第七話 劉禅、禿髪樹機能と邂逅し 魏天の恩恵を甘受する意を通す

「楽しかったわ、公嗣殿。また、ご相伴してもいいかしら」
 支えられるように攸の肩に片腕を回しながら、やや呂律の回らない元姫が、上機嫌に言う。
「はい。喜んで」
 劉禅が軽く拝礼すると、元姫は酔余の勢いなのだろうが、普段は殆ど見せない笑顔を浮かべる。
「それでこそ安楽公ね。さすがだわ。本当よ。本当に、次も飲みましょう!」
「母上。さあ、戻りましょう」
 攸が必死に介抱する。劉禅に困惑の視線を送り、苦笑する。
「油断はなさらぬようにな。いかに元姫殿とて、素顔はか弱き女性なのだから」
 劉禅の言葉に、元姫は大きな声で空笑いをした。
「油断していただけって言ってるでしょ! 次は、公嗣殿に拾って頂いたこの鏢で――――こう。耐えられるー? 邪魔なのよねー! って、殺ってやるわ」
 戦場で見た闘技。その身振り手振りをしようとする元姫。攸が暴れるなとばかりに抑える。
「なによ、攸。邪魔する気――――」
「母上。お疲れです。さあ、戻りましょう。……では、公嗣様、星彩殿」
 攸が恭しく二人に会釈をすると、未だ何かを叫きもがいている元姫を引き摺るようにして宮城の方へと向かっていった。

「あの元姫殿も酔われると人が変わるものだな」
 劉禅がそう呟いてくつくつと笑う。だが、隣の星彩は反応しない。ただじっと、元姫達が行った道の向こうを見つめているだけだ。
「星彩……」
 劉禅が名前を呼ぶと、星彩は踵を捻り、身体ごと劉禅に振り向いた。
「はい。劉禅様」
 凛とした声。いや、ここは蜀将だった頃の冷徹な声といった方がいい。
「星彩。……何を怒っている」
「いえ……何も怒ってはおりません」
 淡淡と星彩は答える。
「…………」
 劉禅は星彩の瞳を見つめた。その艶のある烏羽色の瞳が、劉禅の眼差しを真っ直ぐに受け止めている。彼女は感情をあまり表情に出さない。張飛や趙雲、関平、関索らといった癖のある勇将に囲まれながら育まれた精神が、星彩の心を“強く”させてきた。
 劉禅は邸宅の方ではなく、広場の亭の方へゆっくりと歩みを進めた。
「酔い覚ましにつき合ってくれ、星彩」
「…………」
 星彩は黙って、劉禅の後に付いた。烏羽色の瞳が、彼女の名前の如く、星の光を湛えて微かに揺れていた。劉禅の背中を何故か見られず、視線を落とした。
「まあ、そなたも座りなさい」
 亭の長い腰掛けに劉禅が腰を落とし、隣を指して促した。
「……では」
 星彩が拝礼してゆっくりと腰掛ける。

 夜気が火照った顔を心地良く冷ましてゆく。元姫とだいたい同じくらいの酒量だ。あの後も、何本か銚釐を追加したから、相当なはずだ。
「元姫殿は絶え間ない。あれは明日の朝は辛かろうなあ」
 劉禅がそう言って笑う。
「星彩も、結構飲んだのか」
「ご覧の通りです、劉禅様」
 そう言って劉禅を見つめる凜とした星彩の美貌。劉禅は少しの間、星の光を湛える星彩の瞳を見つめ、おもむろに立ちあがった。そして、星空を見上げた。天河が眩いほどに広がった、快晴の夜空。
 遠巒の稜線、平野の地平を連なる星の黄河を追いながら、劉禅はふと笑った。 ※遠巒 … えんらん。遠くに連なって見える山々
 そして、身を翻し、俯き加減に静然と居住まいを保っている星彩に手のひらを伸ばし、頬にかかる綺麗な黒髪に差し込んだ。ふわりと良い匂いが夜気に混じり、星彩の耳が劉禅の温かな手のひらに覆われる。
 驚く星彩。思わず、批難気味な突き刺すような眼差しを劉禅に向けてしまう。
 その表情に、劉禅はその微笑みを向けて受け止める。

