第九話 星彩、思慕を漲溢し旧主を求め 劉公嗣、鉄の意思もてなお貞操を堅守す

 戦場でその名のように、流星の如く地空を奔り、敵を薙ぎ払ってきた、怜悧凛然とした美少女。撥条のような身の熟しは、その細みながらもよく引きしまった長い脚から繰り出されてきた。
 つま先から太ももを覆う西域伝来の黒い脚布、腰に深く切り込みが入った裙の間からわずかに覗く白い肌は、得も言われぬ色気を放つ。敵も味方も、盾牌の剣を揮いながら舞う星彩の姿を、ある者は見とれて武器を揮うのを忘れ、ある者はその姿に戦意を失して敗亡していった。

 劉禅がそのつけ根に指を引っかけると、わずかに星彩が切なげなため息を漏らしたように思えた。劉禅をなおも凜とした眼差しで見つめようとしている。
 する……
 わずかに指を引くと、衣摺れの音がした。戦場での激しい動きでもずり落ちることのなかったそれは、軽く指で引くと、不思議なほどに容易く下がった。下はぴたりと彼女の美しい脚線を写し、わずかにずらした部分も横真っ直ぐに、綺麗な皺を作り、白い太腿が、ずらした分だけ、現れた。
「…………」
 いつもは何気なくそれを穿き、脱いできた。だが、自分ではない、それも旧主であり、守り通さなければと誓ってきた劉禅に脱がせてもらうという行為に、星彩が背徳感のような気持ちを懐くことは不思議ではなかった。それがたとえ酔余のなせる大胆さと言っても、言い訳にはならない。

 する……する……

 劉禅もまた、意識しているのかいないのか、ゆっくりと黒から白に変わって行く脚線を、いつもと変わらない微笑みを湛えながら、見つめていた。
「…………」
 劉禅は何もしない。それが却って煽情的なのだろうか、星彩はきゅっと唇を噛み、吐息を抑える。素肌が出たというのに、何故か汗ばむ。
 膝を越え、それでもゆっくりと劉禅は脹脛、そして踵と丁寧に脚布を外してゆく。
「片方が脱げたな」
 劉禅がにこりとそれを手に取ると、両手に挟んでたたみ、脇に置いた。
「不思議なものだな。何故戦場では脱げないのか。何か秘密があるのか」
「……それは、私にはわかりません……」
 少しだけ苦しそうな声で、星彩が言う。素足ともう一つの黒い脚布で覆われた脚を、すりあわせるようにする星彩。
「どうした、具合が悪いのか」
「…………」
「水を――――」
 劉禅が困惑の表情を浮かべて水甕に手を伸ばそうとするのを、星彩は咄嗟に腕を伸ばし、袖口を掴んだ。
「……もう片方も……よろしいですか、劉禅様」
「……ああ、わかった」

 星彩に武術指導を良く受けていた頃を思い出す。都度劉禅が剣を落とすと、本気を出して下さいと、星彩はいつも静かな眼差しで怒った。その時ほど険は立っていないが、星彩は朱を差した表情で劉禅に“要望”する。

 劉禅は戸惑いながらも姿勢を元に戻し、今度はもう片方の脚を覆う黒い布に、指を掛けた。
 する……
 そんな微かな衣摺れも星彩には悩ましく聞こえる。
「劉禅……様」
 少し指を引いたとき、星彩が消えそうな声で、劉禅の名前を呟く。
 一瞬、劉禅の動きが止まる。視線を前に向けると、今にも何か張り裂けそうとばかりに朱を差し、瞳に光が溜まり、それでも凜然さを保とうとする“星彩”がいた。
「どうした、星彩。悪しき酔いならば、醒ま……」
「違います。……違うのです。私は……私…………は――――」
 語尾がかすれ、消えた。顔を横に傾げ、髪が横顔を覆った。
 劉禅は間を置き、ふっと小さく微笑むと、再び、指をゆっくりと引く。

