第一話 後主、流涕焦がれて剣を掴み星彩を留め、月下の洛陽に奸臣を斬る

 魏の司馬昭・鄧艾・鍾会らの征蜀軍が緜竹を突破した報を聞いた蜀主・劉禅。何を物思っていたのだろうか、先主・劉備の廟に詣でると近侍に告げた。

「敵は都まで三日の距離でございます!」
 侍中の叫びに、劉禅はいつものような穏やかな眼差しを向けて答えた。
「皆が戦いに征く度に、私は昭烈廟に祷りを捧げてきたが、今日はまた格別だな」
 侍中が脱力し、床に崩れる。

 夏侯覇が戦死した。諸葛武侯・亮の子諸葛瞻も、母月英とともに緜竹に散った。成都に駆け込む早馬の報は、仁の世を目指した「蜀」の滅亡を、現実のものとして受け止めざるを得ない、勇将たちの訃報ばかりだった。

 驚くほど幽静な先帝劉備の廟・昭烈廟。供も連れずただ一人、劉禅の沓の音だけが戛戛と響く。
 そして、香が立つ先帝の位牌の前で、劉諶が斃れていた。滅び行く蜀に殉じた、皇子。

「それが、お前の生き方であったか」
 胸を突いた懐剣を抜き、劉禅は静かに皇子の手を合わせて瞼を閉じた。

 蒼穹を望む廟の屋上、劉禅はその穹の色を瞳の奥に吸い込む。喧噪を除けばいつもと変わらない、成都の穹だった。
 劉禅よりも先に、ぽつんと一人佇む少女の姿。星彩であった。
 遠目から見ても判るほどに肩が震え、血が滲み出そうとばかりに拳を強く握りしめている。
 鬼気迫る後ろ姿に、劉禅はただならぬ気配を感じた。

「星彩。ここにいたのか」
 劉禅が彼女の背中に声をかけると、ぴくんと反応し、ゆっくりと彼女は振り向く。

 勇猛なところ以外は父親に似ず、精悍な美貌に沈着冷静な性格。関平と共にその“使命”を、細い双肩に担ってきた。関平亡き後も、ずっと。
 使命をよすがに涙を見せることが一切無かった彼女が、目を腫らしてしていた。人知れず、激しく隠泣した直後だったのだろうか。

「劉禅さま……」
 この期に及んでも、恭しく拝跪する。愚直なほどに星彩は忠義を全うしようとする。
「申し訳ございません…………こうなってしまったのも……全ては私の力不足――――」
 血が滲むほどに強く唇を噛み、落涙を止めることが出来ない。

 そんな様子に、劉禅はまるで逡巡するかのように、手を差し伸べようとしておしとどまり、穏やかな表情は、苛つくほど平静な眼差しを星彩に向けていたのである。

「皆……、逝かれました。劉禅さま……この罪……せめてこの私が一身に……」
「何をする気だ、星彩」
 星彩が得手・盾牌剣の剣尖をじっと見つめ、顔を更に紅潮させた。それが、覚悟の極みだった。
「ごめんなさい……りゅ――――!」

 その瞬間だった。瞬間星彩は喉を突くために腕を引こうとしたが、出来なかった。はっとなり星彩が瞠目し、そして愕然となる。
 相も変わらずな平静な微笑みの中に、深い蒼穹の色を瞳の奥に汪溢させた劉禅が、まっすぐに星彩の瞳を捉え、その右手には星彩の剣を素手でがっちりと掴んでいた。びくともしない力、銀色の輝きに、紅みが広がってゆく。

「劉禅さまっ!」
 慌てて剣を離し、劉禅の右手を両手で押さえる星彩。その様子を、劉禅は表情一つも変えずに瞳で追っている。
「何をされるのですか。こうなってしまったのは、私の罪。父に……丞相に……先帝に……顔向けできません」
 絹を裂き、それで劉禅の傷を縛りながら、星彩が嗚咽をぎりぎりの範囲で我慢しながら、言う。
「そなたまで、逝くことはあるまい」
「しかし…………っ!?」

 星彩が瞳を上げると、更に愕然となった。平静な口調、表情ながら劉禅が涙を流している。今までそんな姿を見たことがない。周囲の期待をいかに思っているか知れない暗弱な君主という陰口の嵐の中でも、決して表情を出さなかった劉禅が、星彩に向かって激しく涙を流していた。

