第八話 樹機能、野心を尚劉禅と倶に賭し 星彩、想いを秘めて同衾を図る

「ははははははははっ!」
 樹機能が唐突に哄笑した。まるで劉禅の心は見抜いている、と言った感じの不敵とも取れる笑い声であった。
 淡淡とした表情で樹機能を直視している劉禅。一方で、不愉快そうに樹機能を睨視する星彩。
「無礼ではないですか、樹機能殿」
 星彩の脳裡には、以前樹機能が言った言葉が強く残っている。それが、酒精も絡めて尚更星彩を苛立たせるのだ。
「兄者は茶化したりはしねえ。あんた、わかるだろ」
 倚悝が真顔で睨み返すと、星彩は不服そうに目を逸らす。

「劉禅公。俺は、あんたがただ者じゃねえってことは百も承知で訊ねてんだ。俺が知りたいのは、あんたの本心なんだよ」
 樹機能がそう言うと、劉禅の瞬きが一瞬、ゆっくりとなった。
「本心……とは?」
 劉禅の呟きに、樹機能がにやりと嗤う。
「俺はあんたがこのまま、司馬昭の麾下に甘んじているようには思えないんだがね……てこと」
 すると、劉禅はふっとため息混じりに俯きながら、言った。
「私は田横にはなれぬ。……私が降ったとき、晋公は成都を、蜀の民を慰撫し、多くの報恩をもたらしてくれた。大恩はあるが、怨恨はないのだよ」 ※田横…楚漢戦争時の斉の王。
「…………」
 樹機能がなお劉禅を凝視する。
「だが、王元姫を助けなくとも、あんたには関係ないことだろう。一切の嫌疑は掛かるわけがない。それがわからねえことだ」
「元姫殿は、冷静であられて常に先を見据えた魏の賢女だ。晋公を能く御されている。何かがあれば晋公だけではない、民も悲嘆に暮れよう」
 碗を煽る。
「……らしくねえな。吶柬跋は俺たちの部族の中でもきっての腕っ節を持つ野郎だ。そいつの攻撃を軽くあしらえる力、そして……なによりも司馬昭の軍にあっさりと降伏を決断したその器量。……あんたの言葉は、それを無理に隠そうとしているようにしか聞こえないねえ」
 今度は劉禅が笑う。
「あなたの力士が腕を振るおうとしていたのは狭い店の中だ。本気で掛かれば私もただではすまない。必死で逃げた、たまたま当たらなかっただけだ。……それに、晋公に降ったのは私が暗愚ゆえだ。ここにいる星彩に生き恥をさらせてしまったのも、全ては私が至らないからだ」
「……劉禅様……」
 星彩がわずかに眉を顰めた。
「兄者、俺もひとついいか」
 倚悝が口を出した。
「おう。何かあるのか」
 倚悝は劉禅を向いた。兄とは違って、言葉は乱雑だが瞳はどこか知的な冷静さを秘めている。
「劉禅公、江南には孫呉がある。あれと手を結んで北方で反乱が起こったら、司馬昭はどうなるかな」
 星彩がはっとなって劉禅を見た。しかし劉禅はんんとうなり声を上げながらしばらく思考を巡らせ、事も無げに言った。
「孫権と結んだ公孫淵を思い出していた。……今は英雄と呼ばれた孫権は亡く、孫休も病がちと聞きおよぶゆえになあ。晋公の手に掛かれば三日と保つまいな」
「あははは、公孫淵など野犬のような男じゃねえか。……それに、孫権は陸遜の意見を聞かなかった。だから失敗したんじゃねえか。今はその孫休に代わって丁奉、陸抗が指導している。見込みはあるだろう」
「丁奉・陸抗は確かに素晴らしい武将だ。……だが、孫呉も色々あって他に手が回るような状態ではなかっただろう。それに――――魏にはその二将をも並べて売りに出せるほどに知勇に秀でた将がいるのだ。まさに、綺羅星のようにな」
「……孫呉はあてにならない。あの時も……孫呉は派兵を渋った。……その上、劉禅様が民を思って降られた直後に……巴東を攻めるなんて――――」
 回顧したくない蜀滅亡前後の記憶に、星彩が悲痛の声を上げる。
 その様子を観察してた樹機能は、何を思ったのか再び頤を外した。劉禅と星彩が温和と痛悔、それぞれの色の眼差しで樹機能を見る。
「よく見えてるじゃねえか、劉禅公。あぁ、その通りさ。孫呉なんざあ頼りにならんな。肝心なところでヘタれ、挙句の果てに火事場泥棒の真似事。緊張感の欠片もなし――――だ」
「樹機能殿。……あなたは反乱を起こすつもりなのかな?」
 劉禅の言葉に、一瞬その場の空気が止まったように感じた。

