第四話 劉禅、尚も大望を秘し晋公の関心を得 劉淵、洛陽にて魏元帝に謁す

(自分からそんな事が出来る奴が他にいるかい)

 寝台に埋まるようにして眠る劉禅の側で、星彩はその寝顔を見つめながら、樹機能の言葉を思い起こしていた。
「劉禅さまの……心……」
 側にいるのに、わからなくなる。何故なのだろう。この人の深い瞳を重ねると、自分の心が見透かされているように感じてしまう時がある。見透かされて、劉禅の優しい微笑みに包まれ、絆されてしまうかのように思ってしまう。それなのに、自分は劉禅のことがよく判らないでいる。それがひどくもどかしい。

「劉禅さま……正直……つらい……。つらくて……重いのです……」
 蒲団の縁をぎゅっと握りしめる星彩。声を押し殺して、呟く。
「あなたの心が――――見たいのに……それが見えなくて……」
 瞼を閉じ、きゅっと形のよい唇を噛む。とても切ない表情だ。

「星彩」
 不意に、劉禅の声がした。はっとなって顔を上げ、目を見開くと、劉禅が優しい眼差しで、星彩を見つめていた。
「すまないな。そなたには辛い思いばかりをさせている」
「そ……そんな、劉禅さま。私は……」
「思いを隠さないで欲しい。隠さないで、私にぶつけて欲しい。……そう、そなたと関平のように」
「…………!」
 星彩ははっとなった。関平のようにと言われて、胸がずきんとなる。
「私は関平のようにはなれなかったが、そなたを想う気持ちは負けるつもりはない。だから……」
「劉……禅……さま?」
 劉禅が瞳で頷く。
「星彩。私の心は――――あの時のままだ。……だが――――」
 一度、瞳を閉じ、再び開く。すうっと、瞳に称える光が引いた。吸い込まれ、呑み込まれそうな色に変わる。

「そなたから見て、私がもうだめだと思ったら……その時は――――私を……殺すのだ」

 愕然となる星彩。身体の奥から、どんという強い衝撃が迸る。

「何を……何をおっしゃいますか、劉禅さまっ!」

 血の気が引いた顔色、驚愕と恐怖・不安に冒された表情で星彩は、衝撃的なことを口走ったかつての主君を真っ直ぐに見つめた。
 しかし、劉禅はにこりと微笑む。

「そなたが諦めたならば……もはや私もそこまでということだ。……よいな」

「劉禅さま――――! 何故……何故そのようなことを……私は……私はただ……!」
 劉禅の手が震える星彩の手に触れ、優しく握りしめる。涙を堪えた凜とした瞳が、劉禅の瞳と重なる。

「解らぬか。いつも私を見てくれていたそなたにしか、頼めぬ決意だからだ」

 劉禅のゆっくりとした口調の中に強い意志と、緊々とした星彩への想いが込められていた。かつての主君が、臣下に対して“自分を殺せ”などと頼むなど、前代未聞だ。そして、その言葉が星彩の追及を有無も言わさずに押し止めてしまった。

「劉禅さまも……そうしてまた、私に重い荷を……背負えと仰せなのですね」
 顔を背け、さしもの星彩も泣きそうになった。

 その星彩の黒くつややかな髪に、温かな手のひらが伸びた。上体を起こした劉禅が星彩の髪を撫でながら、頭をそっと抱き寄せる。小さな頭が劉禅の胸に埋もれた。星彩も抵抗せず、顔を隠すようにこすりつける。
「すでに重い荷かな。……ふふふ、星彩にとってもう私は重荷でしかないのか」
「劉禅さまっ! ですから……」
 劉禅は二、三度星彩の髪を撫でると、その滑らかな頬を両手で優しく挟み、美しい顔を見つめた。星彩も、わずかに充血しかけた瞳を、怖ず怖ずと劉禅の眼差しに重ねる。