「元姫殿は、司馬昭殿の伴侶だ。そうではないか」
「…………!」
 直截に指摘され、星彩はどきりとした。星の光が揺れ、わずかに閉ざされた唇が開いた。
「あり得ない心配をするな、星彩。私には、そなたしかおらぬ」
 そう言いながら、劉禅は片方の指で、星彩の形の良い眉をなぞりながら、そのまま前髪を優しく梳き上げる。棘のある星彩の視線が、途端に崩れてゆく。
 耳を温めてくれている劉禅の手に、星彩はそっと手を重ね、しかし、再び睫を下げた。
「そのようなことは……考えておりません……」
 しかし、彼女のそんな声の微かな震えを、劉禅が聞き逃すはずもない。
 劉禅は眉と前髪を梳いた手をそのまま後頭部に回した。戦場を駆けめぐり、蜀の未来を背負った、毅然としたイメージとは裏腹の、女性らしい小さな頭。絹糸のように心地良い黒髪。
 そのまま劉禅が身をかがめる恰好で星彩は劉禅と頬を合わせた。滑らかな星彩の頬、そして髪の毛の匂いを吸い込む。
「劉……禅……様?」
「少し、酒臭いかな?」
 そう言って戯ける。

 何度か、こうして劉禅に抱きしめられた事がある。ただ、こうして腕に包まれ、身を接してくれているだけ。それだけで、劉禅の優しさが伝わった。どれだけ、劉禅に想われているかが、自害を決意したあの日以来、枷が外れたように感じた。
 しかし、それだけだ。劉禅は、それ以上を求めない。
「……安……です」
 劉禅の耳元にかかる星彩の唇から漏れる微かな息づかいが、そう言った。
「…………安……なのです」
 合わせた頬から、酒精が起因ではない火照りが劉禅に伝わった。
 劉禅はそっと頬を離し、もう一度その髪を指で梳くと今度はその人差し指で星彩の鼻頭をおもむろに押した。軽く潰した鼻、それだけで星彩の美貌が崩れるなんて事は全くないが、劉禅は屈託無い笑いを上げる。
「な……劉禅様っ!?」
 愕然として手を振り払う星彩。からかわれたと想ったのか、憤然として劉禅を睨む。
「茶化さないで……ください、劉禅様!」
 星彩が頬を染めながらやや俯く。
「こんな事をするのは、そなただけぞ。星彩」
 その戯けた口調に、嘘や装飾はない。
 しかし、星彩はますます気が滅入りそうだった。酔いが、変な方向に効いてきそうだった。
「それが……それだけでは……私は――――」
 凛凜とした口調と、悲痛が混同した星彩の声色。彼女もまた酒量が推し量られると、劉禅は想った。

 その時だった。気配を感じて、劉禅はゆっくりと顔を上げ、周囲を一瞥した。深く青い色が、瞳の奥に燻った。

「劉禅公。お初……だな」
 複数の気配の一人、横柄な感じの男の声だった。
「貴殿は――――誰だ?」
 劉禅がゆったりとした声で訊ねた。しかし、その声に隙はない。
「禿髪樹機能」
 鮮卑の酋領の名前を名乗った。

