第三話 劉元海、西南に宿星を鑑し高句麗を発し 鮮卑の首領、星彩に劉公嗣の人なりを訊ねる

――――高句麗国都・丸都――――

 三国の騒乱に明け暮れし中原より遥か東北に大国あり。名を高句麗(コグリョ)という。

 壮大な丸都の宮殿を中心に治めるのは、天孫を父に持ち、河の神の娘を母に持つ東明聖王(トンミョンソンワン)高鄒牟(コ・チュム)より数えて第12代太王・高然弗(コ・ヨンブル)。中川王(チュンチョンワン)に封じられた王の下に、一人の若者が跪拝の礼を以て謁見に与っていた。

「元海、いよいよ参るか」
 名残惜しそうに太王が席を立つ。
「呼廚泉も楽しみであろうな、そなたが戻るのを首を長くしておろう」
「劉猛様の補佐です。まだまだ未熟ですがね」
 元海と呼ばれた若者が実に屈託のない笑顔を見せた。それは容貌魁偉と言えば少し言いすぎかも知れないが、融和な口調とは想像もつかないほどに野性的な容姿が印象深い。
「今改めて思うのだが、そなたはまさに名の通りよな」
 太王が呟くと、元海はきょとんとする。

「劉淵。字を元海――――そなたは……そう。この広野をまさに海の淵の如く呑み込み尽くしてしまう……そのような気を湛えておる」

 太王の言葉に、劉淵は背中をかがめ、肩を揺らして哄笑した。
「戯言ですよ陛下。劉淵が海ならば、陛下は大宇宙です」
「はっはっは。おだてても何も出はせんが、悪い気はせんの。……ま、魏の王にはよしなに伝えてくれ。またぞ手出しはせんようにともな」
「はい、陛下」

 劉淵が見聞遊学のために旅をしていたのは、父の元で暮らしていた継母・蔡文姫の影響であった。優しく音曲・詩歌に通じた美しい婦人だった。彼女から見聞を広めることの素晴らしさを教えられ、幼い頃から西域を歩み、三韓を巡った。
 大叔父で匈奴単于の呼廚泉が鄴にあり、劉猛が部族を率いていたが、そろそろ戻って来いという呼廚泉の切望によって、長の遊学もこれにて区切りをつけ、中原に行くことになったのである。

「魏王……か。今や司馬……昭だったか。魏王ではなくそれが幅を利かせてると聞いた。どんなものなのかな」
 芒を片手に弄びながら北平の街で評判を聞いた劉淵。街の多くが、司馬昭の治世を称えた。
「燕王の公孫淵から我々を救ってくれたのは、司馬様なのですよ」
「司馬さま……ね」
 芒の穂をくるくると回しながらそれを目で追う。劉淵は呟いた。

「曹孟徳公が一から積み重ねてきた魏の領地を、そっくり塗り替えただけ、ラクっていや、楽だよね」

――――洛陽――――

 鍾会・姜維らの乱の顛末を報された司馬昭は、偏頭痛に悩まされていた。元姫がため息も飽きたとばかりに、薬湯を用意する。
「子上殿、鍾会殿の謀反がそんなに衝撃?」
「……ああ、馬鹿な奴だと思ってな」
「思ってって……はぁ。子上殿。言っていたでしょう。鍾会殿には気をつけなさいって」
 盃に薬湯を注ぎ、昭に差し出す。
「わかってるよ。何度も言うなって! ただ少しくらい落ち込ませてくれよ」
 昭は盃を取り、一息に呷ると、肘当てに靠れるようにこめかみを押さえ、溜息ばかり何度もつくばかりであった。
 元姫は部屋を出、洛中に出かけた。宮殿は息がつまる。洛中への買い出しなどはたまにするが、それが元姫にとっては数少ない骨休めの時間でもあった。前と違って、洛中への頻度が多くなってきたような気がする。
 飾らない性格、冷静沈着ながらそれでいて優しく謙虚。城下の民らも、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの晋公・司馬昭の伴侶というこの美しい娘に畏怖する事もなく、自然に接した。
「元姫様、頼まれていた薬です」
「ありがとう……」
 薬屋の女性が、そこはかとなく暗い表情の元姫を気に掛ける。
「晋公様もあまり元姫様に心配掛けないように振る舞われればよいでしょうに」
「本当。……でも、それはそれで少し寂しいかもね」
 少しだけ顔を赤らめて、語尾が弱まる。
「あらあら。のろけですか」
「ち、違っ……」
 慌てて首を横に振る。
「まあ、いずれにせよ晋公様には無理だけはしないようにして頂かないとね。せっかく、戦いのない平和な世の中が来ようとしているのに」
「そうね……私も、そう思うわ」
 生薬を詰めた麻袋を胸元で合わせながら、元姫は呟いた。脳裡を過ぎるのは司馬昭のこと。そして、息子の炎、攸。