「りゅ、劉禅さまっ! も、申し訳ございません、い、痛かったですか」
 星彩は柄にもなく激しい動揺を見せ、劉禅の右手を取った。だが、劉禅はその星彩の手に、もう一方の手のひらを重ねた。

 星彩が劉禅を向く。劉禅はたおやかな微笑みに不具合なほどに涙を流し、星彩にゆっくりと語る。
「皆は逝ったが、そなたは希望の星……なのであろう。星がなくば、この劉公嗣、いかようにして道を征けばよいのだ」
「劉禅さま……私には、皆から託された思いが……」
「ゆえに、死に急ぐのか星彩」
 静かな口調に、初めて怒気が滲む。
「死して“仁の世”が普及するのならば、いつでも死せよ」
「劉……禅さま?」
 戸惑う星彩の手を、劉禅はぎゅっと握りしめる。こんな時なのに、羞恥でも顔が赤らむものなのか。

「生きて大業の見込みあるならばいつでも生きよ!」

 そう、静かにそれでも力強く言った劉禅。深い瞳の奥に燻る、蒼い炎が星彩にははっきりと判った。
 肩の力が抜け、星彩の上体が崩れ落ちそうになる。劉禅はゆっくりと、それでもしっかりと星彩の身体を抱きとめた。彼女の震えが全身に感じた。こんなに細い身体で、今まで頑張ってきたのか。
「私は生きるぞ、星彩。先人のやり方ではない、劉公嗣の目指す仁の世をな」
「…………」
 星彩は劉禅の胸の中で、ひたすら慟哭した。

 蜀の炎興元年、成都開城。司馬昭の前に劉禅は跪いた。ここに、劉備・関羽・張飛、諸葛亮・趙子龍らが築き上げた理想郷・蜀は滅亡する。理想を目指し戦い、散った蜀将は、奇しくも劉禅を守る使命を負った星彩だけが、生き残ったのである。

「後世の譏りなど恐れることはない。私は生きるぞ。そして……」
「劉禅さま――――」
「いつか、そなたの心が私に向いてくれることを願おう」
「そ、そのようなことは――――!」
 冗談なのか本気なのか、劉禅の一挙手一投足に狼狽する星彩。長安に向かう馬車の中から快活な笑い声が響き、蜀の旧臣・魏兵たちは惘然とするばかりであったという。

「大賢は愚なるが如し」とは果たして本当なのか。蜀帝・劉禅を始めとした蜀の旧臣達を護送してきた一行が長安に辿り着く。その長い行列を、楼閣から静かに見つめる、美しい女性がいた。
 プラチナブロンドの長い髪に、凛然とした金色の瞳、仙女のような白い肌に目を惹く豊満な胸もとを強調する装束。儼然とした雰囲気を醸しながら、それでいて粛然たる美しさがある。

 司馬昭の側近、邵悌が彼女を見つけた。
「元姫殿、ここにおわしたか」
 王元姫は軽く会釈をしただけで長安入城をする一行を見つめ続ける。
「晋公も帰着された由。戦勝、まことに祝着ですな」
 哄笑する邵悌。しかし元姫は冷静にこう言った。
「蜀主劉禅殿とは、どのような方なのですか。元伯殿」
 どこか冷めていると言えば誹謗になる。静かで、そこはかとなく少女のような無邪気さも残る声。
「蜀主の噂は余人の知るところです。亡国の主とは、樗櫟にも劣るもの」
「そうですか……」
 鼻で笑う邵悌に対し、元姫は神妙な表情を崩さずに“虜囚”の一行をじっと目で追っていた。

 その日、随分と久しぶりに司馬昭が帰還してきた。
「よう、元姫。元気だったか? なんてな!」
 昭なりの挨拶だったが、それを有無を言わずガン無視して、元姫がつかつかと昭の側に歩み寄る。
「子上殿」
 頭ふたつ分背の低い元姫が、くいと昭を見あげる。鬼気迫るような彼女の気迫はいつものことだったが、今日はまたひと味違った。
「な、何だよ」
「蜀主劉禅殿のことですが……、子上殿はどのように処遇されるのですか」
 突き刺すような金色の視線。わずかに逸らし、苦くはにかむ昭。
「あー、何かと思えば、そのことかやっぱり。えーっと……なぁ元姫、俺は今蜀から帰ってきたばっかだからよ、難しい話は後からにしてくんね?」
「…………」
 肩を落とし、あからさまに大きな嘆息をつく元姫。
「そうだったわね。“た ま に”働いた子上殿はさぞお疲れでした」
 きつい皮肉。苦笑しながら、後頭部をポリポリと掻く昭。
「あーそうだ。なぁ元姫、明日蜀主を招いて宴を開く予定なんだ。お前はどうするよ」
「もちろん、出るわ」
 元姫にしては珍しく即答。驚く昭。
「へえ。珍しいな。いつもの元姫だったら、ため息混じりに“またなの?いい加減にして”ってつれない返事しかしないってーのに」
 昭がにやりと嗤う。しかし元姫は氷の彫像のような美貌を崩さず、瞳だけを昭に向けて言う。

