第五話 魏朝廷に簒奪の蠢動ありて劉淵、安楽公に会し 王元姫、炎の放蕩に嘆息甚だしきこと

 洛陽の魏朝廷が慌ただしくなってきた。賈充、荀勗、王戎、張華ら司馬昭の側近らが頻繁に禁裏に出入りすることが目立つようになった。それは諸臣・人民みな口を揃えるように、曹奐に対して禅譲への圧力を強めている、との見方がもっともだった。

 そんな色めく首都を他所に劉禅は発つ準備をしていた。魏朝廷から封じられた、幽州安楽県へ赴任するためのものである。
「劉禅さま」
 星彩が珍しく軽妙な声色で劉禅の側に歩み寄る。
「星彩。なんだ、何か嬉しそうだなぁ」
 彼女の綻んだ表情を見ると、劉禅も嬉しくなる。
「街で……面白い少年に会いました」
「ふむ……面白い?」
 その時だった。会話を遮るように、一人の朝臣が息を切らせて入ってきた。
「……允恭殿。どうされた、そんなに慌てて」
 曹志が前屈みに両手を膝小僧に当てて息を整える。
「あ……安楽公。よかったー……。幽州への出立は見送りです。しばらくお留まり下さい」
「え……? どういう事です……?」
 星彩が怪訝な表情に変え、曹志を見た。
「それがですね――――」

「さあ、どうぞ」
「は、では……」
 準備を止め、劉禅は席に着き曹志に茶を勧めた。星彩が淹れた、熱い茶である。
「南中の王、孟虬から贈られた南蛮の茶葉です」
「なんと。あの孟獲と祝融の子、孟虬ですか」
 曹志が感嘆する。
「征蜀軍が漢中を攻めている頃に届いたのですよ。美味しいでしょう」
「ええ。はい。なんていうか……まろやかで――――って、安楽公!」
 思わず乗り突っ込みをしてしまいかけた曹志が慌てて咳払いをする。くつくつと笑う劉禅。

「晋公はいよいよ、九錫を得て晋王に昇るようです」
「!?」
 その言葉を聞いて、星彩がぴくりと眉を動かした。
「ほう……晋公が、九錫を」
「陛下が五度、九錫と晋王の位を賜ろうとしたらしいが、晋公は都度、固辞してこられたとのこと」
「まあ、晋公のご性格では、さもあろうなあ」
 劉禅がそう言うと、曹志は苦虫をかみつぶしたような顔で言った。
「賈公閭や荀公曾らの奸計です。簒奪の布石は着々と……全く、世も末ですよ」
「ははは。だが允恭殿、晋公は徳高く英邁なお方だ。私もゆえに晋公の徳にすがり降った。お陰で、こうして安穏に暮らすことが出来るというもの」
 劉禅の言葉を聞きながら、星彩が瞼を閉じる。胸元で手を合わせ、何かを堪えるように。
「そうだ、そうでした。それです。……それで、晋公はしばらく安楽公に都にお留まりいただき、無聊を慰めてはくれないかと――――まあ、そんな感じなのでしょう」
「劉禅さまに、暇つぶしの相手を――――!」
 星彩が思わず、声を上げた。その瞬間、劉禅が手を翳して星彩を抑える。
「魏臣の私が晋公のご意向に沿うのは当然ですが、私などではお役に立ちませんでしょうに」
「それは違いますぞ。晋公はあなたを本当に買っておられる。お力になってあげてはどうかと」
 すると劉禅はすうっと瞳の色を深くして曹志を見た。
「曹允恭殿は、陳思王殿のご子息。つまりは魏王曹孟徳公の孫。……それを、簒奪に動く晋公を助けよとは――――ははは。面白いものですね」
 劉禅のその言葉に、曹志は苦笑して答えた。
「父は魏の宗室から外された身。私も武皇帝の孫とは言え、今や微禄を食むだけの臣下の末席。かといって司馬一族にも特な恩義は無い。魏室にも晋公にも義理は無いんですよ」
「だから、私のところにはよく来られるわけですね」
「“宿敵”曹劉両家の者が茶を交わす程に、世が平らになりつつあるということでは?」
「まさしく」
 劉禅が銚釐を取る。
「さあ、どうぞ」
「安楽公こそ」
 二人のやりとりを見ながら、星彩は思っていた。司馬昭がいよいよ、その遠大な野心をむき出しにしつつあるということを。そして、司馬昭が魏を簒奪するようなことがあれば、劉禅が秘めている想いを果たして叶えることが出来るのだろうか、と。