「……だとしたら、どうする劉禅公。協力、してくれるかい?」

 樹機能の顔は笑っていた。声も冗談ぽく聞こえた。劉禅は樹機能と瞳を合わせ、くすりと笑いながら言った。
「言ったでしょう。私は今や魏臣。暗愚と呼ばれた亡国の庸君には安楽に暮らすのが似合いだと……な」
「…………」
 劉禅が瞼を閉じると同時に視線を逸らす。樹機能はにやりとしながら今度は小さく笑う。そして劉禅の碗に樽を傾けながら、戯けるように言った。
「冗談だ、冗談。もしも……の場合だよ。まぁな。確かに、今の魏は神威だ。劉禅公もその器で決断したんだからな。まさに、中原三分、ひとつに帰す勢いかね」

「さあて、いよいよ酔いが回ってきたようだ。御酒はもう結構ですよ」
 劉禅が空になった碗に指を蓋のようにして添える。星彩も蜀の話が出たためか、俄にその強酒が進んでいて視界が定まらない。
「劉禅公。今日はもう遅え。どうだい。粗末なところだが、別の包舎用意しているから、泊まって行かねえか」
 樹機能の言葉に、劉禅は間を置かずに、嬉々とした表情で答えた。
「それはありがたい。星彩もこの様子ゆえ、そうさせて貰います」
「ああ。お城の寝所に比べりゃアレだとは思うが、悪いもんじゃねえぜ」
 樹機能の笑顔に、劉禅は感嘆した。
「倚悝、頼むな」
「おう」
 劉禅は力なく頭を垂れる星彩の脇を支えながら、樹機能のゲルから少し離れたゲルに案内された。薄暗く灯りが点され、寝具が整えられていた。
「ひとつ……か」
 劉禅が苦笑気味に顔を横に向け、うつろとした星彩の顔を見た。

 劉禅を案内し、樹機能のゲルに戻った倚悝が、神妙な顔で兄の側に駆けよる。
「兄者――――」
 それは殺気を帯びた目つきだ。樽に残った強酒をそのまま呷っていた樹機能が、不敵な嗤いを浮かべる。
「大丈夫だ倚悝。あの男は何もしねえよ」
「何故そう言いきれる」
「ここで寝るんだ。腹に一物ありゃ、意地でも帰るだろうよ」
「夜中に抜け出されたら、後後面倒だぜ」
「普段に似合わねぇ心配性だな倚悝。だったら野郎どもを見張りにつけてけ。……まあ、万が一でも星彩て女があの様子じゃ、身動きは出来ねぇよ」
 樹機能は星彩が呷っていた碗を拾い上げ、残っていた強酒を飲み干して笑った。

