第二話 安楽公、魏宴にて愚蒙を演じ 姜維、鍾会を連座し蜀霄に落斗す

 星彩が目を覚ました。薄目の視界に入る周囲は薄暗く、燭台の灯りだけが部屋を淡く照らす。
 身体に掛けられた劉禅の外套に、彼女はそこはかとない温かな感じを受け、唇を弛めた。

「起きたか、星彩」
 傍らからゆったりとした声がかかり、星彩は驚く。
「劉禅さま……! まさか、ずっと……起きていらしたのですか」
「ああ。そなたの寝顔を、ずうっと眺めていた」
「…………」

 臆面も無くそんなことを言う劉禅に、星彩は思わず瞳を伏せて、無意識に上気する頬を隠そうとする。しかし、星彩はすぐに気づいた。

「劉禅さま、お召し物が――――」
「ん……ああ。嘘をついてしまったな。ずうっとではない。少しの間、湯浴みをしてきた。晋公が用意をされていたようでな。助かるよ」
「湯浴み……ですか?」
 真夜中に湯浴みとは劉禅らしい突発行動に思えた。しかし、戦場に長くあって戦ってきた星彩にとって、劉禅の身体からわずかに立ちこめるその匂いを逃さなかった。
「劉禅さま……何かあ――――」
 言いかけた星彩を、劉禅は止めた。
「そなたも、浴びてくるが良い。なかなかよい湯であるぞ」
「私は……はい……」
 穏やかな微笑みを浮かべる劉禅の瞳の深さに、星彩は自然の感覚でそれ以上の追及を押し留めた。

 湯浴みと言っても水瓶に浸かるわけではない。ぬるま湯で身体を清める、行水のようなものだ。
 それでも身体を拭くと自然と気持ちが落ち着いた。星彩は自分では特に意識はしていないが、非常に美しい身体をしている。戦場に長くあったとは思えないほどに白い玉肌、均整の取れた形の良い胸に長い脚。
 なるほど、かつて父・張飛が「星彩に近付く虫は一息にぶっ飛ばす!」などと娘を持つ一人の父親然とばかりに鼻息を荒くするほど、目を惹く。
 そんな星彩の肌を、水が玉となって滑り落ちる。ふと、胸元に当てていた布を止めて、瞳を閉じた。

(関平……ごめんなさい……私だけ……逝けなかった……)

 布を握りしめる。含んだ水が滴った。

 劉禅は殊の外、星彩を大切にしている。蜀と劉禅を守り、心身を捧げると誓って奉仕する覚悟を決めて生きてきた。劉禅はこの凛々儼然とした少女をいつでも閨房に招くことも出来たのだが、劉禅は一度も星彩を抱こうとはしなかった。身体は求めず、星彩の生き方を、劉禅は案じていた。

 星彩も、そんな劉禅の思いを知っている。
 自らの身体が美しい物かどうかなどはわからない。月英や鮑三娘、孫尚香とも湯浴みを共にした記憶は無い。
 長く共に戦場にあり二人三脚で戦ってきた莫逆の友・関平も、何故か星彩をあまり直視したことはない。ただ、何故か関平は自分を見る時は顔を赤くして目をオドオドさせていたことだけは記憶に残る。
 男女の艶話などはとんと朴念仁である星彩だったが、やはり妙齢の女性の本能なのだろうか、ふと眺めた自らの身体に、小さな不安のようなものを感じてしまった。

 湯浴みを終えた星彩が戻ると、劉禅は長椅子に肘枕をして目を閉じていた。
「劉禅さま……お風邪を……」
 星彩が先ほどまで掛けられていた外套を手に取り、劉禅の肩に掛ける。
「星彩」
 小さな声で、劉禅が呼んだ。
「はい……」

「今日の宴。私は汗青に汚名を刻むだろうな」

「劉禅……さま?」
 穏やかな声の中に、わずかな震えがあるのを、星彩は聴き逃さなかった。
「蜀の皆や、先人……そして、星彩。そなたもきっと、私に心底呆れ果てるだろう」
「どういう……意味ですか、劉禅……さま」
 星彩が劉禅の傍らに座り、膝に乗せられていた片方の手を取る。