 ……する……する……

 ぴたりと覆う黒の領地が光を反射し、劉禅の指元に重なる真っ直ぐな皺の先には、透き通るような白絹の大地。膝許まで、劉禅の指が引かれた。
「洛陽に来てから、そなたも少し変わったかな」
「え……?」
 頬を覆う髪の隙間から、星彩が目を瞠り、劉禅を見る。
「よく悩み、よく話してくれるようになった。私は、それが嬉しい」
「…………」
 手を止め、劉禅は微笑む。
「蜀にあった頃には、見つけられなかったそなたの表情を、よく見つけられる。それが、そこはかとなく嬉しいのだ」
 そして、再び指を引こうとしたときだった。星彩が何か呻くように呟き、そして次に荒げるように、透き通るような高い声を上げた。
「私は……それだけでは……正直、辛いのです――――!」
「星彩……」
 鍛錬でへまをし、怒られたときとは違う、悲痛にも似た星彩の声。酔いの苦しさではない、切なさが滲み出た、裡なる情炎の片鱗。

「……たし……は……。私は――――劉禅様を…………劉禅様をこんなにも…………」

 息が詰まるかと思うような、胸の苦しみ。喉をぎりぎりと絞められたように、それは星彩の言葉を押し止めようとする。
 酔いのせいだろう。あの強い酒が、星彩の堅牢な遺志の扉を弛めたのだろう。そう思った。星彩の切ない色の眦に、微かに光る“星"が見えた。
「…………」
 劉禅は微笑みを絶やさず、優しく指を引いた。

 する……する……

 その衣擦れの音が、まるで今触れている、美しく凜とした少女の哭泣のようにも思えた。
 踵を抜け、黒い脚布は外れた。片方と同じく両手でそれを挟み、脇に置く。
 戦場を駆けめぐったとは思えぬほどに、眩いほど白く、細く、長く美しい脚だった。それだけなのに、何故か一糸纏わぬ房事の直前のように、男の理性をえぐるような程に色情的に見えた。
 星彩は言葉を失し、再び顔を逸らした。黒く綺麗な髪で横顔を覆い、すっぽりと表情を隠したのだ。
「星彩」
 劉禅は優しく星彩の名を囁くと、そっと両手で星彩の片足の脹脛を持ち、滑らかな膝に唇を寄せたのだ。

 膝にわずかに触れた唇の感触に、星彩の五感が集中される。
「っ……!」
 もどかしく切ない感じに星彩の唇からは失望のようなため息が漏れかけ、それを抑えた。
 劉禅が眩しそうに白くすらりと伸びた脚を見つめながらも、膝に接吻を一度しただけで、壊れ物を扱うかのように、持ち上げていた脹脛を床に置いたのだ。
「劉禅様っ!?」
 愕然とした星彩が思わず声を上げた。それは明らかに、不満の色が濃く滲んでいる。
 劉禅は星彩に背中を向け、再び枕元に腰掛けた。
「そなたは酔っている。私も少々、気分が高ぶっているようだ。……酔いに任せてはいけない」
「劉禅様ッ! 私は冷静です。酔いのせいで、このようなことなど……」

「今――――」

 劉禅が言葉を発すると、ぴたりと星彩の声が止まった。

「今――――、そなたの想いに応えれば……劉禅は……劉公嗣はきっと、そなたしか見えなくなってしまうだろう――――」
「…………!」
「希望も、夢も……託された想いも――――父上や尚父……月英や思遠……廖化や姜維たちの命も……全てがどうでもよくなり、そなただけが大切になってしまうだろう……」
「劉禅……さま」

 星彩が切なく声を震わせる。女としての悲しさが滲み、それでも劉禅に対する敬畏と忠誠が混淆とする声色だった。
 劉禅は上体を捻り、横たわる星彩を見た。その瞳は、胸を締め付けられそうな程に、哀しく潤んでいる。蜀将として毅然とあった彼女が、今は恋い焦がれし嫋美な女性と化し、貞操を堅く守ろうとする劉禅を、恨めしそうに見つめて離さない。