「大丈夫。そなたに、私を殺させはしない。絶対に、そなたに重荷を背負わせは、しないから」

「劉禅さま……それは、本当ですか? あなたを……信じても、良いのですか」
「おやおや。今まで、信じられなかったかい」
 すると星彩は僅かに頬を染めて睫を下げる。
「そんなことは……ありません。劉禅さまは……本当は――――」
 劉禅がにこりと笑う。
「それならばよいのだ。星彩に信じてもらえて、私も嬉しい」
 すっと、劉禅の手が離れた。温かな頬が急に冷たい空気にさらされる。思わず、星彩が劉禅の手を取った。
「劉禅さまはお優しい……その優しさに、私は何度も救われて来ました」
「主が臣下を思うのは当然ではないか」
「いえ……そうではなく――――あなたは一人の人間としても……お優しい――――どこまでも……」
「優しい……か――――胸を衝く言葉だ」
 劉禅のため息。
「なあ、星彩。私に、曹孟徳や司馬仲達の心がいくらかでもあれば、国を失わずに済んだか」
「劉禅さま?」
 星彩は言葉に窮する。
「仁の世を、この手で掴むために……劉禅は覇道を歩み、豺狼となれば良かったか――――」

「劉禅さまに……それは……」
 困惑する星彩。劉禅は星彩の手を両手で握り返すと、苦笑して言った。
「優しさとは、弱いことだ。そして、弱さゆえに、人の譏りも甘んじられる」

(自分からそんな事が出来る奴が他にいるかい)

「おのが弱さを知ることは……強いことでもあります。劉禅さまは……本当はお強いのに……それを常に隠そうとされる……」
 星彩が憂色を湛えて少し顔を背ける。
「あなたが天下の笑いものになるなんて……正直……つらい」
 まるで情緒不安定のように、星彩の声が判るくらい震えている。
「星彩。自害しようとしたそなたを止めた時、私はこんなことを言ったな……。生きて、望みを繋ぐことが大事なのだと。劉公嗣……この劉禅が目指す仁の世をとな」
「はい……」
「聞いてくれ、星彩。心落ち着かせて」
 劉禅はそう言って星彩の髪を梳いたり、肩を擦りながら、彼女が落ち着くのを待った。

「もう平気です。ありがとうございます、劉禅さま……」
 星彩が普段のような沈静な表情に戻す。それを見た劉禅が、小さく頷き、言った。

「私の器量は先帝や尚父に遠く及ばない。そなたも、姜維も、皆も……それをわかっていたはずだろう」 ※尚父(しょうほ)…諸葛亮のこと。
「劉禅さま……」
 星彩の声を暗黙に制し、続ける。
「だからこそ、私なりの仁の世を目指したい。先人の“形”を受け継ぐのではなく……その志をもってな」
「志……?」
「皆は、私に背負えぬ荷と判っていながら、私を置いて、先人の思いに殉じていった。そなたも、そうしようとした……」
「…………」
 きゅっと唇を噛む星彩。
「背負えぬ荷ならば、それに固執し共に逝くか。目指す地を同じくするならば、私に似合った荷を新たに作るか」
「託された思い……」
 星彩の呟きを、劉禅は捉えた。
「そうだ、星彩。託された思いだ。私は、私なりに仁の世を作るための荷を、その思いと共に作り直す。駄目だろうか」
「しかし……既に蜀は」
「……星彩、耳を預けてくれないか」
「は……はい」
 星彩は再び腰を寄せ、劉禅の口元に美しい耳を近づけた。

 劉禅の呟きは、さしもの星彩の顔色を変えた。
「そ、そのような……無謀です……危険なことは――――劉禅さま」
「先帝は長らく時を経て蜀を興された。その労苦に較べればこれくらい、何とでもない」
「劉禅さま……」
 たまらなくなった星彩が劉禅に抱きつく。
「私も……あなたのお側に……いつまでも、お心安く……」
「ありがとう。星彩がいれば、百万の味方を得るよりも心強い」
 気丈な麗人の背中は折れそうなほどに細い。劉禅はそのまま、星彩の背中から伝わる温もりを感じていた。そして、その深い瞳の奥がまたわずかに燻った。