「ああ……」
 唇にただ、温和な微笑みを湛えて、劉禅は長嘆する。
「劉禅さま。お願いです。何かお考えがあるのなら……おっしゃって下さい」
「星彩」

 劉禅が瞼を上げ、振り向く。星彩の凛々とした瞳が、真っ直ぐに劉禅を見つめていた。しっとりとした美しい黒髪からいい匂いがする。
「私は……劉禅さまに自害を止められました。……残りの命は、劉禅さまのもの……どうか。大事ならば私が……」
「ありがとう、星彩」
 劉禅がそっと、星彩を抱き寄せた。腰丈の着物一枚だった星彩の身体は想像以上に小さく、しなやかで柔らかかった。

 力強くない、そうされるだけで心が落ち着くような程に、劉禅は優しく星彩の背中を包む。
 星彩が劉禅の胸元に耳を当て、鼓動を聴く。わずかに速くはあったが、劉禅は星彩を抱きしめることに、特別な意識はないように思えた。
「劉禅さま……私は……」
 星彩の声に、少しだけ熱が帯びた。劉禅は二、三度彼女の背中をさすると囁くように言った。
「星彩に、誇れる時が来たら……。その時までは、こうしていよう……」
 寄り添いながら、やがて眠りに落ちた。

 司馬昭が主宰する私邸の慰労宴には、錚々たる司馬の重鎮が顔を揃えていた。
 頭が痛そうにこめかみを押さえている昭と元姫の子・司馬炎。その隣には同じく炎の弟・攸。

 そして昭の実弟・司馬幹。字を子良。異母弟・司馬亮、字を子翼。同じく司馬伷、字を子将を始めとする主立った司馬一族。そして、賈充・張華・王渾・王沈・裴秀・荀勗・羊祜など司馬一族の柱石たちがずらりと並んだ。

 一方、対面には譙周・郤正・張紹・鄧良・董厥・樊建などの蜀の重臣らが暗澹とした様子で顔を揃えていた。
 戦勝側の威勢高き哄笑と、亡国の臣の囁嚅。これが、現実の風景ではあった。

「晋公のお越しです」
 侍臣の言葉と同時に、妙に明るく屈託のない話し声が響きわたる。声のする方に皆が視線を向けると、晋公・司馬昭が安楽公・劉禅と親しげに話し、笑い合いながら現れ、昭の後ろには王元姫、そして劉禅の後には星彩がついた。

「おうみんな、待たせたな。余計な挨拶は抜きだ。早速始めようぜ」
「子上殿……」
 挨拶くらいはしろと言いたげの元姫だったが、昭は面倒くさげに軽く溜息をつく。それでも、言う通りに挨拶をする。

「ここにいる安楽公・劉公嗣の英断で、俺たちによる三分帰一の道はぐっと近くなった! 今日は勝った負けたの話は無しだ。互いをねぎらう慰労会だからな。存分に飲(や)ろう」

 そして、劉禅が盃を掲げて乾盃と言うと、集まった諸侯達も一斉唱和した。

 楽士や舞姫たちが宴を彩り、諸侯達も当初の緊張が徐々に解れてきた。談笑もよく弾み、融和の空気が逾場を和ませつつあった。

 そんな中、昭の傍らにいる元姫は、ずっと昭の盃を満面の笑顔で受けている劉禅を凝視していた。静かで怜悧、洞察力に富んだ活眼の美姫の鋭い視線は、邵悌をして樗櫟に劣るとこき下ろされた暗愚の蜀主を見据えていたのである。
 劉禅はこの美しい女性から受ける視線に気づく様子もなく、昭との会話に弾んでいる。一方で、劉禅の側に控える星彩が、元姫の向ける視線に気づいていた。

「劉禅さまに、何か」
 星彩と元姫は何度か戦場で見えたこともある。思想はそれぞれ違えども、剣戈を交えた互いの勇戦は認めあっていた。
「星彩殿……いえ、何でもないわ。ただ、劉公嗣殿を見るのは初めてだから、つい……ね」
 男として劉禅に興味があると言う意味では、もちろんない。星彩は元姫が不審な思いで劉禅を見ていると言うことを、感じていた。

