サムスンの父の帰宅に一瞬戸惑った芹澤だったが、居住まいを正し挨拶をする。
「は、初めまして。わ、私……芹澤祐輔と申します。東京の安藤法律事務所にて、パラリーガルを務めております」
「……樹村康光です。一応、市役所の社会福祉部長を務めている。娘が、世話になっているようだね」
 それは、初対面の目上が言う常套句だろう。どこの馬の骨とも知らない男に、自分は公務員、それも重職にあると言うことを強調し、芹澤の言うパラリーガルなどという横文字の職業は、不安定なものなのだという事を遠回しに指摘している気がした。とにかく、あまり印象の良くない相手に発している言葉だと言う事は、芹澤自身、よく理解しているつもりだった。
「ご多忙の中、私のために時間を取って頂き、あ、有り難うございます!」
 とにかく、平身低頭だ。しかし、そんな芹澤の態度も、サムスンの父・康光は見透かす。
「そんなに畏まらなくても良い。君を取って食おうとかなどと思ってはいないからな」
 康光はそう言って笑う。上から目線だが、芹澤を馬鹿にしているというような感じは受けない。芹澤も、数多くの波瀾に身を置き、人の目色の鑑識眼はついた気がした。
 コーヒーを一気に飲み干し、康光の次の言葉を待つ姿勢。
「ところで佐子。東京の暮らしはどうだ。お前の強い熱意に圧されて認めたが、今こうしてここにいる。それはどういうことかな?」
 サムスンが一瞬、押し黙る。啖呵を切ってほぼ家出同然で飛び出し、両親が事後容認したような感じなのだろうと思った。
「……た、楽しいに決まっているじゃない!」
 そうヤケクソ気味に声高に叫ぶと、芹澤の腕を掴みながら、少しだけ頬を赤らめた。
「それに、東京に行ったおかげで、彼とも、出逢えたし――――」
 矢面に強引に引き摺り出された感満載の芹澤は完全に目が泳いでいた。
「パラリーガル…か。横文字で響きは格好良いが、要するに弁護士事務所の事務補佐――――もっと分かりやすく言えば、非正規の雑用使いパシリ……だろう?」
 康光の指摘にぐうの音も出ない芹澤。
「佐子、そのような芹澤君(男)と出逢って、楽しくて、どうして今ここにいるのかね」
「あなた……!」
 明里が夫を窘めるように合いの手を入れた。
「佐子も沢山、私たちが想像する以上に悩んだはず。あなたの娘ですもの。わかりますでしょ?」
 明里の言葉に、芹澤に対して皮肉と卑下を込めていただろう康光の機先は制された。
「判らないとは言わない。だが、恋に魘されて現実を見ることが出来なければ、目が覚めたときに深い後悔に苛まれることになる。……明里、お前の気持ちも、佐子の気持ちも分かるが、この芹澤君が、本当に佐子を幸福に出来ると思うのか?」
 康光の言葉はいちいち的を射る。さすがは安定したエリート公務員だ。
 結婚をし、子供を無し、幸福な家庭を築く。それは安定した収入が保証され、若かりしうちに戸建ての持家を得る。子供が無事、大学を卒業し巣立った後は、優雅な老後を夫妻で過ごす。まさに、理想の構図だろう。なるほど、父・康光が描く娘の将来が見えた。
 しかし、佐子……いや、サムスンは眉を逆立てて声を荒げた。
「お父さんには解らない! 彼が……芹澤君が、どれくらい努力して、どれくらいしんどい思いを抱えて、どれくらいの…………どれ位の覚悟で――――!」
 サムスンが顔を激しく紅潮させ、父親を駁撃する場面を、芹澤は見た。脳裏が真っ白になって、その応酬がどうなったのかはっきりとは憶えていなかった。
 多分、康光はサムスンと芹澤が結婚する、という事に反対したのだろう。判っていた。と言うか、それが当然の反応だった。理詰めで行かれれば、芹澤は康光に言い負かされ、サムスンとの結婚を断念一択に誘導されていただろう。