「あなたが本気を出して、蜀を倒した戦勝の宴だから。這ってでも出るわ」

「なあ、元姫。久しぶりの長安だ。今日はお前とゆっくり過ごしてぇー」
 腕を伸ばして元姫の肩を抱き寄せようとするが、するりと元姫は身を翻した。
「ンだよぉ、ケチだな」
 唇を尖らす昭。
「それよりも子上殿。蜀討伐の報告を天子に。形とは言え、筋は通して」
「あー、はいはい。わかったよ。んじゃ、天子に報告したら今日はもう寝るわ。めっちゃ疲れたしな」

 両手を広げてお手上げの仕種を見せると、昭は悲憤慷慨の色よろしくすれ違いざまに元姫の頬に唇を寄せると、そのまま禁城の方へ歩み去って行った。昭の口づけを受けた部分を手のひらで覆い、元姫はわずかに頬を染めた。

「母上」
 そこへ、官服を纏った若者が現れ、恭しく元姫に拝礼した。その姿に元姫が穏やかに微笑む。
「攸、どうしたの?」
 誰なん司馬攸、字を大猷という。司馬昭と、王元姫の子である。聡明で温厚、品行方正という才子である。
「父上が凱旋されたとのこと、誠にもって祝着の極みでございます。攸が御挨拶を」
「良い心がけね、攸。……でも残念。子上殿は禁城へ昇ったわ。天子に拝謁したら、そのまま邸へ戻って休むと言っていた」
「そうですか。乱世の収束、人心の収攬。いずれにおいても父上の偉業なれば、攸もお側にて学びたいと思っておりましたのに」
「ふふっ。そんな悲しそうな顔しないで。明日は蜀主を招いて戦勝の宴が催されるみたいだから、あなたも出るといいわ」
「はい。末席に預かることが出来れば、幸いです」

「……ところで攸、炎はどうしたの? いないの?」
 その名を聞いた途端、攸の顔色が曇る。
「兄上は、先日から楊文長殿と城下の料理屋に……」
 すると、元姫もまた、その美貌に影が差す。
「また楊駿殿と――――はぁ。わかったわ。炎には戻ったら伝えておくから、あなたももう下がりなさい」
「はい、母上」
 司馬攸が退出し、元姫が再び一人になる。
 凱旋、或いは護送による馬蹄剣戈の擦れ合う音が漸く止み、西の空が赤く染まる。
 元姫はじっと椅子に腰掛けながら、瞳を閉じ両手を膝に合わせて想いに耽っていた。脳裡に走るのは、司馬懿・司馬師、そして諸葛誕、郭淮らの戦友たちの姿。

(子元殿……子元殿――――お願いです。子上殿に、あなたが生きるはずだった分の寿命を与えて下さい。今の天下に、子上殿無くては……)

 プラチナブロンドの長い髪が、夕日を受けて黄金色の輝きを放っていた。

 司馬昭と元姫の長男・司馬炎、字を安世が戻ってきたのは、翌日のまだ日が昇らない中であった。こっそりと邸宅の裏口から忍び込んだつもりだったが、元姫に見つかってしまった。

「は、母上。これは……その」
 腰まで伸びた長い髪の毛が目を惹く、偉丈夫だった。しかし、元姫に見つかると足が竦んだように固まり、言い訳をしようとする。しかし元姫は、言い訳はいらないと冷たく釘を刺した上で言った。
「遊ぶな、なんて言わないわ炎。でも、あなたは司馬家の……それを自覚して」
 大きな声で怒りを受けるよりも、冷徹な口調で突き放されたような言い方が応えるものだ。炎は苦虫をかみつぶしたような表情で、元姫の説教を受けていた。
「今日は蜀主を交えての宴があるから、あなたも出なさい。それまで、邸で寝なさい。どうせ、寝てないんでしょう? いいわね」
「はい、すみません……母上」
 しょぼんと肩を落とし、炎は自邸に戻ってゆく。元姫の表情は晴れなかった。