「お会いしたかったぜ、劉禅公」
「呂奉先……」
 聞き慣れた見間違いに、樹機能は動じない。よく言われるの一言で返した。
「そっちの燕人の娘――――星彩だっけか。久しぶりだな」
 樹機能が星彩を見ると、彼女はわずかに視線を逸らしながら軽く会釈をした。
「知り合いか、星彩」
「はい……先日、ひょんなことで……」
 星彩の脳裡に、樹機能の言葉みるみる蘇ってくる。
「……そうか。して、鮮卑の酋領が私のような者に会いたかった……などと卦体なことですね」
 劉禅が自嘲気味に言いながら、樹機能を見た。
「吶柬跋(とっかんばつ)が大分“世話”になったみたいでな。“お礼”にと思って待ってたんだよ」
「吶柬跋……聞かない名前だ。人違いではないのか」
「そこの酒家で楽しく飲んでいたときに、まったりとした感じの白面郎に突然ぼこぼこにされたって話、知らないかい?」
「……ああ。あの時の。そうか、鮮卑の居留民であったのか」
 思い出したかのように手を打ち鳴らす。元姫を強姦未遂していた男達のことだった。
「……ま、今の洛陽にあって、能ある何とかは……なんてことが出来る盆暗野郎と言えば、一人しか知らないからな。ここでお待ち申していた。ってな訳ですわ」
 樹機能がニヤニヤとしながら劉禅に近付く。ニコニコとしたままの劉禅。
「人違いですね。私ではないですよ」
 そう言いながら、劉禅は気配を星彩に向けた。身構えようとする星彩に、劉禅が言った。
(そなたは下がっていなさい)
(え……劉禅様? それは……)
(いいから、下がっていなさい。大丈夫。戦うつもりはない。大ごとになっては面倒だ)
(…………)
 星彩は驚いた表情で劉禅の横顔を見つめる。そして、言葉に順ってじりじりと足を退いてゆく。
「そうかい。それじゃあ、人違いってことでもいい。身包み剥がせて貰うぜ」

 樹機能の号令一下、砕棒や鎖分銅などの武器を構えた男達が次々と劉禅を目掛けて襲いかかってきた。
 ところが、彼らの光跡と劉禅が交錯することは一度もなかった。武器が薙げば忽然と舞い、殴打を試みれば、ただ舞い上がる土煙だけが自らの視界を遮る。殺気がないのに、劉禅はまるで幻か陽炎かのように武器の軌道から常に外れているのだ。
「劉禅様ッ!」
 星彩が悲痛に似た叫び声を上げる。波状攻撃を受ければ、いずれ劉禅が大きく傷つく。星彩は甲高い声を上げて劉禅の名を繰り返し叫ぶ。
「あはは、星彩。心配するなー。私は楽しいぞ」
 まったりとした笑い声が、星彩の気持ちを別の意味で苛立たせる。今すぐ加勢し、瞬時に薙ぎ倒したくなる。
「いいから、君は動くな」
 星彩の心を察知して、劉禅はしっかりと釘を刺す。
「劉禅……様……」
 拳を強く握りしめながら、星彩がいたたまれない表情で劉禅を見つめている

「くそっ……!」
 全く手応えがなく、ただただ疲労困憊の男達。余裕綽然と微笑みを絶やさない劉禅の様子に、樹機能はにやりと嗤って隣に立つもう一人の男に言った。
「倚悝、もういいな」
「おう、兄者」
 弟の倚悝が強く頷くと、樹機能はなお劉禅に向かって武器を振り上げ構える
「吶柬跋、もういい、やめろ!」
 樹機能の銅鑼のような声が下る。その瞬間、男達が構えていた武器が、がらんがしゃんと大きな音を立てて地面に打ちつけられた。そして、力が抜けたように腰が崩れ落ちる。
「ふぅ――――――――」
 劉禅がトントンと軽く歩調を取ると苦笑しながら溜息をついた。
「劉禅様、大丈夫ですか。どこかお怪我は……」
 星彩が即座に駆けより、劉禅の上体を見廻す。その凛凛しい瞳が不安に潤んでいた。
 劉禅はまったりとした様子で微笑みながら、手のひらを星彩の頭に載せて、数回、つややかな髪を撫でた。一瞬、くすぐったそうに目を細める星彩。
「心配性だな星彩は。言っただろう、大丈夫だ、私は」
 そう言って劉禅が星彩の手に触れると、彼女は思わず両手で劉禅の手を握りしめた。
「…………」
 瞼を閉じる星彩を慈しむように見つめる劉禅。
 そこへ、樹機能が徐に近付いてきた。