 気がつけば、芹澤はサムスンと一緒に高台らしい場所にいた。樹村家の裏にある、私有林にある高台だと聞いた。
 街明かりが美しい風景だった。古民家が連なる由緒正しい街並みが、整然かつ厳然と、芹澤の瞳に焼きついた。
「クソ親父――――! 全ッ然判ってないんだからッ!」
 サムスンがその幽遠たる夜景に水を差す毒を吐く。
「サムスン――――お父さんを、悪く言わないで欲しい」
「芹澤君……?」
「お父さんの言葉は真っ当だよ……だから……僕も恐かったんだ――――!」
 芹澤の言葉に目を丸くするサムスン。
「サムスンは僕から見ても――――今、こうして君の横顔を見ていても、綺麗で……眩しくて――――僕なんか釣り合わない――――」
「芹澤くんッ!」
 サムスンが激怒した。判っていることだ。彼女も、一大の決意をして芹澤をこの地、この故郷に彼を招いたのだから。
「でも……」
 芹澤は冷静にサムスンの瞳を見つめた。淀みない、真っ直ぐな眼差しを、愛しい人に注いだ。

「あなたしか……居なかったんだ――――!」

 夕陽に当てられた真っ赤な顔面がカムフラージュしてくれた。夕映えの高台。蘇る、互いの鮮烈な慕情。
それでも、芹澤はこらえた。
 多分、ここに至るまで。いや、唐突にサムスンが消えたときから、思っていたことかも知れない。
 それは、サムスンの意に沿うかどうか判らない。でも、今の芹澤が本気で言えることは、これしかなかった。

「……この町で、サムスン。あなたと、老いるまで――――」

 黄昏の逆光線に映る彼女の影が、小さく揺れた。
 そして、少しだけ顎を上げて空を見つめる彼女の瞳が、確かに橙の色を含めて光った。。
「芹澤くん――――あのね?」
 不意に、寂しそうな声色で彼女は唇を動かす。
「お父さんも、お母さんも言わなかったし、私もずっと言わなかったことがあるの…………」
 その突然のカミングアウト予告に、芹澤はドキリとする。
「私にはね。五つ上の兄がいたんだ。忠光って言う名前。武士みたいでしょ?」
 言いながら少しだけ笑う。
「私と違って……というか、お父さんに似て真面目で、寡黙で、勉強が凄く出来た。ぶっきら棒だけど、妹の私にも優しかった。可愛がれた訳でもないし、喧嘩もした記憶はあまりないんだけど……記憶に残っている忠光兄さんはいつも、優しかったわ」
 過去形で兄のことを話すサムスン。また一つ知ったサムスンのこと。それはきっと……。
「でも、私が十歳の時に、忠光兄さんは交通事故で……」
 少しだけ彼女の声が震えているのが判る。傍により、肩を抱けば良いのかも知れなかった。しかし、芹澤は最後まで彼女の話を聞かなければならない様な気がしていた。
「お父さんは優秀な忠光兄さんに期待していたの。ゆくゆくはお父さんと同じ公務員になって、良いお嫁さんを迎えて、樹村家を継いで――――……ホント、全幅の期待を寄せていたのが判るの。私は忠光兄さんとは違って、出来ない子だったから……」
 康光の当たりの強さは、亡息への想いが強いからかと思った。
「私が東京の短大を受けたいって言ったときもさ、お母さんは地元から通える大学にしなさいって、言ってくれたんだけど……お父さんは何も言わないで、それどころか、東京でやれるものならやってみればいい。なんてこと言っちゃってくれて!」
 涙声で自嘲するサムスン。芹澤は黙って傾聴する。

 ――――私、多分……忠光兄さんのようになりたかっただけなのかも知れない。
 格好だけつけて、気位を高く保って――――
 忠光兄さんに、なれる筈なんて無いのに……
 告白されることがあっても、告白はしたことがなくて――――
 別離れるときも、私もそう思っていた、なんて強がりを言ってさ――――
 必死で足?いても、どんなに手を伸ばしても……
 あの寡黙で優しかった忠光兄さんの手を触れることは、出来なかったんだあ――――