「劉禅さまはとても正直で、優しい方。……あなたが何を思っているかは知らないけど……あなたが心配するようなことを、考えるような方じゃない」
「ふふっ、星彩殿は私が何を考えているのか、お判りのようね」
 元姫が冷たい視線を星彩に向ける。
「そんなのは知らない。……でも、悪しき思いで……劉禅さまを見るのはやめて」
 星彩が同じ眼差しをぶつける。
「公嗣殿のこと、深く想っているのね、あなた」
「…………!」
 にやりと笑う元姫の言葉に、星彩は愕然とし、二の句が継げなかった。

「まあ、いいわ。わかった」
 元姫はほうと息をつくと、昭の膳から盃を抜き取ると、酒を注いで星彩に差しだした。
「戦場以外で、あなたと話すのは初めてね。お近づきのしるし……って柄じゃないけど、どう?」
「正直……受ける義理じゃないけど……せっかくだから……頂くわ」
 星彩がそう答えて盃を受け取ると、元姫は目を細めて微笑んだ。いつしか、宴を彩る楽曲は変わり、寂寥感漂う巴蜀発祥の叙情曲になっていた。
 その時だった。

「公嗣よ、蜀が懐かしいだろ」

 昭が突然、声を上げて劉禅に言った。途端に群臣の談笑が引き、静まる。皆、蜀主の返答を待った。すると劉禅は、思考の間もなく、驚くべき答えを返した。

「ああ。いいえ、全然。ここは愉しくて、懐かしいなどとは思いませんよ」

「はぁ? 昨日の今日で、愉しくも何もあるかって。国を喪ったんだ、何とも思わないってのか?」
 昭の言葉に、劉禅は立ち上がり、朗笑して更に答えた。

「ああしろ、こうしろと言われることもなく、故人の遺志という雁字搦めから解放されたんですよ? これほど愉しいことがありましょうか」

 その言葉に、群臣は呆然と固まり、さしもの司馬昭も呆気に取られて眦をひくつかせて劉禅を見た。
 元姫は唇を真一文字に結びながら、視線を劉禅に向け、そして一瞬睫を伏せた。星彩は唇を噛みしめ、肩を震わせて項垂れる。

「あはは……全く! その通り!」

 司馬昭が頤を解くと同時に、楽士の曲が中原の流行曲に変わった。

「星彩殿、さあ」
「…………」
 元姫は惘然とし、劉禅から視線を逸らすと、肩を震わす星彩に盃を勧めた。慰めになるだろうか。さすがの元姫も、星彩への同情の念は禁じ得なかった。
 
 厠に行った劉禅が、郤正の助言を受けた。成都には祖宗の廟があり、思い出すと懐かしくて涙が出ますと言うように。そうすれば蜀へ帰れます。と。
 劉禅は戻り、昭と杯を重ねた。

「なぁ公嗣、やっぱ戻りたいんじゃねぇ?」
 劉禅は郤正の言葉通りに言った。すると昭は笑いながら郤正を指差して言う。
「あいつと同じ事言ってるじゃんか」
「あはは、そうですねえ」

 そして劉禅は、蜀臣からも呆れ果てられ、笑いものになった。

 夕方。劉禅は客殿の亭にあった。坤に差し掛かる太陽を、じっと見つめていた。
 外から戻ってきた星彩が劉禅の姿を見つける。茶盤を手にしていた。
「ここでしたか……劉禅さま」
「星彩か」
 洛陽に来てから、劉禅は度々独りで虚空を見上げている。その背中に、星彩は言い寄れない寂しさのようなものを感じていた。
「お茶を淹れました。いかがですか」
「ああ、ありがとう」
 しかし、劉禅は振り向きもせず、じっと空を見つめている。
 星彩が心配そうに茶盤を置くと、劉禅の背後に寄った。そして、不意に劉禅が言った。