 長安に護送されてきて早早に、劉禅は昇殿した。魏元帝・曹奐に拝し、魏への降伏の証を示したのである。同時に幽州安楽公という、奇しくも劉備の生誕地近くの小さな所領の公に封じるという詔書を下された。
「謹んで」
 仇敵・魏帝に拝跪する蜀主の姿を、どのような思いで旧臣達は見ていたのだろうか。

 司馬昭が宮殿入り口近くの柱にもたれながら、退出する劉禅を見つけ呼び止めた。
「よお、安楽公殿」
 歩を止め、ゆっくりと振り返る。昭の姿を見て、にこりと微笑む劉禅。
「おや。これは晋公。ご機嫌うるわしゅう……」
「あーカタッ苦しいなぁ! 名前でいいって。それよりも」
「はい?」
「昨日の今日で、疲れてないか?」
「いえ、大丈夫です。昨夜は、ぐっすりと眠れましたよ。成都と比べると、暖かいですからね」
 はははと笑う。昭は一瞬、呆気に取られたが、言った。
「ならば今宵、慰労会だ。まー、戦勝と敗戦。どっちもまとめて慰労会って事で、よろしく!」
「ああ、そうなんですか。お気遣いありがとう。楽しみにしております」
 劉禅が更に相好を崩すと、昭は劉禅の肩をぽんぽんと二、三度叩いてから去った。
「…………」
 劉禅は微笑んだまま、司馬昭を見送った。その瞳は、どこまでも深く、蒼い空の色を湛えていた。

 その前日――――。

「劉禅さま、お疲れではありませんか」
 洛陽城の門扉が視界に入った時、劉禅の輦の側で警護するために馬に跨がっていた星彩が声をかける。
「ああ。私は大丈夫だ。星彩も、さぞ疲れたであろうな」
「いえ……私は平気……です」
 劉禅が輦の窓から星彩の横顔を見る。昭烈廟以来、凛凜儼然とした彼女の覇気が薄れ、寂しげな色だけが目立つ。使命を負い、いつでも強かった星彩が、そこにはいなかった。
「…………」
 劉禅は瞳を閉じて前を向く。それから、洛陽に住まう人々からの様々な喧噪を過ぎ、司馬昭が予め用意していたであろう、広大な客殿にたどり着くまで、言葉を交わさなかった。

「どうぞ……」
 星彩が手を差し伸べる。
「ありがとう」
 劉禅が手を重ね、輦を降りる。ひとつ、息を吸った。成都とは明らかに違う空気の味。肥沃な山野に囲まれ、そこはかとなく緑の匂いが心地良かった成都とは違う、都会の乾いた砂臭さがあった。
 劉禅はふうとひとつ息をつくと、客殿に入ってゆく。星彩も後に続いた。
「皆はどうした?」
「張紹と鄧良、郤正殿の文官は洛陽禁城へ。武官も後から何らかの沙汰があるかと……」
「黄皓はどこにいる」
 すると、星彩の表情が曇った。
「黄皓……どのも、おそらく禁城へ」
「…………そうか」
 劉禅が視線を落とした。
「劉禅さま。お疲れでしょう。たどり着いたばかりですが、少しお休みを」
 星彩が慣れない笑みを繕う。痛々しかった。
「そなたも休め。ここにいよ。私の側にいよ」
 劉禅が言うと、星彩はこくんと頷いた。

「今の私には……劉禅さまがすべて……仰せのままに……」

 鎧を外す。まるでそうすることが義務・使命と言わんばかり。おもむろに服に手をかける星彩を、劉禅はその手を重ねて制止する。驚いて劉禅を見る星彩。その瞳は優しく、深い蒼色。こういう状況なのに、星彩が知る、変わらない深い瞳。
 劉禅はゆっくりと、首を横に数回振った。
「そう言う意味ではない。星彩、ただ私の側にいてくれ。何もしなくてもよいのだ。今はそなたを、見ていたい」
「劉禅……さま……?」
 手の力が抜け、劉禅の温かい手と重ねられながら落ちる。
「よいな?」
「はい……仰せのままに……」
 劉禅は銚釐が備えられた机の長椅子に腰掛けた。星彩も怖ず怖ずとしながら、劉禅の言葉のままに、寄り添うように腰掛ける。
「洛陽の酒は、美味しいかなあ」
「さあ……どうでしょう」