(鍾会殿……、あなたは結局、器以上の野心に押しつぶされた。……けど……)

 元姫は言葉をつまらせた。凡愚をなじり、政敵を排撃してきた司馬懿・師。器量の違いを満天下に示し、高貴郷公・曹髦を弑逆した昭。諸葛誕らを滅ぼし、司馬一族による治天のために元姫も時に戦場に立ち、鏢を振ってきた。
 鍾会が自滅し、鄧艾も死んだ。姜維も亡び、残すは呉。いずれ呉も亡びるだろう。元姫の先見の目に映る将来には、昭があり続けていた。昭とともに、永劫の治天を見つめてゆく自分。

 ……どんっ……!

 民家の角に差し掛かった時、元姫は人とぶつかった。一瞬、よろけたがしなやかに体勢を立て直した。袋の生薬は無事だ。
「ご、ごめんなさい。ぼうっとしてたわ」
「いえ――――こちらこそ申し訳ない」
 おっとりとした少年のような声に、元姫ははっとした。
「安楽公……! 劉公嗣……殿」
「ん? ……おやおや、これは晋公の……こんなところでお目にかかるとは、奇遇ですねえ――――」

 元姫が誘い、酒家に入った。
「蜀の宮殿に比べれば狭すぎるでしょうけど……ごめんなさいね」
 席に着き、元姫が頭を下げた。
「はははは、いえいえ。私にはこちらの方がお似合いだ。莚売りの血でしょうか」
 劉禅が満面の笑顔でそんな冗談を言う。
「公嗣殿、こんなところで一体何を……?」
「はははは。洛陽に来てから、何だかんだと言ってゆっくり見物も出来ませんでしたからね。今日ようやく時間が出来たので、ふらりと」
 よく見れば、麻でこしらえた民の普段着を纏っていた。

「星彩殿は……今日はご一緒ではないのですか」
「ああ、はい。星彩は成都で起こった暴動のことを気に掛けて司馬へ赴いております」
「成都の……」
 元姫が溜息をつき劉禅を見る。
「あなたは……何とも思わないの?」
「ええと……何ともとは?」
 劉禅がのほほんとした表情で元姫を見る。
「姜維殿。彼はあなたのために蜀を再興させようとした。鍾会殿の自尊心を巧みに煽動し、反乱を起こそうとした。全ては、あなたのためだったのよね」

「それが何か」

 劉禅の柔和で冷たく突き放すような声に、元姫は愕然となった。
「私のためだなど……余計なお世話というものです。私は降ったのです。先人の念に囚われて、籠の中にあり続ける事が嫌だった。私は父劉玄徳、諸葛孔明ではありません。暗弱な劉禅ですよ」
「それが、本心なの?」
「ええ、はい。姜維も我らと共に降り、晋公のご温情に与ればよかったのにと思うばかり。死に急いで、何の得がありましょうか」
「死に急いで……ですか。本当、その通り」
 元姫が僅かに瞳を伏せる。
「さあ、元姫殿」
 劉禅が銚釐を傾ける。元姫も恭しく盃を受けた。それを嫋やかに呷る。
「不思議ね」
「はい? ははは、あなたはいつも、不思議を追われているのかな」
「え……?」
 すると劉禅は唇を窄め、眉間に皺を寄せたけったいな顔を作る。驚く元姫。
「いつも、このような顔をなされているようだ。はははは」
 からかわれたと思ったのか、元姫が珍しく声を荒げた。
「ち、違います! そうじゃないわ。……まさか公嗣殿が、ついこの間まで一国の皇帝だった人とは思えなくて。こうして市井であなたと……それがなんだか……ね」