「元姫ぃ――――」
 おもむろに元姫の部屋を訪れた司馬昭が、甘えるように机に向かい書を読んでいた元姫にいきなり背後から抱きつく。首を動かし、うなじや髪の芳香を吸い込みつつ、横から元姫の唇を奪おうとした。
「ちょ……ちょっと子上殿ッ!」
 元姫はあからさまに不快そうにもがき、肩を揺すって昭を引き剥がす。
「もう! まだ日が高いのよ。晋公ともあろう人が、何を考えてるの?」
 沈静な口調、きっと鋭い視線を昭に突きつけ、元姫は読みかけの書を閉じた。
「ちぇ――――ッ。最近お前、つれなくね? なんかさぁ、さみしいっつーか……」
「あなたを思っての発言よ。蜀を伐って酒色に溺れるなんて噂が立ったら、どうする気?」
「俺の女を抱きたいって思うのが、そんなにいけないことですか、ね」
「子上殿。まだ江南には呉が勢力を保っているのよ。丁奉や陸抗が国を支え、諸葛誕殿の子諸葛靚殿も呉にあって北上を狙っている。それに……」
 元姫がふっと睫を伏せて言葉を詰めた。耳の穴を人差し指で掻いていた昭が、聞き逃さない。
「めんどくせえよな、マジで。……んで? それに? 何だよ」
「……それに……」
 元姫にしては珍しく逡巡する。訝しむ昭。その時だった。
「失礼するよ」
 部屋の扉をノックし、一人の老公が神妙な表情で入ってきた。
「これは……休徴公」
 元姫がすくと椅子から立ち、恭しく拝礼する。昭もこくんと会釈。元姫がキッと窘めると、上体を枉げて拝礼した。
「よい。そのままで構いません」

 王祥、字を休徴。名族・瑯邪王氏の重鎮であり、魏の要職を歴任した清廉の名士である。元姫の本貫・東海王氏よりも格上であり、また祖父王朗の経歴も見えない枷となって、敬愛の念を持ちつつも、やや苦手な人物であった。

「休徴公、お珍しいですね」
「おお。弟の元にな、呂子恪殿から頂いた剣を預けに参ったところです」
「王覧殿のもとへ……」
「何だよ休徴公、まさか形見分けか?」
「子上殿!」
 昭の言葉に甲高い声を張り上げて激怒する元姫。
「じょ、冗談だってばよ。そんなに怒鳴んなよ……」
 たらたらと冷や汗が滴る昭。顔面蒼白の苦笑いは何度も見てきた光景だ。

「相変わらずですな、晋公。元姫殿」
 にこりと微笑む王祥に、不機嫌そうに眉を顰める元姫。
「もう、これ以上面倒、見切れなくなります。休徴公、子上殿をしばらく預かって頂けますか」
「ほう?」
「おいおい」
「蜀を伐ち、やっと本気を出す気になったかと思ったのに……真っ昼間から――――」
 満更でもないようにも見て取れるような頬の染め方。王祥は笑う。
「ははははっ。いやいや元姫殿、そなたは幸せ者ですぞ」
「はぁ――――」
 昭に聞こえるように大きく溜息をつく元姫。
「晋公は常にそなたを頼りにされ、愛しておられる。これぞ、本懐というものだと思うのだが?」
「私がいなければ、何も出来ないのもどうかと……。それに、猿猴ではないのですから……」
 昭がばつが悪そうにしかめっ面を背け、人差し指でポリポリと後頭部を掻く。
 王祥は笑いながら昭の背中をぽんと叩くと、二・三度頷きながら言った。
「道理です。晋公、ここは元姫殿の言われる通りだ。なぁに、元姫殿が参じた戦場は華がある。兵卒牛馬に至るまで皆、元姫殿の艶姿拝めるだけで士気高揚。誰もが憧れる活眼の美姫を、晋公。あなたは夜の目も寝ずに共に居られる。昼日中は謹まれよ。兵卒の嫉妬は積もれば怖いものだ」
「休徴公……何か、素直に納得出来ないような気がするのですが――――」
 引きつり笑いの元姫。
「気のせいです」
 王祥の言葉の後、昭は斯くありとばかりに満足げに頷いた。