「私は汗青に汚名を残せたかな」
「え…………?」
 優しい声だったが、星彩の胸がずきんと痛んだ。星彩にしかわからないほどに、劉禅の声が震えていたからだ。
「蜀は暗愚なる劉禅が滅ぼした……と、後世に留め置かれようか」
「劉禅……さま……」
 星彩もまた肩が震え、唇がわなないた。

「蜀を忘れることなど……あるはずがないのにな――――皆が守ろうとした思いだ……」
 星彩が思わず、劉禅の背中にしがみついた。劉禅の胸に回された星彩の細い腕に、手のひらを重ねる。温かな手であった。
「あの太陽は、坤に沈む……坤の方角だ――――」
 劉禅の言葉に、胸が熱くなる。直視はしなかったが、そう呟くの劉禅の表情が、星彩にはよく見えた。

「安楽公」
 それからしばらくが経ち、少しばかり慌てた様相で、劉禅と星彩が寛いでいる客殿に現れた人物がいた。あの魏武帝・曹操の五男にして、詩聖と謳われた魏の陳思王・曹植、字を子建の子、曹志、字を允恭と言った。
「これは允恭殿。いかがされた」
 酒席で馬が合い、また後日飲みましょうと誘った。よくぞ訪ねてこられたとばかりに席を勧める劉禅。しかし、曹志はため息混じりに一度星彩に会釈をすると、劉禅の側につかつかと歩み寄る。会釈を返した星彩がきょとんとして二人を交互に見る。
「いかがされた、ではありませんぞ安楽公。成都で大変なことが」
「成都で……ですか」
 劉禅の眉がぴくりと反応し、星彩の表情が強張った。曹志は沈痛な表情で語った。

「鍾士季、姜伯約、張伯恭らが反乱に巻き込まれて殺されたようなのです」

「え…………!?」
 声を上げて驚いたのは星彩だった。

――――成都――――

「今や司馬昭殿は魏天を凌駕する勢いだ。私は自分の器量を知っている。無茶なことはしない」
 鍾会が剣閣にて降った蜀将・姜維に対してそう言った。
「士季殿ともいうお人が、今こうして天府の地を得られて司馬昭の武将に甘んじて時をやり過ごすのですか」
 姜維が言う。鍾会は前髪を払う仕種をして不機嫌そうに姜維を睨む。
「どういう意味だ、姜維」
「あなたのことは聞いている。天下に肩を並べる才は他になく、皆あなたを誉めそやしている。しかし……司馬昭殿はどうだろうか」
「どう、とは? はっきり言えよ」
「あなたの才を冒疾し、洛陽に凱旋してもあまり喜ばれないでしょうね」

 姜維の言葉に、ぐっと息を呑む鍾会。
「そ、そんなはずがないだろう。デタラメを言うな! 私ほどの才を持つ人間を用いなければ、蜀を滅ぼすことなど出来なかったはずだ」
「その通りですよ、士季殿。だからこそ、です」
 姜維は張翼と顔を見合わせながら、何度も鍾会を瞥視する。
「ふ、二人ともなんだ。何が言いたい!」
 鍾会がわななくと、姜維は言った
「あなたに降る前、洛陽から鄧艾殿に遣わされた使者を捕らえたことがありましてね」
「何だと……?」
 鍾会の顔色が変わった。

「鄧艾殿に宛てられた木簡を持ち合わせていたようですが、どうもあなたに渡すのは少しばかり躊躇ってしまう内容で」
 もったいつける姜維に、鍾会は声を荒げた。
「あるなら見せてくれ! 鄧艾……鄧艾だと……!」
 姜維は口の端に僅かな嗤笑を浮かべると、懐中から木簡を取り出す。鍾会は姜維の手から掠い取るように奪うと、それを開いた。
 木簡の文字を、ものすごい速さで眼球を動かし、追う鍾会。その顔面がみるみるうちに紅潮し、肩が震えた。