「私は元々こうしている方が、性に合うのですよ。ただ、それだけのことです」
 肴をつまみ、にいと笑ってみせる。
「……なるほど。子上殿があなたは大器だと言っていたことが良くわかるわ」
「晋公が……」
「ええ。一度戦って、勝ち目がないと判ったあなたはすぐに降伏を決断した。暗愚などとんでもない……って、ね」
 元姫の綺麗な瞳が、劉禅を真っ直ぐに見つめる。
「……はははは」
 笑う劉禅。

「私が大器ならば、劉季玉は蜀を失わなかったでしょうに」

 その返答に、元姫は言葉を飲んだ。
(この人って……)
 人を見抜く才を持ち、活眼の美姫と謳われる元姫も、目の前の劉禅の姿が実にとりとめのないものに感じてならなかった。
「星彩殿は、嘆いていたわね」
「はははは。星彩自身は既に私を見限っているのですよ。ただ、未だに使命だと言って私に付いているだけのこと」
「……そうかしら?」
 元姫がふっと眉を顰める。

「彼女は、あなたを想っているわ。それに気づかないなんて、人としても悲しいことね」

「星彩には別に想い人がいるのです。樊城で、亡くしたのですがね」
 劉禅が言うと、元姫はもうつき飽きたほどの溜息をつく。
「そう――――(ホント、子上殿もしかり。男ってみんな……)」
「はい?」
「いいえ、何でもありません」

 大分、酒が入った。微酔い加減の元姫を劉禅は案じる。
「晋公は良いのですか?」
「ええ。切れそうな薬を調達しただけだから……。それに……私にとっての息抜きみたいなもの。たまにはいいじゃない。私だって、陽があるうちから飲みたくなる日くらいあるわ」
「はははは。然り、そうでしょうね」
「笑い事では、ないんだけど」
「ああ、すみません」
 素直にぺこりと頭を下げる劉禅。

 酔余の勢いとでも言うのか、人を変えるとでも言うのか。感情を表面に出さない人ほど、別の一面を見せるものである。声を抑えながら、元姫は満面に笑顔を浮かべた。
「公嗣殿って、本当に蜀主だったのかしら」
「私も、時々そう思います」
 劉禅がそう答えると元姫は胸元を押さえて、声を殺して捧腹絶倒した。

 酩酊を避け帰城の途についた。この季節の冷たい夕風が心地良くある程度酔いを覚ます。
「子上殿には、長く在って貰わないと……。あんな人でも、必要だから」
「あなたたちには安世殿や大猷殿がいるでしょう」
 劉禅の言葉に、元姫は微笑んだ。
「炎に攸……ええ。そうですね」
「天下を統べる才……器量――――」
 劉禅のつぶやきに、元姫は言う。
「こんなこと、公嗣殿に言うのは変かも知れないけど……炎のこと――――」
 言葉を止める元姫。しかし、劉禅は手を組み、元姫に礼を取った。

「私は今や魏臣。お力になれることがあれば、何なりと」

「ふふっ。ああダメね。私らしくない。公嗣殿、今の私の姿は忘れて下さい」
 司馬亭の前で、元姫は片手で頭を抱えて首を振り、劉禅に言った。
「公言は致しませんよ。ゆっくりお休み下さいな」
「今日はありがとうございました、安楽公。また、ご一緒したいものですね」
「ははは、是非ご相伴下さい」
 劉禅がそう答えて拝礼し、去った後、劉禅を見送りながら、元姫は呟いた。

「それに……星彩殿のことも、見てあげて……」

 司徒府に赴いた星彩は、成都で起こった政変未遂事件の経緯を聞き、肩を震わせた。
「姜維殿……張翼殿が……」
 剣閣にあった廖化も、血を吐いて憤死した。
 共に蜀を守るために戦った戦友だ。皆、死んだ。淡淡とした事後報告を受けた星彩の胸は、今すぐにでも掻き毟られそうなくらいざわついて止まなかった。蜀でのことを聞くたびに、自分は何故、生き長らえているのだろうかと、発作的に思い込んでしまう。

(劉禅さま……私は……私……は……)

 姜維が良い死に場所を選んだとは思えない。星彩は劉禅に自害を止められた。だが、姜維たちも同じように死に急ぐことはなかったのではないか。何故止めてくれなかった、何故止められなかった。もどかしさが、星彩を苦しめる。