 劉禅は夕暮れまで曹志と談笑した。司馬昭の無聊を慰めるというのはともかくとして、曹志は司馬昭の晋王叙位と、九錫下賜の祝宴があることを見越して劉禅に洛陽にしばらく留まるよう、強く勧めてきたのである。
「聞いたか、星彩」
 門前で曹志を見送った後、その場で傍らの星彩に声を掛ける劉禅。
「はい」
 帰ってきた彼女の声はいつもの、儼然とした口調だった。
「晋公も、ついに覚悟を決められたかな」
「…………」
「どうした、星彩」
「いえ…………わが国を伐った曹魏が、もはや風前の灯火というのが……信じられません」
「時勢というのは、かくあるものなのかな」
 劉禅の呟きに、星彩は唇を噛みしめる。

「晋公は“高徳の御仁”だ、星彩。……そう、今の御世晋公に優る器はどこにも、おるまい」

 まったりとした口調。星彩が劉禅の横顔を見つめる。しかし、夕暮れの朱色の陽光が影となり、そう呟いた劉禅の表情を窺い知ることは出来なかった。
 その時だった。

「ま、長年掛けて仕込んだ酒を、ただ飲み干した――――ってだけかも知れない?」

 惚けたような少年の声に、星彩は目を瞠った。
「あ――――あなたは……!?」
「おぁら、あの時のお姉さん」
 きょとんとする劉禅をよそに、少年が星彩に向かってかくんと上体を折り曲げた。

「ふふ~ふふふ~ん♪」
 灯りも少なく、少しばかり薄暗い黄昏時の客間。しかし何故か楽しそうに鼻歌まで唱っている少年。星彩が温めた茶を淹れると、仰々しく盃を両手で受け取り、頭ひとつ分、辞儀をした。その仕種が愉快なのか、星彩は思わず笑みをこぼす。
「劉禅さま。この少年です。――――えっと……」
 間髪入れずに、少年はやりとりを目で追っていた劉禅に向かって名乗る。

「劉豹の息子にて単于呼廚泉の甥、姓を劉、名を淵、字を元海と申します。蜀主……いいや、安楽公・劉公嗣様」

「噂に聞く匈奴左賢王の御嫡男ですか。こんにちは。劉禅です」
「燕人・張飛の娘、星彩よ」
 にこにことした表情で挨拶を返す劉禅。凛然とした素振りで自己紹介する星彩。
「劉淵殿……同じ劉姓――――もしや、漢室に縁が」
 星彩が訊ねると、劉淵は屈託無くはにかみ、言った。
「漢朝には先祖がお世話になりまして、憚りながら劉姓を名乗らせて頂いております。――――がっ。私などが漢高祖の血を引いているなどとは畏れ多いことです」
 その言葉に今度は劉禅が笑った。
「さもあろう。私も先帝が中山靖王の末裔を名乗っていたが、果たして真かどうかも分からぬからなあ」
「劉禅さま!」
 星彩が声を上げて咎める。しかし、劉禅は眉を顰めた彼女に振り向き、優しい眼差しで瞳を捉えた。
「星彩。そなたならばよくわかっておろう。託された想いに、血筋などはどうでもよいものだ。先帝が漢の宗室の末裔だろうと、東夷の隷人の子であろうとも、皆と思いをひとつにし、蜀に国を興した。それに違いはあるまい」 ※東夷…日本
 劉禅の言葉に、星彩は言葉を呑み込む。密かに長い睫を伏せぎみにして、劉禅の言葉に耳を傾ける。
「私が不義の子であったならば、そなたは私の傍にいなかったか。そなたの母が、妙才殿の血を引いているならば、仇を討ったか」
「そんな……そんなこと――――あるはずがないです。私は……私は劉禅さまに全てを……」
 星彩の頬が朱に染まる。羞恥と、劉禅への想いが混淆とした色だった。
 劉禅はふうと息をつくと、ひとつ大きく頷いてみせた。
「――――そういうことだ。分かってくれて、良かった」
「劉禅さま……申し訳……ございません」
 瞳をわずかに潤ませて、星彩が劉禅の微笑みを見つめる。