「それより、話は聞こえておりましたぞ。晋公、元姫殿の憂心を慮られよ」
「あー……えーっと……」
「蜀は滅びたとは言え、江南には呉患あり。遼東から雍秦涼三州に至る北方には、高祖文皇帝※崩殂来、遍く篤い恩恵に乏しく、匈奴鮮卑の動向は留意すべきことだ」 ※高祖文皇帝…曹丕のこと。
「ったく、恩知らずな奴らだぜ。あぁ、めんどくせ」
「…………」
 今度は元姫、昭を見ない。
「わーった! だったら北方には恩恵を施すことにすりゃいい。それで、いざというときに役に立つ奴を太守か刺史に……」
 昭が張り切って声を上げると、今度は瞳だけを動かして一瞥する。
「ほう。どなたか宛てがあるのかな」
「西には蜀を伐った胡烈や牽弘あたりを考えている」
「ほう……。彼らは衛青、馬援になり得るかね」
「それはちょっと言い過ぎ。閻柔、徐景山じゃねえか」 ※徐景山 … 徐邈。魏の涼州刺史
「十分ですな」
 王祥が頷く。
「それで、北には誰を……」
 その問いに、司馬昭はふふんと得意そうに胸を張り、その様子が気になる元姫の視線を感じつつ、言った。

「安楽公・劉公嗣」

 その言葉に、元姫、王祥は同時に声を上げた。
「安楽公ですと!?」
 王祥が思わず裏声になる。元姫は愕然となったが、殆ど表情を崩さない。
「蜀を滅ぼした暗愚の主を……何を考えておられる」
 王祥の憤慨に昭は嘆息げに言う。
「休徴公も目が曇ったのかよ。劉公嗣は暗愚なんかじゃねえよ。あいつは、大した鳳雛だ」
「理解が出来ぬが」

「余力を残しながらあっさり蜀都を放った。剣戈一閃、その判断力は誰にも真似出来ねぇよ。……あいつの真の実力は俺もまだ知らねぇ。……なんてったって、あいつは最後まで、本気を出さなかったからな」

「むう……」
 王祥はそれでも溜飲が下がらない様子だ。
「晋公の言葉を信じたとして、安楽公は仮にも蜀の主だった御仁。虎を野に放つようなことにはならぬかね」
「劉公嗣はそんな愚かなことはしねぇよ」
 昭の言葉に、元姫がかみついた。
「なぜそう、断言できるの?」
「何故って、言ってるだろ。あいつは自分をよくわかってるんだよ。諸葛誕や鍾会、そして先の天子とは全く違う」
「子上殿は随分、劉公嗣殿を買っているのね」
 元姫の言葉に、昭はほくそ笑む。
「ああ! 似たもの同士……っていやアレなんだけどな。気持ちがよくわかるって言うかさ――――」

「でも……私は反対よ、子上殿」

 毅然とした口調で、元姫は言い切った。
「いや、反対よ! って言われてもなぁ。そもそも任地に行ってもらった上での話だって」
「……だから、幽州に返すのは延ばして、都に留め置くようにした方がいいってことよ」
「何言ってんだー? いつまでもここに置いて腐らせてしまうにゃ、あまりにも惜しい奴なんだって」
「子上殿――――」
 珍しく昭の語気が熱くなる。元姫の凛然とした形のいい眉に、困惑の様相が浮かぶ。
「元姫。お前、何を心配してるんだか知んねーけどさ、あいつは大丈夫だよ。なんだったら、俺の命賭けてもいいぜ!」
 どんと自らの胸を叩く昭。その瞬間、元姫が鋭く瞠目した。

「やめてっ! ……命――――賭けるなんて……軽々しく言わないで」

 唖然とする昭。神妙な表情で二人を見廻す王祥。
「げ……元……姫?」
 そっぽを向き、項垂れている元姫に、昭が怖ず怖ずと声を掛け近寄る。
「…………」
 肩に触れれば激しく振りほどかれそうな感じだった。昭は人差し指でこめかみをポリポリと掻くと、苦笑を浮かべて言った。

「あー……えー……っと。わ、悪かったよ。命は賭けないって。ま、まーその……何だ。ともかくっ、俺と、お前の関係のようなものだから!」

 突拍子のない昭の言葉に、今度は元姫が固まる。王祥は緊張が解れたのか、懸命に笑いを堪えているように見えた。
「ま、まさか……子上殿……」
 おぞましいものでも見るかのように、冷たい視線で瞥する元姫。
「は、はぁ? おいおい、お前なに想像してんだー?」
 慌てて飛躍した想像を打ち払おうとする昭。
 そして、大きく咳払いをした王祥が口を開いた。
「そこまで言われるのならば元姫殿。晋公の意向を信じてみてはどうかな」
「…………ええ」
 納得は出来ない様子だった。だが、結果的に政に容喙する事にもなりかねず、それを嫌った元姫は、それを呑み込んだ。