(正直……つらい……。でも……この身はもう劉禅さまのもの……生きなければ……)

 ただ、姜維たち蜀のために散華していった勇士たちに祈りを捧げることしか、星彩には出来なかった。出来なかったからこそ、そうするしかない。
 涙を呑み込み、心を落ち着かせると、司徒府を出た。
「少し、景色でも……観に行こう」
 気分転換がしたかった。星彩は馬を借り、洛陽城の郊外に馬を駆った。小高い丘陵が広がり、洛陽の街並みを遠望できた。
「ここは……」
 星彩が真後ろを振り向くと、そこは洛陽市街の往来とは違った、鄙俗的※な景観が広がっている。 ※鄙俗(ひぞく)…田舎びていること。スラム。
「遊牧民の街……」
 星彩は聞いたことがある。曹丕の頃から特に北方の遊牧民らを居留民として中原に置き、外寇の対策としてきたことを。時に傭兵として機能もし、魏の国力の底支えとなっていたということを。だが、中原の民とは違った鄙民扱いで、その暮らしは決して豊かではないということも。

 星彩は馬を下り、その街に向かった。
 出で立ち、容姿ともに一瞥には違いを感じないが、よく見れば確かに褐色気味の肌に、赤毛、鳶色の瞳と中原の民族との違いが判った。

 往来の人々は皆、星彩に視線を送った。異民族の人々から見ても、やはり星彩の美しさは目を惹くようだ。
 星彩を目で追う男達、ささめきごとを交わす人々。中原で名を馳せる武将達のことはやはり彼らの耳にも入っていると言うことなのだろうか。
 周囲を見廻しながら、歩を進めてゆく。そして、ある一角で、星彩は呼び止められた。
「あんたが蜀の星彩かい」
 紅髪褐肌の若い男が腕を組み、建物の壁にもたれながら星彩を睨んでいた。
「だったら……何?」
 殺気は感じなかったが、星彩は警戒を強めた。
「禿髪倚悝(とくはつ・いり)だ。この街にいて怪しいもなにもないだろ」

「禿髪……鮮卑の民ね……」
「さすがに知っているようだね。馬孟起の伝説は、羌だけじゃない。うちのところでも語り継がれているよ」
 親蜀を主張しようとする倚悝。星彩は鋭い眼差しを和らげることなく、倚悝という若者に対していた。
「私に……何の用」
「居留地に珍しい客が来ていると噂になっててさ。誰かと思ったら、司馬昭……いや、晋公にやられた蜀の麗人というから、是非一度お目に掛かりたいなあ……なんてね」
「別に珍しくもない。ご覧の通り……あなたと同じ人間よ。遠駆けしたら、ここに来た……。それだけのこと」
「噂通りの氷のような女だな。それでいて、情熱がある。ここに」
 自分の心臓を人差し指でとんとんと叩く倚悝。
「声を掛けるのが目的なら他を当たって。私は忙しい……」
 大きくため息をついて星彩が言う。
「声を掛けるのが目的なんだって。あなたに……ね」
「…………」
 倚悝の言葉や表情に疚しいものを感じなかった星彩は、彼の後をついてゆくことにした。

「兄者。連れてきたよ」
 ゲルと呼ばれる天幕に案内された星彩。倚悝が暖房の火を熾そうとしている男の背中に声を掛ける。倚悝と同じ紅髪で、長い髪を三つ編み状に束ねた屈強そうな背中であった。
「おう。ちょっと待ってろ。今…………よぉし、点いた」
 上機嫌にそう言うとゆっくりと立ち上がり、振り向いた。

「…………呂……奉先…………!?」
 顔貌が呂布に似ていた。星彩は愕然とし、思わず声を上げる。
「あっはっはっは! よく言われるがれっきとした別人だよ燕人の娘。よく来たな。俺の名は禿髪樹機能(とくはつ・じゅきどう)。そこの倚悝の兄だ」
「樹機能……禿髪鮮卑の酋領が、私に……」
 諸葛亮・姜維の北伐でも、魏に味方をし、行軍を邪魔した禿髪鮮卑。今も蜀臣でなければ、星彩は敵として目の前の酋領を斬っていたであろう。
「なあに。今や何でも無いあんたをどうこうしようなんて思ってないよ。せっかく来たんだ。そういうことも含めて、色々話したいって思うのは道理だろう」
 しかし、星彩は眉を顰める。
「蜀の話は……正直……したくない」
「わかってる。留意しておくよ」