「こほっ……えー……あー……」
 二人の雰囲気を敢えて断つかのように、劉淵が小さく咳をしてみせた。
「おお。すまぬなあ」
 劉禅が再び姿勢を正し、劉淵に向き直った。
 劉淵は少しの間、劉禅を観察するように見廻し、時々大きく頷いたりしてみせる。
「何か、見えるの?」
 星彩が怪訝そうに訊ねると、劉淵はうーんと唸る。
「やっぱり!」
「?」
 素頓狂な声を上げて、劉淵が軽く手を打ち鳴らした。
「衢(ちまた)の噂ってアテにならないっす。どこが暗愚ですか。全然違うってぇの」
 唖然となる星彩、苦笑する劉禅。
「曹景明陛下も、劉公嗣様も、隠すところは同じですよ」
「曹景……って、あなた、魏帝に会ったの?」
 星彩が驚いたように訊ねる。
「はい。呼ばれたんで、拝謁しましたよ。いやぁ、がらんとした宮殿でした。警護もへったくれもありゃしません、あれは」
 乾いた笑い。星彩は半ば呆れたように溜息をつく。
「なんて軽い――――正直……失望した」
 突然の冷たい口調に、劉淵は狼狽する。
「いやいや。見損ないで下さい。誰かの回し者とか、間諜とかではありませんから」
「星彩。大丈夫だ。彼はただの匈奴の公子だよ」
 劉禅がそう言うと、星彩は視線から棘を外して肩の力を抜いた。
「ごめんなさい……早とちりね。ほんとう、悪い癖だわ」
 膝許で拳を作っていたその手に、劉禅が一度軽く手を重ねると、星彩の表情も幾分綻んだ。

「ふうむ――――曹奐皇帝も、時勢を読まれているのだなあ」
 劉淵が曹奐と話した経緯を語ると、劉禅が嘆息する。
「魏帝からすれば、やはり……先帝曹髦殿のことが――――」
 星彩の呟きに、劉禅が頷く。
「晋公の専横、ここに極まれり――――とでも言われよう。だが……」
 劉禅が言葉をつまらせた。