 サムスンがここまで自分を語ったのは、芹澤の前では初めてだったのかも知れない。最初に付き合っていた頃は、互いに背伸びをして、ありのままの姿を、本当は脆く、弱い自分を曝け出すことが怖かった。
「後はッ……ふふっ。芹澤くんと出会った切っ掛けの通りです!」
 あの運命的な間違い電話に至る。夕映えの逆光線。そのシルエットでも、サムスンは美しく小首を傾げて戯けた。
 それ以上、話すことはないだろうと覚った芹澤は、片足を踏み出して明るく振る舞うサムスンの華奢な背中をそっと抱きしめた。
「芹澤……く……ん……?」
 この頼りない青年の温もりに、サムスンは無意識に両の瞳からぽろぽろと金色の光の粒が零れ落ちた。

 ――――サムスン……!
 俺は……あなたのお兄さんの忠光さんじゃない。
 そして、あなたのお父さん康光さんに認められるような男でもないと思う。
 でも、それでも! あなたでなければ、俺も、あなたも……きっと今も、そしてこれからもずっと、ずっと自分を偽って、片意地を張って生きていったと思う。
 それは、多分、きっと疲れ果てるだけの生き方だと思ったんだ――――!

 芹澤の痛切な想いに、サムスンの胸がキュンと痛む。
「芹澤くん……」
「俺は――――ずっと、本当の自分自身から逃れたくて、ただ無駄に、我武者羅に走りつづけていたんだって思ったんだ。サムスンのこと、何も知らずにただ格好ばかりつけて、張り合って……弱いところ、見られたくないなんて、小さなプライドにこだわって、あなたを追いつめてしまっていたことにも気がつかなくて……」
「そ、そんな事なッ…!」
 サムスンの悲痛を抑えて芹澤は続けた。
「堂々と、弱さ、脆さ、ヘタレっぷり――――惜しげもなく、ありのままの自分をあなたに見せていれば……こんなに遠回りする必要なんてなかったのかも知れない」

 そして、芹澤は語った。サムスンの失踪の後、両ナナとの馴れ初めと破綻。そして、しばらくして高校時代に恋していた〝野ブタ〟と再会し、前に進み続けろと激励されたこと。

 それでも、確かな未来を描いていたのは、サムスン。あなただったんだ――――!

 奥村の一族企業で働いていた頃、否応なく意識させられた〝結婚〟という二文字。それまで成り行き任せに、ただ流されていた芹澤が、初めて気がついた、人生の先を共に歩むべき伴侶の姿。それが、サムスンだった。
 奥村の令嬢とは、自分の弱さが招いた罪で破綻し、失職した。自分で、自分が嫌になると思いながらも、心奥でサムスンは常に光を放っていた。
 都合の良いことを言っているんじゃない、お前は一生、人並みの幸福など享けられない!
 自虐が、唯一の救いだったと思う。
 安藤先生に救われて、パラリーガルとして安月給でも一応、人並みの収入は得る事は出来た。ただ黙然と、ただ我武者羅に、仕事に打ち込んだ。
 でも、サムスン……あなたとの日々は、決して廃れるものじゃ、なかったんだ――――。

 芹澤は腫らした目をサムスンに向け、石を固めて結んだ真一文字の唇を動かす。

「サムスン――――。俺には忠光さんの器量はない。でも、あなたを愛する一人の男として、あなたを生涯の伴侶としたい――――」

 東京を離れて、この地(サムスンの故郷)で、生涯を共にしないか――――

 プロポーズだった。
 芹澤がサムスンと出逢い、共に過ごしてきた時間に蓄積されていた廃れることのない想いとともに、突然に消え去った彼女の行動と想いがブーストされ、はち切れた心の荒野に残った真実の想いが、それだった。
 俺、芹澤祐輔は、サムスンを愛している。共に老後の寂れた縁側でお茶を飲み、微睡む。 途轍もなく遙かな未来をすんなりと描ける女性が、サムスンだった。だから、こう告白したのだ。

「あ……うん…………」
 サムスンは嬉しいとも、迷惑とも判断がつかない微笑を浮かべて小首を傾げた。