 樹機能は蜀の話を極力避け、降魏後の生活や風俗についての他愛のない雑談を展開した。
 しかし、わざわざ星彩を呼び止めて話をしたいという異民族の酋領が、そんなことを聞きたいというわけではないことは、星彩もわかっていた。

「そろそろ……帰らせてもらう……」
 話も飽き、星彩は戻ろうと席を立った。

「あんたは、このまま魏……いや、司馬昭の下で一生を終えるつもりなのかい?」

 樹機能の言葉に、ぴくりと眉が触れる星彩。無言で樹機能を見る。
「おのが器を知れ。凡愚……。司馬一族から面罵され、多くの連中が倒れ、また屈してきた。劉禅公もそうだろう、表向きはな」
「なにを……。表向きは……だなんて。劉禅さまは正直でお優しい方。表も裏もない。変なことを言うのはやめて」
 星彩の怒気が滲んだ言葉に、樹機能はさらに続ける。
「蜀にとっては仇敵の司馬昭に、故郷は恋しいかと聞かれて、ここが愉しいから恋しくない。旧臣の受け売りを正直に告白し笑い物になる……なんてなあ、倚悝?」
「ああ兄者」
 顔を見合わせて笑う兄弟。
「やめて……」
 耳を塞ぎ、顔を背ける星彩。
「自分からそんな事が出来る奴が他にいるかい、星彩さんよ」
「…………え?」

「馬鹿が利口を気取るよりも、利口が馬鹿を気取るほうが余程恐ろしい」

 樹機能が言いながら、火で炙った肉を頬ばる。
「劉禅公が蜀にあれば……まさに梟敵※。凡愚はまさに司馬昭だな」 ※梟敵(きょうてき)…わるづよい敵。
「その通りだ兄者。魏が蜀を討ってくれたお陰で、やりやすくなったかも知れないねえ」
 樹機能・倚悝の会話に思わず苛立つ星彩。

「何の話……? くだらないことを考えているなら……聞かなかったことにする……それじゃ……」
 入口の幕を払おうとした時だった。
「くだらないことじゃないと思うけどね。星彩さんよ、あんたもあの燕人の血を引いているならば」
 樹機能の言葉に、星彩がぴたりと足を止めた。
「劉禅公のことをずっと見てきたんだろう。わかんないものかねえ」
 倚悝がごくりと肉を呑み込み、噎せ気味に言った。

「劉禅さまが反……」
 言いかけた言葉を、樹機能が大きな声で止める。
「それ以上は口にはするなよ。はっきり言われちゃ元も子もない」
「……あり得ない。……劉禅さまが……そんな……そのようなこと考える方じゃない……!」
 星彩の白い頬が紅潮してゆく。怒気が立ちこめる。
「おいおいおい。早とちりだって星彩さんよ。だから、劉禅公の気持ちはどこにあんのかなあって、思った訳よ」
「どこに……?」
 すうっと引いてゆく怒気。ほっとする倚悝。
「自分から物笑いの種になる、奇特な元皇帝の気持ちさね」
「…………」

 星彩が客殿に戻ると、劉禅もちょうど戻ってきたところだった。
「おお星彩。今、帰ったのか。おかえり」
 顔をほんのり赤くして劉禅はすこぶる上機嫌だった。星彩は半ば慌てて劉禅に駆けより、腕を支える。
「劉禅さま……御酒を……?」
「ああ。呑んだ。呑みましたよ。晋公の方と一緒に――――なぁ」
「元姫殿と……?」
 星彩の心がちくりとした。何故、劉禅はこうも鷹揚としていられるのか。日の高いうちから酒を嗜むのは良いとしても、なぜ……なぜ王元姫と一緒にいたのか。

「劉禅さま……あの……」
 微酔い上機嫌の劉禅には、星彩のただでさえ嗄れた声なのに、消えそうな程の小声は聞こえない。

 異民族の居留地で禿髪鮮卑の酋領と話していたことが星彩の心を捉える。その直後の劉禅のこの姿に、星彩はもどかしく、また切なさと苛立ちが混淆し、張り裂けそうな思いを必死で堪えるのに精一杯だった。