「でも……勅命はまだ出さないんでしょう?」
「ああ。ちょっと、やることがあるからなあ。行ってもらうのはもう少し後だ」
「わかった」
 少しだけ、気が晴れた様子の元姫。昭は訝しむ。
「なに? まさか元姫。お前、劉公嗣のこと……」
 すると元姫は、途端に白蝋のような顔を真っ赤にして激怒した。
「馬鹿なこと言わないで。私は子上殿のお守り役よ。それだけで手一杯なの!」
「あー、はいはい。これも冗談だ」
 元姫の珍しい憤慨の表情を見ながら、昭と王祥は笑っていた。

――――洛陽――――

 かつて華北の大雄・袁紹の本拠地であった鄴に駐留する呼廚泉の元を訪れた劉淵は、その足で洛陽に赴き、魏皇帝・曹奐に拝謁するように命じられ、腰を温める暇も無く鄴を発った。
「全く、名目だけの天子様に会ったからって何だと言うんだかー……」
 着慣れぬ官服を纏い、芒をころころと弄びながらてくてくと道を歩いて行く。高句麗の都・丸都は歩きやすかったが、昔一度来たことがある洛陽は、劉淵にとってはいささか窮屈な心象があった。中原一の都と言うこともあって往来が激しく、埃っぽいと言うことも理由のひとつではあるが、それ以上に官民こぞって覇気というか、にこやかな表情に乏しいというイメージが、子供ながらに感じていたのを憶えている。

 にゃあ――――

 劉淵の持つ芒に誘われて、猫が一匹すり寄ってきた。劉淵が笑顔を浮かべて屈むと、猫は前足で芒の穂にじゃれつこうとする。
「腹減ってんのかー。ちょっと待ってなよー」
 劉淵はごそごそと荷物を漁り、干し魚を取り出した。
「おお、一匹余ってた。ほらよ、足しにならないかも知れないけどね」

 うにゃ――――

 猫は一秒で芒の穂から転じて干し魚にがっつく。背中をいきり立たせて貪った。瞬く間に呑み込んだ猫、下で口の周りを何度もなめ、しっぽを振りながら劉淵にもっとくれとばかりにすがりつく。
「あー、もう無(ね)んだわ。……けどなー……」
 少しばかり困惑した劉淵。ぱっと顔を明るい表情に戻し、さっと両手で猫を抱え上げた。

 にゃー――――

 劉淵に向かって目を細めながら大きく口を開けて鳴く猫。
「よおし、宿に着いたら何か食わせてやるからねー」
 すっかり劉淵に懐いた様子の猫。劉淵もにししと笑いながら顔をすり寄せた。

「…………」

 その様子を、じっと見つめていた人物の視線に気づき、劉淵は視線を向ける。
「どちらさん?」

「あ……いえ……失礼。思わず、見てしまったみたい。ごめんなさい」

 白い房飾りを乗せ、肩まで掛かるつややかな黒髪、凜とした瞳にきゅっと締まった朱の唇。腰の部分に深い切り込みの入った淡い緑色の服。太ももの付け根あたりまで覆われた黒い脚布、切り込みからわずかに覘く白い肌が眩しくて艶めかしく、全体的にすらりと伸びた細い脚。劉淵が思わず言葉を失ってしまったほどに、美しい女性だった。

「あなたのような人が野良猫に餌をあげているのが目に入ったから……思わず――――」
「ああ。こいつ。……飼い猫だったみたいだよ、お姉さん」
「飼い猫……わかるの?」
「はい。野良は一宿一飯の恩義を感じませんしね。こいつは、よほどいい主人に恵まれていたようですよー。餌をくれた人間は打算なく忠義を誓う。例え……殺そうと餌を与えた人間であっても……」
「え…………。あなた――――」
 一瞬の不穏な空気。しかし劉淵はすぐに冗談気味の笑顔で払拭してしまう。
「あーいえいえ。私はそんなことはしませんて。例えばですよ、例えば」
 たらたらと汗を垂らす劉淵。
「悪い冗談ね。正直、気を悪くした」
「謝ります。ごめんなさい、お姉さん」
 すると美しい女性は、表情を和らげて小さく頷く。
「……でも、言ってることは正しいと思う。……あなたは、きっと悪い人じゃない」
「ほ?」
 蛸のように口を窄める劉淵。