「晋公に魏天が帰する――――ですかあ? 果たして、そうなんでしょうかね」

 劉淵の惚けた口調に、劉禅と星彩がはっとなった。
「劉淵……殿?」
 星彩が戸惑いながら口を開くと、劉淵はきょとんとした表情で彼女に視線を移して言う。

「さっきも言ったけど、喩えるなら、曹孟徳公が黄巾に立ち上がり、董卓を破り、袁紹・袁術を倒し、涼州の神威将を逐い、孫呉や蜀漢と戦いながら、一から仕込み、熟成させてきた天下という名前のお酒。司馬家はその酒を掠め取って飲み干しているだけでは? 孟徳公の労苦を知らない人が、器量ひとつで天下を治められるのならば、安いものだと思うけどね」
 言いながら、盃の茶を飲み干す。
「晋公に、人心が寄せられてはいない……と?」
 星彩が続けると、劉淵は銚釐を傾けながら答える。
「うにゃ。晋公に人心は帰していると思いますよ? ただ、ラクしてんなーって思っただけです、ハイ」
 熱い茶を呷る。
「美味いですね。高句麗では味わえないです、この甘さ」
 ほくほく顔の劉淵。しかし、劉禅は無視をして言った。
「楽……。楽をして、蜀は――――我ら蜀は……」
 劉禅の穏やかな表情。その瞳の奥が、燻った。
 劉淵が続けた。
「孟徳公は、黄巾の残党や匈奴鮮卑の隷人も駆りあつめて急拵えの大軍で赤壁に臨んだでしょ。あれから何年ですか……。訓練された精鋭、武将、策士をちょちょいと引き入れて伐てば、裸一貫から立ち上がった孟徳公ほどの労苦は要りません。楽でしょうに」
「…………」
 劉禅が瞼を閉じた。楽をして蜀を伐たれた。その言葉が、何故か胸を衝いた。
「劉禅さま……」
 今度は星彩が、握りしめられた劉禅の手に、そっと手を重ねる。

「ま、だからめんどくせぇ――――なんて言えるんでしょうけどね」

 劉淵がくくと笑った。星彩が劉淵を見た。そう、猫を抱いていた時に感じた、一瞬の不穏な空気がまた、過ぎる。
「…………」
 星彩が無言で劉淵の言葉を待つ。
「面白くないっすね、そんなんじゃ。確かに、めんどくせぇって言いたくもなりますよぅ」
 惚けた言動に戻る。そして、茶をひと呷りにした。
「劉淵殿」
「はい?」
 真顔で、星彩が言った。
「さっき……あなたが言いかけたこと。隠すところって……何?」
 劉禅が思わず星彩の横顔を瞥した。凜とした美貌が、劉淵を直視している。
「んー…………それは、今はまだ言わない方がいいんじゃないかなと思うんだけど、言わないとダメですか」
 苦笑する劉淵。
「無理にとは言わない……。あなたの発言で、劉禅さまの身に危険が及ぶようなことになるならば――――」
 星彩の鋭い視線。劉淵は惚け顔ながら、真っ直ぐにその咎戒の槍を受け止めていた。

「安楽公・劉公嗣様……お近づきになれて嬉しいっす」

 劉禅が瞳を移し、劉淵を見た。互いの瞳の奥に燻る光が同期し、共鳴したように感じた。
「また、遊びに来なさい、劉元海殿」
「ははー。ありがたき幸せですー」
 劉淵は邸宅を出、暗闇の通りに消えてゆくまで、惚けた様相だった。劉禅と星彩はしばらくの間、その卦体な少年の雰囲気に中てられ、立ちすくんでいた。

 司馬昭の側近とされる魏臣たちが誰が見ても明らかな簒奪の蠢動をいよいよ活発化させている。司馬一族に恩顧を受けた者は元より、最たるものなのが日和見なのだろう。

『魏落日し、晋天昭(あきらか)なり』

 高貴郷公の弑逆以後、急速に曹魏の命運は目に見えるようになっていた。
 司馬昭の伴侶・王元姫の許にも、そう言う動きを見せる廷臣たちがしきりに顔を覗かせてくるようになっていた。

「今日はもういい。後は断って」
 太陽が中点に差し掛かる頃合いだった。元姫が仕事の終了を告げた。
 肩が凝ったのだろう。首元の留め金を外し、その白く細い頸に滲んだ汗を拭い、ほぐすように頭を動かす。こりこりと、音がした。
「ふぅ――――」
 廷臣の来訪や書簡を打ち切らせ、元姫は邸宅を出た。
「ずっと中にいたから……やっぱり、外の空気は美味しいわね」
 高貴な香、そして臣僚宦官の喧噪に満ちた宮廷の空気は息苦しさも甚だしい。
 昭の伴侶として、その行動や志を支えると誓った。だが、元姫の脳裡からは、高貴郷公弑逆の場面、血に濡れた床に沈んだ曹髦が、腕を突き上げて昭や元姫に何かを言わんとして絶命したあの時の光景が離れず、時々夢に出るほどだ。おくびにも出さないでいたが、元姫としては重い精神負担として宮城にあったのだ。