 日が落ちた。蝋燭が灯され、客殿も明るくなった。
 出された食事も取り、劉禅と星彩は詮無い会話を交わす。決して気が晴れるわけではないが、紛らわしくらいにはなった。そして、いつしか星彩は劉禅の肩に靠れるようにして静かに寝息を立てていた。余程気が張り、疲れていたのであろう。それでも劉禅の優しさに少し気が抜けたのであろうか、きゅっと閉じられた綺麗な唇はもとより、厳(いつ)し表情からは少し離れた安らかな表情だった。
「…………」
 劉禅は微笑みながらそっと星彩の前髪を梳き、上体を支えながら、ゆっくりと身をずらし、彼女を長椅子に横にした。羽織っていた外套を掛けた。
 星彩の寝顔を見て、劉禅は微笑みが増し、同時にその瞳の奥が、静かに燻った。

 劉禅は劉備から伝えられた双の宝剣を佩き、眠る星彩を一瞥すると、足音を立てずに廊下に出た。
 月が美しい夜。こんなにも月が輝いていると、星も見えない。
「月英に、星彩……今は星だけが残ったか――――」
 自嘲気味につぶやき、劉禅はくつくつと笑った。
 客殿を過ぎ、魏の諸官が詰める屯所、そして禁城への通路が見えた。今は夜、一部の衛兵を除いて殆ど人はいなかった。
 その時だった。禁城の脇、政庁への通路の方角から官服を着た文官が現れた。見覚えどころか、見忘れるはずもない。
「黄皓」
 劉禅が柔和に声を掛けると、その文官が気づいたのか、慌てて拝礼をしてくる。
「これは陛下。お休みでは無かったのでしょうか」
「いささか目が醒めてな。……ところで、そなたこの時間までどこに行っていたのだ」
 すると黄皓が笑みを浮かべて答える。
「魏の諸官に、陛下の処遇を善しとするようお願いに廻っていたところでございます」
「ほう……私のな」
「はい。陛下は蜀の人民のためを慮り、御聖断をもって魏に降られました。まさに天を知り時を知る仁徳の賜でありますゆえ、何とぞ魏帝におかせられましては、陛下を貴き身分にて遇せられますようにと……」
「それは、ありがたいことだ……」
 劉禅は微笑んでいた。
「重ねて蜀の文武諸官についても、同じく……」
「……さすがは、今まで朝廷を差配してきた黄皓よな……」
「はい。……あ、陛下。明日は晋公より宴が催されるとのこと。楽しみですなあ、ふふふ」
「ああ、そうだな」
 劉禅は微笑む。
「では陛下。私めはひとまず先に休ませていただきまする」
「ああ」
 黄皓は恭しく拝礼をしながら、客殿の方へ歩を進めてゆく。劉禅の傍らを過ぎていった。

 その時だった。

 ズッ……!

 黄皓の胸板に、突然、激しい熱さと激痛が奔った。愕然となった黄皓が視線を落とすと、月光に照られた銀色の鋼が、朱の光を放ち胸から生えていた。
 そして、黄皓が振り返ろうとした時に、同時にその鋼がずるっと言う音を立てて抜ける。途端に熱い液体が、黄皓の背中と胸元から吹き出した。
「へ……陛下……!」
 瞬く間に充血する目で振り向き、見た劉禅は変わらぬ微笑みを湛えながら、血糊で染まった宝剣を突きだしていた。
「な……何故でございますか……陛下……!」
「すまぬな、黄皓。さようなら……だ」
 それだけ言うと、劉禅は瞬間、驚くべき身のこなしで腕を振り上げ、黄皓を頭の上から真っ直ぐ剣を振り下ろした。悲鳴すら、黄皓は上げられなかった。
 血しぶきを浴びた劉禅が、微笑みに悲しみの色を混ぜて空を見あげた。

「待っていよ……私もじきに、そちらへ行く……」

 巡邏していた兵が、蜀の宦官・黄皓の死骸を見つけた。大騒ぎになったが、黄皓は蜀臣から憎悪されていた。その誰かによって暗殺されたのだろうとされ、すぐに収まった。黄皓が劉禅や蜀の旧臣のためなどではなく、自らの保身のために動いていたことは、周知の事実だった。