「……だって、ほら。猫が……とても懐いているから」

 劉淵が胸元に視線を落とすと、猫がごろごろと喉を鳴らして眠っていた。

「あらー」
 ふっと劉淵が顔を上げると、その女性は既に視界から遠くにあった。
「あ、お姉さん。名前……」
 しかし、女性は気づかない様子で往来の中に消えていった。
 劉淵は猫の温かさを感じながら、今の女性を思い起こす。

「また、会えるような気がするなー……で、あって欲しいと思ってるし」
 何故か心躍るのを感じながら、劉淵もまた歩き出した。

 劉淵が洛陽城に至る。呼廚泉の意を受けて皇帝・曹奐への拝謁を求めたところ、丞相府はあっさりと許可を下した。曹奐は中庭あたりにでもいるから好きな時に行けばよい。とのことだった。
「皇帝が空気扱いかー。まあ、司馬昭の心余人の知るところ……って事なんだろうけど」

 城内をてくてくとした感覚で歩いて行く。宦官・女官の姿も疎らだ。
 そうした中で、通路を一人丁寧に掃除をしている少年の姿が、劉淵の目に留まった。
「やあ少年……って俺もガキだけど。一人で掃除か、しんどくない?」
 すると少年は劉淵の顔を見てぺこりと頭を下げた。真面目そうだが、どことなく気が立ち込める雰囲気を持っていた。
「大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
「そっかー。あ、私は劉淵。字を元海っていうんだ。よろしく」

「あ、失礼しました。僕……じゃないや、私は安定郡烏氏県の張温の子で、張軌。字を士彦と申します。お見知りおき下さい」
「張士彦……か。地方豪族の子が卑官の仕事をするなんて、見上げたものだーな」
「いえ。宮廷にお仕えすることは身の誉れですから。いいんです。どんな仕事もします」
「ふーん……」
 じっと顔を近づけ、劉淵は張軌と名乗った少年の顔を見回した。そして、にいと笑うと。両肩をぐいと掴み、言った。

「いい顔してるよ士彦君。将来、大物になるな。頑張れよ」
「あ……は、はあ……?」
 いきなり褒められた張軌が、訳が解らないのか、混乱したように目をおどらす。
「じゃあ、ちょっくら皇帝陛下に拝謁したいんだけどー、中庭にいるの?」
「あ、はい。陛下はこの先に……」
「ありがとう!」
 親指でポーズを送ると、劉淵は先に進んだ。張軌は劉淵の背中にぺこりと頭を下げた。
 この少年と劉淵が因果な巡り合わせになるのは、ずっと後のこと。また別の話になる。

洛陽城・中庭――――

 曹奐。字を景明。あの魏武帝・曹操の孫であり、燕王・曹宇の末子である。先帝・高貴郷公が司馬昭に弑逆された直後に祭り上げられた、曹魏第五代皇帝である。
 そんな皇帝が一人、中庭の池の辺にあって魚に餌を与える姿が劉淵の目に映った。
「陛下。ご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じます。呼廚泉単于の召喚により、高句麗から帰着致しました。劉淵でございます」
 劉淵が自己紹介すると、曹奐は手を止め、ゆっくりと振り返り、目で合図を送った。近くに来いと言うことだった。

「はるばるご苦労であったな。ああ、朕に気遣いは要らぬ。どうせ誰も使わないからな、はっはっは」
 そう言って笑い、曹奐は持っていた餌の袋を、劉淵に差し出す。
「本当はこの冕冠も外したいんだけどね。被ってないと周りがいちいちうるさいから、許せよ」 ※冕冠(べんかん)…皇帝が被っているじゃらじゃらがついた冠。
「陛下――――お一人なので?」
 劉淵が周囲を見廻す。宦官の姿も殆どなく、女官も数えるほど。しかも大分離れた場所にあり、皇帝がいるというのに随分とリラックスした様子である。
「ああ。司馬子上に連れてこられて即位させられてからはずっとこんな感じだよ。……まあ、朕としてはここにいればいいだけだから、干渉されずに楽なんだけどね」