 たまには外で呑みたくなる時もある……。

 街中でばったりと出会った劉禅と盃を交わした時に、元姫がそう言った。しかし、普段は滅多に呑まない酒。最近はその“たまに”の間隔が、短くなって欲しいという気分に囚われつつある。
 伴侶である昭はその通りの性格、朝廷も黒い野望の秘やかな坩堝と化しつつある。
 そうした環境が重なる中で、安楽公・劉禅と酒を交わした酒家の一時は、世辞抜きで心が安まるものがあった。
 心は勿論、昭にある。異性として昭を想っているかと問われれば、元姫自身も気づいていないところもある。『世話女房』と揶揄する声も聞くが、なんてことはない。
 血生臭い宮廷権力闘争、簒奪への黒い蠢動からかけ離れた、野心を感じさせない劉禅のまったりとした雰囲気は、活眼の美姫として、鍾会の野心を覚った鋭い鑑識眼を持つ彼女ですら疲弊した心をも癒し、翳めさせるほどに安らぎをもたらすのも事実ではあった。
 昇る陽、壁の油灯に点した数は憶えていない。ただ、昭が片づけるべき仕事を手伝っているだけ。
 そう割り切っていても、昭が至上の位を臨むほどに上り詰めてゆくのを見るたびに、不安もまた、元姫の胸中に確実に積み重なってゆく。

(私にも愚痴らせて。……愚痴を、グチグチ言う男の愚痴。どう?)

 昭は肩を落として謝罪をする。しかし、劉禅ならばきっとにこやかに、黙って聞いてくれるだろう。
 元姫は何気に街に出る。一人では危険ですからと止める衛兵たちにもこう言って退ける。
「私は仲達殿や子元殿と共に戦場にも出掛けた。子上殿のお守りにね。……だから大丈夫よ。ありがとう」
 得手の鏢をかざしてみせる。
「江南討伐にも征くことになる。まだまだ、子上殿のお守りから解放されそうに無いわね」
 自嘲気味に笑い、劉禅と盃を交わした酒家に足を向ける。

 酒家が見えた時、大きな笑い声がその中から響き、元姫が思わず足を止めた。
「…………!」
 形のいい唇をわずかに開き、元姫が驚きの声を上げた途端、酒家から二人連れの若い貴族風情の男が微酔い上機嫌で出てきた。長い髪の男は若い娘を肩に抱きながら、すこぶる良い宴を終えたとばかりだ。

 元姫は眉をわずかに顰め、きゅっと唇を結んだ。そして、胸の奥から沸き上がる苛つく熱さ、震える息づかいを抑え込み、表情を戻し、豊かな胸のつけ根に指をあて気持ちを整えると、ゆっくりとした足取りでその若い連れの元へ歩み寄っていった。

「炎」

 ぎりぎりの冷静さを保ち、元姫は声を掛けた。
「あ…………」
 呼ばれた髪の長い青年が、咄嗟に腕から若い娘を弾き、途端に表情を曇らせ、ばつが悪そうに顔を背ける。
 元姫はその静かで鋭い眼差しをもう一人の男に向けた。
「楊駿殿。あなた、また……」
 元姫に睨み付けられた軽薄そうな若い男が渋い表情で項垂れる。再び視線を元に戻し、無言の叱責を与える。

 司馬炎。字を安世。昭と元姫の嫡男。無論、司馬家次代の当主である。
「この大事な時に――――いつから呑んでいたの?」
 静かだ。しかし、母子だからこそ直に伝わる激しい怒りの感情。炎が答える。
「今暁です――――」
 するとすかさず、元姫は視線を楊駿に移し、言った。
「いつからなの?」
「ゆ、昨夜から――――です……」
 その儼然とした威風に気圧されて、楊駿が白状した。

