤が口を開く。
「ここって……」
 何となく気がついていたが、敢えて訊いた。
「うん。私の故郷」
 その言葉に、芹澤はすうっと胸の奥が熱くなるのを感じた。そして、これから彼女がどこへ向かうのか、それもまた感じ、鼓動が再び高鳴る。
「少し歩くけど、大丈夫だよね」
 サムスンの足取りは軽い。無邪気に微笑みながら、ときどき鼻歌を交えていた。

 農家――――といえばやや語弊がある。周囲は田畑が広がっているが、その家はいわゆる田舎の古民家然とはしておらず、これと言って特筆するべき特徴はない、ハウスメーカーの注文住宅と言って相応な建物だった。
「ここ!」
 サムスンが嬉嬉として指す。
 表札には『樹村』 これが彼女、サムスンの名字なのである。
「そう言えば、サムスンのフルネームって……」
「樹村佐子(きむらさんこ)」
 ああ、そうだった。キムラ・サンコ。キム・サムスンって渾名は、本名に似ているからだと言っていた。キムラサンコにキムサムスン……やや無理があるが、多分、愛称でキムサンとでも言われていたことがあるのだろう。
 図らずもサムスンの実家の前に立った芹澤は、今更になって背中に汗が滴る。
「芹澤君、行きましょ。両親が待っているわ」
 手を繋いでくるサムスンに牽かれるように、芹澤は樹村家玄関のインターホンを押した。
(はーい)
 スピーカーから聞えてくる、女性の声。少し若いような気がする。
「あ、お母さん? 私。ただいま!」
 芹澤の顔の前に頭をすり寄せてインターホンに話しかけるサムスン。
(佐子? おかえりー! ちょっと待ってて)
 サムスンの母親が通話を切る。そして一分も掛からないうちに、玄関扉の解錠の音が響き、ゆっくりと開いた。
「久しぶりね、佐子」
 セミロングの少し茶色がかった髪。サムスンの年齢からすれば、その母親ならば、余程の事情がない限りはどんなに若くても五十前後。しかし、そうは思えないほど、若かった。芸能人でもなかなか通る。さすがサムスンの母だけあって、美人だ。
「あら――――こちらって、もしかして……」
 芹澤の姿に興味津々と見廻すサムスンの母。まじまじと見つめられて恟恟の芹澤。
「話していた、芹澤君よ」
 サムスンが紹介した瞬間に、しまったと気づいた芹澤。
「は、初めまして! せ、せ、芹澤祐輔とも、申します!」
 名乗り遅れて慌てる芹澤の様子に、母はクスクスと笑いながら、丁寧に頭を下げた。
「初めまして、芹澤さん。佐子の母の、明里(あかり)です」
「よ、よろしくお、おねがッ――――!」
 軽く舌を噛んでしまった。顰めっ面で崩れ落ちる芹澤に笑いが起きる。
「あらあら、大丈夫かしら?」
「大丈夫。慌てん坊なのは、いつもの事だから。……それよりもハイ、お母さん。お土産」
 軽く芹澤をスルーしながら、東京の駅で買った土産袋を明里に手渡す。
「いつもありがとう」
「お父さんは?」
「もう、何言ってんの。まだ仕事に決まってるじゃない」
「まだって……。突然だけど、今日来るってメール入れていたでしょう」
 不満の表情のサムスン。
「幾ら何でも、昨日の今日に休みなんて取れないでしょう。まして、この忙しい時期に!」
 サムスン。つまり樹村佐子の父・康光は地方公務員と言うことらしい。
「……あ、ごめんなさいね芹澤君。ささ、入って!」
 明里が芹澤を招き入れる。サムスンが先に玄関をまたいだ。

 普通の中流家庭のリビングルーム。特段、変わったものや不釣合いなものがあるわけではない。
 サムスンと並びながらソファに腰掛けていると、『親に紹介』されているという実感がまだ湧かない。
「どうぞ、芹澤君」
 明里が珈琲を淹れてきた。
「有難うございます。頂きます」
 レギュラーコーヒーなんて久しぶりだった。職場でもあるが、あまり自淹して飲むと言うことはしない。と、言うよりも飲む暇がないのである。
 まして、他人が淹れたコーヒーなんて、忘れるほど前だ。
 味わうようにカップを呷る芹澤の様子を見つめるサムスンと明里。何故か小さく笑う。
「?」
 きょとんとする芹澤。すると明里がサムスンに話しかける。
「思っていたよりも、優しい感じの子じゃない?」
 すると、サムスンが答える。
「優しいわよ。……少しだけ頼りないところがあるけど」
 そう言って芹澤にウインをしてみせる。
「男は少しくらい頼りない位が丁度良いのよ佐子。俺様男ってあんた嫌いでしょ?」
「まあ……そうだけど――――」
 母子会話のネタにされる芹澤。少し赤面してコーヒーを飲み干す。
「おかわりはどうかしら?」
「あ、頂きます……」
 二杯目のコーヒーを注ぐ明里。
 サムスンがわざわざ東京から結構離れた実家に芹澤を伴ったのには、大きな理由がある事は明白。
『交際相手を両親に紹介』というに等しい。いや、でも正直、芹澤とサムスンは再会したとはいえまだ正式に復縁したという訳ではない。だからこそ、戸惑いの方が大きかった。
「芹澤君は、今どんな仕事を――――?」
「あ、はい。東京の法律事務所でパラリーガルを……」
 明里は芹澤のことについて訊いてくる。それは当たり前のことだったが、やはり緊張する。心の準備というものだ。会うなら会うで、やはり想定問答があるものだろう。そう言う準備すらないまま前線投入だ。汗ばかりが噴き出てくる。
 しかし、考えてみれば芹澤はそれまでずっと虚栄を張って生きてきた。少しのプライドの傷つきも、自分の中で赦せないものがあったと思う。
 多分、サムスンに何時何時実家に行きましょう、と誘われていたら、芹澤はきっとそんな悪癖をさらけ出し、虚栄心のみで自分を飾り、サムスンだけではなく、彼女の両親までも惘れさせていただろう。
 それでも、今はサムスンの母親だけである。美人で快活、幸いにも芹澤に対して悪い印象というのは抱いていないように思えた。
 だが、夕方にはサムスンの父親が帰ってくる。とかく衆論として男親は、娘には甘く、何よりも『彼氏』などを実家に連れてきた時などは大荒れも甚だしいとされている。ましてや、彼女の父は公務員。役所の課長クラスだというから、尚更厳格なイメージが芹澤を恐懼させていた。
 明里はいい人だった。話をしていて、さすがはサムスンの母だけあって、性格もよく似ている。自分とサムスンの経緯はまだ触れてはいないが、気がつけば会話が弾んでいた。
「今度、東京に行った時に案内してくれる――――?」
「はい、もちろんです。喜んで――――!」
 気がつけば、窓の外の積雪が橙色に染まっていた。時計の針は縦棒。午後六時を少し、過ぎていた。
「――――そろそろ、お父さん帰ってくるかな?」
 サムスンが話題を振る。
「噂をすれば、何とやら」
 明里が少し戯けた時だった。玄関の扉が開く時の空気の流れにリビングルームの扉が戦いだ。そして、ぱたぱたとスリッパがフローリングの床を擦る音が近づき、リビングルームに壮年の男性が入ってきた。
「玄関は常に鍵を掛けておきなさい。不用心にも程がある」
 いかにも堅物そうな雰囲気を漂わせながら、サムスンの父・康光が帰ってきたのである。