 劉禅がゆっくりと星彩を支えながら寝台の褥に座らせた。かつての蜀帝からすれば考えられない行動。鞜を脱がせ、背中を支えながら、その細くても引きしまった綺麗な脚を持ち上げ、身体を横にさせる。
(成都では宦官や女官がこなしていたな。それが当たり前のように思えていたとは……)
 ふと、劉禅が心で呟いた。
(ふふっ、いつもは何でも自分でこなす星彩も、深酔いすれば形無しだな)
 瞼を閉じ、微かに息苦しそうに唇の隙間から熱い息を繰り返す星彩。
「……つい……かん……い……か……さく……み、水を……」
 囈言の中で、星彩は水を求めた。劉禅はくすくすと笑いながら、ゲルの中を見廻すと、寝台の傍らにこれ見よがしに水甕と碗が用意されていた。先を見通しているかのような用意周到さに、劉禅は心の中で別の笑みを浮かべていた。
 杓で水を掬いながら、劉禅は振り向き、星彩の顔を見た。
「関平に、関索か……」
 星彩が心を許し、かつ実力で剣戈を交わすことができた幼馴染みで親友の二人。今は亡き二人のことを、星彩は時々夢を見るのだろう。酔っ払った揚げ句、二人に水を求めるとは。
 劉禅は笑いながら、碗に水を注いだ。
 星彩の枕元に腰を下ろす劉禅。すっと伸びた眉がわずかに動き、一瞬、うめく。
「こうしているときだけは、立場が逆だな。星彩」
 劉禅が腕を伸ばし、星彩の肩の下に差し込み、ぐいと持ち上げた。
「ん……んん……」
 不愉快そうに呻き、星彩が瞼を瞬かせながら薄目を開ける。
「な……なに……?」
「星彩。ほら、水だ。求めていたから、汲んであげたぞ」
 劉禅が水の入った碗を差し出すと、星彩は狼狽したように瞳を震わせた。
「劉禅様!? あ、あの……私は――――一体」
 寝台の褥の上で劉禅に肩を抱かれているという体勢に、さしもの星彩も困惑の色を隠せずにいた。
「まあ、まず水を飲みなさい。こうしているのも、疲れるんだ」
 そう言って微笑む劉禅。
「ありがとうございます、劉禅様」
 星彩が両手で碗を取ろうとする。しかし、視界がぐらつき、腕にも力が入らなかった。
「そんな……私としたことが――――」
 しかし、星彩の視点も酔いのためか定まらない。劉禅はくすくすと笑いながら、ぐっと星彩の肩を抱き寄せる。
「あっ…………」
 とても軽く、華奢な身体だ。呆気なく、劉禅の胸元に頭をくるめられる。
「この時だけは、私がそなたを守れるな」
 と言いながら、劉禅は碗を星彩の口元に運んだ。星彩の手の動きを補助する形で、口に含んだ。
 冷たい水が、火照った内臓を心地良く冷やしてくれるように、食道を伝う。小刻みな息切れも、ひとつ深呼吸をして収まった。
「もう一杯、飲むか」
「あ……はい……」
 劉禅はそのままの体勢で碗を取り、杓から水を掬った。
 まるで小さな子供を抱きかかえながら、介抱をしているような構図。星彩はぐらぐらとする意識の中で羞恥の極みを感じ、離れようとするが上手く劉禅にあしらわれてしまう。
「ありがとうございます、劉禅様……」
 劉禅に靠れながら、臣下としての矜恃を忘れようとはしない。
「あの……劉禅……様?」
 身動ぎをして離れようとする星彩。しかし、劉禅はしっかりとその肩を抱き寄せたまま、離そうとしなかった。
 酔余のためか、火照る身体がそうさせるのか、恍惚とする意識に、心拍数が高鳴る感覚が普段より強く感じる。耳元に劉禅の息遣いが聞こえる。樹機能たちに遭遇する直前までのことが、過ぎる。
 呂律が回らない、不本意な姿だ。星彩の心の奥底に、自らに似つかわしくない期待感が静かにわき起こってくるように思った。だから、離れたい気持ちと、このままでいたい気持ちが交錯する。酔いが、判断を大いに鈍らせた。
「星彩……」
 徐に、劉禅が顔を寄せてきた。背後から、星彩の耳元に唇を寄せ、綺麗な黒髪の匂いを吸った。
「今日は、ここで休む」
 囁いた声に、星彩は一瞬、目を瞠った。一瞬の正気で、それが甘い意味の囁きではないことが判ったからだ。
「外には見張りがいるようだ。……どのみち、動ける状態ではない」
「そんな……何と言うことを――――劉禅様、大丈夫です。すぐに酔いを醒まし、見張りを薙ぎ払います。必ず、お屋敷に……」
 身を乗り出そうとする星彩を、劉禅は抑え込んだ。
「慌てるな、星彩。今宵ここに居る限り、安全だろう」
「何故……ですか」
「ふふ。私は夜逃げはあまり好かぬ。疚しいことをしているように思えるからな……」
 声を抑えて笑う劉禅。星彩が目を瞬かせて焦点を合わそうとする。劉禅の顔がぼやけて、三重にも見えた。
 劉禅の微笑みが艶容とした色を湛えている。瞳の奥に燻る光が、清冽な輝きを放っているように思えた。そして、突然劉禅は身を捻り体勢を変え、肩を抱いたまま仰向けの姿勢になった星彩の瞳を、上から覆い被さるようにして見つめる。
「…………!」
 どくんと、一際大きく、星彩の鼓動が高く波打った。
 刹那の時も、永遠に感じそうな空気。その間に、星彩の脳裡が混濁する。様々な光景や想いがぐちゃぐちゃに重なり、それでもしっかりとわかるのは、いま至近距離で見つめ合う旧主のこと。
 星彩の思いが整理されぬうちに劉禅は目を細めて顔を離した。

「御酒が過ぎたのは、どうやらそなたのようだしな」

 茶化しの言葉だったのか、敢えて艶やかな空気を抜くための方便だったのか、劉禅はぽんと腕を放す。星彩の頭がゆっくりと、枕に落ちた。
「…………」
 星彩は惘然とした表情で、劉禅を見つめていた。劉禅はただ微笑みながら、それに返す。
「脚布はそのままで良いのか」
 劉禅が星彩の美脚を覆う布を指摘する。
「いえ……休むときは……外しております」
「そうか」
「あの……劉禅様? ……ご無礼を承知でお願いいたします。それを、外すのを手伝って頂けますか」
 星彩が昂揚を抑えて、言う。
「ああ、そうだな。……私もそうしたら、寝よう」
「…………」
 ぴったりと張り付いているような黒い星彩の脚布。遥かなる西域・安息国より伝わる特殊な糸で縫われた強靱で、決して乱れない。戦場でまさに流星の如く地空を舞い、盾牌の剣を揮ってきた星彩の脚を守ってきた、脚布だ。
 まずは片方の細くしまった肉づきの良い太もものつけ根、脚布の端に劉禅は手を延ばす。星彩も、わずかに膝を上げた。その姿、仕種が得も言われぬ艶然とし、情欲を惹起させるばかりに、普段は決して見せぬ毅然とした瞳が潤み、頬の上を朱が横に走っていた。