「何だこれは! 成都を降した後には巴・蜀・漢中・越嶲・雲南四十余州を鄧艾に統治させ、私には雍秦涼三州に太尉。洛中にあって天子の補佐……だと」
「鄧艾殿の陰平越えも、都があと三月籠城さえすれば、永安の羅令則、呉も援軍を派遣し持ちこたえられたはずです。しかし蜀主は民を思い、敢えて降伏されたのだ。鄧艾殿の功ではありません。勲功第一の士季殿に対して、鄧艾殿への偏重はあまりにも……」

「元姫か……あの王子雍のクソ娘の仕業だな、これは」
 鍾会がぎりぎりとこめかみに青筋を立てて怒る。
「王元姫……ああ、司馬昭殿の」
「あいつだ。あいつはいつも私の悪口をほざいている。この私のな」
「士季殿。あなたがいかに司馬昭殿に力を尽くそうが、あなた自身が信用されていなければ何の意味がありましょう」
「司馬昭殿は私を信頼してくれている。ありえん!」
 鍾会は強く首を横に振って自己否定をする。しかし、姜維は言った。

「狡兎死して走狗烹らると言う言葉あります。韓信をお忘れですか」

 その言葉に、鍾会ははっとなった。何かを悟ったように、姜維を睨視した。
「才子とは、天の時も知るものです――――それでそ――――」
「姜維殿」

 突然、いつもの鍾会らしい尊大な口調で言葉を遮ると、姜維を呼んだ。
「ならばどうすればよい。私にも考えはあるが、せっかくだ。あなたの意見を聞いてやってもいいぞ」
「私の策などは取るに足らないものですが、一応聞いてみますか」
「もったいぶらずに、あるなら言ってみろ」
「では……」

 鄧艾を潰し、司馬昭の簒奪の野心を糾弾する魏室の遺詔を天下に示して征蜀軍の幹部達を糾合し魏兵を鏖殺、鍾会が成都にて独立し天下に号令を掛けるというものであった。

 鍾会は姜維のおだてに乗った。成都陥落後、戦後処理を委ねられていた鄧艾を讒訴。衛瓘を巻き込み、越権的な報告を矢継ぎ早に立てた。鄧艾の性格を巧みに利用した陥穽の計に、賈充や荀勗ら司馬昭の腹心達が嵌まってしまったのだ。
 司馬昭は元々面倒なことを嫌う癖があった上、鄧艾と鍾会の仲の悪さにも辟易していた部分もあったので、処断は賈充らに任せた。

「子上殿、鄧艾殿をどうする気?」
 元姫が眉を顰めて詰め寄った。
「多分、都に召喚されるんじゃねえか。そんで、免官になってハイ、さようなら~ってな」
「ふざけないで。言っているでしょう。鍾会殿のことは……」
「大丈夫だって元姫。鍾会は自分のことをよくわかってるよ。無茶なんかしねーから、安心しな」
 司馬昭が詰め寄る元姫を軽くあしらい、厠へと小走りに去って行く。呆れ果てる元姫。
「根拠のない自信……本気で言ってるんだか、わからない……どうなっても、知らないから」

 突然、成都宮殿に鍾会の手勢が押し込んできた。愕然となる征蜀軍の幹部たち。
「鄧士載殿、逮捕だ」
 顎を突き上げながら、鍾会は侮蔑の眼差しで縄を甘受した鄧艾を見た。
「鍾会殿、これは……どのような咎であろうか」
 冷静に問いかける鄧艾。その余裕とも取れる様子に紹介は舌打ちをして張り手を放った。
「大それた事を企んだものだな鄧艾殿。よもや戦功を恃みに反乱独立を企むとは……さすがの私でも、それはない」
「……何のことか、私には存じ上げぬ事だが」
「うるさい。申し開きは、都でして貰おう。おい。問答無用だ。連れてけ」
 顎で兵に指示をする鍾会。雁字搦めにされた腕、両脇を兵で抱えられ、鄧艾が連行されてゆく。門の前で、姜維と遭遇した。
「姜維か」
 冷たい視線を突き立てる鄧艾。姜維はゆっくりと近付き、鄧艾の顔を一度見回すと、その頬を拳で殴りつけた。兵士の手からはじき飛ばされ、地面に卒倒する。そして間髪を入れずにその胸ぐらを掴み上げ、瞋恚の炎ゆらめく瞳で、睨み付けた。