 亭に劉淵を招き、冷めた銚釐を持ち、盃に茶を注ぐ。
「ちょっと冷めてるけど、許せ」
「いえ。喉が渇いておりました。有り難く頂きまする」
 劉淵が生ぬるい茶を呷ると、曹奐はさばさばとした様子で二杯目を勧めてくる。
「茶葉だけはいいものを誂えてくれる。この地位はそれがよいのだよ」
 冗談半分に曹奐はそう語り、笑った。
 皇帝という名の“針の筵”。狭い鳥籠に押し込められた人物とはどういったものなのか、劉淵は興味があった。しかし、目の前で冷めた茶を美味そうに呷っている皇帝の姿に、戸惑いを禁じ得ない様子だ。
「陛下は、辛くはないのですか」
「辛い? 何がだ」
「いや……その――――」
 劉淵の呑み込んだ言葉を察して、曹奐は笑顔で答えた。
「朕の父、曹彭祖は政を忌み身を引いた。子である朕もまた、然りだ。な」
「そのようなお方が、何故……」
「朕は、するべき事をするために、この地位にあるんだよ」
「するべき事――――ですか」

 曹奐は訊かれる前に言った。
「魏室の幕引き――――」
 その言葉に、劉淵は驚いた。現皇帝の口から、社稷を滅ぼすことが使命だなどと発せられたことに。
「陛下――――」
 曹奐は続ける。
「太祖武皇帝が武威を示し、高祖文皇帝が漢から受けた大魏の社稷は、烈祖明皇帝の御代で腐朽したのだろうよ。魏室の命脈は保たれては来たが、先だって祖宗最大の悲願であった蜀も伐てた。もう、いいだろう――――ってね」
「……晋公の司馬昭殿――――ですか」
「子上も武皇帝を倣っている。賈充や荀勗らが言いに来るまでもない。公から王に上げるつもりだ。全く、子上の口癖では無いんだが、ホント、めんどくせぇ」」
 曹奐が司馬昭の口真似をして自嘲する。
「曹丕殿が国を興して、陛下で五代……。心安くはないですよ」
 劉淵の言葉に、曹奐は返す。

「朕はこの地位にいて思ったことは、社稷に永遠はないと言うこと。強勢を誇り、北狄から南海に至るまで威を奮った秦も、二代で滅んだ。徳を繋いできた漢も、桓霊にて荒廃した。国を興すも廃れるも、ただ長短の摂理といえるだろ。今、司馬子上に帰する天下ならば、魏室の延命はない。……かといって、朕は安楽公ほどに愚昧にも徹することは出来ないからな」
 言いながら曹奐は手のひらを横にし、親指を額に宛て左右に首を振る仕種をする。じゃらじゃらと、冕冠の宝珠が鳴った。
「今は朕も子上も、時宜を量っているところなんだよ」
「何というお方だ。呆れますよ」
 劉淵が嘆息する。
「なんともやる気のない天子かね。……まあ、やる気あっても、やらせてくれないしな。何にも言わない方がいいんだよ。朕はもともとただの卑官。死にとうないからな」
 先帝を思い浮かべて、曹奐はわざと肩を震わせてみせた。
「まあ、御先祖から託された大魏の仕事は、紛いなりにもこの曹奐が片づけたって事で、後は子上らに任せるって事で、許してくれるんじゃないかなって思い込んでるんだよ」
「陛下……」

「司馬の天下、見上げてみるのも一興だろう」

 曹奐は乾いた笑いを見せ、よく話した。司馬昭を称え、その功徳を絶賛した。しかし、その言葉のひとつひとつが、無能な皇帝として、ただ単純に権臣に対し阿諛追従すると言った感じではないと、劉淵は思った。魏主四代の宿願・蜀を滅ぼした当代の皇帝が、国を譲りその魏を消してしまうと言う心を持っていること、それを今日来たばかりの自分に吐露したことへの真意がどこにあるのか、劉淵にはまだ解らなかった。