「はぁ――――――――」

 予想外に、元姫は肩から長いため息をつく。俯いたままに何度も元姫を瞥する炎が、密かに胸を撫で下ろした。

「楊駿殿は、十常侍や黄皓を目標としているようね」

 元姫の矛先が炎の仲間に向けられ、名指しされ、そんなことを言われた楊駿の顔がみるみる真っ赤になってゆく。
「ご母堂さまッ。それはあまりに……」
 楊駿が顔を上げると、元姫の怜悧な美貌から発せられる、突き刺すような眼差しが、真っ直ぐに楊駿の遅疑たる両目を貫いていた。
「違う? ならばあなたは誰? 子房? それとも、李通なの?」 ※子房…張良、李通…字:次元。後漢建国の功臣。
 楊駿は二の句を継ぐことも出来ず、普段交わす言葉どころか、目も合わせられずに炎と別れた。
 そして、元姫が視線を動かした先には、炎が突き放した、若い娘。服がわずかにはだけている。
 元姫が眉をわずかに顰めると、その娘も遁げるように去って行ってしまった。
 衆目が集まる。洛中の民は、この青年が昭の後継者であることは分かっているはずだ。そして、元姫は誰もが振り向く美貌の伴侶、そして炎の母親であると言うことを。
「炎、丁度良かった。話があるわ。つきあって」
 炎の返事を待たず、元姫は踵を返した。

 市街外れの亭。半ば引き摺られるように元姫に連れてこられた炎は、元姫の指差す椅子に坐らせられた。
 そして、いつ買ってきたのか、酒が入った水筒を突きだし、炎の胸元に押しつける。
「ほら、呑みなさい。まだ、呑み足りないんでしょう」
 静かで、激しい怒気が雷の如く炎を打った。大きながたいの炎が、小柄な元姫に圧倒されている。
「お、お赦し下さい母上っ。わ、私が軽率でした」
 ただ平謝りを繰り返す炎。
「軽率? 何が軽率なの?」
「は、母上……」
 静かで、鋭く突き刺す眼差し。困惑する炎。
「何が軽率かも分からないで、何故軽率なんて言えるの?」
「で、ですからそれは――――」
「考えなければ分からないことは、軽率とは言わない。それに、あなた自身、そう思っていないって事よね」
「…………」
 炎が恥じ入り、言葉を失う。
 元姫が炎の眼前に屹立する。可憐な麗姫が、母性の威厳を放つ。
「あなたは、いつか子上殿の後を継ぎ、この国を導かなければならない。わかってる?」
「はい……母上――――」
「前にも言ったけど。遊ぶな、とは言わない。それを自覚しているのならね。……でも、時と場合を考えたら? だらしなさや、やる気のないところまで、子上殿の真似をしないで……ね」
「ただ、ただ……恥じ入るばかりです」
 炎がしゅんと縮こまってしまう。そんな炎の様子に、元姫の棘がすうっと抜ける。そこは、やはり息子だからだろうか。

「それと……楊駿殿とは、あまり付き合わない方がいい」
「それは――――何と仰せられる。文長は我ら司馬一族にとっては……」
 言いかけた途端に、元姫は心痛の色を顔に滲ませた。
「わかっている。楊駿殿が子上殿に召し抱えられて、あなたが特に信頼を寄せていると言うこともね」
「はい……」
「……でもね。彼には――――」
 元姫が言いかけた時だった。それまでただ沈黙していた炎が、毅然と顔を上げて、元姫を睨視したのである。