「さすがだな劉禅公。見込んでいた通りだ」
 その声に星彩がきっと樹機能を瞠り、劉禅も微笑の中に儼然とした怒気を込めた眼差しを、樹機能に向ける。
「何の怨みがあるのかな。河西の民に怨みを買うような覚えはないのだが」
「まあ、赦してくれよ。ほんの挨拶代わりだと思ってくれないかね。暗愚で有名な劉禅公の実力ってのを、見たかったもんでな」
「喧嘩は、嫌いだ」
 劉禅の口調に、重みが込められていた。
「あはははっ、こりゃあいい。吶柬跋、貴様も不運な奴だったな」
 激しい息切れで文字通りぐうの音も出ない男を、樹機能はからかう。
「……まあ、ここは俺に免じて赦してくれ劉禅公。どうしても、あんたの知己を得たかったんだ」
「…………」
 劉禅は星彩と一度目を合わせ、再び樹機能を向き、首肯いた。

「ありがたい。心から感謝する。……それで、お近づきの証と言っちゃなんだが、俺たちの街で一献、どうだい」
「ほう……。遊牧民の街……か」
 劉禅の好奇心が擽られる。
「劉禅様、今日は……」
 星彩が諫止の眼差しを向ける。確かに、夜も更けていた。劉禅はしばらく唸りながら思考を巡らせる。そして、微笑んだ。
「亡国の後主に鮮卑の酋領直直のお招きだ。断るのも失礼というものだろう」
「……わかりました。私もお供致します」
 星彩もあっさりと順った。
「よし。酔いも醒ましたことだし、呑み直しだ。倚悝、良酒を準備しておけ」
「おう!」
 樹機能の満面の笑顔。倚悝が駿足を飛ばして居留民の街へ向かって行った。

 篝火が連なる居留民の街。ゲルが連なる鮮卑族の街は、橙色に照らされて明るかった。
「いつも、このように明るいのか」
 劉禅が感嘆すると、樹機能が笑った。
「今日は客人をお招きすると言うことだからな。暗がりだと失礼だろうと思ったのよ」
「それは気を使わせてしまったようだなあ」
 冗談半分とばかりに苦笑する劉禅。星彩はその眩さを鬱陶しげにして目を細める。

「さあ、ここが俺の住処だ。遠慮すんない」
 そこは星彩が案内されたゲルと同じだった。
「お先に」
 劉禅が樹機能を先に通し、星彩と共に入る。椅子や几がなく、地面に敷かれた毛皮に直に座るものだった。
「まあ、座ってくれ劉禅公に星彩さんよ」
 勧められるように劉禅は外套の裾を払い膝を折る。星彩は脚を揃えながら、女性らしい体勢でゆっくりと劉禅の傍らに腰を落とした。そしてちょうどその時、樹機能の弟倚悝が酒樽を背負って戻ってきた。
「兄者、皆は戻らせたが、良かったか?」
「気が利くな倚悝。助かる。まあ、お前も座れ」
 樹機能が手招くと、倚悝は樽を抱えながら樹機能の傍らにそれを置き、腰を落とした。

 盃……と言うよりも飯の碗だった。樹機能はそれに豪快に樽を傾け、酒を注ぐ。こぼれた酒が地面に吸い込まれて行く。
「まあ、せっかくだから飲んでくれ二人とも」
 劉禅・星彩、それぞれの目の前に置かれた、なみなみとした碗。劉禅は唖然とした様子で、また星彩は憮然とした表情でそれを目を瞬かせて見つめている。
「あ、では。頂きます。星彩。さあ」
「は、はい。劉禅様」
 ゆっくりとそれを両手で持ち上げ、唇を突き出し啜り上げる。星彩も剽軽な顔つきで、劉禅と同じように酒を啜った。
「……!」
「あっ……!」
 瞬間、口の中がかあと熱くなった。そして舌が焼けるような刺激に思わず顔が歪む。
「どうだい、巴蜀や中原では味わえない強い酒でしょう」
 倚悝が笑った。苦い表情に思わず涙目の星彩。劉禅も想わず舌を覗かせて困惑の表情を浮かべた。
「ははははっ。河西の冬は半端なく寒い。我ら遊牧の民はこれを飲んで、冬を越すのよ」
 自慢げに樹機能が言う。
「ひと呷りなど出来ませんねえ」
 劉禅が苦笑する。
「まあ、ゆっくり飲んでくれや劉禅公。……と、星彩さんは無理しなくてもいいんだぜ?」
 樹機能の言葉に、星彩はわずかにムッとする。
「頂きます。劉禅様が飲まれているのに、私だけ飲まないわけにはいかないから」
「いい忠臣だ」
 半ばやけ気味に碗を傾けようとするが当然ながら豪快に呷れるものではない。
(これは……父上でも、人並みの飲み方になるわね。きっと)
 そんなことを考えていた。