 劉禅はそのまま星彩に顔を近づけ、微笑む自らの唇を、躊躇いわずかに震える彼女の滑らかな唇にそっと触れた。
「ん…………」
 優しく触れるだけの接吻。星彩の瞼の力が抜け、ゆっくりと閉じる。眦から、すっと、細く小さな玉が零れた。

 初めて、触れた唇だった。
 蜀にあって魏呉と戦っていた頃は、それが愛情の表現なのかどうか、劉禅も、星彩もよく判らなかった。愛や恋などを語らう暇などなかった。ただ、背負う宿命を仲間たちと分かち合いながら、迫り来る運命に抗ってきた。
 自らを厳しく律し、先人たちの想いを背負い国運を一身に背負ってきた星彩の発する言葉は、常に冷静で、劉禅をも時に咎めてきた。冷淡と人は言い、無感情な絡繰りと陰口を言われたこともあった。
 そんな言葉を発してきた星彩の唇は、言葉の表現をも迷い悩むほどに柔らかくて、あまりにも可憐で切なくしっとりと冷たい。彼女の震えが、唇を通して、劉禅の全身を一気に駆け抜けた。

 どれくらい触れていただろう。長かったのか、刹那だったのか。憶えていない。ただわかることは、二人とも顔意外は固まったかのように動かず、そこに全ての器官が集中していたと言うことくらいだった。
 わずかに離れた劉禅が星彩を見つめる。薄く瞼を開けた彼女の頬が、判るほどに朱に染まっている。熱い息を懸命に整えようと、微かな息が痙攣していた。

「そうなってしまったら…………そなたに殺されなければ、ならないゆえな……」

 劉禅の言葉に、星彩ははっとなった。

(そなたから見て、私がもうだめだと思ったら……その時は……私を殺すのだ)

 ずきんと、胸が締め付けられた。瞠目し劉禅を見つめる星彩。劉禅は微笑みながら、頷く。
「そなたしか、見えなくなった私は……そなたを悲しませてしまう――――」
 劉禅の声も震えていた。星彩は思わず腕を伸ばし、からめ取るように劉禅の首に回した。
「劉禅様はおっしゃいました……私から見て……だめだと思ったら……と。私は――――」
 星彩の上に斜めから覆い被さるように、劉禅が伸し掛かる格好になる。
「そなたを悲しませたくはない。……皆の思いを、一身に……背負い。私とともに、ここにあるそなたを……暗愚なる劉禅は、ただ……悲しませとうはないのだ」
「劉禅さま――――――――!」
 星彩の腕に力が入る。もどかしそうに、背中に回し、砕けそうな思いで、劉禅の背中を覆った。
「皆のことを忘れたことはない…………だからこそ、劉禅は封じているのだ…………今、私に出来ることは……こうしてそなたをただ、互いの背に腕を回し、温もりを感じることだけ……」
 劉禅も星彩の背中を抱きしめた。横になり、上になり、下になり。髪や背中を擦り、撫で、頬を会わせて互いの切ないため息を耳許に感じることだけ。
 ひとつの寝台に、男女が交歓す情欲など遠く、君臣理想の悲愴な想いを交わし、ただ抱き合う元主君と、忠烈無二の女剣士。

 それは、想い合っていても、越すに越せぬ一線なのだろうか。耳朶から、つま先まで触れあっていても、遠い感情なのだろうか。
 星彩は落胆からか酒精が一気に意識を取り込み、劉禅の腕に抱かれ、その胸元でいつしか熟睡に落ちていた。
 劉禅はそれを確かめるまで、そっと見守るように起きていた。

「いつか……必ず、そなたを――――身も心も、私のものにしよう――――いつか、必ず」

 劉禅も、やがて意識が落ちていった。