「母上。この炎も晋公司馬子上の嫡子として人を見る目はございます。楊文長は我が家によく奉仕し、誠実にして気が利き、炎の足り無き部分をよく補佐してくれます。当に周公旦、荀文若に比しまする」
「――――!?」
 周朝八百年の大功臣、曹操の名軍師を引き合いに出され、元姫は言葉を失う。
「あなたにとって……それほどまでに彼のことを――――」
 寂しさを強く滲ませ、瞳を細める元姫。彼女でなければ今にも泣き出してしまいそうだ。
「まあ、見ていて下さいよ母上。ちょっと羽目を外してしまいましたが、この炎もやる時はやりますよ。……いずれ母上には無上の歓びに与って貰いますから」
「…………」
 普段の元姫ならば矢継ぎ早に説教を浴びせかける。しかし、今それをしない元姫を見て、炎は自分の言葉を納得してもらえたのかと思い、笑顔を浮かべた。
「祖父さま、伯父上から父上に受け継がれた大業は、この炎もしっかりと、肝に刻んでおりますゆえ!」
「そう……」
「――――っと、あ、母上。せっかくですから、この御酒、頂きます」
 まるで鶏のように頸をこくりと動かして炎は押しつけられた水筒を拝し、これ以上何かを言われる前に立ち上がり、遁走してしまった。

「…………」

 独り残った元姫は脱力したように、炎が坐っていた場所に腰をどんと落とした。沈着冷静な彼女も、息がつまりそうなほどに不安と悲しさに全身が包裹される。
「だめね……私も――――結局……子供には、甘い……」
 自嘲気味に呟く。
「子上殿には強く当たれるけど……ほんと、おかしいわね」
 その時だった。遠方、炎らが過ごしていた酒家の方角から酷く酔った数人の男たちが千鳥足と言うには生やさしい足取りで現れた。元姫の姿を見て、その中の一人が、嬉々とした声を上げる。
「お、綺麗な姉ちゃん発見ー! がははは」
「んん、おおっ、見ろよあの胸っ、やばすぎじゃんよ」
「ひょっほー、カワイイ!」

 王元姫と気づかないか、知らない連中のようだ。
(北狄の居留民……ね。ふぅ……こんな時に――――)
 元姫が袖をまさぐり、鏢に手を伸ばす。
 予想通り、男たちがなれなれしく近付いてきた。
「おう、お姉さん。カワイイね。何やってんのこんなところでサ」
「一人なんだったら、どう、これから一緒に呑まねえ?」
「綺麗な子に淋しい顔は似合わないよ。楽しいことしようよ、俺たちとサー」
(ほんと……男って……)

 素早い身のこなしで後背に跳躍し、元姫は鏢を広げて敵を叩きのめす――――。

 はずだった。
「ねえ、何とか言ってよ、カワイイお姉さん」
 太ももに力を入れ、跳躍をしようとした刹那の寸前に、元姫は鏢を持つ方の手首を男の一人に鷲掴みにされてしまった。
(! ……しまった――――)
「どうしたの、そんな淋しい顔しないでよ。俺たちが慰めてやるからさー」
「……やめて……」
 腕を取られた元姫がようやく声を上げた。
「お、ようやく喋ってくれた、あはは」
「離して」
 きっと睨み付ける元姫。
「うっひょ、顔だけじゃなくて、声までカワイイお姉さん。最高」
「離してって言ってるでしょう、聞こえないの」
「いいね、いいねー。その反応。気の強い娘って、好きなんだよね」
「酒家の女らは無駄に従順でつまんねえもんな、ぎゃははは」
 酔余の大声で話す男たちの隙を衝いて逃れようと元姫は力を入れる。しかし、北狄の居留民たちの膂力は中原の男たちとはまるで違っていた。固められた腕が、もともとか細い元姫の力では微動だにしなかった。
「さって、ほんじゃ行きますか、ねえ」
 酒臭い息を吹きかけられ、元姫の顔が嫌悪に歪む。
「やめて、離して!」
 いつものような冷静な声色ではない、少女のような甲高い声。男たちの力で捕らわれ、もがいても意に返さない。その様子を却って愉悦の目で眺めまくる。

「誰か……助けて――――!」