 禿髪鮮卑の酋領が自ら出がけ、喧嘩を煽ってまで劉禅と知己を得たかったのはこうしてただ酒を酌み交わすためだけではないと言うことくらい判る。
 しかし、そのことについて劉禅も樹機能もなかなか触れようとはしなかった。

「軻比能(かひどう)のことでは蜀に迷惑を掛けた」
 不意に、樹機能が切り出した。料理の皿に箸を差す劉禅の手が止まった。
「軻比能……ああ、五路軍の話ですか。あれは幻夢。立ち消えでしたでしょう」
 随分前の話を持ち出すと思った。
「まあ、俺の爺さんや親父も軻比能の片棒を担ごうとしたことがあるんだ。そのことをずっと詫びたいと思っていたんだ。この通りだ劉禅公」
 そう言いながら両手を膝の上に載せて上体を傾ける樹機能。倚悝も兄に倣った。
 しかし、劉禅は温和に笑って言った。

「過ぎたことです。……それに、それも既に故人の間に為されてきた確執、妄執の類なれば――――生きている我々が、故人の遺志を慮る術はなし……そうでしょう?」

 ふと、劉禅の瞳から光が奥に引いた。微笑みの横顔を見つめる星彩の背筋に、ほんの微かに戦慄が走る。
(……劉禅公はまさに梟敵……) 脳裡に谺する言葉。
「おお、ならば劉禅公。我等を許してくれるのか」
「許すも何も……今の私は亡国の主にて安楽公に叙されし魏臣。あなたたちは魏の天恩を受けてきた鮮卑の民でしょう。与らぬことですよ」
 劉禅が笑ってはぐらかそうとする。しかし、樹機能は途端に長嘆し、不満げに酒をひと呷りする。
「魏の天恩か――――、フンッ」
 鼻を鳴らして碗を叩き置く樹機能。劉禅がきょとんとした表情で樹機能を見る。
「曹操の時世はまだ良かったがな。曹丕が漢を奪ってからは我らは魏の下層に組み敷かれ、兵馬の徴集のみに利用され尽くしてきた。天恩なぞ、これっぽっちもないよ」
 親指と人差し指に見えない隙間を作る樹機能。
「魏では閻柔や徐邈、鮮于輔、田豫らが鮮卑への恤救施策を成していたと聞きますが」
「いつの話なのか。我らなぞ中原から見れば蛮夷。恤救など形だけだ。根幹にそれがある限りは、抑圧には変わらんのさ」
 倚悝が樹機能の空の碗に酒を注ぎ足しながら言う。
「武侯が孟獲に齎した恩恵は、羨望の的だった。魏は我らに、武侯の寸尺も恩恵を下さらないよ」
「俺たちは、忿恨を懐くことはあるだろうが、天恩なんざ感じちゃあいねえんだよ」
 劉禅は冷静にちびちびと酒を含みながら、樹機能兄弟の“愚痴”を聞いていた。そして。
「樹機能殿は、愚痴を聞いて貰うお相手を探していたのかな。私が適任とは思えぬがな」
 微笑むその瞳の奥が、深い蒼色に燻った。
「この国は司馬昭殿が権力を握っている。言いたいことがあるなら、司馬昭殿に言えばいいと思う」
 星彩も言った。すると、樹機能が口の端に嗤いを浮かべる。
「吶柬跋が襲ったのは、その司馬昭の伴侶王元姫だっていうじゃねえか。劉禅公、あんたにとっては蜀を滅ぼした仇敵であるはずだ。何故、助ける」
 すると劉禅は声を上げて笑った。
「それは……か弱い女性が何人もの男に襲われそうになっていれば、助けるでしょう、普通」
「ほう……普通――――ねえ」
 樹機能は冷然とした眼差しを真っ直ぐ、劉禅の柔和な表情に突きつけて観察をしていた。