「逆賊め。身の程を知らず功を焦ったな!」

 その言葉に、歯を折り、口を切らした鄧艾が不敵な笑みで返した。

「負け犬が、よく吠えたものだな」
 再び、連行されてゆく。姜維が睨み付ける鄧艾の背中は、嗤っていた。

「衛瓘、“護送”は任せたぞ」
「ははっ」
 鍾会の命を受けた衛瓘。鄧艾の消息が途絶え、二度と名前を聞くことがなくなったのはそれから日を重ねないうちだった。

 鄧艾逮捕の混乱から成都混乱が収束しかけた。
「丘建、諸将を集めろ。この私から話があるとな」
 鍾会が征蜀軍の幹部を一堂に集めた。鍾会軍の帳下督・丘建は鍾会に不審の動きがあると察し、そもそもの上司であった胡烈に注進していた。警戒していた胡烈は息子の胡淵らに危急ありと暗に伝達していた。

「奴らは一日も早く都に戻りたがるだろうな」
 鍾会が自嘲気味に笑う。
「順わなければ、いっそ殺した方がいいですね」
 姜維がさらりと言うと、鍾会はふふと笑う。
「恐ろしい奴だな、姜維殿は」
「何を言いますか。士季殿とて、満更でもないでしょう」
「ああ。私はここで終わるような器ではない」
「お手伝いしますよ、士季殿」
 姜維の言葉に、鍾会は気をよくしたか、姜維の肩に手を回して言った。

「事成せば私は司馬昭殿を越え、天下に号令できよう。万が一、仕損じたとしても……ははは。この私も劉玄徳程度にはなれるだろうな」

「…………」
 姜維は無言で瞳を伏せた。先帝を引き合いに出され、姜維の心には思いが過ぎった。

 そして。
 鄧艾軍を勝手に吸収した征蜀軍の諸将が正殿に集められた。鍾会の命で諸将は軟禁状態にされた。
「太后の遺詔がある。心して聞け! 司馬昭は帝を脅かし晋公を僭称し、簒奪の野心は明らかだ――――」

 姜維ら蜀将を、故人の言葉に囚われすぎている哀れな愚者どもと譏ってきた鍾会が、亡き太后の遺詔を持ち出し、大義を立てようとしている。鍾会の軍に順ってきた諸将までもが、突然の造反宣言に動揺した。

「順わなければ、斬るぞ」
 しかし、鍾会のもくろみは蟻の一穴から崩れ落ちていた。帳下督・丘建の内通によって胡淵が動いていた。成都を占領していた魏兵の多くが一時的に胡淵の指揮下に続々と入っていた。鍾会の造反の動きを流布し、望郷の念を煽ったため、魏兵の多くはあっさりと鍾会指揮下から離れていたのである。

「かかれ!」

 宮殿を封鎖していた兵が胡淵の号令で一斉に鍾会に矛先を向けた。

「なに――――き、貴様らっ、この私を裏切るか!」

 鍾会が飛翔剣を構えたと同時に、弓兵が一斉に鍾会をめがけて射撃。鍾会の威風堂々とした美丈夫ぶりも面影がないほどに、一瞬にしてハリネズミにされてしまった。最期の言葉も、発する余地がなかった。

 姜維もまた、鍾会反乱の首謀の一人と見破られていた。宮廷内で追い詰められ、夥しい魏兵に囲まれた。

「乾坤一擲の計、破れたか……。丞相……劉禅様――――申し訳ございません……姜維、もはやこれまでです!」

 諸葛亮から拝領した蒼竜煌尖鎗に念を込める。雲を呼び、雷を下す。

「来い賊兵ども。姜伯約が逝く地獄への道連れとなれ!」

 姜維、一世一代の執念を込めて祈った。それを心なき人は妄執という。
 成都宮殿に黒雲が立ちこめ、激しい紫電のいかずちが轟音と共に落ちた。そして、その後には焼け焦げた数多の魏兵と、黒焦げて朽ちた鎗が一本、炭となっていたという。